第12話 二槍さんを連れ戻したい
アラームを止めて目を擦り、上体を起こしてカーテンを開け、大あくびをしたときに気づいた。二槍が隣で寝ているんだった、と。ゆっくりと顔の向きを回転させ、ベッドの横を見る。
「あれ」
二槍はいなかった。掛け布団がきれいに折り返されている。少し考え、トイレか、と納得したところで、そろーり、と静かに部屋の扉が開いた。二槍、ではなく、小春がスマホ片手に部屋に入ってきた。目が合う。
「あ、お兄、おはよう」
ひそひそ声で挨拶され、初心はなんだ? と思いながらも挨拶を返す。と、
「あれ、仲美さんは⁉」
小春は空になった布団を見て驚いたように声を上げる。
「トイレじゃない?」初心がそう言うと、「くっそ~、寝顔写真撮りたかったんだけどな~」と悔しそうに顔にしわを作り、一階に降りていった。あいつ、盗撮する気だったのか。いつの間に二槍の大ファンになっていたんだ。
初心も顔を洗いに行こうと部屋を出て、階段を降りていく。すると、トイレの扉を全開にしたまま、その前で口を開けたまま硬直していた妹に出くわす。
「どうした?」
声をかけると、小春は叫んだ。
「仲美さんがいない!」
二槍がいなくなっていることに気づいた初心と小春は、家中を探し回った。どこかに隠れているか、もしくは体調が悪くなって倒れてたりしてないか、と心配になった。だが二槍はどこにもいなかった。
ようやく置きたての脳みそが稼働してきたところで、玄関に二槍の靴がないことに気づいた。息を切らして貧血気味になりながらも、横の小春を見る。
「私の傘もない」
小春はドアを開け、外の様子を見る。アスファルトには水たまりができていた。
「……帰ったんだ」
ドアを閉めた小春が俯きながら言ったセリフの意味を、初心も遅れて理解した。
「寝ている間に帰った、のか……」
父と母に二槍が無断で帰ったことを伝えた。朝食を作っていた母の手は止まり、髭を剃っていた父の手も止まった。やはり二槍は誰にもなにも言わずに出て行ったのだ。
「本当にいなくなったの? どこかに隠れているんじゃなくて?」
母が目を真ん丸にして、冗談でしょ? と言いたげな表情で言う。小春が「探したよ! 隅から隅まで!」と母に怒りをぶつけている間にも、初心は栄養不足の頭をフル回転させていた。
多分家に帰った、のだと思うけど、なんでだ? なんで二槍さんは危険なところにわざわざ戻ろうとする? なんか事情があるのか? 事情ってなんだよ、どんな事情だよ!
どんな事情があるにせよ、今あの家に帰るのはまずいだろ、と心の中で叫ぶ。くそ、本当に帰ったのか、と言いながらももの辺りを拳で叩く。ポケットの中のスマホに当たり、手を痛めた。そのとき、電話してみよう、と遅れて思いついた。
ニャインを開くと、二槍から一つのメッセージが送られてきていた。『ごめん、やっぱり帰ることにする』
「は?」
意味が分からない。あんな地獄のようなところに、帰る理由が理解できない。
初心はひとまず電話をかけてみることにした。
だがコール音が虚しく鳴るだけで、応答はなかった。
母が朝食を作り終え、食卓に用意されていった。いつの間にか父も髭剃りを終え、ワイシャツに袖を通していた。小春もてきぱきとみそ汁を運んでいる。
二槍が今あの家に帰っているとしたら、あの男にどれだけ怒られ、どれだけ痛めつけられているのだろうか。想像し、いてもたってもいられなくなる。
勝手にうちに泊まらせたこともそうだが、初心があれだけきつい言葉をぶつけたのだ。あの男は相当キレているに違いない。その怒りの矛先が二槍一人に向くことになったら……。公園の芝生の上で見たあざや傷跡が頭に浮かんだ。
「二槍さんが危ないかもしれないってのに、なんでそんなにのんびりしてられるんだよ!」
席に着いて手を合わせだした家族に、初心は強い語調で言った。
「今この瞬間にも二槍さんは危険な目に合ってるかもしれないんだよ! 早く助けに行かなきゃ!」
