第14話 この男を、許さない

 大好きな女の子一人助けられないでのうのうと生きていくなんて、不可能だ。助けられなかった後悔が、死ぬまで永遠に頭と心の中に居続けることになる。それは初心の家族も同じだ。だから、この勝負、絶対に勝たなければならない。


 玄関前に仁王立ちしている男の前に初心も立つ。男は歯を食いしばり、額に青筋を立てながら指を鳴らしている。相当怒っているようだが、視線は初心の脇を通り抜けて、背後にいる二槍に向けられていた。


「そうか。そんなにこのへなちょこもやしがよかったのか」


 人を食い殺したことがあると言われても信じてしまうほどに、その男の眼光は鋭かった。初心は向けられた殺気を肌で感じ、心臓の鼓動を強制的に速くさせられる。体中をめぐる血の速度が上がり、全身の肌が粟立つ感覚になる。


「こんなやつのどこがいいんだろうなあ」


 男はこちらを無視する二槍に腹を立てたようで、腰の高さにある下駄箱を激しく叩いた。「なあ!」


 強烈な怒りと憎悪、その黒と赤を混ぜたような危険な色をした感情が、初心の悲鳴を上げる心臓を貫く。恐怖のあまり、一瞬息をするのを忘れる。威圧感のせいで、膝が笑い、腰が砕けそうになる。一ミリも動けない。


 目だけが反射的に音を立てたところに向かい、木製の下駄箱を割り砕き、めり込んでいる腕を見やる。血管の浮き出たその太い腕が、初心に逃走本能を掻き立てさせる。


 木片を撒き散らしながら、男がゆっくりと腕を抜く。その光景を瞬きもせずに目で追っている自覚はあるのに、体はピクリとも動かない。男に勝たなければならない、ここで、気絶させ——


 ゴ、となにか硬いものが初心の頬にぶつかった。と認識する前に初心の右肩が激痛を訴えていた。


「うあっ——」


 反射的に肩を押さえ、呻く声が出る。体が痛みを和らげようと、床を転がる。右肩と側頭部が痛い。泣きたくなるような強い痛みは、壁まで吹っ飛んだせいだろう。初心は片目をなんとか開け、視界に入る男の動く足を捉える。


「負け、るか……」


 男は玄関から二槍のいる方に向かって歩いている。その膝の裏とかかとが見える。這いつくばりながら進み、男の足首を握る。


「まだ、僕は、負けてない、ぞ……」


 重い頭を持ち上げ、真上にある男の顔を見る。男は額に血管を浮かべていた。と次の瞬間、男が体の向きを変え、初心の床すれすれにある顔につま先を向け、蹴ろうとしてきた。


 傍らに座っていた二槍が声を上げた。「やめて!」


 ラグビーのボール並みに首が吹っ飛ぶことを一瞬想像した初心は、二槍の金切り声をトリガーにして腕に力を込めた。掴んでいた男の軸足を引っ張ったのだ。男は振り上げた足を初心の頭上すれすれに振り切り、バランスを崩して尻から派手に転んだ。


 舌打ちして怒りを声に乗せて発する男は、立ち上がって今度こそ初心の頬を蹴りぬいた。初心は後頭部を下駄箱にぶつけ、悶絶する。咄嗟に手で顔を守っていなかったら、歯の何本かはいっていただろう。後頭部をさすっていると、頬に突き刺すような痛みを感じた。


「——っ」


 そこで、先ほど肩に激痛が来たときの理由が遅れて分かった。おそらく男は目にも止まらぬ速さで裏拳を放ち、初心の頬をぶち抜いたのだ。


「チッ、無駄にしぶといんだよてめえ」


 男が二槍に向けていた怒りのエネルギーを、初心に向けた。初心は熱く燃えるような痛みに耐えながら体を起こし、かろうじてまだ働いている頭で考える。


 よし、いいぞ、よくやった、僕。あいつが僕を気絶させない限りは、二槍さんに危害が及ぶ心配はない。あいつはやっぱり、監禁部屋の秘密を知った僕をこの家から出す気はないんだ。だから確実に気絶させて動けなくしてからじゃないと、二槍さんへの仕置きタイムは始まらない。怒りをぶつけ快楽を得るには、初心の存在は邪魔なのだ。


