第10話 あの男を、許さない
二槍とお別れしてから二日後。放課後になって玄関の重い扉を開け、木の前を習慣的に見る。だが、誰も待ってくれてはいない。初心は一人、今日も虚しく帰る。
歩幅の合わない階段を降りる。夏が近づいてきたので、まだ日は高く、銀色に光る手すりを掴むと生温かい。今日の気温なら二槍はワイシャツを腕まくりしてるだろうな、セーターももしかしたら脱いでいるかもしれない、と自然に考え、考えていたことにため息をついて、歩く。
昨日の夜、やっぱりもう一度会ってちゃんと話をしたい、とニャインで送ったのだが、まだ既読はついていない。スマホをポケットにしまい、いつもの一本道に出る。
会いたかった。あれからずっと考えていたが、やっぱりあの虐待を忘れることはできないし、卒業までの間、うちで暮らしてほしいという思いは変わらなかった。咄嗟に出たとはいえ、いい案だと思う。いくら慣れているからとはいえ、痛みに強くなったわけではない。心は摩耗するし、体も傷つく。きっと聡明な彼女は、自分が麻痺していることにも気づいているだろう。この状況が普通ではないことがわかっていて、抜け出したいと思っているだろう。だからこそ卒業後、沖縄に行くという発想に至るのだ。本人があと少し我慢すればいいだけだから、邪魔しないで、と思っているのは分かる。でも、初心は、ただの初心のエゴだけど、二槍をあと何か月もあの家に閉じ込めておきたくない、と思ってしまった。好きだから。
「あんなの、絶対間違ってるよ。くそっ」
地面に落ちていた小石に八つ当たりした。ころころと転がっていく石は車道に飛び出し、排水溝の隙間に挟まるようにして止まった。
そこで初めて、自分がずっと下を向きながら歩いていたことに気づいた。顔を上げ、石の先に続いている長い一本道の向こう側をなんとなく見た。
死んでいた目が、大きく見開かれた。初心の瞳には、豆粒ほどに小さい二槍の後ろ姿が映っていた。
——二槍さん!
体が勝手に動く、というのはまさにこのことだった。元々深く考えてから行動するタイプではないが、今回は、「もう二度と近づかないで」「私とあなたは赤の他人」とつい先日突き放されたことなどまるできれいさっぱり忘れたような、躊躇いの一切ない走りだった。
自分が今避けられているということも忘れた初心は、うかつにも彼女の名前を叫びながら走っている。二槍は後ろを振り返り、追いつかれないように走り出した。
しまった、気づかれた、と二槍が逃げてから気がついた初心は、息を切らしながら懸命に走って追いかけた。先日二槍を追いかけて、たった数十メートルでも追いつけなかったことを思い出した。足が止まりかけた。
しかし、前を走る二槍の背中がだんだん大きくなっているように見えた。おかしいな、追いつけるはずないのに、と思いながら足を回した。近づくにつれわかった。思った通り二槍はなぜかゆっくりと、早歩き程度のスピードで逃げていた。
背負っていたカバンの柄がはっきり見えるくらいまで近づいた時、初心は違和感を覚えた。
妙に遅いこともそうだが、それよりも、その格好に首を傾げた。
ワイシャツを肘の辺りまで腕まくりしているのが最近の二槍のスタイルだった。だが今日は、寒くもないのに腕まくりをしていない。さらに目線を下にずらすと、滑らかな白い肌が眩しい、わけではなく、黒いストッキングを履いていたのだ。今まで見たことがない後ろ姿だった。
もしや違う人では? と一瞬思うが、三つ編みハーフアップやカバン、背丈なども同じなので、二槍に間違いないだろう。やっと追いついたのは、自販機の前だった。
「二槍さん! ……ハア、待ってよ!」
腕を掴み、引き止める。
「痛っ!」
「えっ?」
