第6話 二槍さんをもてなしたい

 二槍の家の前で待ち合わせし、そこから初心の家まで一緒に歩いた。今日は日曜日。午後からなら都合がつくとのことだったので、初心は自宅へと招待することに成功していた。


 卓球をした後で小春、二槍の双方からニャインの交換を求められたので、初心は二人の仲を取り持つ形で最初は連絡先を教えたのだが、それ以降は初心のあずかり知らないところで仲を深めていたらしい。二槍から「今度初心くんち行ってもいい?」と聞かれた時は驚きすぎてまぶたの可動域が少し広がったくらいだった。


 初心自身も仲を深めるために家に遊びに来てほしいとは思っていたので、嬉しかった。


「ただいまー」


「お邪魔します」


 家に着き、玄関を開ける。女の子を連れてきたことなど人生初なので、家族にどんな反応をされるのか心配で、ドアを潜るのがちょっとドキドキした。


「綺麗だね、床もピカピカ」


 ほぉ、と感心した様子で靴を脱いでいる二槍に、初心は自慢顔。二槍が家に来ると決まってからの四日間、死に物狂いで家中を掃除したことなど、絶対に悟られてはいけない。めちゃくちゃ楽しみにしていることがバレてしまうから。


「あ、お兄。と、仲美さん!」


 居間の扉を開けて出てきた妹と会った。二槍が、本当にきれい、新居じゃないんだよね、と言ったのを聞き逃してはくれなかった。


「ああそうなんですよ、実はお兄、仲美さんが来るって聞いてから目の色変えて掃除してたんですよー」


「おい、言うな! お前もやってたろ!」


「しかも四日間も」


「へ~」


 ニヤッとしかけた二槍が、初心にいつものからかいを始めようとしたが、スン、と美少女天使モードに戻ってくれたのでよかった。さすがに家族がいるところではやらないみたいだ。ふう、助かった。


 妹に続き、リビングに入る。父と母がそわそわと落ち着きなく立って待っていた。


「あら可愛い天使みたい」


「正直、お前、本当だったんだな」


 父の発言にはムッとしたが、まあいい。そう、初心だって自分とは天地がひっくり返っても釣り合わないド級の美女を連れてきていることは十分わかっている。


 両親に菓子折りを渡して礼儀正しく挨拶をする二槍は、会って三秒で気に入られていた。仲睦まじく笑顔で会話している様子をはたから見ていると、なんだか初心の方がこの家に招待された友達であるかのような錯覚さえ覚えたほどだ。


 両親に惜しまれながらも二槍を二階に連れて行くと、先に待ち構えていた妹に二槍を強奪されてしまった。ちょっとだけ悲しそうな顔を見せてくれた。触手を自在に操る怪物に引きずり込まれるように二槍は妹の部屋に消え去ってしまった。小春、どれだけ会いたかったんだよ。




 しばらく自分の部屋で過ごしていると、三時になった。一階から「集合ー!」という母親の大きな声が聞こえてきたので、初心は一階に降りた。二槍と妹も次いで降りてきた。


 両親が席に着いているテーブルの上には、二槍からもらった菓子折り、それとどこから出してきたのか紅茶、あろうことかショートケーキまで用意されていた。いつもはせんべいとかクッキーとか柿の種とかなのに……。母も二槍と会うのを楽しみにしていたのかもしれない。


 一同が席に着いたところで、みんなで手を合わせた。


「いただきます」


 毎週日曜日の午後三時は、こうして家族全員でおやつタイムを楽しむのが初心家のルールだった。この時間にリラックスしながら、全員に言っておきたいことやくだらない世間話などをする。家族の時間がなかなか取れない昨今では、こういう強制的な家族団らんの時間があるだけでも家庭円満になるのよ、と両親が昔言っていた。おかげで初心は家族大好きっ子になったのである。


 二槍を軽く質問攻めにして数分が経ったとき、初心がショートケーキを食べ終わったのを待っていたのか、母から退席を命じられた。どうやら初心抜きで二槍と話したいことがあるらしい。父もついでに「父さんもね」と軽く追い払われていた。




 初心と初心の父が席を立ち、残ったのは二槍と初心母と小春の女三人だった。二槍の正面に座るのは初心の母、隣にいてくれるのは小春という構図だった。やっぱり小春にも言われたけれど、私を疑っているのだろう。その予想は当たった。


