第4話 二槍さんと遊びに行きたい
友達へと昇格した初心は、友達といったら休日に遊びに行くだろ! と張り切っていた。
リビングで流れるテレビをただの風景と認識するほど集中し、考えに考えて、二槍にニャインを送った。すると、明日の午後二時から南体育館で遊ぶことを彼女は了承してくれた。
なぜ体育館なのか、それは、初心が得意な卓球ができるからだった。高校では卓球部がなかったためやっていないが、中学まではわりと本気でやっていた。かっこいいところを見せて「好き!」と思わず言ってしまう二槍を想像したり、「教えてあげるよ」と甘いボイスでみっちり教育し、「先生、ありがとう……好き」と頬を染めながら言う二槍を想像するのもなかなか良かった。
ニヤニヤしていたのを不審に思ったのか、座っていたソファに妹の小春が近寄ってきた。
「どうしたのお兄、そんなふやけた顔して。あと、顔真っ赤だし」
「いやあ、別になんでもないよ~」
「お風呂空いたから、次いいよ」
「おう~」
初心小春は、未だに別れていないらしい兄と二槍のことをよく思っていなかった。先日兄が、「聞いてよ小春、二槍さんとついに友達になったんだよ!」と喜色満面で報告しに来たときは本当に驚いた。と同時に、やっぱり二槍とかいう女は、兄を騙して遊んでいるに違いないという思いも浮かんだ。だって、あの凡以下のお兄だよ。誰とも付き合ったことのないお兄がいきなり超絶美人から好かれるはずがない。しかもうちの学校で、男をポイポイ捨てることで有名らしいしその女。絶対に騙されて裏で笑われているに違いない。
そう思っていたところで、ソファでだらしなく頬を緩ませている兄の姿を発見したのがついさっき。兄が入浴したのを確認した後、テーブルの上に無造作に置かれている兄のスマホを手にとった。兄の暗証番号は兄以外の家族の誕生日を組み合わせたものだと知っていたので、なんの躊躇もなくロックを解除し、ニャインを開いて中身を見た。
「明日の二時から南体育館……」
二人の仲が進展していけばいくだけ、実は遊ばれていただけと知った時の兄のダメージは大きくなる。別にブラコンではないが、心配ではあるのだ。
自然消滅を望んでいたが、そうもいっていられない。私が明日、二槍なにがしの本性を暴いて、兄と別れさせてやる。
翌日。土曜の昼過ぎだった。当初は二時に南体育館で待ち合わせだったが、できるだけ長く一緒にいたいと初心が伝えたところ、三十分ほど早く、二槍の家の前で待ち合わせすることになった。のだが……。
「なんでお前ついてきてんだよ」
「別にいいじゃん、うちの自由でしょ」
初心の隣には私服姿の小春が当たり前のように立っていた。
「お前さあ、もしかしてまだ二槍さんのこと僕から遠ざけようとしてるんじゃ?」
「そうだよ、お兄は遊ばれてるから、うちがガツンと言って性悪女を追い払ってやるんだから」
そんな言い合いをしているうちに、約束の時間が過ぎた。時刻は午後一時半すぎだった。
「遅れてくるなんてサイテー」
小春は吐き捨て、スタスタと二槍家の玄関に向かって歩いていった。
「だめだよ! ここで待つって約束なんだから」
「インターホンくらい押してもいいでしょ」
「いや、それは……」
初心は昨日のニャインの続きを思い出していた。二槍の家で一時半に待ち合わせとなった後のことだ。
『早く来すぎないで、時間ピッタリに来てね。私はちょっと遅れることもあるかもしれないけど、必ず行くから。それから、インターホンは押さないでね』
なぜだかわからないが、インターホンは押すなと言われていた。理由は分からないが、押すなと言ったのだから押すつもりはなかった。
ピンポーン。
そんな事情などつゆ知らず、小春は二槍家のベルを鳴らしていた。とすぐに、ガチャリとドアノブが下がり、中から二槍が出てきた。顔だけがひょっこりと見えた。
「あ」
運動するからか髪をアップにまとめて普段と違うキュートさがにじみ出ていた。二槍は、なにかまずいことをやらかしてしまった幼稚園児みたいな表情をした。小春と見つめ合って動かない。
「それ、うちの妹……ハハッ」
約束を破ってしまったことで後ろめたく思った初心は、乾いた笑いをもって二槍に挨拶する。ちわっす、と挨拶する小春。二秒ほど固まってから状況を把握したのか、二槍が動き出した。いきなり大声を出した。
「宗教? いや、うちはそういうのは興味ないんで! すみません!」
バタン、と勢いよくドアを閉めた。それから少しドアを開けて、隙間から小春に向かって、
「ちょっとあっち行って待ってて、ごめんね」
と小声で断りを入れた後、再びドアを閉めてしまった。
「どゆこと?」
「さあ?」
首をかしげて意味不明だよという顔を向ける小春に対し、初心も同じポーズを返した。