なぜそんなに悠長にしていられるのか。朝ごはんなんて、今はどうでもいいじゃないか。
いただきます、と言って食べ始める三人を前にして、初心は、自分だけがこんなに心配しているのか、所詮二槍は家族以外の人間、赤の他人だと思っているのか、と絶望しかける。だが、それは早計だった。
「お兄、落ち着いてよ。まずは食べて」
小春が真面目な顔をして言う。父も言った。
「そうだぞ。まずは朝ごはんだ。ほら、早く座れ」
「いや、だから」
そんなことしている暇はないんだ、と言いかけたとき、母が手を伸ばしてきた。手首を掴まれ、引っ張られた。
「正直、はやる気持ちはわかるけど、あんた一人が行ってどうにかなる問題なの?」
「それは……」
母に問われ、たしかに一人じゃ何もできないかもしれない、と考え直す。
言外に、「一人じゃないよ」そう言ってくれている気がして、父、妹のほうを見ると、ご飯を口に運んでいる二人と目が合う。軽くうなずいてくれた。
「一人で焦ってもどうにかなるとは思えないわ。だから、私たち全員でまずは考えましょう。助けに行くとしたらそれからよ」
どうやら、二槍を助け出したい気持ちは家族みんなの総意だったようだ。
母が椅子を引いて目線で促してくる。初心は湯気を立てているごはんの前に座る。そうだ、まずは朝ごはんを食べなきゃ、頭と体を動かすために。いただきますをして食べ始めると、父がもごもごしながら言った。
「よし、作戦会議を始めよう」
各々が返事をする。いつもは威厳など欠片もない父親が、今だけは一家の大黒柱にしっかり見えた。でも、と初心は口を挟む。
「今日、仕事はどうするの?」
「高熱が出て一歩も動けないから休む、と会社には後で連絡しておく」
「私も、今日は休むわ。仕事より仲美ちゃんのほうが大事だし」
二槍を助けるために、二人は仕事を休んでくれるのか。初心は頭を下げた。
「ありがとう! 僕も今日は学校休む!」
「私も!」
小春も同調する。焼き鮭を頬張りながら、初心は家族に問いかける。
「で、どうしよっか」
——話し合いの結果、警察に電話してみることになった。二槍をあの家から助け出し、もう二度と戻らなくて済むようにするには、あの父親から二槍を離さなければならない。虐待のことを警察に言えば、動いてくれるかもしれないからだ。
母が警察に電話をしている。今すぐにでも助けないと危ないかもしれないんです、と母は何度も繰り返していたのだが、どうやら曇り顔を見るに、すぐに実行に移してくれるわけではないらしい。電話を切った母が怒りを露わにしながらスマホを机に乱暴に置いた。
「ったく。なにが『かもしれないじゃ動けないんですよ』だ!」
母曰く、警察は今他のことで忙しいらしく、こんなことに構ってはいられないのだという。確かに、二槍が今虐待を受けていて危険な状態である、というのは想像にすぎず、急を要する確固たる証拠があるわけではない。腹は立つが、仕方がないだろう。
次に母は児童相談所に連絡をする。その間に初心は、交番相談員として近くの交番に勤務している祖父に電話をかけた。警察がダメなら祖父に単独で動いてもらおうと思ったからだ。二槍と今の状況、虐待のことを話し、あの男を捕まえてくれ、と頼む。
だが、「それは無理だ」と返ってくる。
「なんで!」初心は抗議の声を上げる。
電話口から祖父のしわがれた声が聞こえてくる。
「俺はもう警官じゃねえんだ。逮捕する権限なんかないし、手錠すら持ってねえ」
「そんな」
「だがまあ、現行犯逮捕ならできる。俺に限らず、これは一般人でもできる逮捕だ。目の前で危険な状況になったとき、犯人を確保する権限なら行使できるぞ」
「現行犯逮捕、か。ってことは、二槍さんを虐待しているところをじいちゃんや僕たちが見ればいいってこと? って、いや、それはダメだよね!」