「二槍さん」


 初心母が、怒ってはいないようだが、真剣に本音を聞き出そうとしていることが伝わってくる表情で開口した。


「正直や小春から話はなんとなく聞いてはいるけど、あなた、今息子とお付き合いを前提に仲良くしているのよね?」


 そうだよね、やっぱりそのことだよね。二槍は覚悟を持って返答する。


「はい。その通りです」


「決して弄んでいるわけではないのよね?」


「母さん!」


 小春が腰を浮かせ、文句を言うように母に突っかかる。二槍を守るように、小春が味方してくれている。


「この前言ったでしょ、それはないって」


「わかってる、でも、私は二槍さんに直接聞きたかったの、目と目を合わせて、ね?」


「……うん、わかった」


 初心母と目が合う。射抜いてくるわけではない。疑いを向けられているわけでもなかった。ただ、本当にあなたの口から本音を聞いておきたいだけよ、と語りかけてくるようであった。


「小春ちゃんの庇ってくれた通り、私は正直君のことを一度も弄ぼうと思ったことはありません。その、つい面白くてからかってしまったりはするのですが、正直君の私に向けてくれる好意をバカにしたり、内心嘲笑ったりは絶対していません。単純に、私が好きになるまで待ってもらっているだけなんです」


「そう」


 頬杖をついて柔らかい笑みを浮かべている初心母は、安心している様子だった。


「それが聞けてお母さん安心したわ」


「心配かけてしまい、すみません……」


「いいのよ、ただあの子があなたのような可愛くて聡明な天使みたいな子と仲良くなったって言うから、ちょっと信じられなくてね。ほらあの子、かっこよくもないし、なにか特別なものがあるわけでもないでしょ?」


 面と向かって可愛いとか天使とか言われるとちょっとむずがゆくなっていい気になるが、後半のセリフには反応せざるを得なかった。


 別に息子のことを変に下げて言っているわけではなく、ただ客観的に事実を述べているだけだと思うのだが、二槍は少しイラっとした。初心くんは確かに特別なものは持っていないかもしれないし、イケメンでもない。でも、良い所はちゃんと持っている。


「そうでしょうか。私はそんなことないと思いますけどね」


 つい反抗的な言葉と態度になってしまったことに気づいたのは、セリフを口にした後だった。——しまった。お菓子と紅茶のせいで気が緩んでいたのかもしれない。


 初心母は、少し驚いた様子に見えた。だが次の瞬間にはニヤッと笑って、


「そう」


 とこちらの反応を見て楽しそうにしていることが分かった。初心くんのお母さん、なにか私と通ずるものがあるような気がする、と感じた。今ので気持ちは確かめられたわ、とは一言も言っていないのにそう感じられるのはどういうことだろう。女同士、言いたいことは目で伝わるものなのかもしれない。


「ありがとう二槍さん」


 そう言って席を立った初心母は「あそうだ」と振り向いて、


「仲美ちゃんって呼んでもいい?」


 と、器用にウインクしてきた。二槍は自然に出た笑みを向け、いいですよ、と返した。親しみやすい、いいお母さんだな、と思った。




「お邪魔します」


 部屋に入ってきたのは、私服姿の二槍だった。待ち合わせしたときに服装はばっちり見て感動したのだが、こう自室に招き入れるとなると、なおさら意識してしまう。


 落ち着いた色の薄手のセーターと、足首まである暗色のスカートを着こなしている。地味だが二槍さんが着ると、しっかりした子だな、と思わせる効果がある。家族と会うときにはぴったりの衣装だ。なんて素晴らしい、そして可愛いんだ。さらにいうと、セーターの裾をインしているのも相まって、胸が自然と強調されている。僕はその格好、ぶっちゃけ水着よりも興奮します。今すぐ彼女にしたい。


 とか考えていると、きょろきょろと部屋を眺めて立ったままの二槍に、まずは座ってもらわないと、と気づく。とりあえずベッドに座るように促した。ソファが入るほど広くはないので、初心が今座っている勉強机の前の椅子の他には、ベッドくらいしか座るところがない。硬い回転いすなどに座らせるわけにもいかないため、せめてふかふかのベッドに座ってもらうことにした。いや、ベッドに女の子を座らせてみたかったとか、そんなやましいことは断じて考えていない。