二分くらいたった後、二槍が何事もなかったかのように玄関を開けて出てきた。軽く質問するが、見事にはぐらかされた。聞かれたくないことなのだろう。無理に聞き出すことでもない。
南体育館に移動する間、小春は二槍に敵意をむき出しにしながら口撃をしていたが、二槍はことごとく躱し、逆にそんな小春を可愛がっている様子だった。さすがは二槍さん。
体育館に着き、早速卓球場に入って準備をする。薄いピンク色のTシャツに、通気性の良さそうなスポーツ用の短パンを履いている二槍を見て、初心は興奮した。細くすらっとした手足は遠目から見ても分かるほどすべすべつやつやで、美人は肌の質から違うんだな、と思った。おでこを露わにして、後ろで一つ大きなお団子を作っているようなヘアースタイルも似合っている。ちらりと見えるうなじがこれまた絶品で、変な気さえ起こしそうになった。
「よしょ、っと」
屈伸したり手首を回したりしているそのむき出しの肢体はほっそりとしているのだが、布に隠れている上半身には視線が釘付けになってしまう危険なふくらみがある。まったく、神様はなんてすばらしいんだろう。前までは自身の容姿を神様のせいにして、パーツ間違えすぎだよ神様、とか思っていたのだが、今二槍の完璧すぎるスタイルを目の当たりにしてからは、感謝の言葉しか出てこなかった。
準備運動を終えると、軽く打ち合いを始めた。初心と小春がダブルスの要領で、ネットを挟んだ向こう側には二槍がいる。か、可愛い、好き……。自分の目がハートになってないか心配だった。
初心と小春がポーンと優しく打ったピンポン玉を、二槍もぎこちない動きでふわふわと打ち返してくる。長くラリーが続いたとしても五、六回くらいだ。全くの素人のようだった。
「ごめんね、へたっぴで」
「いや、そんなことないよ」
小春の手前もあってか、今日の二槍はニヤニヤ顔を見せてこない。人前でするお利口さんモードに徹している。隣を見ると、小春はつまらなさそうな瞳を向けて二槍を見ていた。アハハと楽しそうに笑って打ち返した二槍のボールを小春は強めに打ち返していた。あ、また二槍さんがピンポン玉を取りに行っちゃう。
球拾いも楽しいよと言いたげなオーラを出して台に戻ってきた二槍は、
「ねえ、初心くん、初心くんってもしかして卓球やってたの?」
初心の服装を見て聞いてきてくれた。わざわざ中学の時のユニフォームを着てきてよかった。
「そうだよ、僕、中学まではバリバリの卓球部だったから」
バリバリってなんだよ、と小春が横から言ってくるのを無視して、いいボールを投げてくれた二槍に、昨日妄想していたシチュエーションに持っていくためのセリフを投げ返す。
「二槍さん、良かったら教えようか?」
「え、いいの⁉ やったー!」
よしよし。自然な流れで惚れさせチャンスをゲットしたぜ。初心は内心ほくそ笑む。
飛び跳ねる仕草もいちいち可愛かった。
「初心くんに教えてもらえるなんて、嬉しいな」
いつもならそんな素直な感じで言わないくせにー、とか思う気持ちなど放っておいて、初心はデレデレしながら二槍がいるコートに移動した。再びラリーを開始する。
小春が初心のほうにだけ強めに打ってくる。一球取り落とすと、鼻で笑われた。調子に乗るなよお兄、と目が言っていた。
だがそんな小春の強烈な返しに対して負けじと打ち返していたからか、隣にいる二槍が肩をツンツンしてきた。
「初心くんってホントに上手なんだね」
首を回すと、眼前には天使が降臨していた。運動のせいか、ほんのり朱に染まる頬もあいまって、思わずキュンキュンくる。
そんな可愛い顔で褒められると、鼻の穴の広がりを抑えることができない。
「え、そ、そうかなあ」
と頭の後ろをかいた。
「うん、ほんと上手だよ。……ねえ初心くん、私に色々教えてほしいな、もっと……」
薄桃色の双丘の前にラケットを這わせ、上目遣いでそう言われた。危うく鼻血が出るところだったが、気合で押し止め、代わりに初心はやる気を出す。
妄想した通りの展開じゃないか、よし、ここで頼りになるところとかっこよさを見せつけて、好きだと言わせてみせよう。
初心の妄想が始まった。
ピンポン玉を持つ二槍の手の下に、体を覆うように背後から手を回す。ラケットを持つ右手の細い手首も軽く握る。そして甘い声を二槍の耳元で囁くのだ。
『そう、こうやって』(イケボ)
『こ、こうですか……?』
あまりのイケボにくすぐったさそうに肩を耳に近づけながら答える二槍。そんな二槍の華奢な背中側から、ピンポン玉を二槍の手ごと持ち上げ、球を浮かせる。そして右手に持ったラケットを操作し、相手コートに打ち込んでやる。
『そう、今の感じ』(吐息ボイス)
