第9話 捜査 Ⅱ

 その数時間後の石山田から空木への説明はこうだった。

 殺害された倉渕良介の部屋から、スカイツリーよろず相談探偵事務所を宛先にした文書が見つかった。捜査本部は、その内容の確認が必要と判断し、国分寺署内に設置された捜査本部に、探偵事務所の責任者に来てもらう事になった。

 その説明を聞いた空木は、昨晩石山田に話した、立川駅での事件に関連した人物こそが、倉渕良介であることを話した。

 「そうだったのか‥‥」石山田は、その偶然に言葉を失った。


 倉渕良介の絞殺死体は、犬の散歩中の主婦が夜八時前に発見し通報した。殺害された場所は、国分寺駅の南口を出て、東に少し歩いた殿ヶ谷戸とのがやと庭園の西側に隣接した公園の一角だった。身元は所持していた免許証から直ぐに判明したが、勤務先が分かるものは所持していなかった。鑑識の調べと検死が一通り終わると、遺体は三鷹の大学の医学部に司法解剖のために搬送された。

 所轄である国分寺署内に捜査本部が設置され、警視庁と近隣警察署の応援を含め、四、五十人の捜査員が集められた。

 『国分寺南町公園殺人事件捜査本部』と戒名が付けられた捜査会議は、死体が発見された翌日の日曜日の朝、九時から開かれた。署長の石川が本部長として捜査員への訓示から始まり、刑事課長の浦島が会議を進めた。

 「被害者は倉渕良介四十歳、住所は中野区本町二丁目坂上さかうえハイツ205号、職業は現時点では不明。司法解剖の結果、死因は太さ四、五ミリの紐状のものによる絞殺。死亡推定時刻は、六月十二日土曜日の夜七時三十分から八時の間。胃の内容物からは、蕎麦と野菜の天ぷらのようなものが未消化の状態で残っていたとのことだ。以上から他殺と断定、殺人事件として捜査を開始する。被害者は、財布は残されているが、スマホは所持していなかったのか、持ち去られたのか、被害者からも周辺からも見つかっていない。このことからは、物取りを目的とした犯行とは考えられない。初動ではほとんど手掛かりはなかったが、地取りは付近の住人、飲食店、それから駅と公園付近の防犯カメラを徹底的に調べる事。鑑取りはまず、被害者の自宅を捜索して、仕事、友人の手掛かりを捜すことから始めて欲しい」

 会議は三十分足らずで終わり、係長の石山田は、中野の坂上ハイツの捜索に他の刑事たちとともに出向いた。

 管理会社によれば、倉渕良介は独身で、勤務先は立川のメトロポリタン調査事務所となっていた。

 部屋は男の一人暮らしらしく、雑然としていた。テーブルには、ノートパソコンとビールの空き缶が数本と、一通の封書が、封が開いた状態で置かれていた。

 「係長、この手紙見て下さい。倉渕という男は何かしたんですかね」手紙に目を通した刑事は、そう言って手紙を石山田に渡した。

 石山田は、手紙に目を通していたが、最後の返送先と書かれた住所を見て固まった。

 「係長どうしたんですか。そこに書かれている探偵事務所の住所は、国分寺ですね。聞き込みに行きますか」

「‥‥ここに書かれている事務所は、俺の知り合いの事務所だ。場所も分かっているが、今日は休みだから明日の午前中に署に来てもらうことにする。今日は、これから立川にある倉渕の勤務先を確認しに行く」

 石山田は、スカイツリーよろず相談探偵事務所は空木の自宅でもあり、日曜日であっても空木と面会出来ることは分かっていたが、友人としての配慮からか止めることにした。

 その時、石山田はスマホが鳴り続けていることに気付いた。画面表示は、空木健介と表示されていた。慌てて電話に出た石山田は、一方的に明日、署に来るようにと話をして電話を切ったのだった。


 月曜日の朝九時過ぎ、空木は国分寺署に入った。空木が小会議室に案内され、中に入ると、机の向こう側に石山田と刑事課長の浦島が待っていた。

 「おはよう、浦島課長に会うのは初めてだね」石山田はそう言って、浦島を空木に紹介した。

 空木は、浦島と名刺交換をして、石山田とは高校時代からの友人であることを説明した。

 浦島は、空木の名刺を手に取って「奥秩父署からも連絡を貰っていますし、石山田からも空木さんのお話しは聞いています。今日も朝からご足労していただきありがとうございます」と、丁寧に挨拶した。

