第13話 二槍さんを救いたい

 真っ暗という表現ではとても物足りないほどの闇の中に二槍はいた。口を塞がれ、手足も縛られている状態だ。体のあちこちがズキズキと痛む。


 暗闇に入る前に目にした光景が、思い出したくないのにまぶたの裏に映し出される。


 夜中に初心家から帰ってきてすぐに、玄関で頬をぶたれた。普通の家庭ならこんな時、母親が娘に対して帰ってきてよかった、心配したんだからね、という意味でぶつのだろうが、二槍の住む家では違った。叔父がなんの愛情もなしにただ怒りをぶつけてくる。別に愛情が欲しいわけではない。ただ、普通の家庭なら、と現実逃避しているだけだった。


 ぶたれた後、叔父の部屋に呼ばれ、怒鳴られながら再び殴られる。初心とかいう男の家でなにを話した、なにをしてきた、と問われるので答えたら、殴られる。嘘をついても殴られる量が増えるだけなので、正直に話す、というよりこういう答えが聞きたいんだろうな、という答えを差し出す。痛みに多少慣れているとはいえ、怖いものは怖いし、痛いものは痛い。


 二槍は散々傷つけられた後、食事や風呂も許可されずに、「ここで反省してろ」と冷たく言われ、暗闇の中に、ゴミを投げ捨てるかのように放りこまれた。


 あれからどれだけ時間が経ったか分からない。二槍はトイレがしたくなってきて、ごそごそと体を動かした。こんなところで漏らすわけにはいかないので、必死に我慢する。高一の冬に一度入ったとき、自分の体液の臭いで今までの人生の最悪を更新したことを思い出す。


 あれは最悪だった。養護教諭に叔父から虐待を受けていることを告白した、あの日にもここに入れられた。あの時は二週間後くらいに、養護教諭が叔父の手によって消された。今回は、一体どうなってしまうんだろう。


 初心の笑った顔や、赤面して恥ずかしがる顔を思い出す。本当の妹みたいに懐いてくる小春を思い出す。温かい料理を作ってくれた初心母を思い出す。影は薄いが、すごく心配して気遣ってくれる初心父を思い出す。


 二槍の目に涙が溜まってくる。胸が痛む。あんな良い家族が、私に関わったことで傷つけられるかもしれない。それは、嫌だ。


 悲しみ、むせび泣くと、殴られた腹が痛む。あと半年と三か月。それだけ耐えれば自由の身になれる。ずっと前から指折り数えて我慢してきた。けれど、こんな仕打ちがその間に何度訪れるのか。何度叔父の暴力に屈服しなければならないのか。何度叔母と義妹に足蹴にされ、こき使われなきゃいけないのか。暗闇の中にいると、不安と恐怖で思考がネガティブになっていく。


 二槍は頭を横に振る。頬が床に擦れる。だめだ、だめ。そんな弱気、吐くなんて私らしくない。今まで耐えてきたんだ。卒業までの数か月なんて、余裕だよ。


 ふと、二槍の上で音がした。叔父が二階に上がったのだろう。しばらくしてから一階に降りていく。足音から推測するに、なんだか急いでいるように思えた。なにかあったんだろうか。


 それから少しすると、体中の痛みが脳や耳までおかしくさせたのか、幻聴が聞こえてきた。初心が自分を呼ぶ声が聞こえた。


 初心くん、面白いし、一緒にいて楽しかったな、と二槍は思い浮かべる。まさか強引に話をつけて家に匿ってくれるとは思っていなかったけど。そのまま初心くんちに住み続けられたら、どんなに良かっただろう。


 でも、そううまくはいかない。あの叔父がいる限り、私はどこへ逃げても、どこへ助けを求めてもきっと連れ戻される。協力してくれた人たちを人質にされるから。叔父さえいなければ、こんな家とっくの昔に出て行っているのに。悔しさが頬を伝い、食いしばる歯を濡らす。


 それから逃げるように、二槍は、もし、と想像する。もし叔父がいなくなる日が来るとしたら、なんて幸せなんだろうと。恐怖から解放され、自由に生きられるようになるのだ。と、そのとき、なぜか脳裏に浮かんだのは初心の笑った顔だった。


 ——初心くん。


 絶対助けだす、大丈夫だと言ってくれた初心の言葉を思い返す。もし本当に、真に私をここから助け出してくれたら、きっと本気で好きになっちゃうな。二槍は苦笑する。そんなこと、あり得ないのに。


「二槍さん! 二槍さん!」


 また、遠くで、初心の声がする。二槍はまた幻聴だ、と自分の耳に手を当てたくなる。自分の内にある助けてほしいという希望がそうさせているのだ、とわかる。


「二槍さん! 二槍さん!」


 けれども、その声は妙に必死なふうに聞こえた。自分を探しているような。


「二槍さん! 二槍さん!」


 あ、れ……。二槍は自分の耳を疑った。これは、本当に初心が叫んでいる? 自分を探しに家に入ってきている?