 そう分析した初心は下駄箱に手を突き、痛みをこらえて立ち上がる。


「まだ、僕は気絶してないぞ。かかってこい。ぶっ倒してやる」


 男の眉間に寄ったしわが深くなっていく。


「ああ?」


 体の向きを完全に二槍から初心の方向に変えた。一触即発、そんな空気が正面で睨み合う二人の間に流れる。


「なに言ってんだお前。俺をぶっ倒すだって?」


「ああ、そうだ。お前を倒して、僕は二槍さんと二人でこの家を出て行く」


 言いながら初心はファインティングポーズを取り、ボクシングの要領で半身になる。闘志を燃え滾らせ、自分よりも百倍は強いであろう男の鋭い目を睨みつける。勝つしか道はない。負ければ家族も二槍もこの男に殺される。だから、勝利を手にして最後に笑うために、初心は戦う。


 その闘志とやる気を感じ取ったのか、男はニタア、と笑い、


「いいぞ、やってやっても。俺も昔やってたからなあ、ボクシング」


 同じく胸の前で拳を構えてポーズをとった。


「俺はお前を早いとこ気絶させて、たっぷり仲美にお仕置きしたいんだよ」


 リズミカルに飛び跳ね、シュッ、と言いながらジャブを空中に放つ男。正直、キレが半端ない、と思ってしまった。それに比べて初心のほうは、全身ボロボロで、握る拳にも腕にも力がほとんど入っていない。おまけに人を殴ったこともないときた。これは、誰がどう見ても圧倒的に初心が不利な状況だった。だが、そんな不利は、二槍の心配そうにこちらを見る可愛い顔を見つけた途端に吹っ飛んでいく。知るかそんなもん、最後に勝つのは僕だ。


「お仕置きなんて二度とさせない。二槍さんは、僕のものだ。お前に勝って、二槍さんを返してもらう」


「返してもらうって、元々お前のもんじゃねえよ!」


 その男の咆哮によって、第一ラウンドが始まった。




 ——開戦した直後には、もう初心の脳は二度揺れていた。


 男の放ったジャブと右ストレート、その両方が初心の顔面にクリーンヒットしたからだ。客観的に見て、口ほどにもないというのが今の初心の有様だった。一発の反撃もできずに、床にへたり込んでいる。初心には無論、なにが起きたのかすらわかっていない。それほどまでに圧倒的な力量差だった。


「なんだよおい、手ごたえなさ過ぎだろお前、って、聞こえてないか」


 男は女の子座りの姿勢になっている初心の顔を覗き込み、鼻で笑った。その鼻面に、不意に拳がやんわりと当てられる。


 途端、男が初心の拳を払いのけ、瀕死の少年から距離をとるように下がる。


「なんだ、おい」


 拳をだらりと意思なき人形のように垂れ下げた初心は、白目をむいていた。正真正銘、気絶していた。鼻と口から血を出しながら、黒目のない瞳で男を見据えながら。


「……」


 初心の体力は底をついていた。意識を刈り取られたことで、残っていた火もかき消えてしまった。無意識の中で、揺蕩う白い霧のような景色を見ている。


 このまま気持ちよく天に召されてしまう、と無意識化で進行していく抗いようのない力、その霧のような空間の一角に、ひびが生じた。ひびの中心には外界から投擲させられたと思われる、一本の槍が突き刺さっていた。突き破ってきていた。初心は槍の先端についている尖った石に向かって手を伸ばし、それを力いっぱい引き抜く。ひび割れは広がっていき、外からまばゆい光が漏れ入ってくる。


「——くん! 初心くん!」


「あ——」


 重いまぶたを開ける、という動作をしたことを感じたことで、初心はあれ? と思った。あれ、今、僕、死にそうだった?