『す、すごいですね先生……。教えるの、上手です……』
『いつまでも恥ずかしがってたらダメだよ。次はもっと足腰を使って打ってみようか』
『はい先生……』
初心は彼女の滑らかな柔肌から手を離し、くびれた腰に手を添える。
『きゃっ』
二槍がびくっと少し跳ねる。腰を触られたことに驚いたのかもしれない。
『先生、それはちょっと……』
桜色に染まった頬と、潤んだ瞳で後ろを振り返ってくる二槍。
『どうしたんだい? まだまだこれからだよ』
『そんな、先生……っ』
……といった妄想をしていた初心の目は、完全に変態親父のそれとなっていた。グへへグヘヘとゲスな笑い声が漏れ出ていなかったことは幸いだった。いつの間にか好きになってもらうという目的も忘れ、ただひたすらにエロい妄想をしていたことに、いかんいかんと初心は現実に戻った。
小春がこっちを睨みつけていた。横にいる二槍は「どうしたの?」と言って小首をかしげて待っている。
「そうだった、よし、教えようか」
気を取り直して初心は二槍の正面に向き合い、指導を始めた。妄想の通り背後から密着して指導、というのはさすがに無理だ。
「サーブはどうやって打てばいいの?」
「うん、自分のコートにワンバウンドさせるように打って、相手コートに入れればいいんだ」
実演してみせる。
「こう」
わかりやすいように山なりに打つが、小春からのリターンは容赦がない。わざとやっているのだろうか。鋭い打球が初心の腹にぴちっと音を立てて当たる。痛かったが、とりあえず無視しておいた。
「初心くん、それくらいは知ってるよ~? なんかこう、コツみたいのってないの?」
「ああ、そっか」初心はネットを指さす。「ネットすれすれを狙って打つと、相手は返しにくいんだ。だから、——こう」
「おお~、すご~い!」
尊敬の眼差しを初心に向けてくる。またも小春からの返しが強烈だったが、おなかで受け止めた。
「じゃあ、二槍さんも一回やってみてよ」
こくんと頷いた二槍はピンポン玉を手に取り、初心の真似をして上に放り投げた。落ちてきたところをラケットで打ち、か弱いサーブを放つ。
「こう?」
「いや、ちょっと……。もうちょっと腰を落として、手だけで打つんじゃないんだ」
「え~わかんないよコーチ~、どうやってやるの? ちょっと持ってみて、動かしてみてよ~」
「ええっ⁉」
瞬時に妄想した情景を思い返し、二槍のくびれた腰に手を当てている自分を想像して恥ずかしくなる。
「なに驚いてるの? 普通のことでしょ?」ニヤニヤ。
まさか今からあんなエロいことするのか⁉ と自分でした妄想なのに動揺を隠し切れない初心は、二槍の笑みがいつものニヤニヤ顔に戻っていることに気づかなかった。
二槍の手を正面から恐る恐る握る。一度その状態から手をサポートしてサーブを打ってみるが、向かい合って指導してみると難しく、うまくいかなかった。宙に浮いたピンポン玉が、ラケットにかすることなく床に落ちる。
二槍は真摯な生徒の顔つきで言う。
「後ろからやった方がやりやすいんじゃない? 自分の動きと連動するから。ね?」
エロに脳を支配されている初心は、何も考えずに返事をした。
「う、うん。それもそうかも……」
初心は二槍に導かれるまま彼女の背後に回り、妄想と同じような位置に立つ。そして、ドキドキしながら後ろから手を回し、二槍の手首を触る。
「えっと、手はこうで、腰はもうちょっと落として」
「こう?」
二槍が腰を落としすぎてヒップが初心に当たる。エビの要領で後ろに思わず飛び跳ねる。
「ちがっ……」
「ねえ、触って動かしてよ」
初心がつい離れてしまったので、咎めるような目つきを二槍が向けてくる。初心は覚悟を決めた。背後から二槍の手を取り、彼女が沈むと同じように初心も沈んだ。初心から見ると二槍のうなじからヒップにかけてのラインは、実に官能的な曲線美だった。思わず腰を抱き寄せてしまうような体勢になりながらも、なんとか自制して指導を続けようとするが、
ニヤニヤ。
二槍の小さく整った顔がゆっくりと初心の方を振り向き、いつもの顔でこう言った。
「あれ~? なんかエッチな目つきになってない~? もしかして初心くん、今エッチなこと考えてた~?」
「い、いや⁉」
「ほんとかな~?」
くりくりした大きな瞳を二槍は近づけてくる。目がきょろきょろと動き、二槍のほうを正視できない初心は彼女の圧に気おされ、後ろに倒れてしまう。それでも二槍は初心に覆いかぶさるようにして四つん這いで迫ってきて……。
「ウソ、だって初心くん顔真っ赤じゃん」
迫ってきた二槍の大きな膨らみが初心のおなかのすぐ上で揺れて——、
その瞬間、羞恥と尊さと可愛さとエロやらなんやらが初心の心の中をかき乱して、
ボフッ!