 空木が二人の前に座ると、石山田が封筒と手紙を空木の前の机に置いた。

 「‥‥これは健ちゃんが、いや空木さんが出された手紙ですね」

 石山田が自分の名前を言い直すのを聞いて空木は笑ってしまった。

 「ええ、そうです。私が先週の木曜日に投函した手紙です」

「まずこの手紙を出すまでの経緯を説明してくれますか。特に課長に分かり易く説明して下さい」

「特に俺に分かり易く、はないだろう、係長」浦島が口をはさんだ。

  二人のやり取りを聞いた空木は、また笑った。

 「課長さん、石山田刑事は一度私からこの話を聞いているんです。それで課長さんに分かり易くと、言ったんだと思います」

「そういう事なんです。私は二度目になります。では、空木さんお願いします」

 空木は、五月十三日木曜日の立川駅の事件から、偶然、坂上ハイツに住む倉渕良介に行き着いたことを説明した。そして、当事者である昭和記念総合病院の藤江先生と相談して手紙を出すことにした。その手紙が、今机の上にある手紙だと説明した。

 「大体こんな経緯です。何か漏らしていることあるかな、巌ちゃん‥‥いや石山田刑事」

「いや、無い。一度目より丁寧に説明してくれた」

「電力の検針票から名前を知った訳ですか。それでも被害者の職業までは分からなかったという事なんですね。しかし、何故手紙なんかで対応しようとしたんですか。警察に通報するべきだったのではないんですか」

 浦島の横に座っている石山田が、腕組みをしたまま目をつぶった。空木には、石山田の「俺の言った通りだろ」と言う無言の声が聞こえた。空木は頭に手をやった。

 「それは石山田刑事にも言われました。私としては加害者の顔を覚えていた訳ではなく、バッグのロゴマークを根拠に追跡した結果だったので、確信がない中で警察に連絡するのは、躊躇しました。それに加えて、藤江先生からのお願いもあったので、手紙での確認をしてからにしようと思ったのですが、今から思えば警察に連絡すべきだったと思っています。すみませんでした」

「今、ロゴマークとおっしゃいましたが、どんなロゴマークなんですか。ブランドですか」

「いえブランドではありません。立川競輪場の「鳳凰」をあしらったロゴマークでした。滅多に見ることはないマークなので、たまたま覚えていたんです」

「立川競輪場のロゴですか。確かに珍しいですね。ところで藤江先生は、何故直ぐに警察に通報するように言わずに、それどころか許すことにしたんですかね‥‥」

「それは私には分かりません。罪を憎んで人を恨まず、ではないですか」

「藤江先生は、倉渕良介の名前は知っていたんでしょうか」

「先生に聞かれて、私が住所と名前を教えましたから、知らなかったが、知ったという事になるでしょうね」

 浦島の質問に答えた空木も、あの時の藤江との電話のやり取りに、名前を聞かれたことも含め、いささかの疑問を持ったことを思い返していた。

 空木の話を黙って聞いていた石山田が、思い出したかのように口をはさんだ。

 「課長、殺害現場にも、倉渕良介の部屋の捜索でも、立川競輪場のロゴの付いたバッグは見つかりませんでしたよ」

「スマホも部屋に無かったということは、犯人がスマホと一緒にバッグも持ち去った可能性があるという事か」

 二人のやり取りを聞いていた空木も、「一つ聞いて良いですか」と口を挿んだ。

 「倉渕さんの仕事というのは何だったんですか」

 石山田は手帳を開いた。

 「勤務先は、立川市柴崎町のメトロポリタン調査事務所西東京支社。今日、この後聞き取りに行く予定でいるんだけど‥‥。健ちゃん、いや空木さんと同業のようだ」

「同業者だったんですか。ということは、あのバッグには所謂いわゆる我々探偵の七つ道具が入っていたという事ですね。犯人がバッグごと持ち去ったという事は、犯人にとって都合の悪い物が中に入っていたのかも知れませんね。例えば、カメラとか‥‥」

「その可能性は高いかも知れない。しかし犯人が、そのバッグを持ち歩くことは絶対に無いだろうな」

「持ち歩くことは無くても、捨てる可能性はある。係長、競輪場のグッズカタログを入手して全捜査員に持たせてくれ。空木さん、バッグ以外で何か気付いたこととか、気になった事とかはありませんか」