「ふふっ、すごくきれいにしてるんだね」


 二槍が部屋全体を見て褒めてくれた。足をバタバタさせてなんだかウキウキしているようにも見える。


「そうかな、普通だよ普通」


「あ~二回言った~、普通って~。私が来るから綺麗にしてくれたんでしょ~バレバレだよ~」


 ニヤニヤの圧で初心の口元もニヤニヤしてしまう。回転いすを回転させ部屋の角っことかを眺めていないと嬉し可愛すぎて顔が赤くなってしまいそうだった。と、視線の先にお気に入りの漫画が映った。暇を感じさせてはだめだと初心は思い、仲の良い男友達に勧めるようにさらっと言う。


「漫画とか、読む?」


 しかし、それは女友達に言うセリフではなかった。二槍はう~んと口をすぼませ、


「今はいいかな~。それよりさ、お話ししよ? 私、初心くんのことまだまだ知らないからさ」


「あ、うん、いいよ」


 それから初心は二槍の質問攻めにあい、嘘偽りなくすべてに応えていった。ほとんどがどうでもいいようなことだったが、そういうのを知りたいのだろう。初心が自分のことを一つ教えるたびに二槍は上機嫌になっていった。


「あ、私ばっかり聞いてごめん、初心くんは私に聞きたいこととかある? できるだけ答えてあげるけど」ニヤニヤ。


 ニヤニヤ顔が挑発的だ。スリーサイズ、とか言うとでも思っているのだろうか。ちょっとだけ気にはなるけどね、ちょっとだけ。


 しばし首を捻って考えるも、好きな食べ物は? くらいしか思いつかなかった。というか、二槍はそこにいてくれるだけでもう十分すぎるのだ。使い方は違うかもしれないが、目に余るのだ。目に入りきらないのだ。可愛い粒子で満ちている二槍を、初心の視覚や聴覚、嗅覚、触覚だけでは採取しきれないのだ。だから、そこに可愛い過去や可愛いエピソードなどをつけ足されると、もうパンクしてしまうのだ。


「二槍さんといるだけで僕、嬉しいんだ。幸せなんだよ。だから、あんまり質問浮かばないや!」


 いい意味で言ったつもりだったが、それを聞いた二槍はふくれっ面をした。


「ふ~ん。私は聞いてほしかったけどな~」


 すねている子供っぽい姿も素敵だ。二槍は眉を目に近づけて、まるで嫌いなグリーンピースをピラフに混ぜられた時の幼女のような目つきをして初心をじとっと見てきた。少しの間続けた後、有無を言わせない不機嫌そうな顔で言われる。


「まあいいけどね。でも、じゃあ代わりにこっちにおいでよ」


 ええ、と言いながらつい頷いて腰を上げてしまいそうになるが、なんとなく付き合ってもいない男女が一緒のベッドに腰かけるのが緊張して……というのは建前であって、いや、実際かなり緊張するのだが、それよりも……。


「初心くん、どうしたの?」


 初心の不自然な視線の動きを察知したのか、二槍は疑惑の眼差しを向けてくる。


「い、いやぁ? なんでもないけど、うん、今そっち行くよ」


「……怪しい」


「えなにが⁉」


「な~んか隠してるものでもあるんじゃないの~?」ニヤニヤ。


 別にそんなに怪しいことではないしやましいことでもないし、ただちょっと気にしているのは自覚しているけど……。なんというか、いざベッドに二人腰かけるとなると、いろいろ想像が膨らんでしまうのは仕方がないじゃないか。それで机の引き出しの奥にしまっている箱から出したアレのことを思い出してしまうのは無理もないことじゃないか。


 初心は内心バレたくないと汗ダラダラで二槍の隣に向かう。距離にしてたった三歩程だが、二槍の探偵みたいな目に訝しがられては緊張してしまう。


 ポンポン、と叩かれたシーツの上に初心は腰かける。これ以上怪しまれないように、ふう、と自然体を装おうと力を抜いたとき、その一瞬の隙をつくかのように、隣に沈んでいた二槍が素早く立ちあがった。初心の机のほうに動き出した。やばい、バレたのか!


