第9話 二槍さんと話したい

 週明けの月曜日。授業中、初心の頭には一昨日見た二槍家の映像がひっきりなしに流れてきて、集中できなかった。集中しようとも思っていなかったが。もしまた二槍と会えたのなら、ちゃんと話をして、自分の過ちや想いをしっかりと伝えようと思っていた。


 夕方、帰りのホームルームが終わり、教室を後にする。まあ、いないだろうな。一昨日あんなに怒鳴られたし……。


 憂鬱な気分で足を引きずって歩き、玄関の重い扉を押し開ける。少しの希望もなかった。だが、習慣で木の方に首が勝手に動いていた。目の中に二槍が映る。


「……。……え?」


 屈託のない笑みを浮かべた二槍が、こちらに手を振っていた。薄手のセーターの向こうのワイシャツを肘の辺りでまくって、心なしかスカートが短くなっている気がする。夏が近づいているから、夏仕様ということだろうか。


 太陽に照らされて輝く二槍に、本能的に見惚れてしまっていた初心は、首を振り、真剣な面持ちに変える。


 二槍が近づいてきて、いつも通りの可愛らしい声音で、


「行こっか、初心くん」


 まるで先日のことは記憶から消したから、初心くんもそうしてね、と言われているような笑みを向けられ、初心の半歩前を歩きだした。


 いつも通り迎えに来てくれていることに喜びと驚きを感じ、風船のように浮かんでいきそうになる心をひき戻し、初心は二槍の隣に立って歩く。この間のことは本当に忘れたことに、なかったことにしようとしている。だが、そうはいかない。初心は話しかける。


「二槍さん、一昨日のことで話があるんだけど」


 二槍は一瞬目線を下げるが、すぐに普段通りの二槍に戻る。うーん、とあごに指をあてて宙を見上げる。


「一昨日? なんかあったっけ?」えへへ。


 えへへ、と初心もつられて笑ってしまう。可愛い、天使だ、って、そうじゃない。もう一度真面目な話をする空気を作り、言う。


「二槍さん、君の家庭でのことについて、きちんと話がしたいんだ」


 二槍は初心のほうを向き、目を見てきた。じっ、と一秒ほど見てから、初心の真面目さが分かったのか、瞬きをして前を向く。


 歩幅の合わない階段を、他の生徒たちと同じく下っていく。しばらく段差を無言で降りてから、二槍は口を開いた。


「なにも知らないままさ、楽しく今まで通りやろうよ」


 その声には、諦めの気持ちが混じっているように初心は感じた。


「そんなの、心から楽しめるわけない」


「でも初心くんは、今までなにも聞いてこなかった。知ろうともしてこなかった。ただ一緒にいるだけで嬉しい、幸せとか言って、なにも質問してこなかった」


「それは、その時は僕が間違ってた、気づいてなかったんだ」


 二槍が言っているのは、特に二槍が初心家に来たときのことだろう。部屋で一緒に二槍は話をしたがった。初心のことをたくさん知ろうと質問してくれた。だが初心は二槍についてなにか知ろうと質問することはなかった。可愛いから、それだけでよかったのだ。そのときは。


「でも、今は違う。ちゃんと相手のことを知らないのに、好き、だなんて、言えないよ。だから、二槍さんのこと、教えてほしい」


 二槍のほうを見るが、唇は閉ざされたままだった。階段を降り終え、歩道を歩き始める。


「この前のこと、やっぱり忘れるなんてできないよ。あんなことが平然と起こっているなんて今でも信じられないけど、でもさ、知っちゃったからにはさ、もう見て見ぬふりはできないよ」


「だから、なに? 初心くんに私の家の事情を話して、どうにかなるの?」二槍は鼻で笑った。「ならないでしょ」


 それに返す言葉は、初心の中にはまだなかった。聞いて、どうにかできることではないのかもしれない。家庭の事情に他人が首を突っ込んでいいのかもわからない。でも、でもさ……。


「あんなの、嫌だよ」


 奴隷みたいに足蹴にされ、こき使われ、家族以下の扱いを受けていた。知っている二槍は、あの家にはいなかった。その事実が、初心は耐えられなかった。あれを忘れることなんて、一生できないと思った。