予想外の反応に、腕を離してしまう。振り返る目が初心の目と合い、「やめて!」とか、「しつこい!」とか言われるのは覚悟していたのに、今、彼女はなんと言ったか。
掴まれた方の腕を抱えるように逃げる二槍を、初心は再度追いかける。今度はカバンを掴む。
「待ってって!」
「いや!」
振り向いた二槍は怒っているというより、泣き出しそうな表情をしていた。手首の辺りをもう片方の手でつかみながら。
鈍い初心でも、これだけヒントがあれば分かった。確かめるため、無理やり腕を取り、強引に袖をまくった。そして、目にした。
「これは……」
紫色、だった。手首から肘の間にかけて、打撲の跡があった。
それを見られた時点で、二槍はもう抵抗しなくなった。初心は聞く。
「また、やられたんだね、あの叔母と義妹に」
沸々と怒りが沸いてくる。二槍は目を逸らしたまま、少し間を空けてから、ためらいがちに言った。
「そう、いつものこと……」
半ばわかっていたのに、それを肯定されたことで、さらにイラついてくる。思わず手に力が入ったようで、二槍が「痛い」と身悶える。
「あっごめん!」
謝ってから、「やっぱり自分の家においで」と言おうと口を開きかけた、その時。
ストッキングに、目がいった。この時ばかりはエロ可愛い、などの邪な考えは一切浮かばなかった。
「ちょっと来て!」
腕を強引に引き、車道を横切って向かいの公園に向かう。「痛いって!」と言われるが、気にしないで初心は進む。嫌な予感がしたのだ。腕にあざがあるだけでは済まないかもしれない、と。なぜいつもは履かないストッキングを身につけているのか。それは、その下にもあざがあるからではないのか。
公園の奥には木や草が生い茂っていて、周りから見えにくい場所がある。そこへ連れていき、立ったままの二槍を引き寄せ、初心の前に仰向けに倒す。
「な、なにすんのっ!」
「シッ! 大人しくして」
暴れそうになる二槍を押さえつけ、口の前に指を立てる。目を合わせ、小声で二槍に伝える。
「ストッキングの中、見せて」
はっとしたような顔をして二槍は小さく首を横に振る。「……嫌だ」
二槍の隠そうとする意志が、動きに表れる。太ももの辺りに手が伸びた。
初心はその反応を見て確信し、スカートの中に両手を突っ込み、一瞬のうちに二槍のストッキングを足首辺りまで脱がした。
普通ならいけないことをしていると感じる場面だが、目に入った二槍の痛々しいあざが、すぐに別の感情を湧き上がらせた。太ももからすね、ふくらはぎまで、まるで複数人からいじめを受けたかに見えるくらいの暴行の跡が、初心の心を震わせた。
二槍は口に手を当て、泣くのを必死にこらえていた。さらに、もう片方の手で腹の辺りを隠した。さすがに初心も「嘘だろ!」と言わざるを得なかった。抵抗する力のない手をどけ、ワイシャツをめくる。
「っ——」
そこにも、やはり青紫色の打撲痕が残っていた。
口元を押さえる二槍の手の甲が、濡れていた。見られたことの悔しさか、それとも我慢していた心の緊張がほどけたからか。咳をするように息を不規則に吐き、しゃっくりをするようにすすり泣く女の子がそこにいた。
今までにない猛烈な憤怒を己の内に感じた初心は、頭に血が上っていく感触を初めて感じた。そして、二槍をこんなに痛めつけたのは、叔母や義妹ではないと思った。
「二槍さん……。これ、やったの叔父だろ」
目を見て問うと、その濡れた瞳がわずかに揺れた。動揺している時のサインだ。初心の予想通り、あの叔父がやったことなのだ。爪が食い込んで血が出るほど強く拳を握り、叫び出したくなる怒りを堪える。
二槍の瞳からじわりと涙があふれ出してくる。初心の下で大好きな少女が弱々しく、震える声で言った。
「見られたく、なかった……」