 空木は浦島の問い掛けに、直ぐに、倉渕が国分寺駅南口のマンションに立ち寄った事を思い浮かべた。倉渕という男は、真っ直ぐにあのマンションに向かって歩いて行った。道を確かめる風もなく、迷わずに歩いて行った。

 「気になった事がありました。倉渕という男は、私たちと一緒に立川から電車に乗ったんですが、国分寺で降りました。結果的には途中下車でしたが、私は国分寺が住まいだと思って、後をつけました。そして南口から数分歩いたところのマンションに入ったのでここが住まいなのか、と思ったら十秒もしないうちに出てきたんです。要は立ち寄っただけでした。友人にでも会おうとして不在だったのかも知れませんが、気になりました」

「健ちゃん、そのマンションの名前、分かるかい」石山田は、もう空木さんとは呼ばなくなっていた。浦島も諦めたのか、気にならなくなったのか無視していた。

 空木は、バッグから手帳を取り出した。

 「国分寺南町の『グランメゾン サウスタウン』だよ」

「さすが、探偵だ。課長、被害者の知り合いがいるかどうか、当たってみましょう」

 浦島は頷いた。


 国分寺署を出た空木が、事務所兼自宅の部屋に戻ったのは、午前十一時に近かった。

 ベランダに出た空木は、どんより曇った空を眺めながら、煙草を吸った。空木には二つの事が気になっていた。一つは、奥秩父署の三人のMRの聞き取りがどうなったのか。もう一つは、ついさっき国分寺署で話した藤江のことだった。

 三人のMRについては、自分が情報提供したことでもあり、訊く権利がありそうに思えた。藤江のことについては、連絡すべきか、成り行きに任せるべきか迷っていた。国分寺署のあの二人の様子から考えると、聴取に行く可能性が高い。空木は、時計を確認した。十一時半だった。藤江はまだ午前の外来の真最中だろう。

 空木は、奥秩父署の仲澤の携帯に電話をした。仲澤は直ぐに電話に出た。移動中の車の中のようだった。

 「仲澤です。空木さんどうかされましたか」

 仲澤の携帯には、空木の携帯の電話番号が登録されているようだった。

 「仲澤さん、忙しいところ電話してすみません。先日仲澤さんに連絡したあの三人の調査がどうなったのか、気になって電話しました。もう調査は終わったんでしょうか」

「ええ、先週の金曜日に二人、今日残りの一人がさっき終わったところです。三人とも長谷辺保とは面識は無いとのことでした。当日のアリバイも三人ともありましたが、確認が取れたのは二人で、一人は確認の取りようがありませんでした」

「そうですか。因みに確認が取れなかったのは誰だったんでしょうか。差支えがなかったら教えていただけませんか」

「‥‥空木さんからいただいた情報ですから良いでしょう。その一人は、さっき聞き取りを終えた浜寺さんです。事件の当日は、前日の金曜日から雲取山の避難小屋に泊まって、土曜日に帰宅した、とのことでした。有給休暇の確認は取れたんですが、避難小屋の宿泊の確認は取りようがないんです。写真も一枚も撮っていないらしく雲取山にいったのかの確認も出来ませんでした」

「浜寺さんが雲取山ですか‥‥。分かりました、ありがとうございました」

 電話を終えた空木は、雲取山から雁坂峠までの所要時間を想定してみた。雲取山から将監しょうげん峠までがおよそ五時間、将監峠からがん峠までが三時間、雁峠から雁坂峠までがやはり三時間で、合計およそ十一時間掛かるだろう。犯行のあった午前十一時までに雁坂峠に着くには、真夜中の十二時に雲取山の避難小屋を出て、休み無しで歩かなければ着けない。不可能ではないが、かなり厳しいだろう。例え、浜寺という男が、長谷辺保の殺害と無関係だとしても、御前山での山歩会のメンバーへの嫌がらせに関係していた可能性は残っている。空木は、乗り掛かった舟もここまで来たら、浜寺に面会するべきだと思い始めていた。