 次いで耳に入ってくるその聞き覚えのありすぎる声がする方向に意識を向けると、床に這いつくばってこちらに手を伸ばしている二槍の姿が目に入った。手を伸ばし、涙を流して叫んでいた。


「初心くん! 初心くんっ!」


「あーあ、お前が泣き叫ぶから戻って来ちまったじゃねえかよ」


 低い方の声は、薄っすらと邪悪な笑みを浮かべている男のものだった。辺りを見回し、そこが自分の家ではなく、二槍の家の玄関であることを思い出した。そして、ゆっくりとその場に立ち上がる。


「お、まだやんのか。おいおい、とうとう面白くなってきたよ」


 男は怒りを通り越して、もはや笑えるようになってきたようだった。初心は揺れる視界の中で男を捉え、再びファインティングポーズをとる。


「僕は、まだ、負けてないぞ」意識して、呼吸をする。「お前に勝って、二槍さんを助けだす」


「まだそんなこと言ってんのかよお前、けなげにもほどがあるなあ! 第二ラウンドの始まりだ!」


 筋骨隆々の男の像が大きくなって、衝撃が鼻に飛んでくる。その前に腕でガードしようとするが、間に合わない。再び鼻血が吹き出す。骨も多分折れた。前歯も、もう少しで取れる。


 だが、今回は意識を持っていかれなかった。痛みが、意識をこの世に繋ぎとめてくれていた。二槍の声もよく聞こえる。


 自分がサンドバッグ状態になっているのが分かる。幽体離脱して上空からその景色を見ているような感覚が、今ならわかる気がした。男の容赦のない殴りが、顔だけではなくボディにも飛んでくる。男はどれだけ強い衝撃を与えても壊れないおもちゃを手にしたような、悦びの表情をしていた。連打は続く。


「……ぅ、……ぁ」


 ラッシュとラッシュの間、殴る側の息を整えている間に、初心は喋ろうと口を開き、声を出そうとする。


 思ったのだ。これだけ強ければ、誰だって守れるのに、と。


 こんなに強い武力を持っているのなら、女の子一人を守り育てることなんか、息をするくらいに簡単なことなのではないだろうか。自分には無い力を持っている人が、何故その力を人を傷つけるために使ってしまうのか。悲しくて、痛みのせいではなく、泣けてきた。心から、泣けてきた。


「あ? なんだよ」


 口をパクパクと開けて涙をこぼす初心を見て、男は呼吸を整えながら聞いてくる。初心は泣きながら声を絞り出す。


「……なんで、そんなに強いのに、守ってあげられる力があるのに、傷つけるんだ」


「あ?」


「その力があれば、二槍さんを幸せにするくらい、簡単にできたはずだろ」


 男はジャブを繰り出せる位置にあった拳を下げ、「あのなあ」と嘆息しながら言った。


「幸せにするかどうかは、親が決めることなんだよ。それに、俺はダメなあいつを家族としてしつけてるだけだぜ。よその人間に文句をつけられる筋合いはねえなあ」


 その言葉を聞いて、初心は歯を食いしばって震える。どこにそんな力が残っているのか不思議なほど、怒りによってエネルギーが湧いてきた。


「……親? ……家族? ……しつけ? あんた、なに、言ってるんだ……」


 いい加減にしてくれ。もううんざりだ。そんなたわごと、二度と聞きたくない。それに、今は二槍もこの会話を聞いている。絶対に、聞かせたくないのに。


 初心はありったけの怒りを込めて、父親面するクソ野郎に唾を飛ばした。


「お前なんかが軽々しく、家族とか親とか、口にするんじゃ、ねーよ!」


「あ? まだそんな元気あんのか、よ」


 ぐふ、と口の端から血が漏れる。幾度目かのボディブローが、行き場の失った血液を口から放出させる。それでも初心は、負けなかった。ぐりぐりとねじ込まれる拳の痛みを無視して言ってやった。