「うん」こんな酷いあざ、女の子が誰かに見せたいはずがない。「……ごめん……」
ぐす、ぐす、と溶けだした鼻水を啜る二槍。そこにはいつもの強気で女王様気質な面影は一つもない。そんな彼女に初心は自分の考えを伝えた。
「もう、見ちゃった。知っちゃった。二槍さんの抱えている問題、心の傷を」
この前見た虐待をはるかに超える、常軌を逸した暴力にこの子は支配されている。
それを、当たり前、仕方のないことだと思い、隠し通そうとする二槍。その、周りを巻き込まないために一人耐え抜いて強く生きてきた彼女の覚悟を、しかし初心はこれから踏みにじる。
なぜなら、そんな覚悟は間違っているからだ。
「これで見過ごせって言われても、僕はもう我慢できない。たとえ二槍さんにどう思われようとも、必ず助け出す」
「や、やめてよ……。私、今までずっと頑張ってきたのに……。あともう少しだったのに……」
「やめない。絶対にやめない」
初心の瞳の奥に燃える炎を感じ取ったのか、二槍はさらに子供のように泣きじゃくる。
決意を固めた初心は、ボロボロの二槍を初心家に連れ帰ってもらうため、妹に電話をかけた。
涙を拭いて立ち上がろうとすると、隣に腰を下ろしていた初心に手を握られる。「離さないよ」と少し怒った顔で言われて、二槍は、これは本気だな、と諦めた。
誰かの前でこんなにみっともなく泣いたのは初めてかもしれない。隠していた秘密がとうとうバレてしまったからか、それとも本当は誰かに痛みを知ってもらいたくて、知られて安心して泣いてしまったのか、それは分からない。けれど、知られた相手が初心で良かったとは思う。
二槍は草の上に体育座りしながら、握られていないほうの手でおなかをさすった。この痛みの跡をつけた叔父の顔を頭に浮かべながら。
——二槍の叔父であり、殻石透花の父親は、二槍が殻石家に来たときからすでに東京へ単身赴任していた。年に数回、仕事が比較的暇になった時にふらっと帰ってくるのだった。最初の内はやはり叔母や義妹と同じで単に仲間外れのような扱いをされるだけだったのが、これもまた愛娘の透花に毒されたのか、透花が中学に入って、二槍が高校生になったあたりから、暴力を受けるようになった。
妻と娘に対する愛が深すぎることが問題だったのかもしれない。二槍はそう思う。妻からは普段の家事の些細なミスを、娘からは二槍が嫌がらせをしてくるなどの作り話を、叔父は聞かされた。よくもよそ者がうちの家族に、と言って頬をビンタされたのが一番最初の暴力だった。
帰ってくるたびに暴力はエスカレートし、常習化していった。叔父の部屋に一人呼ばれ、服の上から何度も殴られた。叔父は始めのころは家族の中に侵入してきた異物を排除するための暴力を振るっていたが、その内妻と娘からの悪口など聞かないうちから二槍を部屋に連れ込むようになった。叔父はいつの間にか、楽しそうに二槍を殴るようになっていた。
高校一年生の終わりごろ、二槍はついに耐え切れなくなり、日ごろから親しくしてくれていた信頼できる女の養護教諭に、虐待を受けていることを話した。その先生は、「ここらの児童相談所は役に立たないから」と文句を言いつつ対処法を考えてくれた。結局、「本当に帰りたくないときや、叔父が帰ってきた時だけ、うちに避難しに来てもいい」とまで言ってくれた。
その次の叔父が帰ってくる、前日。ほとんど強引に話をつけて、友達の家に泊まりに行くと言って養護教諭の家に泊まりに行った。なんとかその時は虐待を回避できたのだが、その次に叔父が帰ってきた時には、同じ手は通用しなかった。叔母はいつも叔父が帰ってくる前には家の片づけや掃除を始めるから、察知することができていたのだが、その日はなんの前触れもなく叔父が帰ってきたのだ。帰ってきた叔父が「この前は偶然会えなかったな」と薄気味悪い笑みを浮かべて手首を握ってきた。