二槍をもうこれ以上傷つけさせずに助け出すのが目的なのに、殴られているところを見て現行犯逮捕、というのでは意味がない。大体、あの男を外で怒らせるのは無理そうに思えた。初心が昨日、殻石家の玄関前で怒りをぶつけたときすら、あの男は怒りのいの字さえ見せなかった。とぼけて、やり過ごそうとした。引き下がらない初心と口論になるのが目立つと考えたのか、家の中に引き込もうとしたことからも分かるが、やはりあの男は外では善人面を被っているのだ。家の外では決して怒ったり殴ったりしないのだろう。
「ありがとうじいちゃん、またあとで方針が決まったら電話するね」
そう伝えて、電話を切る。母も電話を終えたが、先ほどと同じようにむすっとした顔をしていた。どうやら児童相談所もすぐには動いてくれないようだった。
さすがに死にはしないだろうが、それでもきっと今も二槍はひどい目にあっている。勝手なことしやがって、と殴られているかもしれない。家事の一切を任されていたから、叔母と透花にも言葉で傷つけられているかもしれない。そう考えると、胸が痛む。すぐに助け出してあげたいと思う。
そして、おそらく二槍があの家に帰った理由も、家族で話し合っていくうちに予想がついてきた。父親に恐怖を植え付けられて支配されているからだ。初心家で保護して一緒に暮らすというのは家族全員が賛成して大歓迎だったし、その本気度は二槍にも伝わっていたはずだ。だから二槍はこの家で暮らしてさえいれば、虐待から解放されるはずだった。それなのに二槍が帰ったのは、今までに刻まれた恐怖がとてつもなく大きなものだったからだろう。一時的に離れたとしても、必ず連れ戻されてもっとひどい目に合う。そう思っていたのではないか。
「どうする?」
二槍を助け出すにはどうすればいいか、初心以外は考えついていないようだった。警察も児童相談所もダメとなると、次はもう自分たちでやるしかないのだ。初心は立ち上がり、決意の眼差しで言った。
「みんなで二槍さんを助けに行こう」
父も母も小春も、困惑顔を作る。みんなでとりあえず突撃すればなんとかなる。そういう行き当たりばったりの考えなのか、と初心に疑念の目が向く。
「行って、どうする。策もないまま家に入って、仲美ちゃんを助け出すっていうのかい? それでたとえ仲美ちゃんを上手く助け出したとしても、また彼女は帰ってしまうんじゃないか?」
父のその心配も初心は理解できる。助け出しても、またあの男がいる限りは怖くて帰ってしまう。だったら、あの男を家から追放すればいい。
「今はまだ言えないけど、いい作戦を思いついたんだ。とりあえず急いで行かなきゃ。二槍さんが危ない!」
父と母、小春から作戦ってなに? と聞かれるも、ここで話せば止められるのは分かりきっていたことなので、なんとか押し通す。行かなきゃ、じゃあ話して、という問答を数回繰り返した後で、父と母は仕方なしに初心の言い分を聞いてくれた。全員車に乗って、二槍のいる家の近くまで移動する。途中で一戸、三浦に電話をかけ、二槍が危ない旨を伝えると、来てくれることになった。
二槍の家の近くの公園の前に車を止めた。祖父にも電話をかけて事情を話すと、すぐに来てくれた。交番相談員の制服を着ている。
一戸と三浦も制服姿でやってきた。部活用の大きいカバンを肩にかけている。
初めまして、と初対面の父と母、小春、祖父に挨拶をした一戸、三浦は、
「で? 初心、どうやって助け出すんだ? 作戦を話せよ」
「うん、聞かせて」
と真剣な表情で言ってきた。
だが作戦を話す前に、まずは二槍があの家にいるのかを確認しなければならなかった。初心は小春にその役目を頼んだ。さっき見たところ、あの男の高級外車は駐車してあった。やつは家にいるだろう。二槍が家にいることを確認するには、家に入るしかない。かといって、二槍さんを探しに来ました、と訪問すると怪しまれてしまうため、誰かが理由をつけて家の中に入る必要があった。
「そこで、私の出番だと」