「——待って!」


 そう思って咄嗟に伸ばした腕が、二槍の細腕を掴んでいた。そのまま加減もせずに引っ張ってしまっていたので、いくら非力な初心の力とはいえ、二槍は初心の前に倒れ込んできた。


 ドサドサ。


 まるで少女漫画かと思うような展開になってしまった。床に仰向けになっている二槍の上に、初心は四つん這いになっていた。二槍の丸くなった目と小さく整った顔のすぐ隣に初心は手をついていた。


「ご、ごめっ——」


 恥ずかしさと驚きのあまり離れようとした初心。だが距離をとるどころか、逆に近づいてしまう。二槍がなぜか初心の背中に手を回し、がっちりホールドしてきたからだ。


「だめ、このままでいて」


 甘い女の声で二槍は笑いもせず言う。


 痺れたように初心は動けなくなる。見たことない艶やかな表情で、その間近に見える唇に視線が釘付けになる。二人以外いない部屋。意中の女の子が今真下にいる。しかもうっとりした顔で、初心の目から一ミリたりとも離さないで見つめてくる。熱を帯びた潤んだ瞳で。至近距離で。


 初心は無意識に唾を飲み込む。急激に心臓の鼓動が速く激しくなる。荒くなりそうな呼吸を抑える。


 ——していいってことなのか?


 初心がいくらウブとはいえ、男子ならこんな状況、獣としての本能に目覚めてしまう。その本能に抗うことなく、初心は女神の美しい瞳に吸い込まれるようにして顔を近づけていく。瞳から唇へと視線を移し、ついに人生初めてのキスを……って、あれ⁉




 ニヤニヤ。




 二槍のさっきまでの表情は消え失せ、代わりに見慣れたあの笑顔が初心を迎えていた。ひっかかったね初心くん、とでも言いたげに。


「なんちゃって」


 えげつないドッキリを仕掛けたかのような極悪な笑みを浮かべた二槍は、初心の背中に回していた腕の力を抜き、「ほぇ?」と口を間抜けにも開けている初心の顔の下にスマホを滑り込ませた。


「初心くん、ごめん、怒らないでね」クツクツ。


 そう言って至近距離から連写された。




「僕の純情を弄ぶなんて、二槍さんひどいよぉ!」


「ごめんごめんって初心くん、ほら、この通り反省してるからさ」


 さすがの初心でも、その気にさせて、はいドッキリでしたという仕打ちに対して、ちょっとは怒りたくなった。しかも間抜け面をたくさん撮られたのだ。だから今は責め責めタイムだ。


 二槍は膝をついて顔の前で手を合わせている。目をぎゅっとつぶっているその顔も可愛いが、時折様子を窺うように片目を開ける仕草もいちいちきゅんとくる。


 その可愛さに免じて今回は許してあげよう、と尖らせていた口を引っ込めて大きくため息をついた。そのままベッドにもたれかかる。


「疲れた……。はあ……」


 天井をぼうっと眺めていると、二槍が動いた気配がした。またなにをしだすんだろう?


 そう考えたときに、初心は忘れていたことを思い出した。体に電気が走るような感覚がした。だがもう遅かった。


「初心くん、油断したね」


 ニヤニヤ仮面に戻っている二槍は、もうすでに初心の机の引き出しに手を突っ込んで中をまさぐっていた。


「ああっ! 待って——!」


「遅い。シュバッ!」


 テンションが上がったのか謎に効果音をつけて手を引っこ抜いた二槍は、その指の先に挟んでいるブツをまじまじと見た。初心は情けなく腕を伸ばした姿勢のまま泣きそうな声を出す。


「あ……、ああ……」


 二槍の指に挟まれているのは、薄く四角いビニール製のものだった。うっすら中身の丸い輪郭が見える、男女がベッドの上で使用するものだった。


 昨日舞い上がってテンションが最高潮に達した深夜二時に買ったものだった。家をこっそり抜け出して近くのコンビニでドギマギしながら初めて買った瞬間は、緊張とワクワクで心が震えた。なのに、——今はバレたことに心がぶるぶる震えていた。


「い、いやぁそれはね」


 かすれて声がちゃんと出ない。客観的に見てそんなに動揺する必要はないと思うのだが、そんなことはウブの初心にはわからないのである。自分がする気満々だと思われるのが恥ずかしくて、さらにいけないことをしてしまったような気がして、もうこんな反応になるしかないのだ。