「家族っていうのは、お前らと二槍さんの関係に使うもんじゃない! 二度と口にするな!」


「なにをそんなに怒ってるんだか、バカバカしい」


 鼻で笑う男の顔面に、初心は口内にためた血と唾を噴射した。幼児が怒って攻撃するとき、こんな感じなのか、と無力な自分を重ねる。だが、それは力で圧倒的に優っている自負のある男にとっては、なによりも腹立たしいことのはずだった。


「っざけんなあ!」


 汚れた体液を顔から拭い、男が初心のみぞおちに容赦のない一撃を叩きこむ。


「カハァ」


 背中まで貫通したと錯覚するほどの威力が、初心の中心を貫いた。心臓にもらっていたら止まっていたに違いない。背後の下駄箱と挟まれ、内臓が圧死したような気さえする。逆流する胃液やら血やらが喉の奥から押し寄せてきて、それを吐き出すので精いっぱいで息ができなかった。かろうじて気を失わずに済んでいたのは、奇跡としか言いようがない。


 視界が明滅して痙攣するように喘ぐ初心を、男はダンベルを持つように片手で持ち上げ、玄関に放った。ドアに背中がぶつかり、カクンと上体が折れる。玄関のタイルのひんやりとした感触が、尻から伝わってくる。


 二槍が泣き叫んで心配してくれているのが分かる。だから初心は気絶せずに済んでいるのかもしれない。初心は男と二槍を視界にぼんやりと収めながら、苦悶の表情を浮かべる。血反吐を吐きながら、近づいてくる男を見上げる。


「いい加減にくたばれ」


 拳を振り上げた男が、獰猛な爬虫類のような目つきをして初心に迫る。隕石のようにも感じられるその一撃が、抵抗する力が一滴も残っていない初心の頭上から降り注ぎ、脳天をかち割る——その寸前に、少女が男の足に飛びついていた。


「やめてぇ!」


 悲痛な声を出した二槍が、動けないほど痛めつけられた体で、初心を助けるために駆けてきたのだ。痛々しいあざや傷跡が今も彼女の体を蝕んでいるというのに、そのボロ雑巾のような体躯でがっしりと男の足にしがみついている。


 男は「離せ!」と乱暴に足を動かすも、二槍は爪を立て、歯を立てて男の足から離れない。馬が後ろに立ったものを蹴ろうとするように男は二槍を振り飛ばそうとしているが、二槍はがむしゃらに食らいつく。


「なんなんだよてめえ!」


 髪を掴んで頭皮ごと剥がす勢いで引っ張るも、二槍は決して離れない。


「お前は黙ってろよ! こんな奴の心配してんじゃねえよ!」


 業を煮やした男が、とうとう二槍の頬を拳骨で殴った。うめき声を出して廊下を滑っていく二槍を見て、初心は再び無いはずの力を、無理やりどこかからひねり出す。


 だがもう立ち上がる力は本当に残っていない。散々痛めつけられて、内臓までダメージを負ってしまっている。骨も、何本もいっているだろう。動くのは左腕と、眼球、そして脳みそだけだった。


 舌打ちをして荒い息を吐いている男の様子は、なぜか子供のように見えた。窓を割って入ってきたときの腕からの出血や、二槍にしがみつかれてしわがよったパンツ、それらがまるで、見知らぬ土地へ大冒険に行ってきた少年のように思えたのだ。


 だがしかし、それだけではないように思えた。転がった先の床でぶたれた頬を押さえている二槍を睨みつける、その横顔が、なんとなく幼く見えたのだった。初心には、その二槍を見る目が、なにかひどく間違っているような気がした。