 カップ麺の昼食を済ませた空木は、藤江の携帯電話に電話を掛けたが、留守録になった。「時間が空いた時に連絡して欲しい」旨の伝言を入れ、藤江からの連絡を待った。

 程なく藤江から電話が入った。

 「藤江です。もしかしたらあの男から返信がありましたか」

「いえ‥‥、先生はもしかしたら、あの倉渕という男が殺された事は、ご存知ないのですか」

「えっ、殺されたんですか‥‥」

 空木は、藤江に倉渕良介が殺害された概略を説明した。

 「それで、私の出した手紙が被害者の部屋で見つかったことから、警察に事情を聴かれました。その際、先生と相談した上で手紙を出したと言いましたから、いずれ先生にも警察が事情を聴きに行くのではないかと思って、ご連絡した次第です」

「‥‥そうですか。分かりました、ご連絡ありがとうございました」

 藤江との電話を切った空木は、スマホを握ったまましばらく考えた。そしてスマホの電話帳リストから先崎文恵を選んで押した。先崎文恵とは、長谷辺の葬儀で名刺の交換をしていたが、文恵の携帯には空木の携帯の番号は登録されていないようだった。

 「もしもし先崎ですが‥‥」

「空木です。探偵の空木です。突然電話してすみません。先崎さんにお願いしたいことがあって電話しました」

「‥‥‥」先崎文恵は無言だった。その無言は、空木に疑心を抱いているように思えた。

「先崎さんの会社に浜寺さんという方がいらっしゃると思いますが、その方にお会いしたいんです」

「‥‥空木さんは浜寺をご存知なんですか」

「いえ、全く知りません。ですから先崎さんにお願いしているんですが、何とかしていただけないでしょうか」

「会えるとは思いますが‥‥空木さんが浜寺さんに会いたい理由は何ですか。浜寺さんには何と言えば良いでしょう」

「御前山での山歩会への嫌がらせは、先崎さんもご存知の通りだと思いますが、その事について確認したい事があります。浜寺さんには、山歩会から依頼された調査で聞きたいことがあると、言っていただけないでしょうか」

「探偵さんということを話しても良いんですか。それに山歩会から頼まれた調査だなんて、本当なんですか」

「探偵であることは伝えて下さい。山歩会からの依頼と言うのは嘘になりますが、山歩会に関連したことを聞きたいのは本当です。何とか会えるようにお願いします」

「‥‥分かりました。浜寺さんに聞いてみますから、折返しの連絡を待っていて下さい」

 先崎文恵は、御前山の集合写真に写りこんでいた男が、浜寺に似ていると言った岡部綾の言葉を、思い返しているのではないか。浜寺に疑いを持っている空木を、快く思っていないように空木には感じられた。


 空木からの聴取を終えた石山田は、立川市柴崎町二丁目のビルの三階に入っている、メトロポリタン調査事務所西東京支社に向かった。

 石山田は、支社長の富永に警察証を見せて事務所に入った。

 「テレビのニュースを見て驚きました。まさか倉渕が殺されるとは‥‥」

「支社長さんから見て、倉渕さんが社内外で恨まれるようなこととか、問題を起こしていたとかはありませんでしたか」

「倉渕の仕事ぶりがすこぶる真面目とは言えませんでしたが、社内で恨まれるようなことは無かったと思います。社外については、こういう仕事柄恨まれる事が全く無いとは言えないかも知れませんが、クライアントから事務所にクレームのようなものが来たことはありませんし、私には分かりかねます。倉渕は誰かに恨まれて殺されたんでしょうか‥‥」

「それは現段階では、何とも言えませんが、金銭目当ての犯行ではないようです。事件のあった日の土曜日、倉渕さんが誰かに会うような話はお聞きになっていませんか」

「先週の土曜日は、倉渕は休みでしたから、プライベートなことは分かりませんが、休みの日はよく競輪場に行っていたようでした」

「そうですか。倉渕さんの仕事の記録というか、業務報告のようなものはありますか。あったら拝見させていただけますか」

「ありますが、紙ベースではなくて電子媒体、データベースに保存されています。一年前からでしたらすぐにでも紙ベースで出せますが、それ以前の分は少し時間が掛かります。どうされますか。それからお断りしなければならないことは、クライアントへの報告書は、強制捜査でない限りお出しできませんのでご理解下さい」