熱さの許容量をはるかに超えた脳内が爆発した。目がちかちかする。
「初心く~ん……」クスクス。
クスクスがだんだんくつくつに変わり、やがて我慢しきれなくなったのか、二槍はラケットを放り出し、思いっきり笑った。
床をバシバシ叩きゲラゲラと笑う二槍を、初心は熱でぼんやりとした視界に収める。そして頭の中で叫ぶ。いつもの二槍さんに戻った~! ま、またやられてしまった~!
ひとしきり笑った二槍が落ち着いた頃、初心の顔面の温度も元通りになっていた。中断してしまっていたラリーを始めようとして二槍と二人再び台に戻り、小春のほうに球を放る。がしかし、その球は放物線を描いて台の上を跳ねていき、小春の傍らを通って転がっていった。
「どうした?」
初心が聞くと、小春は顔を下に向けてなにやら黒いオーラを出していた。肩をフルフルと震わせている。
「どうしたもこうしたも……。やっぱお兄、遊ばれてるだけじゃん……」
きっ、と初心のほうを睨んだと思ったら、次は二槍に向かってその鋭い視線を向けた。
「二槍さん、卓球で勝負しましょう。うちが勝ったらお兄と関わるのをやめてもらいます」
「え? え? ……どうして、かな?」
「いきなりどうしたんだよ小春」
困惑する二槍を庇うように、妹に問う。だが、もしかしたら、と初心は思う。はたから見たら今のやり取りは、二槍が初心を遊んでいるように見えたのかもしれない。いや、まあ実際そうなのだが。しかしこれが二人の今の距離間で、お互いに心地いいからやっているだけなのだ。それが周囲には伝わらないのは仕方ない。でも、決して二槍が男を弄んでいるわけではない、と小春に説明しようとするも、妹に先を越される。
「どうしてって、大切な家族が悪い女に騙されて遊ばれているからですよ、先輩」
「なに言ってるんだ小春!」
「——お兄は黙ってて」
小春の勘違いと口の悪さに怒りを感じて声を上げたが、手と目でもって制されてしまう。
「私は別に、騙して遊んでいるわけじゃないよ」二槍が言う。
「じゃあ天然なんですね。どっちにしろ、うちから見たらお兄の気持ちを弄んでいるように見えます。はっきり言って、不快です」
「いい加減に……」
さすがにそれは言いすぎだ、と立腹する初心。しかし言葉尻を切るようにして遮ったのは、誹りを受けた側の二槍だった。
「待って」
隣にいた二槍が真剣な表情で止めたので、怒りを腹の中にしまう。
「別に私はそういうつもりじゃないけど、まあ、いいよ。身内が変な人とお付き合いするのは、私でも嫌だと思うし。——勝負しよっか」
「え⁉ 二槍さん!」
やめたほうがいい、と止めようとする初心の目に飛び込んできたのは、二槍の器用なウインクだった。大丈夫、そんな意思が伝わってくる。それにそんな整った容姿でそれをやられては、退かざるを得ない。可愛い横顔は妹に言った。
「でも、条件がある。私が勝ったら、私と初心くんとの仲を認めてもらう。それと、小春ちゃんと私も仲良くなる。この二つが条件」
「二人の仲を認めるのはいいですが……」
「なに? 負けるのが怖いの?」
二槍は安い挑発を投げた。小春は二槍と仲良くするという条件を飲むか渋っている様子だったが、挑発が効いたようで、敵意を宿した瞳を向けながらも了承した。
「怖くありません。いいでしょう、うちが負けた時には、先輩とも仲良くなってやりますよ。ま、そんなことは絶対ないですけどね」
小春は念押しするようにもう一度言った。
「こっちが勝ったら、お兄と関わるのをやめてもらいますからね」
勝負が始まろうとしている。初心はその光景を目にしながら、なんなんだ、このバチバチピリピリした空気は……、と一人怯えていた。
「あ、そうだ、素人の私と同じというのはいくらなんでもだから、ハンデとして十センチネットを狭くしてもらおうかな。これくらいいいでしょ? 小春ちゃん」
「まあいいでしょう」
真ん中にあるネットを、二槍側に十センチずらした。二槍のコートが狭くなり、小春のコートが広くなった。狭いところに入れなければならない小春にとっては不利な戦いになる。初心は審判役として卓球台の横に立って指を構えた。
十一点マッチ、一セット先取で行うことになった。
両者は今、初心の前で試合前のラリーをしている。二槍が下手過ぎてラリーになっていないのがとても心配だ。