「……ぁ」


 ——初心は勝つために必要なピースを見つけた。


 冷たいタイルの上で、まだ動かせる自身の左手を見つめ、初心は最後の攻撃に出る。


「二槍さん……、聞かせたくないこと、言うかもしれないけど……ちょっとだけ我慢してね。これが一番、効果的だと思うから……」


「——あ?」


 なにを言い出すんだこいつ、という目で、男は初心を振り返る。まだ後ろにいる二槍に、殴り慣れているはずの二槍に、動揺している様子だった。初心は柄にもなく、下手くそな冷笑を顔に張り付け、嘲笑うように言った。


「あんた、今、二槍さんに対して心が揺れてるようだけど、どうかしたのか?」


「……あ?」


 図星を突かれた、そう顔に書いてある。男の瞳がわずかに揺れる。やっぱり、と確信した初心は、どこかの名探偵のような、なにもかもお見通し、そんな顔を作って続けた。


「さっきあんたは、二槍さんに対して、『こんな奴の心配してんじゃねえ』そう言った。その後に、こう言いたかったんじゃないか? 『こんなもやし野郎の心配じゃなくて、俺の心配をしろ、俺を見ろよ』ってね」


「さっきからなに言ってんだてめえ」


 男が明らかに動揺しながら、余裕を失った顔で初心の口を黙らせようと近づいてくる。今気絶させられてしまったらどうしようもないので、初心は開いた左手を前に出し、目で男を制す。続けざまにこういう。


「嫉妬。してるんじゃないの、僕に」


「——ああ⁉」


 激怒した男に畳みかけるように初心は言う。


「あんた、好きなんだろ、二槍さんのこと。父親のふりして、歪んだ愛情を与え続けてきたんだ。ちょうど小学生が好きな子にちょっかいをかけるように。気色悪い。あ、今殴りかかってきたらそれを認めることになるから、やめといたほうがいいよ」


 男は歯ぎしりし、初心の見上げる先で目を血走らせている。とどめを刺せないのは、初心の見抜いたことが事実で、それを後ろにいる二槍に知られたくないからだろう。


「そうやって何年も二槍さんを苦しめてきたんだあんたは。自分勝手な気持ちで」


 そこで初心は全力の嘲笑を鼻から吹き出し、男の顔面に糞を塗り付けるような勢いで言った。


「まるでガキだな、あんた」


 目が見開かれ、男の瞳孔すらも開いてきたのがわかった。振り上げた拳がプルプルと震えている。


「おい。もう一回言ってみろ、てめえ、マジでぶっ殺すからな」


 死刑宣告を殺気とともに放った男は、もうブレーキから手を放したようだった。そう感じた初心は、最後の攻撃を畳みかける。


「あんた、いい車乗っていい服着て、愛想もよくて、外面は完璧だけど、中身は小学生以下なんだよ。悪いけど、あんたは俺に一生勝てないよ」


 もう額の血管がはちきれる寸前だった。男の振り上げた拳が今にも動き出そうとしている。完全に理性を失った目つきの男の前で、初心はとどめの言葉とともに、左手をドアノブにかける。


「はは、だって僕は高校生だけど、あんたは大人のフリした小学生以下の『ガキ』だからね」


「——」


 獣の咆哮のようなものを発した男が、初心の顔面目掛けて鉄槌を振り下ろしてくる。同時に初心はドアノブを下げ、後ろに体重をかける。開いたドアによってずれたおかげで、一発目は前髪をかすっただけだった。だが、二発目、理性を捨てた男が、転がる初心の腹を蹴り飛ばした。背中から駐車場に落下する。削れた皮膚の痛みを味わいながら、しかし初心は勝利を確信した。作戦成功だ。


 男は今まで作り上げてきた外面のことなど忘れて、大の字に寝そべる初心に向かって突進してくる。勝利の二文字に笑みを浮かべる初心の上に跨り、人とは思えない奇声を発して初心の顔面を殴ってくる。


 ——助けたよ、二槍さん。


 三発、四発と拳をくらい、初心の意識はそこで途切れる。


 折れた歯や吹き出した大量の血がアスファルトに飛び散る。男はなおも激昂止まず、殺しかねない勢いで殴り続ける——と本気で危ない展開になりかけたところへ、車の陰に潜んでいた初心の祖父が飛び出していった。そして、鍛え上げたその肉体で男にタックルをかまし、初心から引きはがす。背中側から羽交い絞めにして、凶暴な獣を抑え込む。