「友達がさ、あんなひどいことされてたら、二槍さんは見なかったフリできるの? 忘れてって言われて、簡単に忘れられるの? ……僕には、できないよ」


 アスファルトに映る二槍の影が、動いた。横を向くと、二槍が頭をガシガシとこすっていた。はあああ、と長い溜息を吐きながら。


「だから今まで秘密にしてきたんじゃん。……なのに、はあ……見られて、はああ……」


 二槍自身、こういうことになると分かっているからこそ、必死に隠してきたことなのだ。親友である一戸や三浦にも秘密にしてきた。悟らせなかった。それが、初心にも分かった。


「ごめん、なんか」


 二槍の悔しがっているような態度を目にすると、自然と謝罪の言葉が口からこぼれてくる。だがそれも虚しく、二槍のさらに長いため息にかき消されるだけだった。




 一本道を気まずい空気の中歩き、信号の所まで来た。手押しボタンを押し、車を止める。もう二槍は頭を抱えてはいなかったが、イライラしているのが伝わってくる。


 信号を渡り終えて少し歩くと、初心が落ちた川の手前にある分かれ道で、二槍が「初心くん」と言って立ち止まった。


「ここでお別れするかどうか、今決めよう。この間のことを忘れてくれないんなら、関係も終わりにする。初心くんはあっち、私はこっちに進む」


 それぞれの道を指さし、真顔で続ける二槍。


「もしなかったことにしてこれまで通り笑えるなら、私と同じ道に来て。いつも通り楽しくおしゃべりしながら家まで送って」


 本気で言っている表情の二槍を、初心はじっと見つめる。そして考える。


 答えはすぐに出た。


「さっきも言ったけど、忘れてへらへら笑ってなんていられない」


「じゃあ、お別れするってことね」


 少し悲しんでくれているように見えたが、正直わからない。初心の思い込みかもしれない。初心だって、お別れなんてしたくはない。だが、傷ついている大事な人の傷を、見て見ぬふりして一緒にいることはできないと思っている。


「お別れは」初心は言い淀む。「するよ」嘘をつくのは苦手だ。本気でお別れする気はさらさらない。でも、事情を聴くためだ。


「二槍さんが触れられたくないってことも理解はしてる。でも、最後にちゃんと教えてほしい。二槍さんの家庭のこと」


 事情を知り、それを解決したうえで正々堂々付き合いたい。あんなひどい仕打ちを、もう二度と受けさせたくない。


 二槍は睨みつけ、突き放すように言う。


「教えるわけないじゃん。知られたくないって言ってるのに」


「じゃあ、家まで押しかけて母親か妹に直接聞くけど」


「それはだめ」


 早口で二槍が言った。悩んだり考えたりする間もなく、言葉尻に被せる勢いで否定された。当然だ。あんな人たちに、「二槍さんを虐待しているのはなぜですか? どうしたらやめてくれますか?」なんて訊ねたら、どれだけ怒り散らすかわからない。後々二槍へのダメージが増す可能性もある。


 だが、ここで退く気はなかった。初心は一歩距離を詰めた。


「なら、ちゃんと話して。二槍さんの家庭の事情」


「……はあ、見られた私が悪い、か」


 二槍は額に手をやり、退路がないことを悟ったようにため息をついた。二人は並んで歩きだす。二槍の家の方向に向かって。


「教えたらもう関わらないでね。私は家庭の事情知ってる人と仲良くなんてできないから」


 冷たい声音で言われ、初心の心は少し傷つく。




「私の本当の母さんは、私が小六のときに死んだ。父親はもっと小さい時に離婚したらしくて、顔も覚えてない」


 初心の隣で二槍は、整った面持ちをいつになく無表情にして、一人で喋るように話した。


「母さんは両親との縁を切っていたみたいで、一人残った子供の私は、母さんの妹の殻石家に引き取られることになった。ああ、今住んでるうちね。名字が違うのは気づいてたよね」