いたぶられ、恐怖に支配された二槍は、口を割ってしまった。叔父は虐待を外に漏らされるとは思ってもみなかったようで、相当激怒していた。
その二週間後、初めて見る養護教諭が保健室にいたことで、二槍は思い知った。あの優しい先生は、いなくなってしまったのだと。他の先生に聞いて返ってきた回答はこうだ。「突然連絡がつかなくなった」
叔父がどんな仕事をしているのかは知らないが、叔父に逆らえば人を一人消されることを二槍は学習し、その時初めて、本当の意味で恐怖した。
それからは、もう耐えるしかなかった。あと二年の辛抱だ、と自分に言い聞かせながら。
だから今は、あと数か月我慢すればいいだけ。卒業して家を出るまで、叔母や義妹からの攻撃も、あと数回の叔父の暴力も、受けきれる自信はあった。
まあ、助けてほしいと思っていたのは紛れもない事実だ。でも、頼ったらその人を失ってしまう。だから、今まで一人で耐えてきた。友達にも、先生にも、誰にも悟らせないように隠してきた。
なのに、その努力を、たった二、三か月の付き合いしかない人物に踏みにじられようとしている。助けようとしてくれていることは嬉しいし、自分も助かりたいと思っている。でも、うまくいきっこない。初心くんも、手を貸した初心くんの家族も消される。
助かりたい、うまくいかない、傷つきたくない、でもこれまでの努力が無駄になる、嬉しい、無理だ、解放して、干渉しないで。——そんな、何色も混ぜた絵の具のようなぐちゃぐちゃな感情が、二槍の中でぐるぐる渦を巻く。そして気づけば、矛先は初心に向いていた。口を真一文字に結んで前を見据える初心に言った。
「初心くん、私、今までずっと隠し通してきたの。耐えてきた。頑張ってきた。……なのに、なんで邪魔するの」
助ける、と言ってくれた大切な人に、本当はこんなこと言うべきではない。でも、言わないと、ぶつけないと、これまで耐えてきた人生が無意味に思えてくる。それが、嫌だった。
「そう、だね。邪魔、してる。二槍さんの覚悟とか耐えてきたこととか、頑張ってきたこととかを、僕は今から無駄にしようとしてる」
「わかってるなら、やめてよ! 頼んでないし!」
そのいつもとは違って少し男らしい横顔に、イラっとくる。
「やめないよ」初心は即答する。「だから、先に謝っておくよ。ごめん二槍さん」
「なんで! なんでそんな勝手に決めるの! 私のこれまでの忍耐を、我慢を、どうして初心くんが踏みにじれるの!」
あと数か月我慢して、卒業したら家を出る。自由の身になる。それで、今まで我慢してきた自分が報われる。
力を入れて手を振り払おうとするも、繋がれた手は離れない。離してほしくて、その優しさを拒絶したくて、何度も地面に打ち付ける。
「二槍さんの言う通り、ただの僕の勝手だよ。わがままだよ。でも、これ以上我慢させたくない。痛みを感じてほしくない。ただ、助け出したい」
「そんな綺麗ごとばっか並べても、意味ないんだって! うまくいかないんだって! 助け出すなんて、簡単に言わないで!」
「大丈夫」だが初心は即座に言った。
「……は?」
大丈夫、と言った初心の目を見る。絶対的な自信があるわけでも、自分に言い聞かせるように言っているわけでもなかった。意味が分からない。
「……なんで、そんな簡単に、大丈夫なんて言えるの……」
二槍に向き合った初心が、両の手を優しく包み込んでくる。そして、生まれたばかりの赤子を抱きしめる母のような、この世で最も優しい顔をする。
「好きだから、だよ」
その言葉を聞き、息が漏れる。二槍の心臓が、意図せずトクン、と跳ねる。