絶対に負けるはずがないと余裕綽々の小春は、現役卓球部だった。しかも、入部してすぐにレギュラーに入った正真正銘の強者である。初心も中学までは卓球をやっていたし、実際に対戦したことがあるのだが、一回も勝てたことがなかった。中一の妹に中三の兄が勝てないほどだったのだ。見ていない間にどれだけ成長しているのかはもはや計り知れなかった。
ラリーが上手くできないことに腹を立てたのか、小春が素早い動きでピンポン玉を弾く。二槍はラケットを振るが十センチくらいもボールとラケットの間に隙間がある。その光景を見ると、ハンデがもっとあった方がいいのではないか、と思ってしまう。
準備運動を終え、とうとう試合が始まった。二槍のほうをちらと窺う。どこから湧き出てくるのか、自信満々な表情をしていた。なにか秘策があるのだろうか。というか、なかったら困る。負けたら二槍との関係が終わってしまい、今後一切仲良くすることができなくなるからだ。小春はその辺り、とてもうるさいのである。勝負の上での約束事には特にうるさいのである。え、二槍さん、もしかして約束を反故にする気なのか⁉
この中で一番緊張しているだろう初心の前で、じゃんけんに勝った小春からサーブが始まった。二回打ったらサーブ権が移動するルールだ。
容赦のない鋭いサーブと回転をかけて返しにくいサーブを一本ずつ放った小春の球に、当然ながらついていけない二槍。早速二点を先制されてしまう。しかし変わらず二槍の表情はやる気に満ち溢れている。
二槍のサーブ。回転もなにもかかっていない山なりのボールを小春陣地に飛ばす。ルールは分かっているようで、ちゃんと自陣にワンバウンドさせてから相手コートに入れられた。だが容赦のない小春はこれでもかというほどに殺人スマッシュを放ってくる。三点、四点と得点をつけられていく。
どうするんだ二槍さん、負けたら僕との関係を断たれるんだよ⁉ そんなこと、二槍さんだって嫌なはずだ、よね……? なにより、負けると分かっている試合を受けるなんて、二槍さんの性格からしてあり得るのか? おかしい、絶対おかしい……。
小春にサーブ権が渡り、強烈なサーブを打ってくる。二槍のラケットが初めて球を捉え、しかし場外に飛んでいってしまう。ふう、と息をついた二槍は、最初より前のめりになり、小春の手元に集中しているようだった。二球目のサーブ、今度はネットすれすれのスピンがよく効いたボールである。先ほどはかすることもなかったのが、今度は偶然にもラケットの真ん中で捉え、回転に負けずに見事に小春の陣地に返した。驚いて眉をピクリと挙げる小春はしかし、すかさず打ち返してまた得点を積み重ねる。これで六対零。あと五点取られたら二槍の負けが確定してしまう。
後ろに飛んでいったピンポン玉を拾ってきた二槍は台の上にラケットとボールを置いて、半袖の袖をノースリーブ服のように肩までめくった。気合十分、といった顔つきを崩さないまま、
「よし、だんだん慣れてきた」
と呟いた。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐きだした。
二槍のサーブ。いきなりギアを上げたように、動きがよくなった。ボールを上にトスして、落ちてきたところを打つ。低い軌道を描いたボールは小春の利き手の反対方向に飛んでいき、小春はバックで対応した。いきなりの速いサーブに驚いたのか、小春のリターンはネットに阻まれてしまった。
「い、一点……」
二槍側の指を初めて折り曲げた。六対一。
「よ~し! もう完璧に分かっちゃったもんね~」
「ま、まぐれでしょ」
次も角を狙うサーブで一点を再びとった二槍は、その後もあろうことか小春の容赦のない攻撃を捌きだす。ネットが狭まった小春が不利なこともあって、二槍の得点は止まらない。もうこれは、明らかに経験者の動きだった。二槍は、自分が卓球経験者であることをずっと隠していたのだ。
途中で文句を言いながらも食らいつく小春の得点が八点になったとき、二槍は十点をとっていた。マッチポイントだ。
「約束は守ってもらうからね、小春ちゃん」
「ちっ、くそ、ずる女」
小春が舌打ちし、悪い顔で暴言を吐く。
自身に悪口を言われるのは慣れていた初心だったが、大切な友人に矛先が向くのは、許せなかった。だが今は試合中、なんとかこらえる。二槍が隠していた実力を出してから、小春は何度も汚い言葉を使っていた。歯を噛みしめながら怒りを抑えつつ、得点を数えていく。