 殻石、という名字が表札に入っていたことは初心も確認していた。一戸と三浦に聞いた通りの情報だった。


「中学に入る少し前からこっちで暮らすことになって、家事とか買い物とかをやるのが住む条件だって初日に言われた。多分母さんとおばさんは姉妹だけど仲が悪かったんじゃないかな。その子供をただで引き取りたくはなかったんだろうね」


 それでも私は全然よかった、と二槍は言った。


「人が一人増えるわけだからね、家に。私はそれが当たり前だと思っていたから、別に苦じゃなかった。でも、私が高校に入ってから、少しずつ変わってきた。中学生になった透花は、難癖付けて嫌がらせをしてきたし、軽く暴力も振るうようになってきた。おばさんにもそのうちそれは伝染して、言葉使いが荒くなったり、家事のほとんどを私に任せるようになった。なにが気に食わなかったのかはわからない。なんとなく、私の存在が邪魔に感じてきたんじゃないかな。厄介ごとを私に全部押し付けるようになって、でもそれに逆らうわけにもいかないよね。住まわせてもらっている身だし。……でまあ、今に至るって感じかな」


 そんな感じ、と軽く言う二槍だったが、初心には二槍が麻痺しているように思えた。


「だから、初心くんが見たものは、私の中では大したことない日常なんだよね。まあ、さすがにあれは久々にやっちゃったって感じで、すごい焦ったけど」


 気づけばもう二槍の家のすぐそばまで来ていた。人が遊んでいるところを見たことがない小さな公園がある角を曲がれば、二槍家だ。公園の入り口の手前の、道路の真ん中で二槍が立ち止まる。


「初心くん」初心はゆっくり振り向いて二槍を見る。「全部話したから、これでもう本当にさよならだよ。いいね?」


 駄々をこねる子供を説得する母親のようなまなざしでそう言われるも、初心は首を縦に振ることはできない。あれが大したことのない日常? 鮮明に思い出すことができるあの光景を、初心はもう一度脳裏に蘇らせる。


「ニャインもすぐブロックして削除するし、迎えにもいかないから。別に、初心くんのことが嫌いになったわけじゃないよ。ただ、もう事情を知ってる人のことを私は心から好きにはなれないと思うから。聞いてる? 初心くん」


「……うん……」


 聞こえてるよ。初心は、二槍の可愛らしい顔を、イラつきを隠せないまま見据える。観察する。


 言葉とは裏腹に実は助けを求めている、なんてことは一切ない。彼女はすべて本音で言っている。きっともう、初心とは関わらない、と心に決めたのだろう。ただ初心が了承してくれるのをじっと待っている様子だった。


 それに、腹が立った。受け入れ、慣れてしまったその表情に、怒りを感じた。毎日こき使われ、暴力を振るわれ、心を削られることが、彼女の中ではもう普通なのだ。それが日常で、当たり前で、受け入れるしかない現実。同い年の高校三年生が、辛いことを辛いと思ってすらいない。そのことに、初心は激しく怒りを感じる。


 無言のまま歯をすり潰していると、二槍が平然とした様子で話してくる。


「だから、私をもし見かけても、話しかけないでね。私の家族にも、この家にも。……ってなんか、私酷いこと言ってるね」


 家族……。その言葉が、初心の怒りの琴線に触れる。


 えへへ、と笑う二槍。明るい話題に変えるように、手を一回叩く。


「ま、とにかく、そういうことだから。私たちは、もう終わり。わかった?」


「……わからない」


 二槍の言っていることは理解できる。初心がもし逆の立場で、二槍と同じようにすべてを受け入れているとしたら、同じように相手を遠ざけるだろう。変に気を使われるかもしれないし、逆に自分が勝手に相手の行動を、ああ知られたからこんな態度になったんだ、と思ってしまうかもしれない。知られたことで、心から楽しめなくなるのだ。それに、自分はもう受け入れているのに、相手からは必要以上に心配される。望んでないのに助けようとしてくるかもしれない。変に突っつかれ、巻き込むことになるかもしれない。