「ん、ゔんっ」


 わざとらしく咳ばらいをした二槍は初心のほうを見た。瞬き多めだった。


 だがそれも一瞬。すぐにいつものニヤニヤ顔に戻って、回転いすをくるっと回転させて優雅に足を組んだ。


「初心くん、これは一体どういうことなのかな?」


 一オクターブ低い声で、されど怒りではなくむしろふざけているかのような声音で聞いてきた。一瞬にして職員室で説教し始める先生と悪ガキの構図に早変わりした。


「え、えっと……」


 たまたま持ってて……。男なら持ってて当然だよ……。


 そんな言い訳の選択肢が頭に浮かぶが、二槍がすかさず先手を打ってくる。


「ウブな初心くんがこんなものたまたま持ってるのは不自然だよねぇ」


 うっ。その通りです先生。


「黙っててもいけないよ初心くん。正直に話したら先生、お父さんとお母さんには話さないから」


「そ、それだけは!」


「分かってるなら白状しなさい」


 そんなに落ち込まなくてもいいのだが、初心はすっかり悪いことをした気分になっていた。高校三年生が持っていても別になんの法律にも触れないし、親にバレたとしても別になんともない。だが初心は内心すっかり反省しているので、二槍に正直に話すことにしたのだった。


「……今日二槍さんが来るって思ったらなんか舞い上がっちゃって、昨日の深夜に買ってきました。すみません」


「ふ~ん」


 二槍はもう先生役は終えたようで、小悪魔的な笑みを浮かべて初心を見下ろしていた。さらに手に持っていたブツの端を口にくわえ、


「もひかひて」


 パンパン、と両手を叩いて音を立てた。それが一瞬なんのことか理解が遅れたが、後に続く言葉ですぐに分かった。


「こんなことするかもって期待したんだ~へぇ~、初心くん、エッチだ~」ニヤニヤ。


「い、いやっ」


 そんなことはない、と続けようとしていた口の中に、突然ブツの端っこが入り込んできた。気づけば前のめりになった二槍が初心の頬を両手で挟み込んできていた。ブツを咥えた二槍が、なぜか口移ししてきているのだ。それはまるで、キスの一歩手前のようなものだった。


 二槍の少し火照った顔が初心から離れていく。初心がその後、ブツを咥えたまま気絶したことは当然の反応であった。


「はい、お返し」


 今の二槍の顔を見られなかったのは、初心にとっては不運なことだった。二槍は胸に手を当てながら、大きく息を吐いた。




「あの後、超扇いだんだよ~初心くんのこと~」


「そ、それはありがとうというかごめん」


 夕暮れから夜へと移行する薄暗い時間に、二人は初心家から出て歩いていた。初心が二槍の家まで送ってくれている。


 初心が倒れてから、二槍は初心の口に挟めたブツを取り出し、元の場所にしまってから小春の部屋に向かった。白目を剥いて仰向けになっている無防備な初心の、その口元を凝視している自分に気づいて熱くなったからだ。このまま二人きりだと変な気持ちになってしまうかもしれなかった。


 小春に事情を話し、一緒にノートや教科書で初心のゆで上がった顔を扇いでいると、「うちわとってくる」と言って小春が一階に飛んでいった。帰ってくるとうちわだけではなく両親もドタバタと部屋に入ってきて、初心のことを心配したり笑ったりしていたのが印象に残った。


「家族っていいな」


 うっかり口に出してしまっていた。春の終わりの程よく涼しい風が心地よいのと、あとは初心がそばにいることが原因かもしれない。歩調を合わせてくれている初心が、嬉しそうにほほ笑んだ。


「うん。いい家族でしょ」


 あんな風に家族全員仲がよくて、笑い合って、みんなで食卓を囲んで、それで時々けんかもするんだろうな。


「二槍さんの家族は、どうなの?」


 と、ふいにギクッとする質問が飛んできた。自分からこの話を振ったのに、ボールが返ってきて驚くなんて、バカだな私、と思った。投げ返されたボールをわざとこぼして、ごめんよそ見してた、と言い訳することにした。


「普通だよ、ふつう」


 家が見えたところでお別れし、「また明日ね、じゃーね」と笑顔で手を振った。


 さっきまで心地よかった外の空気が途端に肌寒く感じて、一人身を震わせた。

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