マッチポイント。二槍にサーブ権が渡る。油断なく小春のコートを見つめ、息を短く吐く。プロ選手のような姿勢から、ボールを上空に放る。自由落下してきた球を、猛烈な回転をかけて打った。
小春も勝負に負けたくないという強い気持ちが表情に出ており、必死な形相でそれに食らいつく。二槍の陣地に打ち返すことには成功するが、チャンスボール、つまり球が浮いてしまった。そこを見逃さず、二槍は態勢の崩れた小春とは反対側のコートにスマッシュを打ち込む。
「——しッ!」
見事着弾した球は小春の伸ばすラケットの先を通り抜けて、後ろのコートにまで飛んでいく。初心は指を折り、試合終了を告げた。
「十一対八、二槍さんの勝ち!」
ガッツポーズをした二槍が、満面の笑みで初心にハイタッチを求めてくる。パチン、と勢いよく叩いた手のひらは、汗ばんでいた。真剣にやっていた証拠だ。最初から負けるつもりはなかったのだろうが、小春が強かったからか、手に汗握る緊張感を伴っていたのかもしれない。
「いえいいえいいえい!」
雪が積もった時の犬のように二槍がはしゃぎ出す。それを見て、つい頬が緩んでしまう。対照的に静かな小春のほうを見ると、床に手をついてうなだれていた。前髪の隙間から悔しがっている様子が伺える。
「小春ちゃん、約束は守ってもらうよ!」
二槍が小春の前まで歩いていき、手を差し出した。約束というのは初心との関係を続けることもそうだが、今言いたいのは小春と仲良くなるという後者のほうだろう。しかし差し伸べられた手を、小春は無視し続けた。
「……」
たしかに納得いかないのは分かる。小春が悔しいのも分かる。二槍が最初から手を抜いていなければ、勝負を仕掛けることもなかったかもしれない。絶対に勝てると思ったからこそ小春は勝機と見て、勝負を仕掛けたのだ。だが賢い二槍は、それすらもおそらく看破していたのだ。こうなることを予測して、下手なふりをしていた。勝負を仕掛けたときにはもう決着はついていたのだ。
体育館に来るまでの会話で、小春が二人を離れさせたがっていることに気づいた二槍は、手札を隠しておいた。いや、あえてそこに誘導したのかもしれない。いずれにしろ策にはまった小春が負けたのは二槍が上手かったからで、小春はそこも含めて分かっているだろう。馬鹿ではないのだから。
「ずる……」
しかし小春は我慢ならないようだった。
「ずるした……、この性悪女、女狐、ビッチ、クソ卑怯者!」
差し伸べられていた手を強い力で振り払い、憎悪のこもった瞳で二槍を睨みつけていた。
「騙しやがって、このバカ女! クズ女! バイ菌野郎!」
「いった……」
振り払われた勢いのまま、二槍の手の甲が卓球台の角にぶつかっていた。軽くすりむき、赤いものが見えた。その瞬間、今まで押さえつけてきた怒りが爆発した。
初心は歯をすり潰す勢いで噛みしめ、爪が食い込むほど拳を握り締めた。小春のほうに向かってのしのしと歩いていき、
「小春!」
周囲の目などお構いなしに怒鳴り散らす。
「なんだ今の暴言は! 人に言っていい言葉じゃないぞ! 今すぐ謝りなさい!」
じろ、と初心を睨んだ小春は、逆上する。
「うるさいなぁッ! こっちくんな!」
近寄るな、と振り払った細腕を初心は掴み、思い切り握りしめて引き寄せる。顔と顔を近づけ、激怒した。
「勝負に負けたのはお前だろっ! 実力を隠すことだって作戦の内だ、別にずるくなんかない! それを負けたからって相手に暴言吐くなんて、お前はスポーツマン失格だ! もう卓球なんかやめちまえ!」
「はあっ? なに言ってんの——!」
「お前は勝負に負けたんだよ! 悔しいからって、相手を傷つけていい理由にはならない! さっきの言葉を取り消して、きちんと謝りなさい!」
「……初心くん、そこまでしなくても私は平気だよ?」
二槍が手の甲を押さえながら、心配そうにこちらを見ている。周囲で卓球をやっていた人たちも初心たちに注目している。だがそんなのは関係なかった。
「いいやダメだ。どんな理由であれ、人を傷つけてはならない。ましてや、僕の大事な友達に対して。絶対に謝らせる。——小春!」
小春を立たせて、二槍のほうに押し出す。本気で怒っていることが伝わったのか、小春はもう反撃してこなかった。それどころか、涙をこらえるように瞬きが多くなっている。目の周りと小鼻を赤くしながら、二槍の前まで行く。
