第12話 狂情

 藤江は、一年前の倉渕と病院との間のトラブルを認めた上で、立川駅の殴打トラブルの相手が、倉渕だったことを当初から認識していたことも認めた。そして、一年前の病院のトラブルを慰謝料で解決する方法は、自分が勧めたことだと話した。

 何故、その倉渕を知らないと虚偽を言ったのかについては、一つは厄介な男と関わり合いたくなかったこと、もう一つは診療トラブルを金銭で解決したことが、万が一にも公にならないようにと思ったためで、立川駅では、咄嗟に知らない男と答えてしまった。まさかあの男が見つかるとは思わなかったから、それ以後は知らないと言い続けるしかなかった。空木さんには、申し訳なかったと釈明した。

 石山田は、淡々と、しかも当然の如く話す藤江に、強い苛立ちを感じて言った。

 「藤江さん、あなたたち医者は、患者の為なら嘘も許されるのかも知れません。しかし、病院の利益の為の嘘、組織存続のための嘘は、どんな世界でも許されるものではないのではないですか。しかも今回のあなたの嘘は、慰謝料での解決を提案したあなた自身の保身のためでもありましたね。人間は、一度嘘をつくと延々と嘘で固めなければならなくなります。我々一般人から尊敬されるべきあなたたちは、どう生きて行くべきなのか良く考えて下さい」

 藤江は、石山田の人間としての厳しい指摘に、うなだれたままだった。

 新型感染症との戦いに心身ともに疲れている医療従事者たちには、最大の感謝をしなければならない。藤江もその一人だろう。とは言え、是は是非は非、過ちは正すべきだと、石山田は自分に言い聞かせた。


 国分寺署の捜査本部では、押収品のスマホの指紋とその中身を分析した結果、倉渕の物と断定。浜寺の行方を追うために、スマホのGPSによる探索、そしてNシステムでの追尾のための、車での移動の有無の調査を始めた。

 浜寺のスマホは、電源が切られているためか、GPSによる探索に反応は無かった。

 車の調査は、プリンス製薬への確認と、千葉の留守宅への千葉県警の協力による聞き込みによって行われた。

 一方、奥秩父署の捜査本部では、長谷辺殺害が、浜寺の長谷辺へのねたみが動機となった殺人とは断定しきれず、十数本のサバイバルナイフの分析結果を待った。


 事務所兼自宅に戻った空木は、カップ麺を食べ終わり、ベランダで煙草を吸いながら考えていた。

 浜寺はどこに逃げたのか。Nシステムで追えれば行き先の目星は付く。どこかの山域に逃げ込んだにしても、いずれは下りてくるだろう。逮捕されるのも時間の問題だ。

 空木が部屋に戻るとスマホが鳴った。石山田からだった。

 「‥‥健ちゃん、先崎文恵の所在が分からないんだ。心当たりはないか」

「会社にも出ていないのか」

「今日は休みを取っているそうなんだが、どこに行っているのか会社の人間は、誰も聞いていないそうだ」

「今どきは、休んでどこに行くとか、何をするとか聞こうものならハラスメントで訴えられるから、行き先を誰も知らないのが当たり前かも知れないな。俺にも見当はつかないよ。それより浜寺の行方は掴めたのかい」

「いや、まだだ。ただ千葉の留守宅のマイカーで動いている。Nシステムで中央道の勝沼インターで昨夜下りていることが分かった。山梨県警に協力要請しているところだよ。行き先に見当つくかい」

 空木は、勝沼周辺の山を直ぐにイメージした。

 「勝沼インターから山に入るとしたら、主な山は三ツ峠山、乾徳山けんとくさん、大菩薩嶺、奥秩父山系だと思うけど、逃げ込むつもりならルートバリエーションが多い奥秩父の山域だろうな。西沢渓谷近辺の駐車場に該当の車が停まっていないか調べてみたらどうだ」

 空木はそう言ったものの、浜寺が逃げ込む山に、事件を起こした山を選ぶものだろうかと、確信は持てなかった。登山経験が豊富な浜寺なら、もっと逃げやすい山を選ぶのではないだろうか。それどころか、車で逃げるなら、わざわざ山に逃げなくても、全国どこでも逃げられる筈だ。何か目的があるのだろうか、と思った時、空木は「まさか‥‥」と呟いた。

 「巌ちゃん、まさかとは思うけど、浜寺は先崎文恵の行き先を知っているんじゃないか」

「‥‥‥会おうとしているということか。ストーカー行為の究極か。‥‥まさか殺すつもりなのか」

「最悪のシナリオはそれだよ。取り敢えず俺は、先崎さんの携帯に連絡してみるから、巌ちゃんは山梨県警に駐車場の調査を依頼してくれよ。また連絡する」

 拙いことになったな、と空木は思いながら、スマホの電話リストから先崎文恵を選び出した。

 「電波の届かない場所にいるか、電源が‥‥」の音声が流れるのを聞いた空木は、先崎が山に入っていることを直感した。奥秩父の山域でなければいいが、と願いながら、山歩会のメンバーの乗倉と、岡部綾に先崎文恵の行き先に心当たりが無いか、電話をした。二人とも行き先には心当たりは無いと言って、空木の緊迫した口調に、彼女に何かあったのか心配したようだった。ただ、岡部綾には、昨晩先崎から長谷辺保の弟の稔の電話番号を教えて欲しい、という電話があったことが聞けた。

 電話を切った空木は「弟の稔と一緒なのか‥‥‥。もしかしたら雁坂峠か‥‥」呟いた。

 空木は石山田に電話を入れた。

「連絡は取れないけど、どこかの山に入っている可能性が高いと思う」

「どこの山だ」

「それが分かれば苦労はしないよ。ただ、俺の勝手な推測だけど、奥秩父の山に入っているような気がする。身柄確保に警察に動いてもらえないか」

「行方不明者の身柄確保は、警察の仕事だけど、奥秩父の山というだけで場所の特定も出来ていないところに、推測だけで何時間もかけて山に登るというのはちょっと‥‥。危険が迫っていれば話は別なんだが‥‥」

「浜寺も同じ山に入っている可能性が高くてもだめか」

「‥‥山梨県警の報告次第ではあるけど‥‥とにかく課長と相談してみることにする」

 電話を切った空木は、またベランダに出て煙草に火をつけ考えた。

 先崎文恵があの山域に今日入ったとすると、恐らく小屋泊まりだろう。甲武信こぶし小屋だとしたらいずれ電波が通じる筈だ。そして明日の目的地は、雁坂峠なのではないだろうか。

  空木は時間を確認した。午後三時を回ったところだった。先崎文恵の携帯は依然として「電波の届かない‥‥」という音声が流れた。

 しばらくして石山田から連絡が入った。

 「車が見つかった。『道の駅みとみ』の駐車場の隅に停められていた。浜寺は健ちゃんの推測通り、奥秩父の山域に逃げ込んだようだ」

「巌ちゃん、浜寺は逃げたのか、先崎文恵に会いに行ったのか分からないよ。とにかく、これで警察が山に入るということだね」

「そういうことになるね。奥秩父署とも連携して、山梨県警の応援も入ることになる」

「俺も一緒に行けないか。あの辺りの山の事は、良く分かっているから役に立てると思うんだ」

「‥‥分かった。課長の許可をもらうから、準備だけはしておいてくれ。出発は夕方五時過ぎになると思うから、許可が出たら署の駐車場まで来てもらうよ」

 空木はザックを引っ張り出し、準備をして時計を見た。午後四時を回っていた。

 先崎の携帯に電話を掛けると、呼び出し音が鳴った。電波が通じた。

 「先崎です」

「繋がった。良かった」

 空木の切迫した口調に、文恵は戸惑っているようだった。

「空木さん、どうしたんですか」

「先崎さん、今どこにいるんですか。お一人なんですか」

「‥‥今、甲武信小屋に着いたところです」

「どなたかと一緒ではないんですね」

「いえ‥‥長谷辺さんの弟さんと一緒です」

「そうですか。詳しい話は電話では出来ませんが、私たちが行くまでその小屋に居て下さい。訳はその時ちゃんと説明しますから、お願いします、そこに居て下さい」


 小型バイクで国分寺署の駐車場に着いた空木は、石山田に先崎文恵の所在が分かったことを伝えた。

 「それも健ちゃんの推測通りか。ということは浜寺も近くに居るという事なのか」

「ツエルト(簡易テント)を使えばその可能性もあるけど、避難小屋を使っている可能性が高いと思う」

「避難小屋か。それはどこにあるんだ」

「うーん、巌ちゃんに言っても位置関係が全く分からないだろうけど、甲武信小屋を起点にしたら、東に歩いて一時間のところにあるのが、笹平の避難小屋。そこからさらに東、雁坂峠を越えて、およそ四時間半のところにがん峠の避難小屋があるんだ」

「‥‥全くわからん」

「俺の推測は、雁峠の避難小屋に泊まっていると思う。目的地は雁坂峠、雁峠から雁坂峠を目指す筈だ」

「何故、そこに泊まると思うんだ」

「車を停めた場所だよ。道の駅に車を停めたのは、雁峠へ行くためじゃないかと思う。雁峠への登り口は新地平だけど、車は林道には入れないし、駐車スペースも無い。都合の良い駐車場所が道の駅なんだ。西沢渓谷の駐車場も、雁坂トンネルの駐車場も、上り下りの登山ルートが絞られてしまう。それを浜寺は嫌ったような気がする」

「‥‥良く分からないが、そういう事なのか。その雁峠には、どの位の時間で行けるんだ」

「新地平のバス停から、およそ三時間だけど、今夜登るつもりなのか」

「いや、課長とも、奥秩父署とも相談したけど、夜の登山道は危険な上に、浜寺に闇に紛れて逃げられる可能性も高いということで、今夜、車で移動して車中泊で早朝に、甲武信小屋ルート、南北ルートからの雁坂峠、それと今健ちゃんが言った雁峠に向かう四方向からスタートすることになった」

「巌ちゃんはどのルートから登るんだ」

「どういう班分けにするか考えているところなんだ。仲澤刑事たちは、秩父側の川又からと、雁坂トンネル料金所駐車場の二手から登ることになっているんだ。仲澤刑事はトンネル側から登るらしい」

 石山田は、手帳を見ながら説明した。

 「雁坂峠までの歩行時間が一番短いのは、トンネル料金所駐車場からだろうから、巌ちゃんもそこから登ったらどうだい。合同捜査らしくて良いんじゃないか」

「‥‥健ちゃんがそう言うならそうしよう。健ちゃんも一緒のルートで行くかい」

「いや俺は、甲武信小屋の先崎さんに会ってから雁坂峠に向かうことにする。一番長いコースできついんだけど、先崎さんに俺から説明するから、そこから動かずに待っていて欲しいって約束したんで、小屋に行かなくちゃならないんだ」


 翌日、夜が明ける前、空木は国分寺署の捜査員、山梨県警の警官らで編成された混合班とともに、西沢渓谷から徳ちゃん新道を、甲武信小屋を目指して登って行った。

 埼玉側の川又から雁坂峠を目指した奥秩父署班も、夜明けとともに登り始め、石山田、仲澤の合同捜査班は、雁坂トンネル料金所駐車場から雁坂峠へ、新地平からは国分寺署班が、雁峠から雁坂峠を目指してそれぞれ出発した。

 国分寺署班が雁峠に到着したのは、午前八時少し前だった。石山田から、避難小屋に浜寺が潜んでいる可能性を伝えられていた捜査員たちは、慎重に小屋に入ったが、小屋には誰も居なかった。それは、直ぐに石山田たちに伝えられ、空木たちにも伝えられた。

 雁峠の小屋に居なかったということを聞いた空木は、一瞬戸惑った。雁峠には泊まらなかったのだろうか、それとも早立ちして雁坂峠に向かったのか、それとも奥多摩方面に逃げたのか、推理が頭を巡った。それでも空木は、浜寺が雁坂峠に向かったことは間違いないという確信があった。

 石山田と仲澤の合同班が、雁坂峠に到着したのは、午前八時過ぎだった。

 梅雨の中休みの好天に富士山を望むことが出来た。仲澤にとっては、二度目の峠からの富士山の眺望だったが、石山田は初めて望む眺望に、捜索に来たことも一瞬忘れたように無言で眺めた。

 合同班が峠に着いた四十分程後、埼玉側の川又から出発した奥秩父署班が雁坂小屋に到着し、雁峠方面からの縦走路から、小屋への迂回路を監視した。

 その頃、空木たち混合班も甲武信小屋に到着した。

 先崎文恵は、長谷辺稔と一緒に、小屋の前に作られているデッキのベンチに座っていた。

 「先崎さん、無事で何よりです。長谷辺さんも久し振りです」汗まみれの空木はザックを肩から外しながら言葉をかけた。

「無事だなんて、空木さん少し大袈裟です」

 立ち上がって頭を下げた先崎文恵の横で、長谷辺稔も立ち上がって「お久し振りです」と頭を下げた。

 「お二人には足止めをさせて申し訳ありませんでした。その説明をする前に、伺いたいのですが、お二人はここからどこへ向かうつもりだったんですか」

 息を整えた空木の問いに、文恵の柔和だった目が、厳しくなったように空木には見えた。

 「‥‥雁坂峠です。保さんの、最後の場所にお線香を上げに行くつもりです。そのために稔さんに同行をお願いしたんです。今からでも二人で行きます」

「やはりそうでしたか。そのあなたをここに留まるようにお願いしたのは、あなたに危害を加えるかも知れない男が、この山域に入り込んだことが分かったからなんです」

「その男が、保さんを殺した犯人なんですね」

 文恵の目は、空木をまるでその犯人かのように睨みつけ、驚く様子もなく淡々とした口調で話した。

「恐らく‥‥。その男はもう一人の男性を殺していて、警察がこの山域に追って来ています。間もなく捕まるでしょう。そうなれば、長谷辺さん殺害の犯人であることも明らかになると思います。‥‥先崎さんあなたは、その男が誰なのか分かっているんですね」

「‥‥それを確かめるために、今日雁坂峠に行くつもりでした。稔さんと二人でその男、浜寺を問い詰めるつもりでした」

 空木は、浜寺の名前が文恵から出たことに、何時いつ浜寺が犯人だと思ったのか、そしてその浜寺が、何故雁坂峠に来ることを知っているのか、知りたかった。

「‥‥問い詰める。浜寺が雁坂峠に来ることが分かっているということですか」

「空木さんが、浜寺と会った後、空木さんの話を聞いて気付いたんです。休日の度に近所で浜寺に出会ったのは何故なのか、休日にどこに行くのか知っていたのは何故なのか、気付いたんです。そして保さんを誰が、何故殺したのか。浜寺と言う男は異常です。狂った感情を持った人間です。一昨日、空木さんと話した後、私は会社の事務所から、稔さんに慰霊の登山に行く電話をしました。浜寺に聞こえるように電話をしたんです。慰霊の登山に行く、と聞いただけで、どこのことなのか分かるのは、私と親しい人と、後は犯人しかいません。浜寺は必ず来ると思いました」

 空木は、浜寺に面会したいと言って、先崎に仲介を頼んだ事が、彼女が犯人を知るきっかけになったことを今ここで知らされた。

 「思い切った事を考えましたね。しかし、浜寺はサバイバルナイフの収集家でもあることが分かっています。ナイフを所持しているかも知れない男を問い詰めたら、どんな事が起こるか想像してみて下さい。稔さんも一緒だとは言え、あまりにも無謀、危険です。私がここに留まって欲しいと言ったのは、そういう意味があったんです」

 先崎文恵は何も言わずにうな垂れた。

 その時、混合班の国分寺署の捜査員が、空木に近付いて来た。

 「今、石山田係長から連絡で、浜寺雅行を雁坂峠で確保、逮捕したとの事で、下山して署に連行するとの事でした」

 空木の推測通り、浜寺は雁峠の小屋から雁坂峠へ、先崎に会うためなのか、危害を加える為なのか分からないが、向かったのだ。空木は、腕時計を見た。午前十時を回ったところだった。

 「浜寺が雁坂峠で逮捕されたそうです。先崎さん、これからどうしますか」空木はそう言うと、二人の顔を交互に見た。

 文恵は、稔を見て頷き、「雁坂峠へ行きます」と返事をした。

 「私もご一緒させて下さい」

 二人と一緒に空木もザックを背負った。


 甲武信小屋を出た空木たち三人は、木賊山とくさやまの分岐で西沢渓谷に下山する混合班の警官たちに別れを告げ、雁坂峠への道を歩いた。

 笹平の避難小屋のベンチで三人は、ザックを降ろした。

 「あの日、この小屋に人の気配を感じたんです。僕が小屋を覗いて犯人の顔を見ていたら、兄は殺されなかったかも知れません」稔は、誰に話すともなく、独り言のように言った。

 再びザックを背負った三人は、破風山はふやま、雁坂嶺を越え、甲武信小屋を出て二時間半程で、雁坂峠に着いた。富士山は霞んで、ぼんやりとそのシルエットだけを見せていた。

 文恵は、ザックから線香を取り出した。雁坂小屋へ下る道で、空木が「この辺りでしたね。長谷辺さん」と声を掛けた。

 「ここで仰向けに倒れていました」そう言って稔は、文恵に手で示した。

「ここで保さんは‥‥‥」文恵は絶句した。

 線香を手向けた空木と稔は、しゃがみ込んだまま、ずっと手を合わせている文恵を見つめていた。

 「保さん、犯人は浜寺という、あなたが全く知らない男でした。何の関係も無い、保さんが‥‥。私の所為なんです。ごめんなさい‥‥‥」

 文恵の嗚咽が、空木の耳に悲しく響き続けた。

 三人は、雁坂小屋へ下りて遅い昼食を摂ることにした。小屋の前のベンチで昼食を食べている時、小屋番が通りかかった。

 空木が、立ち上がって「こんにちは、先月の事件の際には、お世話になりました」と頭を下げた。小屋番は、立ち止まって「‥‥あ、どうも」と言って、三人を見廻した。

 「また来られたんですね。今日で三度目になりますか」小屋番は、稔の顔を覚えているのか話し掛けた。稔は、ニコッとして頭を下げた。

 空木たちは、昼食を済ませ、峠へ登り返し、雁坂トンネルの料金所駐車場に向けて下った。


 国分寺署での浜寺の取調べは、刑事課長の浦島自らと、石山田によって行われた。

 浜寺は倉渕良介の殺害を否認し、犯行日には上高地に居たとアリバイを主張したが、犯行日の六月十二日土曜日の松本駅、国分寺駅の構内カメラの映像に写っているマスク姿の自分の姿を見せられると、黙り込んだ。更に、浜寺の部屋から押収された、立川競輪場のロゴマークの入った倉渕のバッグを見せられると、浜寺は犯行を認めた。

 動機は、恐喝されていた事だった。先崎文恵へのストーカー行為を、会社に伝えられたくなかったら金を出せと脅され、十万円を渡したが、再度脅されたことから殺害するしかないと考えた、と供述した。

 浜寺は、倉渕からの手紙を見て、指示通り連絡をした。それは先崎へのストーカー行為に対する脅しだった。浜寺には、会社に知られる事より、先崎文恵に知られる事が絶対に嫌だった。その週の土曜日に、国分寺南町の公園で十万円を渡した。しかし、その翌週にさらに五十万要求された。殺すしかないと考え、六月十二日土曜日の公園に夜七時半に呼び出し、殺害した。七時半にしたのは、上高地から来て、また戻ることが出来る時間、そして人目に付き難い、日が暮れた時間を選んだ。首を絞めた紐は、上高地で借りたテントのロープで絞めたと供述した。そのロープは、ザックの中にそのまま入っているとの事だった。しかし、浜寺は、長谷辺殺害については、一言も触れなかった。

 浦島は、直ぐに係員にザックを押収した奥秩父署に連絡、確認を取るよう指示した。

 石山田から、長谷辺殺害の件でも、倉渕から脅されていたのではないかと、ただされても浜寺は否定した。

 「浜寺、お前が長谷辺さんも殺害したことについては、奥秩父署の取調べで明らかになるんだぞ。この期に及んで白を切っても無駄だ」

 石山田の言葉が耳に届いているのかいないのか、浜寺の目は宙を泳いでいるようだった。暫く沈黙が続いた。

 石山田が「おい、何とか言え」と声を掛けると。浜寺は我に返ったかのように石山田の顔を見た。そしておもむろに言った。

 「‥‥刑事さん、先崎さんは、文恵ちゃんはどこへ行ったんですか。あそこにはいなかったんですか。会わせて下さい」

 石山田は、浦島の顔を見て首を傾げ、また浜寺に顔を向けた。

 「お前、自分が今、どういう立場で何を言っているのか分かっているのか。お前は人を一人、いや二人を殺して取調べを受けているんだぞ。その女性は、今どこに居るのか知らんが、お前の事を恨み、大嫌いだと言っているだろう。お前が会いたいと言っても、彼女が拒否するよ」

「そんな事は無い」浜寺の大声が取調室に響いた。

「大声を出すな、浜寺。目を覚ませ。お前には守るべき大事な家族がいるだろ。お前は彼女の最愛の人を殺して、彼女に大きな苦しみを与えたんだぞ」

 石山田の言葉に浜寺は、今度は子供がそっぽを向くように、顔を横に向けた。そして横を向いたままぶっきらぼうに言った。

 「あいつは文恵ちゃんを独り占めしようとした。だからばちが当たったんだ」

 石山田も、浦島も言葉が出なかった。呆れて顔を見合わせた。

 「課長、長谷辺さん殺しは、奥秩父署に任せることにして、長谷辺さん絡みの動機の追及は、それからにしたらどうでしょう」

 浦島は、石山田の提案に同意し、浜寺の奥秩父署への移送を指示した。


 翌日の日曜日、奥秩父署に移送された浜寺への事情聴取は、奥秩父署の野田刑事課長と、仲澤によって行われた。

 浜寺の部屋から押収したサバイバルナイフの分析では、逮捕に繋がるような決定的証拠は出なかった。そのために、浜寺が所持していたデウテル社製のザックが、犯行前日の山梨市駅の早朝の構内カメラ及び、犯行日夕刻の塩山駅の構内カメラに写っていた男が背負っていたザックと同一であったこと、さらに以前、仲澤らが浜寺から聴取した犯行日のアリバイ、つまり雲取山山行が虚偽の疑いがあることを理由にした、任意の聴取という形を取らざるを得なかった。しかし、仲澤らは、この聴取で浜寺を逮捕に持って行く自信があった。いや、持って行かなければならなかった。そのために、ここまで協力してくれた空木にも、再度奥秩父署への来署を要請していた。

 五月二十一日金曜日の山梨市駅、五月二十二日土曜日の塩山駅の構内カメラの画像を見た浜寺は、ザックは同じでも自分ではない、自分は雲取山に行っていたと供述した。

 仲澤は、空木が録音したレコーダーを浜寺に聞かせ、浜寺が雲取山からの帰路について話していることが、間違いないか改めて確認した。浜寺が、間違いないと返事をするのを待って、浜寺が乗車したという丹波たばからのバスの乗客には、若い登山客しか乗っていなかったことが既に判明している、と仲澤は告げた。さらに仲澤は、浜寺の自宅マンションの捜索から押収した、倉渕のバッグの中から出てきた、浜寺が立川の長谷辺保のマンションに入って行く写真を見せ、長谷辺保を知らない人間だと言っていた話の矛盾をただした。浜寺はただ黙って聞いていた。

 仲澤は、立て続けにもう一枚の写真を浜寺の前に置いた。それは、山歩会のメンバー四人が、御前山で撮った集合写真だった。

 「ここに写り込んでいるのは、自分だと認めたそうだな。お前からそれを確認した人も、今日署に来てくれている。この写真の男、つまりお前と、駅の構内カメラに写っている男は、照合分析した結果一致した。奥秩父の山で何をした。全て話したらどうだ」

 浜寺は身じろぎもせず、黙然として真っ直ぐ前を見つめていた。

 刑事課長の野田が、係官に写真の束を持ってこさせ、仲澤に渡した。仲澤は大小何十枚もの写真を、浜寺の前に並べた。

 「先崎文恵さんだ。これは全部お前がストーカーをして隠し撮りした写真だな。お前は先崎さんが最も愛した男性を、殺したんじゃないのか。ねたんで、嫉妬して殺したのか。お前のような人間を彼女がどう思うか考えてみろ。恨みこそすれ、好意を持つ筈が無い」

 浜寺の顔は、みるみる紅潮して、仲澤を睨みつけた。そして言った。

 「あいつは、死んで当然なんだ。文恵ちゃんは、アイドルなんだ。みんなのもので、あいつ一人のものじゃないんです。だから天罰で、私が罰を与えたんです」

 仲澤は眉間に皺をよせ、鋭い目を一層鋭くした。

 「お前が殺したんだな。ナイフで刺したんだな。そのナイフはどこに捨てたんだ」

 浜寺は、紅潮した顔のまま仲澤を睨んでいた。

 「‥‥あいつに強く握り返されて、刺したままにした。一番気に入っていたナイフだったんだ‥‥」

 そう言う浜寺の目は、充血したままだったが、呆けた目になっていた。

 「刺したまま、置いてきた‥‥‥。嘘を言うなよ、お前は長谷辺さんを一度、二度刺して刺したナイフを持って逃げたんじゃないのか」

「強く握られて、一回しか刺せなかったが、殺すことが出来た。あのナイフにして正解だった」

 それを聞いた仲澤が、呆れた顔で横に座っている野田を見た。

 「係長、まずは緊急逮捕だ。こいつの話を聞いていると腹が立って気分が悪くなる。少し休憩してから続けよう。浜寺、いいか、これからは任意の事情聴取じゃないぞ。取調べだ。覚悟しておけ」野田はそう言うと、取調室を出て行った。

 取調室を出た仲澤は、隣室でミラー越しに聞いていた空木に顔を見せた。

 「空木さん、お陰様で逮捕出来ました。このままここで聞かれますか」

「差し障りが無いようでしたら、聴取が一段落するまで聞かせていただきたいのですが、良いですか」

「それは構いませんが、何か気になることでもあるんですか」

 仲澤は、空木が何か腑に落ちない顔をしているのが気になった。

 空木は、一瞬考えた。

 「‥‥仲澤さんの時間が空いた時にお話しします。それと一つお願いなんですが、浜寺が現場から逃げる時の、被害者の体の向きを聞いて欲しいんです」

「体の向きですか?‥‥」

「ええ、仰向けだったのか、それとも俯せだったのかを聞いて欲しいんです」

「それが何かあるんですね」

「後程説明しますから、ぜひお願いします」

 仲澤は時計を見た。

「十二時過ぎには食事時間を取りますから、その時にまた話しましょう」


 浜寺の取調べが再開された。

 浜寺は少し落ち着いたのか、紅潮していた顔が、元に戻っていた。仲澤の尋問に静かに答え始めた。

 長谷辺保が、単独で雁坂峠へ登る計画を、別のMRと卸で話しているのを聞いた浜寺は、雁坂峠が殺害するチャンスと考えた。動機は、先崎文恵というアイドルは一人の物では無い、という異常な嫉妬心と推測された。

 殺害を計画した浜寺は、犯行前日の五月二十一日金曜日に、山梨市駅から始発のバスで西沢渓谷に入り登り始め、その日は笹平の避難小屋に泊まった。途中で四人のパーティーとすれ違った。翌日、前を歩く単独行の登山者に姿を見られないように注意しながら、雁坂峠に向かい、十時四十五分頃峠に着いた。雁坂小屋へ下る登山道に隠れて長谷辺を待ち、小屋へ下りてくるところをすれ違いざまにナイフで刺した。長谷辺は自分の顔を知らなかったが、自分は良く分かっていたから、人を間違える心配は全く無かった。刺された長谷辺は、何が起こったのか分からなかったようだったが、刺した自分の手を強く握り返してきた所為で、ナイフが抜けず、刺したまま逃げた。振り返るとザックを背負ったまま、仰向けに倒れていた。ナイフを取り戻したかったが、小屋の方から人が上がってくる気配がしたので、そのまま逃げた。

下山ルートは、がん峠から下りることを決めていたが、途中であの探偵に会ってしまった。まさかザックを覚えられていたとは思わなかった。新地平からは、バスで塩山駅に出て、国分寺へ帰ったと供述した。

 「国分寺へ帰って、マンションに入ろうした時に、倉渕という男に撮られた写真がこれだな」

仲澤はそう言って、ザックを背負ってマンションに入って行く男の写真を、浜寺の前に出した。

 浜寺は黙って頷いた。

 「それと、もう一度聞くが、刺したナイフは、そのまま置いてきた。刺された被害者は、ナイフが刺さったまま仰向けに倒れていたんだな。間違いないか」

 仲澤のゆっくりとした歯切れのよい質問に、浜寺は黙って頷いた。

 「はっきり答えろ。そうなんだな」

 再度の問いに浜寺は、「そうです」と答えた。浜寺の答えを聞いた仲澤は、野田の方に顔を向けて首を傾げた。野田は、腕組みを解いて、係官を呼んだ。

 「係長、ザックの中に入っていたこれの確認をしてくれ」野田はそう言うと、細いビニール製のロープと、一本のサバイバルナイフを机に上に置いた。

 「国分寺署での供述だと、これで倉渕という男の首を絞めたのか」

 浜寺は、また頷いた。

 「手で絞めるつもりだった。でもこっちの方が確実で簡単だと思って、借りたテントから借用したんです。返しておいて下さい」

「残念だが、これはお前と一緒に国分寺署に送る。それとこのナイフで何をするつもりだったんだ」

「ナイフは、いつも山に行く時には持って行く。何かをするつもりはなかったけど‥‥」

「けど、何だ。また彼女と一緒にいる男を刺すつもりだったのか」

「それは分からない。状況によりますからね」

「お前は、そんなに彼女の近くにいる男が憎いのか」

「彼女はアイドルなんだ。私も含めてみんなのアイドルでいるべき女性なんだ。独り占めは許せない」

 仲澤が「狂ってる」と呟き、野田を見ると、野田も「普通じゃない」と呟いた。


 昼になり、空木は仲澤、野田とともに昼食を一緒に取ることになった。仲澤が、昼食の弁当を前に口を開いた。

 「空木さんも聞かれたと思いますが、変なんです。被害者はナイフで二度刺されて、その凶器のナイフは見つかっていないのに、浜寺は、一度しか刺していないと言い、ナイフも現場に残してきたと言っています。どういうことなのか。浜寺が、犯人であることは間違いないのですが‥‥」

 仲澤の疑問は、昨日からの空木の疑念を膨らませた。

 「仲澤さん、私たちが長谷辺さんの死体を発見してから、搬送するまでの長谷辺さんの向きは、俯せだったことを覚えていますか」

「我々が到着した時には、長谷辺さんの死体は、もう小屋まで下ろされていましたから分かりませんが、現場写真を見れば、確認はできます。‥‥浜寺が刺して逃げる時は、仰向けだった被害者が、空木さんたちが発見した時は、俯せだった。しかも、二つ目の刺傷をつけられた上に、凶器がなくなっていた」

「そういう事なんです。考えられる事は、浜寺が刺した後、誰かが現場へ来たということだと思います」

「空木さんが、被害者の体の向きを確認して欲しいと言ったのは、そういう事だったんですね。もう一人長谷辺さんを刺した人間がいる。それが可能なのは、小屋番か‥‥弟」

「‥‥弟の稔さんだと思います」

 空木は、昼食を食べ終わると、野田と仲澤に見送られて奥秩父署を出た。車で送ると言う仲澤の申し出を断って、空木は西武秩父駅まで歩いた。

 昨日、雁坂峠からの下山時、長谷辺稔のある言葉が空木の胸にずっと引っかかっていた。それは「兄はここで、仰向けに倒れていた」と言った稔の言葉だった。兄の長谷辺保は、空木たちが見つけた時には、俯せだった筈だ。その言葉に加えて、小屋番が稔に話していた「三度目」という言葉だった。空木は、想像したくない、不吉な推理が浮かんでくるのが辛かった。

 昨日、電車を待つ塩山駅のホームのベンチで空木は、稔に話し掛けた。

 「長谷辺さん、二度目の雁坂峠は探し物ですか」

「‥‥線香を上げに行きました」稔は一瞬の間をおいて答えた。

「信じていいんですね」

 稔は何も答えず、真っ直ぐ正面を見つめていた。


 西武秩父駅からの帰路の車中、空木の脳裏から、昨日の塩山駅で、真っ直ぐ正面を見据えた長谷辺稔の横顔が離れなかった。そして、小さな懸念が芽生え始めた。国立駅に着く頃には、空木の小さな懸念という雲は、真夏の積乱雲のように高く大きく広がっていた。

 

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