 その考えに至った瞬間、二槍の絶望していた心に一筋の光が差す。初心くんが私を助けに来てくれた!


 知らせなくては、と思い、ガムテープでふさがれた口の奥から、必死に声を上げる。思ったように声が出ないため、足を壁にぶつけて音を出す。私はここにいる、助けて、初心くん!




 やはり上のほうから声と音が聞こえる。そう感じた初心は階段を静かに登っていく。隠し部屋がどこかにあると確信しつつ、あの男が入ってくる前に早く見つけなければ、と耳を澄ます。


 階段の中間あたりに来たところで、足を止める。


「ん~ん~」


 こもっているが、たしかに二槍の声が聞こえる。足の裏から、若干振動を感じた気がした。


「え」まさか、と思い初心は階段に耳をつける。こんなところに押し込められているのか。


 耳をつけると、さらに音が大きく聞こえる。


 顔を離した初心は、その階段が、蓋になっているのではないか、と考え、指を這わせる。すると、——あった。見えづらいように細工してあるが、指が引っ掛かる箇所があった。初心はそこを起点にして引っ張り上げる。蓋だと思っていたのだが意外と重く、結構力を入れて取り出した。階段の一段が丸々抜けた。まるでピアノの鍵盤を一つ引き抜いたような感じだ。


 中を覗き込み、「二槍さん!」と声をかけると、反応が返ってくる。スマホのライト機能で照らすと、そこには拘束された二槍がいた。狭い空間に腕を精一杯伸ばし、二槍をなんとか引き寄せる。口に貼られているガムテープをそっと剥がしてあげる。二槍は息をゼエハア言わせてから「初心くん……なんで……」と聞いてくる。


「あとで話そう、今は急がないと」


 初心は急いで二槍を階段の中から引き出し、後ろ手に縛られた縄を外す。足まで出たら、なるべく引きずらないよう持ち上げて一階に降りる。玄関前のスペースで、仰向けにした二槍の足の結び目をほどき、拘束を解いた。それからやっと二槍の様子を見た。


「ひどい。二槍さん……」まぶたが試合後のボクサーみたいに青く腫れている。口元も切れていて、血の跡があごまで続いていた。腕をまくると痛々しい傷やあざが前見たときより増えていた。初心は泣きそうになった。


「二槍さん、ごめん。遅くなって」


 優しく抱きかかえると、二槍も手を回してくる。弱々しい力が、初心の背中に伝わる。こんなに痛めつけられて、監禁されて、力が残っていないんだ、と初心は悲しい気持ちになる。むせたように息を吐きながら二槍が耳元で話す。


「初心くん……。ありがとう……、助けに来てくれて……」


「うん、うんっ」


 体を気遣い、初心は気持ちだけ二槍の体を強く抱きしめる。まだここで泣くのは早い、無事に外に出られてからだ、と涙をぐっとこらえて頷いた。同時に、沸々とマグマが煮えたぎるような感情が腹の中から湧き上がってくる。二槍の辛そうな呼吸を肩に感じながら、初心は怒りを燃やす。


 こんなむごいことを、よくも……。


 初心は歯をギリギリとすり減らす。二槍を抱いてなかったら、今にも暴れ出してしまいそうだった。


「立てる?」初心が聞くと、二槍が頷く。「外に出よう」


 体ができるだけ痛まないようにゆっくりと立ち上がり、二槍に肩を貸して玄関へと向かう。だがそのとき、ガラスが割れる音が聞こえた。驚いてそちらに意識を向けると、続いてなにかが家の中に入ってきたようなドサっという物音がする。あ、と初心は気づく。今入ってきたのは、あの怒りの目を向けていた叔父に違いない。ドアが開かないなら窓を割る。そうまでして二槍を外に出したくない、いや、初心を殺したいのかもしれない。


 急げ、二槍さんを早く外に連れ出さないと! と足を一歩踏み出したが、もう遅かった。リビングから飛び出してきた叔父に、素早く玄関前に回り込まれた。ドアはすぐそこにあるのに、と初心は歯嚙みする。