 でも。


 二槍が面倒ごとを避けようとしていることも、変に気遣われたまま関係を続けることができないと思っていることも、わかっている。


 わかっているけど。


 それでも、彼女をこのまま行かせたくはない。


「なんで?」


 眉間にしわを寄せ、少し強い口調で言ってくる。初心は答える。


「ここで終わりにしたら、後悔すると思うから」


 すると、二槍はさらに強く言ってくる。


「なにそれ、そんなの初心くんの勝手じゃん」


「そうだよ勝手だよ!」初心も熱くなって声が大きくなる。「まだ付き合ってもないのに、彼氏ヅラしてんのかもしれないよ。……でもさ、好きな人が酷い目にあってるんだよ? お別れしてはいすぐに忘れますってできるわけないだろ」


 怒りのボルテージが上がってくる。自分勝手なのかもしれない、おせっかいなのかもしれない、でも、二槍さんとこんなことで離れたくない。


「私だってそうだよ! 正直初心くんのこと、結構好きになってた。……けど」


 二槍は泣き出すのをこらえているような口元で、


「知っちゃったじゃん。見ちゃったじゃん。みじめな私も、あんなクズみたいな家族も、見られちゃったじゃん! もう今までみたいに、なにも知られなかった頃みたいには、戻れないよ」


 腹の底から湧き上がってくるマグマのような熱が、再び二槍が口にした言葉に引っ掛かり、爆発する。


「家族、家族って……」


 あれだけの仕打ちを受けて、よくあれを家族と言えたもんだ。


 奥歯と拳に力が入る。


「あんなのは、家族じゃない!」


 周囲のことなど気にせず、喉が千切れそうになるくらい、全力の大声を出していた。


 発散した怒りの残りで、息を荒くしながら初心は言う。


「あんなのは、家族じゃない。家族ってのは、あんな奴らに使っていい言葉じゃない。もっと、あったかくて、居心地がよくて、楽しくて、信頼できる、そんな自分の大切な人達に使う言葉だ。あれを家族と呼ぶのは、許さない!」


 ギリギリと歯を軋ませる初心の正面で、怒りが移った二槍の、攻撃的な声が出る。


「は? そんなの人それぞれじゃん。勝手に自分の価値観押し付けないでよ。私にとっては、あんな人たちでも家族なの」


「違う」


「違わない」


「……違う」初心は認めない。


「ちが」


「——違う! あれは家族じゃない!」


「っ、だからそうやって言われると、私の人生全否定されてる気分になるから、やめてよ!」


 はあ、もう、と泣いているのか怒っているのか判別できない震えた声で二槍が息を吐く。


 同じご飯を食べ、同じ屋根の下で眠り、毎日顔を合わせてきたとしても。あれは、家族とは言わない。


「……僕には、ね。叔母も義妹も王様に見えた。独裁の、王。そして床を片付けている、二槍さんが……」


 初心はさすがに言い淀んだ。言ったら傷つけることになる。


 でも、言った。言ってしまった。


「奴隷に見えたんだよ」


 二槍が今、どんな顔をしているのかはわからない。顔を見て言えるようなことではなかった。道路と二槍の足元しか見られない。だが、一度口にしたら、堰を切ったように思っていた正直な気持ちがあふれ出してくる。


「髪を引っ張られて、怒鳴られて、蹴り飛ばされて、理不尽なことを言われて、こき使われて。あの家には、家族はいないよ。住んでるのは、王族と奴隷だけだよ」


「……そ、そんな」涙ぐんだ声にハッとして顔を上げると、顔を赤くした二槍が、初心の目を弱々しく見ていた。「こと、い、いわないでよ……」


 鼻と口を覆うように手をかざし、今にも雫がこぼれ落ちそうだった。


 耐え切れなくなったのか、二槍が駆け出そうとした。初心との間の空中に、夕陽を反射する水滴が飛ぶ。アスファルトに二粒の染みができる。


「待って!」


 腕を伸ばし、二槍のか細い腕を捕まえる。そして、謝る代わりに、引き止めた理由と、どうにかするための策を、無理やり脳みそからひねり出す。


「卒業した後、家を出て沖縄に行くって言ってたよね、ケーキ買いに行ったとき。それって、家にいたくないからなんでしょ? できるだけ遠くに離れたいからなんでしょ? ねえ!」