「好きだから」初心が気持ちを込めて伝えてくるのがわかる。「大丈夫」
噛みしめるようにゆっくりと言うその態度は、間違いなく本気だった。好きだから大丈夫、好きだから助け出せる。その言葉には、どうやって助け出すのか、どんな根拠があって大丈夫なのか、その大事な部分が示されていない。だがしかし、たしかな説得力があるように思えてしまった。理論的なものではないが、二槍にはなぜかそう思えた。
二槍を直視するその目は、今まで接してきたどの初心のものとも違って見えた。信じさせる、なにか不思議な力があった。
それでもまだ、養護教諭の二の舞になるかもしれないという恐怖は消え去らない。助け出すと初心は言ったが、失敗すれば初心や初心の家族だけでなく、二槍自身の身も危うくなる可能性だって大いにある。
「そんなの、根拠になってないよ」
だから、目を逸らしながら、正論をぶつける。だが、
「ううん、根拠になってるよ。好きだから、助けるんだ、必ず」初心は真っすぐな瞳を二槍から離さない。「だから、大丈夫なんだよ」
「いや……」
だから、根拠になってないって——そう言おうとしたが、言葉を呑み込む。初心の眼力に負け、目を見つめ返してしまっていたから。いつもはすぐ赤面するくせに、今だけは途方もなく強い意志を感じさせてくる。
有無を言わせないその本気の目に、もうなにを言っても無駄なのだろう、と敗北を認めてしまった自分がいた。
抵抗を諦めた二槍は一度ため息をつき、初心に問う。
「……それで、どうするの? これから」
初心はうん、と頷く。
「とりあえず、うちに泊まってもらう。あの男が帰るまではね。本当は二度と会わせたくないけど、あいつらには」
あいつら、と口にしたとき、脳裏に、二槍を痛めつける叔父や叔母、義妹のことを思い返したのだろう。初心はこめかみを膨らませ、目を鋭くさせていた。
「二槍さんを傷つけるあいつらの存在が、僕は許せない」
相当腹に据えかねている様子だ。それを見て、許せない、腹立たしい、そんなふうに思えなくなっているほど麻痺してしまった自分に、少し同情する。代わりに怒ってくれていると思うと、ほのかに心が温かくなった。それを言葉には出さず手を握って伝える。
と、そこで制服を着た小春が到着した。
「こんにちはー! ……って、え? どんな感じ?」
泣き跡が頬に残っていたのか、顔を見られて小春に心配というか困惑された。初心が事情を手短に説明すると、小春は「任せて!」と胸を張り、二槍の手を握ってきた。これから一緒に初心家に帰るらしい。女子二人、手を繋いで歩き出したが、初心はついてこなかった。
「初心くんは?」
二槍が振り返って聞くと、
「僕はちょっと寄るところがある」
と、並々ならぬ気迫で言われた。その真っすぐに燃える瞳が危なっかしく感じて心配に思えてきたから、なにか声をかけようとしたのだが、それを察知したのか、初心が笑って言った。
「大丈夫。ちょっと報告してくるだけだから」
二槍家の前にたどり着いた。初心は怒りを胸の内に隠しながら、敷地に入る。黒い高級車は駐車場にある。善人の皮を被った悪人が、この家の中にいる。
インターホンを押し、しばらく待つ。ガチャリと開錠の音がして、ドアが開く。予想通り、父親面した人物が顔を覗かせる。
「やあ。……初心くん、だったね。どうしたんだい?」
「ちょっとあなたに言っておきたいことがあって来ました」
睨みつける勢いで父親面した悪人を見る。なにもバレていないと思っているその態度に、憤然とする。半開きのドアを掴む手に力が入る。視線を顔から下げ、男のごつごつした拳を見やる。
「その拳で殴ったんですよね、二槍さんを」二槍の叔父の顔を見る。怪訝そうな顔だった。「その外面、いい加減やめてください!」