 黒い半そでシャツを着た筋骨隆々の叔父の腕から、ガラスの破片が生えていた。血も出ている。窓を突き破ってきた時に負った傷だろう。その叔父が、怒りを隠そうともせず口を開く。


「なにをしてるんだお前は、お前らは」


 低く、太い、聞いた人の心が本能的に震えあがるような、威圧感で満ちた声だった。初心が以前話した時の声とは違う。これがこいつの本当の声だったのか。二槍から怯えと震えが伝わってくる。前にコンビニ店員に怯えていたのは、このせいだったのか。


「仲美、なに勝手に出てきてるんだ。お前は反省してないとダメだろう」


 叔父は下を見て震える二槍の頭にその声を浴びせる。より一層二槍が震える。初心は、念のためにスマホの録音アプリをこっそり起動させておく。それから言った。


「あんた、もう本性を隠さなくていいのか?」


「あ? ……ああ、もういい、お前には消えてもらうからな。外には一歩も出さない」


「出さないって、どうするんですか。僕を殴って気絶でもさせるんですか。親が心配して探しに来ますよ」


「殴って気絶?」男は失笑する。「そんなことで済むと思ってるのか? 階段の蓋が開いてるってことは監禁部屋が見つかったってことだ。虐待の証拠を見たお前を生きて帰らせるわけにはいかない。当然だろ」


「僕を殺すってこと? ここで? 家族に行き先も伝えてあるよ」


 初心は挑発するように笑みを引きつらせた。ここで殴り殺されることはないはず、と思う。が、保険をかけておくに越したことはない。初心が帰ってこなかったらお前を疑う、と暗に伝える。だが男は鼻先で笑い、言った。


「殺しはしない。コンクリート詰めにして海に捨てるだけさ」


 血走った眼は腹をすかした肉食獣そのものだった。だがまあ、と男は続ける。


「そんなやつを助けに来たがために海に沈むお前には、同情するよ。まあ顔だけは一級品だから惚れるのは無理もないが」


 二槍のことをバカにしている。そんなやつ、と見下した目にも、顔だけはいい、と言った口にも心底腹が立つ。今すぐ殴ってやりたい。拳に力が入り、腕が震える。


「なあ、お前もそいつの顔に惚れたんだろ? だから好きなんだろ?」


 顔に惚れた、という部分に否定の言葉は出さない。なぜなら、初心も最初はルックスに惹かれたからだ。


「ああ、そうだよ。最初はそうだった。僕も、二槍さんの圧倒的な可愛さに惚れた。でも、今は違う」


 今にもよろけてしまいそうに体重を預けてくる二槍の体温を感じながら、初心は思う。まだまだ知らないことだらけだけど、知ったこともある。帰り道で見せるいじわるな女王様のような二槍。初心のウブな反応を見てゲラゲラ笑い、いつも楽しんでいる二槍。家族とすぐに打ち解けて仲良くなる二槍。


 反面、家での苦しい思いをしている二槍。我慢して、耐え抜いている二槍。周りの友人を巻き込まないために一人戦う二槍。事情を知った後も、迷惑をかけないように一人で家に戻る決断をする二槍。


 ——初心は、そんな彼女の可憐さとハートの強さ、そのどちらもが好きなのだ。


 今だけは初心より頭一つ低い位置にある二槍の頭に優しく手を置き、そっと撫でる。そして、初心は二槍の肩を抱いて、「ちょっと離れてて」と言って後ろに移動させようとした。だが、


「くだらなさ過ぎて笑えるな」


 男が鼻で笑った。


 頭に血が上る感覚を一瞬感じた初心は、男を睨みつける。肩を貸していてもろくに歩けない状態の二槍を支えながら、男に背を向けて後退する。


 その背中に威圧的な低い声が刺さると同時、二槍の足が止まる。


「なあ仲美、さっきから反省の言葉を待ってるんだよ俺は。ああ? なんか言うことはねえのか? お前が一番よく知っているはずだろ、助けを求めたらその人間がどうなるのか」


「っ」


 初心でさえ心臓を鷲摑みにされるような感覚に陥る男の声音に、二槍は息を詰める。ピタッと止まった足元に目をやると、膝が震えていた。


「忘れるわけねえよなあ、つい最近のことだ。あの養護教諭の最後の表情、あれはよかったぞぉ」


 語尾を上げ、どこか楽しい思い出を懐かしむような口調で言った男の言葉の意味は、初心には分からない。ただ、その言葉を聞いてから二槍の震えが大きくなったのは触れる肌で感じ取れた。