小春が己を指さし、やる気に満ちた顔を向ける。初心は頷いて肩に手を乗せる。
「あの男に顔が割れていないのは、じいちゃんと母さん、父さん、そして小春だけだ。その中で一番怪しまれなさそうなのが小春だと僕は思う」
「うん、わかった」
一戸と三浦は中学の時に何度か、二槍の叔父と顔を合わせたことがあったらしい。それに、潜入には背丈の低い小春の方が適任だ。
「小春、危ないんじゃないか?」
父が心配の声をかけるも小春は「大丈夫!」と元気よく言い、
「未来のお姉ちゃんを助けるためだよ! それに、演技は得意だから本当に大丈夫!」
親指を立ててニカっと白い歯を見せる。小春は小走りで殻石家に向かった。
インターホンを押すと、小春は顔をくしゃくしゃにして演技を始めた。「はい」と出たのは男性の声だった。二槍の叔父だろう。小春は小学校低学年のころ、よく泣いていたクラスメイトの女の子を思い出して、同じように泣きまねをした。
「う、うう。すみません、おしっこ、おしっこが漏れそうで」
「はい?」
「と、トイレを貸してくれませんか?」
小春は今高校一年生だが、童顔だとよく言われるので、小学生とはいかないまでも、中学生くらいには見えているはずだ。服装も、小学生に見えなくもない。泣き顔と、今にも漏れそうな我慢している顔をミックスさせた表情で、切実に訴える。
すると、ほどなくしてドアが開く。見上げると、背の高い、がっちりとした体形の男性が小春を見下ろしていた。優しそうな笑みを浮かべている。イケメンだ、と小春は好印象を覚えてしまう。
「も、もれる~」
股を押さえながら玄関に駆け込むと、後ろから訝しむような声がした。
「君、小学生じゃ、ないよね」
びくっと肩が跳ねる。まさか、パーフェクト演技が見破られてしまったのか。そう思い、恐る恐る振り返る。
「漏らすような年ごろには思えないけど」
男の視線が泣きまねをする小春の顔を見ている。疑っている目をして、顔から視線を下げていく。身長をごまかすため曲げている足まで見られ、絶体絶命だと思ったのだが、小春のグーにしている右手付近を見てから、怪しむ目つきは収まった。
「あ、そうか。いや、なんでもないよ。ごめんね、トイレはそっちだよ」
急に柔らかい雰囲気に戻り、トイレの場所を手で指して教えてくれた。今のはなんだったんだろうと内心頭を捻りながらも、「ありがとうございます!」と股を押さえながらトイレに急ぐ。
便座に座り、一呼吸着く。一旦疑われたが、とりあえず疑惑は払拭された。しかしなぜ右手を見て態度を変えたのか。自らの体勢と、男の視線をしっかりと思い出す。
「あっ」
男の視線を辿った先にあったのは胸の前で構えられた右手。ではなく、胸そのものだった。それを見て、背の高い小学生だと思われ、「今時の子は成長が早いからな」と納得したのだとしたら、憤慨ものだ。小春は無性に腹が立った。
「この畜生め」
しかしこれは二槍を助け出すための重要な任務。感情を表に出して正体がバレるわけにはいかない。怪しまれないよう、すっきりした幼い小学生のような顔を作ってトイレを出た。ありがとうございました、と言って玄関に立っていた男の脇を通って外に出る。
小春が公園に帰ってきた。なぜか口が悪く「ムカつくわあの親父」とか暴言を吐きながらも、成果を教えてくれた。
「仲美さんの靴、あったよ。あと、私の傘もあった。昨日の夜雨降ってたから借りてったんだね」
さらには玄関に出ていた靴は二足、つまり男のものと二槍のものだけだったという。軽自動車もないからいないだろうと思っていたが、やはり叔母と義妹も家にはいないようだった。叔母は仕事、義妹は学校にでも行っているのだろう。
二槍が家の中にいることが分かったので、初心は作戦を話し始めた。
「——そんな作戦、だめだ!」
「そうよ正直、だめよ!」