まだとぼける気だったので、怒った初心は吠える。叔父は鼻の前に指を立てて、近所の様子を伺いながら、慌てて言った。
「なにを言ってるんだい? 僕が仲美を殴った? ……ありえない。というか、外でするような話ではないね、なにか誤解があるようだから、中で話さないかい?」
「だから、その白々しい外面はやめろって言ってるんだ! お前は、お前らは、二槍さんを奴隷として扱い、暴力と脅しで恐怖させ、自分たちの都合の良いように使ってるクズだ!」
「なにおかしなこと言ってるんだ、虚言を吐くのはやめなさい。ちゃんと話をしよう」
あくまでも初心のことを頭のおかしい青年ということにしたいらしい。二槍を傷つけた頭のおかしい人間はこいつなのに。初心は目の前の男と向き合って話をするのが生理的に無理になってきた。半開きになったドアを閉められないよう、足でストッパーをかける。
「お前らみたいに、人を理不尽に傷つけるクズは嫌いだ! 二槍さんを、お前たちには二度と会わせない!」
もう一秒だって会話していたくなかったから、初心は一方的に宣言して立ち去ろうと思った。
「しばらく二槍さんはうちに住むことになった! もうあの子には関わるな! もうあんたとも話したくないんだ!」
まくし立てるように言い放ち、ドアから身を離した瞬間、それまで黙って初心の話を聞いていた叔父の表情が一変した。
「待て」
いつの間にか伸びてきた手が、初心の腕をワイシャツ越しに掴んでいた。力が強く、腕が痛む。引っ張られ、家の中に引きずり込まれそうになる。
「待ってくれないか。君の言い分は聞いたんだ。今度は僕の言い分を君が聞く番だろ。とりあえずうちの中で話そうか」
力は一切緩めずに、元の柔和な笑みを浮かべて叔父は言った。初心の肩から先が玄関の内側に入る。このままではやばい。初心は恐怖した。これが二槍のことを支配している男の力、とんでもない化け物だ。
なんとかもがいて離れようとするが、とうとう肩、頭まで玄関内に飲み込まれて行く。本当にヤバい、このまま家の中に完全に入ってしまったら、なにをされるか分からない。そう思った初心は、力の限り叫ぼうとした。その、息を吸ったときに、外から声が聞こえた。
「どうしたんだーい?」
初心には見えないが、近くからのものではない。おそらく、近所のおばちゃんの声だろう。殻石家のドアからはみ出る初心の左腕を見つけて不審に思ったのだろう。
光明を見つけた、と初心は思った。
「助けてっ!」
腹の底から、精一杯大声を出した。実際恐怖していたから、真に迫るものがあったはずだ。ちらと叔父の顔を見上げると、鬼の形相をしていた。舌打ちをし、腕を解放された。
ドアを背中で押し、外へ出る。腕を押さえながら、初心は啖呵を切った。
「もうあの子には会わせないからな!」
それだけ言って、初心はその場から立ち去った。
「どうしたのあの子」
初心の背中を見ながら、殻石家の正面に住む老婦が道路を渡ってきた。
「さあ、いきなりうちへきて、ありもしない虚言を吐き始めたので、やめさせようとしたのですが……」
「虚言ってどんな?」
「なんでも、うちの長女を僕たち家族がいじめているとかなんとか」
殻石はジョークを口にしたときのようなポーズを取り、少し笑う。そんなことあるはずがない、とでもいうように。老婦は「まあ」と口に手を当てて驚き、しかめ面を作る。
「なにそれ? あの子ちょっと頭がおかしいのね。殻石さんのことを知ってたら絶対に出ない言葉よ」
「全くです」
苦笑を浮かべながら、殻石は石を握りつぶす勢いで拳を固める。あのガキ、許さない。
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