 不整脈を起こした時のように息をでたらめに吸ったり吐いたりしながら、二槍は口をわなわなと開いた。


「わ、たしは……」


 いつの間にか浮かんでいたこめかみの汗が垂れ、瞳はせわしなく左右に揺れている。二槍はなにを言おうか迷っているようだった。明らかに様子がおかしい。初心は動けず、ただ二槍の横顔を心配することしかできなかった。やがて、二槍が唾をごくりと飲んだ。口を開いた。


「私は、大丈夫」


 最初は、小さな声量だった。自分に言い聞かせるような感じだった。


「うん。私は、大丈夫。大丈夫。心配、ない。……うん、平気。大丈夫」


 フー、と息を吐く二槍。うんうんと一人頷きながら、寄りかかっている初心の肩を少し揺らす。そして、あろうことかこの場に似つかわしくない微笑をたたえて初心の顔を見た。


「初心くん、私、大丈夫だから。あは、ごめんね、なんか深刻な感じになっちゃって。でもね、もういいの」


「え?」


 言いながら組んでいた肩を外し、少しよろけて後ろの壁にもたれかかった。二槍は痛々しい傷跡とは対照的な笑みを浮かべ、直前まで怯えていた男のほうに顔を向ける。


「父さん、ごめんなさい。私が間違ってました。初心くんとはもうお別れするので、なんとか見逃してくれませんか?」


「ふん、やっとわかったか仲美」


 男は腕を組んで軽く口角を上げている。視線が初心のほうに向く。


「監禁部屋を見たこいつを外に出すわけにはいかない。と思っていたが、仲美の頼みだ。誰にも言わない、と約束できるなら逃がしてやってもいい」


「……ほ、本当?」


「ああ、本当だ」


 二槍が男と急に話をまとめ始めたこの状況の変化に、初心は一人取り残されていた。


「え? は?」


 頭が追いつかない。一体いきなりどうしたというのか。さっきまで一緒に逃げようとしていた二槍が急に方針を変え、あろうことかこのろくでなしの父親もどきの言うことに従っている。


「いや、ちょっと、ま、待ってよ」


 初心は理解が及ばないなりに行動した。力なく壁に背中をくっつけている二槍の肩を掴み、そのいつもと変わらない微笑をたたえた口元を見ながら言う。


「二槍さん、意味が分からないよ。僕は君を助けるためにここに来たんだよ? なのになんで——」


「助けるって、どうやって」


 言葉尻を切るようにして二槍が口を挟んでくる。二槍にしては珍しく、皮肉めいた笑みと目つきだった。初心は少し口ごもってから答えた。


「それは、ぼ、僕があいつを倒すんだよ」


「……無理だよ。いいからここは大人しく帰って」


 棘のある声音で、突き放すように二槍は言ってくる。初心はその見たことのない彼女の態度にムッときて、突っかかるように唾を飛ばす。


「そんなの、やって見なきゃわからない。それに、ここでもし帰ったら、僕は二槍さんを見捨てることになる。それだけは嫌だ」


「バカ言わないで。本当にいい加減にして。今、すぐに帰って。……私は大丈夫だから」


 険のある声と目線で初心を黙らせようとしてくる二槍の言葉は、懇願しているようにも聞こえる。もういい加減ここは諦めて帰ってくれ、と。


 そのことに気づきながらも、初心は言うことを聞こうとしない。理由は単純。目の前で大丈夫と強がっている好きな子を、これ以上痛い目にあわせたくないからだ。


「だめだ。今ここで終わらせないと、絶対後悔する」


「それは初心くんがでしょ! 私は、私は後悔しない!」


 二槍が大声を出した。


「そんなことない、ここで退いた方が絶対後悔するって!」


 初心も張り合うように声を上げ、二槍の肩をゆする。つい力が入ってしまったせいで、二槍が苦悶の表情になる。「あ、ご、ごめん」と肩を掴んだ手から力を抜く。


 二槍は口の中に苦いものが詰まっているような顔をして、初心から目を逸らした。なんでわからないのこのわからずや、と顔に書いてあった。それから意を決したように初心に向かって言った。


「いい? 初心くんは今どういう状況か分かってないの。ここでもし帰らないっていう選択をしたら、いろんな人が不幸になる。初心くんだけじゃないんだよ。初心くんの家族も、ひどい目に合う。……ううん、きっと消される。殺される。だから、今ここであの人が許してくれるって言ってる間に帰らなきゃいけないの! 出て行かないといけないの! おねがい、わかってよ……」