「やれい!」


 祖父が荒れ狂う、暴れ回ろうとする男を必死に抑え、初心の父親に向かって合図をする。父は手に持った金属バットで男のあごめがけてスイングした。もちろん、骨を割り砕くような力ではない。しかしあごにジャストミートしたバットからはいい音が鳴り、男の動きは一瞬鈍くなる。


「今だ!」


 祖父が地面に男を腹ばいにさせ、後ろ手に両手を拘束する。父が手際よく、園芸用の丈夫な結束バンドを縛り付けていく。二重三重に十字を描くように手首と足首を縛り終え、父と祖父は張りつめていた緊張感を吐息と共に霧散させた。


 


 ——現行犯逮捕。これなら警察官でなくても誰にでも許された権利なのである。いくら祖父が警察官を引退して交番相談員になっていたとしても、交番相談員は手錠を持ち歩けず、令状を取って家宅捜査することもできない。そのため、家の外で、明らかな犯罪行為をしているという状況を作り出さなければならなかった。


 祖父の足下で未だ、陸に揚げられた魚のようにじたばたしている男は、暴力では初心に勝っていたが、作戦では初心に完敗していたのであった。初心の母や小春、一戸や三浦の働きかけによって家から出てきた近所のおばちゃんおじちゃんたちが、しっかりと目撃者の役割を果たしていた。


 殻石家の向かいにある家のおばちゃんが、玄関から階段を降りてこちらの様子を見ていた。口元に手を当てながら、暴れる男の背に足をかけている祖父に向かって、声を飛ばしてきた。


「その人、一体誰なの?」


 おばちゃんは眉を八の字にして、指をさしていた。祖父は、飛び出してくるところから見ていたくせに、と内心毒づいたが、素直に答えてやった。


「ここの主人ですよ」


 嘘、と呟いて道路を超えて近づいてきたおばちゃんが、顔を確認するように上体を傾ける。


「嘘だ……」


 もう一度男の顔を見た感想を呟き、心底不思議なものを見たような顔をした。祖父にはまったくどういうことなのか、いや、もしかしたらこの男、外に向ける面だけは大したものだったのかもな、と感じ取った。


「おいばばあ、なに見てんだあ!」


「おっと」


 足の裏でもがこうとする男は、もう周りからの見え方などどうでもいい様子だった。それの背を踏みつける力を強くし、うるさいので頭も上から押さえつけた。遠くから聞こえてくる救急車のサイレンの音に耳を傾ける。


 傍らに倒れている正直と、家から這い出てきたあざだらけの少女に目を向ける。どちらも重傷だが、孫である正直のほうは特にひどい出血だった。必死に母や妹、ボロボロの少女までが血を拭ったり声をかけたり泣いたりとしているが、祖父にもどうなるかは分からなかった。


「バカ野郎、死んだら絶対許さないからな」


 正直があの少女と共に交番に来たときにかけた自分の言葉を思い出し、そのせいでこうなったのかと後悔はしたくない、だから生きろ、と切に願った。


 と、孫のことで感傷的になっていると、その目に映る、仰向けになっている孫の口が開いた。なにかパクパクと、金魚が餌をもらうときのように口が動き、目も薄っすらと開いた。


 なんだ、生きとるのかい、とツッコミと安心を混ぜたため息をつき、今すぐ駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえて、その様子を眺める。


 正直のすぐ隣で、小春に抱かれて子供みたいにわんわん泣いている二槍に向かって言ったようだった。




「二槍さん……。どう? ……これで、好きになった……?」


 


 意識が戻ると思っていなかったのか、二槍は唖然として一時固まったのち、顔面をくしゃくしゃにして正直の胸に飛び込んだ。


「バカあ、……好きよぅ!」

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