「やめて、離して——」


「だったらさ、卒業するまでの間、うちに来なよ! うちで暮らしなよ!」


 必死だった。必死にひねり出した。お別れするでもなく、忘れて楽しくいつも通り仲良く、でもなくて、第三の方法。二槍を自分勝手に助け出す方法を、咄嗟に思いついた。だが、


「バカじゃないの? そんなこと、できるわけない」


 ぐすん、と鼻をすすって目元を擦る二槍が、つかんだ腕から逃れようと体重を後ろにかける。


「でも」


「いい加減にしてよ!」


 二槍が初心を本気で睨みつけた。初心は怯んだ。そしてその隙に、


「あっ」


 掴んでいた腕がするりと抜け出て、初心の元から去っていった。絶対追いつかれたくない、そんな風に逃げる二槍の背中を追いかけるが、単純な脚力の違いで追いつけそうにない。ああ、足も速いのか二槍さんは。


 追いすがる初心に、玄関のドアノブをつかんだ二槍は言った。強い決別の眼差しで。


「もう二度と近づかないで。私とあなたは赤の他人、これでおしまい」


「——待っ!」


 それを最後の言葉として、二槍は家族のいない自分の家に入っていってしまった。


 こんな数十メートル走っただけで息が切れて膝が笑ってしまう自信の弱さに乾いた笑みを漏らしながら、膝に手をついた初心は太ももを殴った。


「くそっ! くそっ!」


 行かせてしまった。これで、こんな終わり方なんて、嫌だ……。


 後悔と自分の非力さに打ちのめされる。そうしてしばらく二槍家の前で下を向いていると、静かな車の駆動音が聞こえてきた。横を見ると、黒いつやつや光る、いかにも高級外車という見た目の車が近くに来ていた。二槍の家の前にいる初心のすぐ後ろに止まったので、どうしたんだろうと思っていたら、左側、運転席のパワーウィンドウが静かに開いた。中から男の人が話しかけてきた。


「君、ちょっとそこ、どいてもらっていいかな。駐車するから」


「あ……、はい」


 邪魔になっていたようなので、初心は横にずれる。


 いつも止まっている叔母の軽自動車の隣、玄関を開けて正面に当たる位置にその車は駐車された。遅れて初心は考える。なんだろう、仕事先の人、いや、違うか。なれなれしいというか、妙にこなれている感じがする。もしかして……、と一つの答えが浮かんでくる。


 男がドアを開けて出てくる。初心は凝視して、似ているところを探そうとしていることに自分で気づき、血が繋がっていないから似ているはずがないんだった、と自らの行動をバカだと省みる。


「やあ君、どうしたの?」


 男が話しかけてきた。身長も肩幅もかなりある。着ている黒いスーツがきつく感じる。胸の辺りはスーツ越しにも分かるほどに分厚く、これはラグビーでもやっていたんだな、と思ってしまうほどの迫力だった。そのくせゴリラみたいな顔をしているのではなく、優しそうな顔をしている。実際、笑みを浮かべるその表情からは、なんの威圧感も感じない。