 殴られたような怒声が、最後には弱々しい、すがるような哀願になった。二槍は今、ポロポロと涙を流しながら、正面にいる初心の手を力強く握っている。


 二槍が直接的な表現を用いたおかげで、初心もやっと自分の置かれている状況を理解した。ここで退かずにあの男を倒すという選択をした場合、失敗すれば初心だけではなく初心の家族にも危害が及ぶかもしれないのだ。男の危ない空気感や二槍の怯えようからしても、コンクリート詰めの話もハッタリではないかもしれない。


「おうそうだぞ、そいつの言う通りだ初心くん」男が割って入ってきた。「今逆らえば、仲美をかくまうことに協力したお前の家族も海に沈んでもらう」


「お願い……」


 初心の手を握る力が強くなる。あざだらけで紫色になった手首が見える。


 本当に心配してくれているからこその震えが、二槍の手から伝わってくる。自分のせいで初心の家族を傷つけることへの、恐怖だろう。この地獄から抜けられない恐怖ではない。叔父からの強烈な暴力でも、叔母と義妹からの執拗な嫌がらせへの恐怖でもない。なにより彼女は、初心と初心の家族を心配し、巻き込んでしまうことに恐怖しているのだ。


 初心は握られた手に力を込める。ぐっと握ると、二槍が俯いていた顔を上げた。


「ここで退かなかったら、僕と僕の家族はひどい目に合うかもしれない。二槍さんの言う通り、死ぬかもしれない。でもね、退いてしまったら、二槍さんを置いていってしまったら、二槍さんはどうなるの? 今まで以上にひどい仕打ちを受けることになるんじゃないの? それに、僕は二槍さんと話すことすらできなくなるんじゃないの? 関わったら迷惑をかけるからって、僕から離れようとするんじゃないの? ——そんなの、絶対嫌だよ」


「っ——。なんでっ……、なんでそんな……!」


 なんでそんなこと言うんだ、なんでわかってくれないんだ、と二槍の続けたかった言葉が手に取るようにわかる。だがその、周りに迷惑をかけたくないという殊勝な心掛けは、家族に対して行うものではない。家族だったら、信じて、頼ってほしいものなのだ。


「うちの子になりなさいって、母さんに言われたんだろ」


 感情的に、初心は吠える。


「うちの家族には、もう二槍さんも入ってるんだよ! 父さんも、母さんも、小春も、全員が二槍さんを心配してるんだよ! 帰ってきてほしいって、心の底から思ってるんだよ! ……なんでそれが、わかんないんだよ」


 二槍の涙がうつったのか、初心の瞳もいつの間にか湿っていた。


 鼻をすすってから、子供を諭すように優しく伝える。


「だからさ、命くらい、いくらでもかけるよ。それだけ、僕も、僕の家族も君を大事に想ってる。それを、わかってほしい」


 腰が抜けたように床にへたり込む二槍が、、じっと初心の濡れた目を見ている。やがてじんわりと涙があふれてきて、二槍は声を押し殺すように唇を噛み、目元を赤くした。


 初心は握ったか弱い少女の手を引き上げ、立ち上がらせる。今度こそ離れたところに二槍を移動させる。


「おい仲美。お前、もう戻れねえからな」


 安全圏に避難させようとするも、後ろから男が爬虫類のぶちぎれたような目つきで二槍を射抜いていた。初心が優しく二槍を床に座らせると、彼女は一度初心に視線を向けてから男のほうを向いた。


「いい。もう、戻らない」


 二槍はそう決意を新たにし、すぐさま男から目を離す。鼻をすすり、目元をゴシゴシと擦り、いつもの二槍の顔つきに戻って、初心の目をしっかりと捉えた。初心の頬に、二槍の温かい両の手のひらが触れる。


「勝って。もし負けて初心くんたちと連絡が取れなくなったら、私も死ぬから」


 二槍は、初心が絶対に負けたくなくなる魔法の言葉をかけた。いや、むしろこれは脅しだった。負けることなんて、これで絶対にありえなくなった。


 初心は二槍の肩に手を乗せて頷き返す。ここであの男に勝って、二槍をこの家の呪縛から解き放つのだ。家族という言葉で縛り付け、奴隷のように扱うこの外道たちの巣窟から二槍を奪い、初心家に向かい入れ、本物の家族とはこういうものだ、と二槍に教えてみせる。


「絶対に、勝つ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る