兄に怒られたことへのいら立ちはすぐには消えないのだろう。しばし下を向いて時間をかけてから、小春は二槍に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。……ひどい言葉言って、それに、手まで怪我させてしまって……」
「ううん、大丈夫。手も平気だから。……私も、騙すようなことしてごめんね」
二槍の言葉に対し、頭を深く下げたままかぶりを振る小春。騙しててごめん、というセリフに反応したのだろう。勝ちは勝ち、負けは負けなのだ。それを、初心の妹は良く分かっている。
二人の様子を見守って、周りの人達もほっと一息ついた。注目が薄れ、一件落着したところで、初心はそろそろ帰ろうか、と言おうとした。
二槍がいきなりパン、と手を叩き、それから小春の肩に手を置いた。
「小春ちゃん、やっぱりさっきのはちょっとずるかったからさ、もう一回真剣勝負しようよ!」
二槍の提案に、顔を上げた小春が何度も目を瞬かせる。初心も同様だった。
「……え? もう一回やるの?」
兄妹二人して驚き、二槍の快活な顔を見る。女神は晴れ晴れしい表情に白い歯を浮かばせていた。
最初の条件もそのままでいいと言って始まった第二回戦。二槍は、今度は最初から全力を出していた。そのキレキレの動きで今度も小春を圧倒する、わけではなく、中々の接戦だった。
「さすがにブランクあるね」
煌めく汗を爽やかに散らしながら、ラケットを握る天使は微笑む。今回はネットの位置も真ん中に戻してハンデはない状態だ。ピンポン玉が右へ左へと忙しく跳ね続け……。
結果、小春が十一対九で勝利した。
ああ~、とラケットを額に乗せながら倒れていく二槍は、そのまま床に仰向けになって息を切らしている。
「ごめん初心くん、負けちゃった……」
「そう、だね……」
やはり二槍の言った通りブランクがあったみたいだ。ハンデなしで普通に戦ったら、現役卓球部に負けるのも無理はない。がしかし、約束は約束だ。小春の要望により、二槍と初心は今後関わることを禁じられてしまったことになる……。
なんとか接戦の末勝負に勝った。二槍さんは相当強かった。きっと現役だった頃なら、小春と同じで全国大会に出場していただろう。そのくらいの実力だった。
勝負事にはうるさいと自覚はしているのだが、一回戦目で負けたときにあんな醜態をさらしてしまった自分にそんなことを言う資格はもうない。フェアじゃない、と二槍が最初の条件のまま第二回戦を初めて、その試合に勝ったのはいいが……。
小春はネットを挟んで正面にいる兄貴の横顔を見る。床に仰向けになる二槍のことを、寂し気な表情をして見つめている。初めてできた彼女? みたいな人だけど、小春は兄がいつも真剣に恋しているのを知っていた。たとえ相手が遊んでいるだけなのかもしれない女だとしても、それをこんな形で無理やり別れさせるのは違うのかもしれない。そんな思いが、小春の中に生まれていた。それほど、初心は悲しそうな、今にも泣きだしそうな顔に見えたのだ。
でも……。
本当に弄ばれているのなら別れさせた方がいい。この考えは間違っていないはず。だって、あんな高嶺の花が兄を好きになるはずがない。別に兄貴が好きとかではないけど、家族は大事だ。変な女に騙されて傷ついてほしくはない。だから、話を聞いた時から機会があれば別れさせようとは思っていた。
心の中ではこのまま別れさせることにしよう、と決めていたのだが、今卓球で真剣勝負をした自分の感覚に問うてみると、別の答えを言っているのだ。
——必死な目だった。絶対に負けたくないという意思が、たしかに伝わってきた。
負けたら兄と別れなきゃいけないのが嫌だから? それとも、ただ負けず嫌いなのか。
否、後者であるとは思えない。二槍も、ああ見えて初心のことを大事に想ってくれている、ということだろう。なんとなく、分かる。女の勘だ。
「あーあ、初心くんとお別れかー。寂しくなるなー」
「……うん」
「そんな泣きそうな顔しないでよ初心くん~、もう~」
そんな会話をしている両者の間に、小春は割って入っていく。ん? とこちらに気づいた二槍が上体を起こしたので、耳に手を当てて兄貴に聞かれないように小声で話した。
「今の試合、なんであんなに本気だったんですか?」
「……」
耳から顔を離すと、意図を探るように綺麗な瞳を向けてじっと見てくる。負けて兄と別れるのがそんなに嫌だったんですか、それはなぜですか、という少し意地悪な質問だった。でも小春は、それを彼女の口からちゃんと聞いておきたかった。