作戦を話し終えると、父と母から猛烈に反対された。それはそうだ。親が子の心配をするのは当然だからだ。それほどまでに、今回考えついた作戦は初心の負担が大きい。
だが、他にいい方法は思いつかない。初心の頭では、これくらいしか思いつかなかった。一戸と三浦、小春も喜んで賛成してくれはしなかった。だが二槍を本当の意味で救い出すためには、この方法にかけるしかなかった。
「じいちゃん」
初心は隣に立つ逞しい肉体を持つ祖父に、「頼むよ」と懇願する。やらせてくれ、と。
祖父は腕を組み、無言のまま初心を見たり殻石家を見たりしている。父と母が他の方法を考えて話し合っている。一戸と三浦、小春は成り行きを見守ってくれていた。
やがて祖父が口を開いた。
「正直。俺が前に言ったことを覚えているか」
前に言ったこと、というのは、二槍と一緒に交番に財布を届けに行った時のことだろう。覚えていたので、首肯した。
「だったら、ここで止めるわけにはいかないな」
「ちょっと父さん!」
父が祖父の腕にしがみつくようにして抗議している。そんな中、初心はあの時祖父に言われた言葉を思い出していた。
『女はな、男の強さに惚れるもんよ。だから、どんなに小さいことでもいい、困ってたら助けてやれ! この人になら頼っていいって思わせられれば、もうこっちのもんだ!』
ついでに、ばあさんを落とした俺が言うんだ、とも言っていたっけ。好きな女を助けて、惚れさせる。思えば、初心が二槍と付き合うには、はなからその方法しかなかったのだ。
こんな状況で考えるのはなんだが、二槍を助けることができたら、好きになってもらえるかもしれない。彼女に、好きと言わせることができるかもしれない。
だがまあ、それはそれ、これはこれだ。初心は二槍のことを純粋に助けたいと思っている。これ以上傷つかせたくない、早く救い出してあげたい、と思っている。
「正直、お前、やるんならバシッと決めて来いよ」
祖父が男として、先輩としてのエールを送ってくれる。頷くと、背中をバシッと叩かれる。痛くて重くて、目がシャキっとした。心配そうな顔をしている父と母に、「大丈夫。僕を信じて」と言う。
「絶対うまくやる。ケガはするかもしれないけど、二槍さんのためだ。やるよ。ちゃんと助け出してみせる。そして、うちの家族にしてみせる。だから、行かせてほしい」
二人の目をしっかり見ながら言った。父と母も、初心と同じく真剣な目をして聞いてくれていた。母がまだなにか言いたそうにして、口を開きかけたが、それを制して父が前に出た。
「わかった。行ってこい。ここがお前の、男の見せ所なんだな」
「ねえ!」母が父のゴーサインに待ったをかけようとする。だが、
「ここは、正直を信じて、行かせてやろう母さん。仲美ちゃんを解放するには、正直の力が必要だ。それに、大丈夫。俺たちの息子だ。うまくやるよ」
父が母の肩にそっと手を乗せている。父も、男を見せるときの大事さが分かっているのかもしれない、と思った。母も父に説得され、渋々頷いた。初心に向かって一言、思いを伝えてくる。
「頑張れ」
背中を押された感じがして、初心は勇気が出た。
「じいちゃんと父さんも、頼むよ。気をつけて」
「こっちは心配するな。鍛えてるから大丈夫だ」
「縄も結束バンドも、あと一応バットも持ってきたしね」
祖父は筋肉に力を入れ、父は道具を掲げる。二人を見て安心した初心は、「いってきます」そう静かに覚悟を決めて、歩き出す。
殻石家の、玄関から死角となる壁に身を潜ませる。ちょうど、前に二槍がいたぶられているところを目撃した場所である。ここなら玄関から近いのですぐに侵入できる。初心はスマホで公園にいる一戸と三浦に合図する。すぐに、OKという返事がくる。作戦開始だ。
一戸と三浦が道路にバレーボールをバウンドさせながら歩いてくる。そしてあろうことか、道路の真ん中でバレーの練習を始めた。二人には陽動を頼んだのだが、まさかそんな風にするなんて思ってもいなかったから、初心は驚いた。バレないように家の中に侵入するには、あの男を外に一旦出す必要がある。時間を稼いでもらっている間に二槍を見つけ出し、解放する。そういう流れだった。
初心が路上バレーボールの様子を見ていると、三浦が上げたトスに対して、一戸が飛んだ。長身の一戸がさらに高くジャンプして、頂点で力強く打ち込んだ。ボールの軌道は鋭角にコートに突き刺さる、ことはなく、地面と平行に進み、二槍家の庭の中に侵入する。なるほど、野球少年がボール取らせてください、というような作戦か。外でバレーボールするのはちょっとあれだと思うが。
一戸と三浦が黒い高級車の脇を通り、初心にウインクしながら玄関へと立つ。チャイムを鳴らし、「すみません、ボールが庭に入っちゃって、取ってもいいですか?」と尋ねた。しばらくすると男が出てきて、爽やかな笑顔を浮かべて庭に歩いていった。その際、「あれ? 君たち、もしかして仲美のお友達かい? 学校はどうしたの?」と聞こえてきた。
角から顔を出し、男が庭に消えたのを確認する。後方を歩く三浦が指をさし、口パクで「行け、行け」と指示してきていた。初心は玄関ドアを開け、室内に侵入した。なるべく時間を稼いでくれることを願う。
玄関で靴、靴下を脱ぎ、フローリングの上でも走れるようにする。あの男が来る前に二槍を外へ連れ出したい。
急ぎリビングに入り、二槍の名を呼ぶ。前にお邪魔したときはこのリビングから動かなかったため、奥のほうの様子は知らなかった。とりあえず「二槍さん」と呼び続けながら探していく。リビングからキッチンに移動する際、横目でなにかが動いたのを感じた。本能的にそちらを向くと、中から庭に出られるようになっている窓ガラスがあり、外の様子が見えた。あの男が屈んで、なにやら軒下のほうを見ている様子だった。見えたということはあちらからも見えるということである。初心は瞬時に身を隠し、意味もなく息を止める。
「あ、危ない」
胸に手を当て、深呼吸する。せっかく一戸と三浦が時間稼ぎをしてくれているのに、見つかってしまったら作戦が水の泡だ。
気を引き締めて捜索を続ける。キッチンにはもちろんいない。奥の部屋に行くと、畳張りの和室のようになっていた。ここも二槍の部屋ではなさそうだった。一応ふすまを開けるも、中に二槍がいるわけもない。一階の部屋はこれだけだったので、次は二階に行こうとその部屋を出たとき、上のほうから物音が聞こえてきた。二槍が立てた音かもしれない。初心は急いで走り出し、リビングの窓のところで静止し、外の様子を窺ってから素早く玄関前に出る。
階段を走って昇り、二階に上がる。部屋が三つあった。このどれかが二槍の部屋に違いない。
まずは左の部屋のドアノブに手をかける。開き、中を見る。白を基調として、各所に桃色のクッションなどが配置されている、女子の部屋、と思わしき部屋だった。「二槍さん! 二槍さん!」初心は呼びかけながら、一応ベッドの下やクローゼットの中も見る。もしかしたら閉じ込められたりしているかもしれないと思ったからだ。
いないと見切りをつけ、真ん中の部屋に移動する。開けると、まずおばさんっぽい香水の匂いが鼻をついた。二槍の名前を呼ぶも、ここにはいなさそうだった。おそらくあの性格の悪い叔母の部屋だろう。
最後に一番右の、階段を上がって正面にある部屋のドアを開いた。「二槍さん!」大声を出す。この部屋は他の部屋と比べ、倍近い広さがあった。テレビや黒いソファ、冷蔵庫までもがあり、一つの部屋として完成されていた。ここがあの男の部屋だと一目でわかった。たまにしか帰ってこないのに、随分といいご身分だな。まるで王様扱いだ。
初心は、まだ一戸と三浦はあの男を引き留めてくれているだろうか、と懸念する。それと、二槍がどんなひどい目にあっているのだろうか、今一体どこにいるのか、そんなことも考えていた。早く見つけないとあの男が家に戻ってきてしまう。二槍さんはどこにいるんだ?
二階に二槍はいないと判断し、部屋を出る。さっきの物音は気のせいだったか、と考え、念のため天井を見る。隠してある三階あるいは天井裏の部屋がないか、その入り口や痕跡を探す。が、見当たらない。そこではたと気づく。この家には二槍の部屋がない。
「くそっ」
部屋もなければ居場所もない。そんな家で今まで二槍はどこで休んでいたのだろうか。考えるだけで、胸糞悪くなってくる。腹いせに壁を叩き、まだ探していない箇所がある一階に向かう。
トイレも風呂場にも二槍はいなかった。もしかしてリビングのどこかに地下があるのかもしれない。そう思って再びリビングに行く。床を注意深く見ながら歩く。もはや隠し部屋があるとしか思えなかった。
コンコンコンコン。
音がした。顔を上げると、窓に貼りついている三浦が、緊迫した表情で拳を打ちつけていた。あの男に見つかったかと思って心臓がキュッと絞られる感覚に陥る。すぐに、緊急事態であることが分かった。時間稼ぎがどうやら限界、どころかもうあの男は玄関に向かっているとのことだった。指をさして、「急げ」と言っている。
自分がいかにバカだったかを、床を蹴りながら後悔し、初心は急いで玄関に走る。鍵を閉め忘れていたのだ。裸足のまま玄関の冷たいタイルに躍り出て、ドアノブの上のつまみに手を伸ばす。外から、足が地面と擦れる音が近づいてきており、ドアノブが下がった。あの男が戻ってきたのだ。ドアが少し開いた。
「——っ!」
初心はドアノブを中から思いきり引っ張った。ドアを閉め、つまみを捻った。背中に冷や汗がだらだらと流れる。つばを飲み込む。
なんとか鍵を閉めることができた。男は外からドアノブをガチャガチャと数回上下させ、やがてドアのそばから去っていく足音が聞こえた。
初心は無意識に止めていた息を吐きだす。危なかった。入ったときすぐに鍵を閉めておくんだった。と、反省をしている場合ではなかった。すぐに二槍を見つけ出さないと。あの男が中から鍵をかけられたことを不審に思わないはずがない。二槍が自分を閉め出したとは考えないだろう。だから、初心が侵入していることがバレないうちに早く二槍を見つけ出さ——、
「——っ」
思考を巡らせながら玄関から動こうとしていた初心の視界の端に、黒い影が映りこんだ。玄関横の窓からあの男がこちらを凝視していた。目が合うと、男の瞳孔が開いていくのが分かった。血走った目が初心の恐怖心を射抜く。
「二槍さん! 二槍さん!」
もうバレてしまったので、初心は構わず腹から声を出す。全部屋探してもいなかったということは、もう隠し部屋の存在を疑うしかない。どこかに物置とか、地下室があるに違いない。何度も二槍の名を叫んだあと、どこかから返事がないか聴覚の神経を尖らせる。すると、
「ん~ん~」
かすかに遠くから声が聞こえてきた。続いてなにかを床か壁にぶつけているような音もしてくる。よもや声も出せないような状況なのか。初心は急ぎつつも声と物音を聞きながら階段を上がっていった。
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