「あの、ちょっと友達と話してて」


「ああそうだったんだ。ふーん。……あ、友達ってもしかして、透花のことかな? それとも、仲美のこと?」


 初心が「あ、えっと……」と困惑する様子を見せたからか、男は軽い調子で「ごめんごめん、僕が誰なのかまだ話してなかったね」と片手を小さく上げた。


「初めまして、僕は殻石透花と、仲美の父です。よろしくね」


 思った通り、この人が二槍の叔父だった。


「初めまして、僕は初心正直といいます」


「そっか、初心くんっていうんだね。で、透花の友達? それとも、仲美の?」


 今関係が終わってしまったかもしれない。だから、友達、と言っていいのか少し迷いながらも、答える。


「あ、仲美さんです」


 すると、ふーん、そっか、と笑った男は、夕陽に目を細めて、大きな手で庇を作って言った。


「ちゃんと話せたのかい? なんか、とてもちゃんとした話ができた感じには見えなかったけど」


 膝をついて悔しそうに下を向いているところを見られたのだろう。


「いえ、まあ、はい。大丈夫です。大体は話せましたから」


「そう」男は軽く手を振り、玄関に向かって歩いていってしまう。「じゃあ、学校でも仲良くしてやってね。じゃあね」


 ドアノブに手をかけたところで、鍵がかかっていることに気づいたようで、ポケットの中やカバンの中をまさぐり始めた。鍵を探しているのだろう。「あれ、どこやったっけ」


 その背中をじっと見ていると、男は視線が気になったのか、振り返って初心に愛想よく笑みを浮かべる。


「あはは、いやー、たまにしか帰ってこないもんだから、鍵、どこに入れてたか毎回忘れるんだよね。ああ、単身赴任してるんだよ、僕」


「はあ……」


 生返事をして、初心は、たまにしか帰ってこない、単身赴任、という言葉を反芻した。そして、そういえばこの車が止まっているところを今まで一度も見たことなかったな、と記憶をたどった。二槍も叔父についてはなにも言ってなかった。


 まだ鍵が見つからないようで、車の運転席に戻ってロックを解除していた。運転席に入り、助手席のグローブボックスの中を探しているようだった。


 ふと、初心の中で気になる疑問が生じた。


 二槍が家で虐待を受けたり、家事全般をやらされていることをこの人は知っているのだろうか、と。知っていて、共犯なのか、数日だけしか帰ってこないから見て見ぬふりをしているのか、それとも、全く知らないのか。以前の初心のようになにも知らないまま、たまに帰ってきては元気にやってるか仲美、とか普通に声をかけているのか。


 なんとなくだがこの人の気さくさを見ていると、全く知らないのではないかと思った初心は、思い切って聞いてみることにした。


 あった、と言って車から出てきた男に初心は質問した。


「あの、あなたは、二槍さんがこの家でどんな扱いを受けているか知っていますか?」


「ん? どういうこと?」


 男は顔中にはてなマークを浮かべながら聞き返してきた。本当に、知らないように見えた。


 初心は、簡単に事情を説明した。先ほど二槍から聞かされた、ひどい話を。


 事情を話している最中に、男の顔は驚きや戸惑い、困惑の様相を見せていた。すべてを話し終えると、男は黙って頭を下げた。


「知らなかったんですね?」


「ああ」


「僕に謝る必要はないですよ。僕も、それをつい最近知りましたから。僕は、友達失格です」


「や、僕のほうこそ父親失格だ。まさか、うちがそんなことになっていたなんて」


 男に顔を上げるように言い、初心はお願いするように言った。


「僕は、友達とはいえ、部外者です。僕がなにを言っても、効き目は薄いでしょう。改善するとは思えません」


「そうだね、それは、僕の役目だ。一度、家族ときちんと話をしてみるよ。……本当、そんなことになってるだなんて、知らなかったよ。教えてくれてありがとう」


 男は、充血した目に涙を浮かべて、もう一度、今度はお礼の言葉とともに頭を下げた。


「父親のあなたなら、ちゃんと話せば二槍さんを守ることができるはずです。なんとかしてやってください。お願いします」


 初心も頭を下げる。男が顔を上げ、初心の肩をガシッとつかんでくる。その力強さから、男の本気度が伺えた。だが、その男の口の端から血が出ていたことに、頭を下げていた初心は気づかない。


「わかった。必ず話をするよ」




 その後初心が帰ろうとすると、送っていくよ、と言われ、車に乗せてもらうことになった。


 年に数回しか帰ってこられないから、娘のことをよく知らないんだ、教えてほしいと言われたので、帰りの短い間に二槍のことをたくさん話した。父というよりも友達に近い感覚で話せるのが不思議で、心地良かった。短い間だったが、二槍のことを話していると打ち解けられた気がした。


 家の前まで送ってもらい、二槍の父親と別れた。


 初心は気づかなかった。ダッシュボードの一部に、拳を打ちつけたかのようなへこみができていることに。そして男が飲んでいたスチールでできた缶コーヒーが、握りつぶされた音に。

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