「それはね……」
二槍が耳打ちしてきた。
「本気だから、だよ」
パッと二槍の顔を見ると、にこっと屈託のない笑みを浮かべていた。気のせいかもしれないが、頬に朱が差しているような気もした。
「仕方ありませんね。なら、今回の勝負はなかったことにします。元々はうちが負けた勝負でしたし、それに、なにか勘違いしていたみたいですし……」
「小春、それ本気? じゃ、じゃあ……」
兄貴の嬉しそうな顔を見ると、鼻から吐息が出てしまう。
「そ、うちはお兄と二槍さんの関係を認めます。二言はありません」
「こ、小春~う」
あれだけ勝負の約束は守れ、とか言ってたくせに……、とは思うが、兄の心底嬉しそうな泣き顔を見るとそんな憎まれ口もおなかの中で消えてしまった。
ポン、と頭の上に手が置かれた。横を振り向くと、二槍が慈愛の眼差しで見つめていた。
「なんだ、やっぱ小春ちゃん、めっちゃ良い子じゃん。ありがとね」
そんな可愛い顔で言われてしまっては、こちらも頬を緩めるほか反応のしようがないのだ。その後の二人の様子を眺めていて、その笑顔を見ていて思った。お兄、いい人見つけたね。
体育館から出て帰るとき、気づいたら小春はもう先に帰ってしまっていた。二槍と二人、体育館の自動ドアをくぐった外にいる。意外にも長く遊んでいたのか、もう空気が夕方になっていた。赤い夕陽が斜めに照らしてきている。
かいた汗が風になびかれて乾いていくのを感じながら、初心と二槍は並んで帰路につく。
「いや~、意外だった、初心くんがあんなに怒れる人だなんて。正直びっくりしたよ~」
「ご、ごめん、いきなりあんなに怒鳴っちゃって」
「ちがうよ、褒めてるの。人をちゃんと怒れるって、なかなかできないことだよ、すごいと思った」
まっすぐ見つめてくるそのきれいな瞳は、いつものふざけてからかってくるものとは違い、一瞬しか直視できなかった。
「そうかな。まあでも、僕にとって小春は大切な家族だから、あいつが間違ったことしてたら、正してやれる兄でいたいな、とは思ってるけどね」
「そっか~、お兄ちゃんしてるんだね、ちゃんと」
身近な人が他人を傷つけたり間違った方向に行こうとしているのを、見過ごすわけにはいかない。それは、父と母が初心に教えてくれたことだ。
「小学校の時ね、僕、友達にきつい言葉を言って泣かせちゃったことがあってね。そのとき、お父さんがびしっと叱ってくれたんだよ。今日の僕みたいにね。その後、お母さんには、傷つけた相手に心から謝ることの大切さを教わったんだ。だから後で謝りに行ったとき、僕は心から友達に謝ることができた」
両親が間違った初心を見過ごさず、ちゃんと怒って正してくれた。
「だから今、僕も同じことを小春にしているだけなんだよ」
「……うん。そっか……」
涙声になっているような気がしたから横を向いたら、二槍の頬に涙が伝っていた。鼻をすすり、眉をハの字にし、涙をぬぐった。突然のことに驚いて初心はちょっと焦った。
「ど、どうしたの?」
「うん、ごめん……。いや、いいな~と思って、初心くんの家族」
「そ、そう?」
「初心くんが今こうしてさ、初心くんでいられるのは、きっとご家族のおかげなんだなって思ったらなんかじーんときちゃって。ふふっ」
心の琴線に触れるものがあったのだろう。こんな些細な話で泣けるなんて、二槍さんは絶対いい子だな、と初心は確信を深めた。
「あ、そうだ、今度うちにおいでよ! 母さんが会いたい会いたいってうるさくて」
「初心くん、おうちで私のこと話してるの?」
「うん、……え?」
「そっか~」ニヤニヤ。「初心くん私のことほんっと好きで好きでしょうがないんだ~」
「そ、そうだよ?」
カアア、と赤くなっていく感触を久しぶりに感じた。嬉しいオーラ満開の二槍がとびきりの笑顔で、
「じゃあ、今度行こうかな、挨拶に!」
「挨拶って、つまり……?」
お付き合いさせてもらっている二槍と言います、彼女です、私の大事な人です、みたいなことか……?
「いや~、さすがに気が早いよ初心くん~。なに考えてるか筒抜けだよ?」
「わっ」
「友達として、に決まってるじゃん~」
「そそ、そーだよねー!」
「うん」
まだ、ね。
そう口の中だけで呟いた音は、初心の耳には届かなかった。二槍は今日一番ニヤニヤしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます