第8話 別件

 ホープ製薬は、立川駅近くの大和やまと薬品工業が入っているビルと、同じビルに入っていた。

 空木は、乗倉とともにオフィス街のコーヒーショップで遠藤というMRと面会した。

 空木の名刺を見た遠藤が、

「探偵事務所の所長さんが、私に聞きたい事って一体なんですか‥‥」と怪訝な顔つきで訊いた。

「遠藤さんは、山歩会さんぽかいという山の会をご存知だと思いますが、私はその山歩会から依頼されて調べていることがあります」

 空木の突然の取ってつけた面会理由に、乗倉は驚いた顔をして空木を見た。空木は、乗倉に「大丈夫」と言うように頷いた。

「調べている事?ですか‥‥」遠藤は一層怪訝な顔になった。

「長谷辺さんの事件はご存知だと思いますが、山歩会のメンバーには、それ以前にも嫌がらせめいた事が起こっていました。そこで、遠藤さんに単刀直入に伺いますが、山歩会への入会を長谷辺さんに断られ、恨みを抱いて山歩会への嫌がらせや、長谷辺さんを恨んで殺意を抱いたりしませんでしたか」

 空木の話を聞いていた、遠藤の顔がみるみるうちに強張った。

 「とんでもない事を言わないで下さい。山歩会を恨む?ましてや長谷辺を恨んで殺意を抱くなんてとんでもないですよ。山歩会への入会希望にしても、あれは私から言い出した訳ではなくて、長谷辺から誘われたんです。長谷辺は、私がいろんな山に登っていることを知っていましたから、誘ってくれたんだろうと思いますけど、入会出来ないことになって、彼は私に随分謝っていました。私は入りたいとは思っていませんでしたから、全く気になりませんでした。逆に良かったと思ったぐらいです。グループに入ると面倒な事もありますからね。ですから、山歩会は勿論、長谷辺にも恨みなんてありませんよ」

 遠藤の話を聞いた空木は、予想通りの話に、淡い期待が挫けてしまった。

 「長谷辺とはその後も山の話は良くしましたよ。亡くなる前も雁坂峠の話を、卸で会った時にしましたから、わだかまりも何もなかったですね」

 思わぬ遠藤の言葉に、空木と乗倉は顔を見合わせた。

「その雁坂峠の話というのは、どんな話だったんですか」空木は、たかぶる気持ちを抑えるようにゆっくりとした口調で聞いた。

「特別な話をした訳じゃありません。雁坂トンネルの料金所の駐車場には何台ぐらい停められるのかとか、峠への急坂はどの位続くのかとか、峠に十一時までに着くには何時にスタートしたらいいか、とかですよ」

「お二人のその話を、他に誰か聞いている人はいませんでしたか。若しくは遠藤さんは、誰かにその話を話しませんでしたか」

「誰にも話していませんが、あの時は、卸の朝礼が終わるのを待ちながら、入口で話していましたから、何人か周りにはいましたね。でも話を聞いていたかどうかは分かりません」

「近くにいた方で遠藤さんの記憶に残っている人はいませんか」

「正直言って、私は病院の担当なので、卸にはあまり行くことはありません。長谷辺も同じだったと思います。エリアを担当しているMRは、ほぼ毎日行くと思いますが、我々は担当のセールスに用件が無い限り訪問することは稀です。つまり、エリア担当のMRとは滅多に会うことも話すことも無いので、顔も名前も分かりません」

 空木は、自分が病院を担当していた頃を思い起こし、確かに自分も当時は遠藤の言っている通り、あまり卸には行かなかったと思い、頷いてコーヒーを口に運んだ。

 「ところで遠藤さんは、長谷辺さんの事件があった日、五月二十二日土曜日ですが、どこにいらっしゃいましたか。突然、警察の取調べのようになってしまってすみません。山歩会からの依頼に応えるための確認ですので気を悪くしないで下さい」

 遠藤はスマホでスケジュールを確認してから「‥‥あの日は、家族で東伊豆へ一泊の旅行に行っていました。道路が渋滞して大変でした。泊まったホテルも言った方が良いですか」

「あ、そこまでは結構です。ありがとうございました」

 空木と乗倉は、遠藤に改めて礼を言って別れた。

 昼食のラーメンを食べ終わり、空木は「俺は今から中野坂上まで行ってくる用事があるからここで失礼するよ」と乗倉に言った。

「僕も今から昭和記念総合病院へ行って、薬審の結果を聞きに行ってきます」

「そうか、採用されるかどうか、結果がどうあれ、一件落着だな。今夜一杯やるか」

「ええ、やりましょう」

 空木は乗倉と別れ、立川駅に向かった。


 中野坂上駅で降りた空木は、昨夜の道を思い出しながら「坂上さかうえハイツ」を探した。

 日差しの中で見る坂上ハイツは、思った以上に古びた建物だった。空木はハイツ全体をスマホのカメラに収め、階段を上がって205号室の前まで行ったが、やはり表札は出ていなかった。昨夜同様、郵便受けの205を覗くと、今日は紙切れのようなものが入っていた。空木は周囲を一度、二度見廻してそれを取り出した。それは電力会社の検針票だった。後ろめたさを感じながら、空木はその検針票の名前を確認した。「倉渕良介くらぶちりょうすけ 様」と印字されている名前を頭に入れ、検針票を元に戻した。

 空木は電信柱に貼られている住所表示「中野区本町二丁目」を確認しながら、倉渕という男が昨日、国分寺でマンションに立ち寄ったのは、何だったんだろうと、改めて思い返していた。仕事の関係で立ち寄ったのか、友人を訪ねて不在だったのか分からないが、住居はこの「坂上ハイツ」に間違いない。空木はハイツの周りを歩きながら、倉渕という男の職業、勤務先、電話番号が分かる方法がないか考えていた。「坂上ハイツ」と書かれた看板に、管理会社の名前が連絡先とともに表示されていることに気付いた。空木はそれをスマホに収めた。


 その日の夜、空木は乗倉と平寿司のカウンターで、鉄火巻きと烏賊刺しを前にビールを飲んでいた。

 「ノリ、採用になって良かったな、おめでとう」

 今日の午後、昭和記念総合病院の下山薬剤部長を訪問した乗倉は、大和薬品工業のインカルグルと採用を争った結果、万永製薬のダイナカルグット、つまり乗倉の会社の薬が採用になったことを告げられた。処方例数にしてわずか一症例分の差だったことを教えられた。

 その結果を、乗倉は所長の土居に報告するより早く、空木に連絡していた。

 「ありがとうございます。とは言っても、複雑な気持ちです。長谷辺とは競い合う形になってしまいましたが、長谷辺のお陰で採用に漕ぎ着けた訳ですから、素直には喜べません」

「そうだな、ノリの気持ちは良く分かるよ。しかし、これで責任を果たした訳だから、担当を替えて貰えば良いじゃないか」

「‥‥僕としては、転勤したいと思っているんです。時間が解決してくれるかも知れませんが、ここを離れる方が気分は楽ですから」

「犯人が捕まれば、ノリの気持ちも少しは楽になるかも知れないよ。それにしても、今日の遠藤さんの話を聞いた時は、もしかしたらと思ったけど、結局ダメだったな」

「そうでしたね。長谷辺の行き先を知った人間に繋がったと思ったんですけど、残念でしたね。でも、長谷辺の周囲に、彼が雁坂峠へ行くことを知った人間がいた可能性がある、というだけでも良かったんじゃないですか」

「確かにそうだな。エリアを担当しているMRの誰かが、知っている可能性があるということだけど、候補のMRの数が多いな。山登りが好きなMRに絞れると良いんだけどな」

「‥‥そうだ、岡部に聞いてみましょう。岡部はエリアも担当していますし、山登りもしますから、山好きなMRに心当たりがあるかも知れないですよ。でも空木さん、やっぱり犯人はMRなんでしょうか‥」

「そうは思いたくないが、その可能性はある」

 空木は、今日もビールから焼酎の水割りに替え、乗倉も冷酒に替えて飲み始めた。

 「ところでノリ、俺が今日、中野坂上に行ったのは、以前お前にも話した立川駅での藤江先生の災難に関係した事で行ったんだ」

「‥‥というと藤江先生がバッグで殴られた事件ですか。僕の頭からは消え去っていましたけど、犯人でも見つかったんですか」

「バッグで殴った男と決まった訳じゃないんだが、その可能性が高いと俺は思っている。それでノリにまた頼みなんだけど、俺はその男に手紙を出そうと思っている。ついては、藤江先生にこの話をしておいて欲しいんだ。先生の名前を出すようなことはしないけど、この男に間違いないと判断したら、警察へ通報するつもりでいることも伝えてくれ」

「へー、空木さん凄いですね。どこでその男を見つけたんですか。探偵の勘ですか。藤江先生には、来週の月曜か火曜に会えると思いますから、お伝えしておきます」


 長谷辺保が、雁坂峠で刺殺されて二週間が経過した土曜日、奥秩父署に設置された捜査本部では、犯人が歩いたと思われる登山ルート、下山ルートをたどっても手掛かりとなるものは見つからず、またサングラスにマスクの登山者の下車駅の探索もこれという進展はなかった。

 捜査は行き詰まり、捜査本部の要員は大幅に縮小され、埼玉県警本部、近接の警察署からの応援要員たちは、それぞれの所属に戻って行った。


 週が明けた火曜日の夕方、空木のスマホが鳴り登録外の着信を示す電話番号が表示された。

 「空木ですが‥‥」

 初めて受ける電話に空木は幾分緊張した。

 「突然すみません。昭和記念総合病院の藤江です。立川駅ではご迷惑をお掛けしました」

「あ、藤江先生ですか、ご無沙汰しております」空木は、一層の緊張感が走った。

「乗倉さんからお話は伺いました。まさか空木さんが、あの件を忘れずにいたとは驚きました。それで、その男への手紙はもう出されたのでしょうか」

「いえ、まだ文面を考えているところですが、何か気になることでもおありですか」

「気になることではなくて、空木さんにお願いがあるんです。それは、私の思いをその男に伝えて欲しいんです。まだ、犯人と決まった訳ではないので文面は難しいかも知れないのですが、文面に入れ込んでいただけるとありがたいのです」

「そうですか、分かりました。それでしたら、文面を考えますので、取り敢えず先生の思いというのをお話しいただけますか」

「はい、それは、故意だったのか、過失だったのかに関わらず、他人に迷惑を掛ける、傷つけることの重大性を心にしっかり刻んで欲しい、ということが一つ。もう一つは、これからのあなたの人生を良い人生にするために、他人の事を気に掛ける人間になって欲しい、という二つの事を伝えて欲しいんです。それを理解してもらえれば警察には通報しない、と伝えてください」

 藤江の言う事は、人間のあり方としては望ましいし、理解できるが、果たして純粋にそれだけだろうか、と空木は何故かすっきりしない微妙な思いがした。

 「先生の思いはわかりました。しかし、相手が先生の思いを理解したのかどうかを、どう判断しますか。それが分からないと警察への通報の是非の判断が出来ませんよ」

「‥‥‥何らかの方法で、私たちにサインのようなものを送ってもらうことはできないでしょうか。例えば、私か空木さんの携帯にショートメールか電話を入れてもらうというような事は出来ないでしょうか」

「うーん‥‥」

 見ず知らずの相手に、こちらの携帯電話の番号を知らせるのは、いかがなものかと、藤江のアイデアに空木は賛成しかねることを返すと、藤江は、

「全て空木さんにお任せします。ところで、その人はどの辺りに住んでいるんですか」と訊いてきた。

「中野坂上駅近くの坂上ハイツというアパートに住んでいて、名前は倉渕と言いますが、まだその人が犯人と決まった訳ではありませんから、そのつもりでいてください。またご連絡します」

 電話を終えた空木は、冷蔵庫から缶ビールと貝柱の水煮の缶詰を取り出してベランダに出た。富士山は望めなかったが、茜色に染まる雲は明日の好天を思わせた。あと一週間もすれば関東地方も梅雨入りするのだろうと思いながら、藤江の思いを汲んでどういう文面の手紙にするのか、どういう手段で相手の意思を知ることが出来るのか、煙草に火をつけて考えた。

 考えがまとまらないまま、ベランダから部屋に戻り、焼酎のロックを飲み始めた時、スマホが鳴った。乗倉からだった。

 「今日、藤江先生に会って来ましたよ」

「ありがとう。夕方、先生から連絡があったんだ」

 空木は、藤江からの連絡の主旨を乗倉に伝え、頭を悩ませていることを話した。

「そうですか、言っては何ですが、面倒くさい話ですね。でも、先生は私には空木さんにお礼をすると言っていましたよ。それから、岡部にMRの心当たりの件を連絡したら、二、三日中に私と空木さんに連絡すると言っていましたから、連絡を待っていて下さい」


 翌日、トレーニングジムから帰って来た空木は、パソコンの前に座り、「坂上ハイツ」に住む男宛の手紙の文章をキーボードに打ち込んでいた。


 倉渕 良介 殿

前略

 突然の手紙の非礼をお詫びします。

 私は、去る五月十三日木曜日の午後、立川駅のエスカレーターで知らない男性に、バッグで殴られ倒されました。先日、偶然にその男とよく似た男性に遭遇しました。あなたは私を全く覚えておられないと思いますが、傷つけられた人間は、心身の傷とともに相手を忘れません。あなたは、立川駅でバッグを振り回し、私たち三人を倒した男性に非常に良く似ています。私は、あなたをカメラで撮影しました。立川駅の構内カメラと照合すれば、あなたが私たちを倒した人物かそうでないか判明するでしょう。

 私たちは、あなたがこれからの人生の中で、次のように思って生きて行くことを誓っていただければ、警察には連絡しないことにしようと決めました。

 一、自分のした事が、他人を心身ともに傷つけた罪であることを認め、反省すること

 二、これからは、他人を思いやる心を持って二度とあのような事はしない

以上の事を約束していただければ全ては、私たちの心の中に収めることを約束します。

 約束していただけるのであれば、お手数ですが、別紙の誓紙に署名をして下記に返送して下さい。尚、この手紙の内容が、全くの事実誤認と主張されるか、誓紙を返送する意志がない場合は、返送いただく必要はありませんが、その時は、私たちは警察に連絡する事と致します。返送期日は六月二十日、日曜日着とさせていただきます。

 送付先住所 国分寺市光町一丁目六 プラザ光 スカイツリー万相談探偵事務所

 草々


 別紙には、次のように書かれていた。

 【誓紙】

 ご迷惑をお掛けしたことを深くお詫びし、約束を守ることを誓います。

 

 空木は、倉渕の意思確認の方法を考えた結果、自分の探偵事務所名を使うことにした。こうすれば当事者である自分と藤江の名前を出さずに、しかも、探偵事務所に調査依頼をした上での、告発文であるかのような説得力を持つと考えた結果だった。

 この手紙は、週末には「倉渕良介」の手に渡ることになる。空木は、藤江にこの手紙を発送したこと、誓紙の返送先を自分の探偵事務所にしたことを連絡した。


 その日の夜、岡部綾から連絡が入った。

 「乗倉さんにも連絡しましたが、エリアを担当しているMRで山登りが好きな人は、私を含めて四人はいると思います。調べられるだけは調べた結果なんですけど、四人以外にもまだいるかも知れませんが、私にはこれ以上は分かりませんでした」

「ありがとうございます。それで十分ですから、岡部さん以外の三人の方の名前を教えていただけますか」

 岡部綾は、三人の名前と会社名を空木に伝えた。マルス製薬の飯沢、プリンス製薬の浜寺、IMファーマの水谷の三人だった。

 「空木さん、三人に会うつもりなんですか」

「警察なら、アリバイの確認とか言って、捜査として会えるんだろうと思いますが、私の立場では会う理由付けが難しいので、今は会うつもりはありません」

 空木は岡部綾に礼を言って電話を切ると、先日奥秩父署からの帰りに渡された、仲澤刑事の名刺を捜し出してテーブルの上に置き、芋焼酎のロックを口に運んだ。ここまで調べたことを、このままで終わらせるのは少しばかり思いが残る。この先は警察の力を借りるべきだと空木は考えていた。


 次の日の昼、トレーニングジムから帰った空木は、奥秩父署の仲澤に電話を入れた。

 「仲澤さんに、事件の事で相談したい事が出来て電話させてもらいました」

 空木は前置きを言ってから、長谷辺保が事件前に、遠藤というMRに雁坂峠へ登る事を話していたこと、そしてその会話をしていた場所の医薬品卸には、何人かのMRがいたらしいことを話した。MRを特定は出来ないが、山好きで、かつ長谷辺の話を聞いていたかも知れないMRを三人に絞ったことを説明した。

 「これから先、一探偵の私がどうやって調査を進めたらいいのか、悩んでいるんですが、何か良い方法はありませんか」

「空木さん、そこから先は我々に任せて下さい。そこまで調べられたことに頭が下がります。その三人の名前を教えて下さい」

 空木は、しめたと思った。岡部綾から聞いた三人のMRの会社名と名前を仲澤に伝えた。これで捜査に進展があるとは限らないが、空木自身の調査の結着を見られることに期待した。

 仲澤からの報告を受けた刑事課長の野田は、縮小した捜査本部の捜査員に、空木から伝えられた三人のMRからの聞き取りと、その三人のアリバイの裏を取るよう指示した。


 奥秩父署の捜査本部は、三人のMRの聞き取りにかかった。翌日の金曜日にはマルス製薬の飯沢と、IMファーマの水谷の二人からの聞き取りが、仲澤たちによって行われた。

 マルス製薬の立川営業所は駅近くのビルに入っていた。仲澤たちは、飯沢と営業所内の会議室を使って面会した。

 埼玉県警の刑事から、面会の申し入れを受けた飯沢は、長谷辺保の事件に関して話を聞きたいと言われ、戸惑っていた。

「大和薬品工業の長谷辺保さんは、ご存知ですね」

「亡くなられた方ですね。私は、全く面識が無くて知らないんです」

「飯沢さんは、山登りがご趣味だと聞きましたが、五月二十二日土曜日はどちらにいらっしゃいましたか」

 自分の趣味を刑事がどこで知ったのか、不思議に思いながら飯沢は、幾分緊張しながら考えていた。そしてスマホを取り出してスケジュールを確認した。

 「その週末は、前日の金曜日から社内の仲間と一緒に八ヶ岳に行っていましたから、土曜日は行者小屋のテント場から赤岳をピストンして、夜東京に戻ってきました」

 仲澤は、飯沢と一緒に八ヶ岳に行った仲間二人の名前を、手帳にメモした。


 同じ立川に営業所がある、プリンス製薬の浜寺への聞き取りをしたかったが、浜寺は休暇を取って東京にはいなかったため面会は、来週の月曜日に予定された。

 

 仲澤たちは、三鷹に移動して、IMファーマの多摩営業所を訪問し、水谷と面会した。

 水谷も飯沢同様に埼玉県警の刑事の訪問に戸惑った。そして五月二十二日土曜日の行動を聞かれた水谷は、顔をこわばらせて中空に視線をやりながら考えていた。

「‥‥確か家族で、立川の国営公園に行きました。ランチを済ませてから、公園に入りました」

「ご家族以外の方と、会われましたか」

水谷は、首を横に振って「いいえ」と答えてから、またしばらく考えた。

「スマホで写真を撮りました。これです」と言って、家族四人で写っている写真を、仲澤に見せた。写真の日付は五月二十二日土曜日だった。


 六月十二日土曜日、梅雨入り前の最後の晴天かも知れないと思った空木は、奥多摩の多摩三山の一つ、御前山に登ることにした。長谷辺たち山歩会の四人が、四月に登った山でもあったが、広い頂上と石尾根のスカイラインの眺めが、空木は好きだった。

 奥多摩湖のバス停で降りた客は、五人だった。その五人のうちダムを渡って御前山登山口に向かったのは、空木と年配のハイカーの二人だけだった。駐車場に数台の車が停まっていることから、何人かのハイカーが既に山に入っているのだろう。

 奥多摩湖を眼下に望むサス沢山までの樹林帯は、風が通らない事もあって空木は大汗をかいた。標高が1000メートルを超えると、吹く風が心地良い。急坂を越え、惣岳山そうがくやま直下の急坂が胸突き八丁だ。惣岳山を越え御前山の山頂に到着したのは、奥多摩湖をスタートしてから、およそ三時間経過した十二時前だった。

 山頂には、既に十人近いハイカーが広い山頂で休んでいた。御前山の山頂は、百名山の一つで東京都の最高峰、雲取山を望む北側は開けているが、残りの三方は落葉広葉樹で囲まれて眺望は望めない。葉を落とした季節は木々の間から富士山を垣間見ることも出来るが、今の季節からは、緑が日に日に濃くなり、眺望は一層望めなくなる。

 空木は、御前山1405メートルと書かれた石塔の前に立って、周囲を見廻した。若葉が鮮やかだ。長谷辺たちがここで写真を撮った季節は、ナラなどの新芽が芽吹いて淡い緑のベールをかけたような風景を、見せていたのではないかと想像した。

 空木は、スマホを取り出し、岡部綾が送信してくれた山歩会のメンバー四人が写った写真を開いた。長谷辺とは会ったことは無いが、写真は良い笑顔だった。この一か月後に刺殺されるとは思いもしなかっただろう。先崎文恵も岡部綾も良い笑顔だ。写真を拡大してその周囲を見ていた時、空木の目があるところで止まった。それは、集合写真の左端に写っているハイカーとザックだった。さらにその部分を拡大すると、サングラスをしてデウテル製とおぼしきザックを背負っていた。空木の血が騒ぎ、胸が高鳴った。

 スマホの電波は立っていた。空木は、乗倉の携帯に電話をかけ、乗倉にも岡部綾から送信されている御前山の集合写真を見るように、そして左端に写っているハイカーを拡大して良く見るように指示した。

 しばらくして乗倉から連絡が入った。

 「僕にはよく分かりません。空木さんほど、あの時すれ違った登山者を見ている訳ではありませんから、サングラスをしているという事しか、似ているとは言えません。役に立てなくてすみません」

「そうか、他人の空似ということかも知れないな。悪かった、ありがとう」

 空木は、電話を切った後も、集合写真を見つめていた。

 昼食のラーメンを食べ、煙草を吸い、淹れたコーヒーを飲む。至福の時間を過ごした空木は、二時間ちょっとで湯久保尾根を下り、小沢のバス停に下山した。下山している間も、写真に写っているあの男が気になった。サングラスとデウテルのザックの組み合わせは、珍しい訳ではないのだろうか。自分も今、サングラスを掛ければ写真の男と一緒の姿格好になると思えば、珍しい組み合わせではないのかも知れない。サングラスが珍しいことではないとしたら、マスクでの登山はどうだろう。如何にコロナ対策とは言え、滅多に人と会わない山でのマスクは異様だろう。

 

 空木が武蔵五日市駅から、国立駅に到着したのは、午後六時近かった。

 国立駅北口から、事務所兼自宅まで歩いて十二、三分の距離だが、その途中にある平寿司は、空木にとって黙って通り過ぎるのは極めて難しい、関所のような店で、特に山登りの後は、喉を潤し、空腹を満たす絶好の場所だった。

 暖簾をくぐり、格子戸を開けると、女性店員の坂井良子と女将の「いらっしゃいませ」の声に迎えられた。その声に合わせるように、野太い声で「久し振りだな 、健ちゃん」と、空木の高校の同級生で、国分寺署の刑事である石山田巌の声が迎えた。石山田の前には、既にビールと鮭のハラス焼きが置かれていた。

 「巌ちゃん、今日は休みなのか」空木は、石山田のポロシャツ姿を見て言った。

「そう非番なんだ。たまには健ちゃんと一杯やりたい、と思って出てきたということだよ」

「俺と一杯なんじゃなくて、俺のボトルで一杯やるんだろ」

 店員の坂井良子が、空木と書かれた芋焼酎のボトルを、石山田の横に置くのを空木は笑いながら見ていた。

「良子ちゃんが、空木さんは優しいから、ボトルを飲んでも怒らないって言うんで、じゃあ飲ませてもらおうかと思った訳なんだ。怒るなよ」

「石山田さん、私そんな事言っていません」坂井良子は、ボトルを空木の横にずらした。

「俺が怒らなくても、良子ちゃんが怒ったな」空木はそう言って笑い、グラスに注いだビールを一気に一杯、そして二杯と喉に流した。

 鉄火巻きを摘まみ、ビールで喉の渇きを潤して落ち着いた空木は、石山田に奥秩父署の捜査本部に出向いて、捜査協力した事から話し始めた。そして、長谷辺殺害事件は、長谷辺が入会していた山歩会という会への恨みに関わることではないかと疑って調べ、その結果を捜査本部に情報提供したことを話した。

 「その三人のMRのうち誰かが、山歩会と繋がれば、健ちゃんの推理が成立するかも知れないけど、どうだろうね。とは言え、捜査本部にとってはありがたい情報だと思うよ。じゃあ、今日はその協力費で飲もう」

 空木は、烏賊刺しとビールの追加を注文し、煙草を吸いに店外に出た。店内に戻った空木は、今度は、立川駅での転落事件の話を石山田にした。その事件の犯人らしき男と遭遇し、住所を突き止め、手紙で対応しようとしている事を相談するつもりで、一部始終を話した。

 「藤江という先生の思いがどうあれ、警察に通報すべき事だと思うよ。そのバッグで殴った男と同一人物なのかどうかの確認もそうだけど、立川駅で殴った犯人の狙いが藤江と言う人ではなく、健ちゃん若しくは健ちゃんが付き添いで一緒にいた女性を狙って起こした事件かも知れないだろう。女性が殴られなくて良かったけど、下手したら付き添いの責任が問われる事態になっていたかも知れないんだ。大事件になっていた可能性もあった事件ということなんだ。やっぱり警察に連絡すべきだよ」

「‥‥俺の判断が甘かったという事か、藤江先生に断って警察に連絡することにするよ。しかし、犯人の狙いが藤江先生ではなくて、俺ということは無いと思うけどな‥‥」

「それは分からないよ。犯人が、健ちゃんと先生の区別がはっきりついていたとは限らないだろう。人間には思い込みもある」

「思い込みか‥‥」呟きながら空木は、ふと考えた。山歩会の御前山で、足立医師がザックに水を掛けられたという事だが、それが嫌がらせをした人物の間違い、思い込みという事はなかっただろうか。つまり長谷辺のザックと足立のザックを間違えたのではないだろうか。長谷辺は、既に狙われていた。犯人は、水掛けの後は刺殺に及んだ。やはり犯人は、長谷辺を殺したい程恨んでいた、憎んでいたということなのかも知れない。

 空木と石山田が、焼酎の水割りを飲み始めてしばらくした時、石山田の携帯が鳴った。

 石山田は、画面を見て「ん」と小さく呟き、店の外に出た。直ぐに戻った石山田は、「健ちゃん、すまん、コロシだ。非番だが行ってくる。ここは頼んだよ」囁くように言って、慌ただしく平寿司を出て行った。時間は午後八時を回ろうとしていた。

 空木は、アルコールが入っていても事件となるとシャキッとするのは、さすが刑事だなと思いながら、店の外に出て煙草に火をつけた。

 しばらくして、煙草を吸い終わった空木は、店内には戻らず、岡部綾の携帯に電話をした。御前山の集合写真のサングラスの男が頭から離れなかった。

 「岡部さん、御前山の集合写真の左端に写りこんでいる、サングラスを掛けた男が気になっているんです。岡部さんたちは、その時その男に背中を向けていましたから、気付かなかったと思いますが、写真には写っています。山頂にいる時にサングラスを掛けた男とか、気になるような動きをする男がいなかったか、思い出して欲しいんです。出来たら先崎さんにも協力していただけませんか」

「‥‥そんな人はいなかったと思いますけど、写真の左端ですね、もう一度見てみます」

岡部綾は、「また連絡します」と言って、空木より早く電話を切った。

 店に戻った空木は、焼酎の水割りを飲み干し、締めに平寿司特製のパスタを注文した。

 女将が、石山田の帰った後片づけをしながら言った。

 「石山田さん、今日はちらし寿司は食べられませんでしたね。刑事さんも大変よね、事件は休みも時間も選ばないものね」

「そうだね」空木は生返事をしたが、石山田の囁いた「コロシ」と言った言葉が耳に残っていた。

 事務所兼自宅のマンションに戻った空木は、その夜各局のテレビニュースを注意深く見ていたが、国分寺署管内の事件を報じるニュースを見聞きすることはなかった。


 翌日の日曜日の午前中、空木のスマホが鳴った。岡部綾からだった。

 「空木さん、昨日の件なんですが、先崎さんとも話してみました。やっぱり、私たちが山頂にいる間は、サングラスを掛けた人も、気になる行動をする人もいなかったと思います。ただ、確かに写真の端っこに写っている人は、サングラスをしていましたね。それに、あのサングラスを掛けた人、浜寺さんに何となく似ているような気がして、先崎さんにも話したんですけど、浜寺さんは、あの時もう山を下りていた筈だから、いる筈がないと言われました」

「浜寺さんという方は、どなたですか」空木は、どこかで聞いたような名前だと思いながら聞いた。

「山歩会のメンバーではないんですが、先崎さんと同じ会社のMRさんで、あの日たまたま御前山で出会ったんです。先日、乗倉さんから頼まれて、山登りをするエリア担当のMRの人をお伝えしましたけど、その中の一人の人です」

 空木は、岡部綾の説明で思い出した。確か、三人のMRの名前を挙げてくれたのだった。そして、それを奥秩父署の仲澤刑事に連絡した。仲澤は、もう浜寺に会い、聞き取りを済ませたのだろうか。

 電話を終えて、空木はベランダに出た。どんよりとした空模様で、今にも泣きだしそうな雲行きだった。

 浜寺という男が、偶然、山歩会の目的地である御前山にいた。「偶然なのだろうか」と呟いた空木は、煙草を吸い終わり、部屋に戻った。

 テレビのニュースに目をやった瞬間、空木は我が目を、そして耳を疑った。

 「昨日の土曜日、夜八時ごろ、国分寺市南町の公園で男性が死亡しているのが見つかりました。死亡した男性は、倉渕良介さん四十歳で、首を絞められたような跡があり、警察は殺人事件として捜査を始めました。発見したのは‥‥‥」

 そこまで聞いた空木は、石山田の携帯に電話を入れた。何回呼び出し音が鳴っただろうか、空木が諦めかけた時、石山田の大きな声がいきなり飛び込んできた。

 「健ちゃんか、今、忙しくてゆっくり話は出来ないが、スカイツリーよろず相談探偵事務所の責任者に来てもらう事になりそうだ。後でまた連絡するけど、明日の午前中は空けて置いてくれよ」

 空木から電話をしたにも拘わらず、一言も話せないまま石山田から一方的に切られた。

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