 石山田は、一年分の業務報告書を紙ベースで、それより以前の物を記憶媒体で預かることにした。

 石山田たちは、倉渕のデスクから名刺ホルダーに入っている名刺をコピーし、倉渕の業務用のパソコンを参考品として持ち帰った。


 捜査本部では、国分寺駅構内、駅付近、現場公園付近の防犯カメラを分析したが、倉渕が土曜日夜七時十五分頃、駅改札を出ていることが分かっただけだった。公園付近、及び駅での聞き込みも多数の捜査員によって行われた。その結果、判明したのは、駅ホーム内の立ち食いソバ店に倉渕らしき男がいたことだけだった。

 駅に近いあの公園で、しかも自転車置き場も近くにある中で、目撃者が全くいなかったのは、南口は北口に比べ人通りが少ない上に、通勤の人通りの少ない土曜日の夜だったからだった。そう考えた浦島ら捜査本部は、あの場所に倉渕を呼び出しての計画的犯行であり、土地勘のある人間の犯行だと推理し、南口のみならず北口周辺へも聞き込みを広げることにした。

 倉渕良介の部屋から持ち帰ったパソコンからも事件に結びつくような物は見つからず、競輪選手を何人も撮った写真を含めて、たくさんの写真が保存されていただけだった。

 石山田たちは、メトロポリタン調査事務所から持ち帰った参考品の調べに取り掛った。

 倉渕良介の直近一年間の業務は、身上調査と不倫調査が大半だった。十件程の調査件数だったが、調査内容と業務報告から、事件に結びつきそうなものかどうかを判断するのは、極めて難しく思われた。加えて、調査の依頼者、さらには被調査者に対して、倉渕良介との関係を探るためには、触れられたくないプライバシーへ踏み込むことにもなりそうで、一層容易ではないように思われ、それがさらに数年間分も記憶媒体に入っている。

 石山田は、まず直近一年分について調べることにした。身上調査、不倫調査ともに、被調査者の恨みが発生しそうな結果になったと想像されるものに絞ることにした。

 身上調査の五件は、全て被調査者の素行、身辺ともに問題はなさそうだった。

 四件の不倫調査については、結果の如何に問わず被調査者四人に接触をしてみることにした。

 不倫調査は、メトロポリタン調査事務所では調査員が必ず二人で担当していた。四件の不倫調査の被調査者は、それぞれ八王子、府中、武蔵野、国分寺の四つの市に居住し、内訳は男性が三人、女性が一人だった。それぞれの調査の依頼者は、三件は同居の配偶者だったが、一件が単身赴任の夫の調査を千葉の留守宅の妻が依頼したものだった。

 石山田は、捜査員を四件の調査に振り分け、自らは昭和記念総合病院の藤江に面会することとした。


 翌日の火曜日の午後、石山田はもう一人の刑事と共に、昭和記念総合病院の藤江に面会した。

藤江には、面会の主旨である倉渕良介に送られた手紙の件であることについては、前もって伝えてあった。

 石山田は、「これをご覧下さい」と言って、手紙のコピーを藤江に渡した。

 藤江は、手紙の内容については、空木から差し出す前に聞いて承知していたが、手紙そのものを目にするのは初めてだった。

 「この手紙を書いて送った人物には、既に会って聴取は済ませました」

「空木さんですね。空木さんからこの件については連絡をもらいました。それで私にはどんなことを聞きに来られたんですか」

「二つの事を確認するためにお邪魔しました。一つは、先生は立川駅で先生を殴った男を、何故警察に通報しようとしなかったのか、ということ。もう一つは、倉渕良介さんの名前と住所を、空木さんからお聞きになった理由を教えていただきたい、ということです」

「‥‥私としては、立川駅での出来事は、事件というのも大袈裟だと思っていましたから、もしその男が、私を殴った男だったとしても反省してくれれば、警察沙汰にする必要はないと思っていたからなのです」

「なるほど、そうですか。では、何故名前と住所を聞いたんですか。先生がそういう思いでいたのでしたら、知る必要は無かった筈ですが」

 藤江は両手を組んで、少し考えたようで少し間が開いた。

「‥‥‥折角、空木さんが苦労して調べた名前と住所だろうと思いましたから、聞くことが労に報いるというか、礼儀かと思って聞いただけです。おかしいですか」

「なるほど、そう言われれば、特別おかしな事ではないかも知れません。空木さんに気を遣ったということですね。ところで先生は、六月十二日土曜日の午後七時半頃にはどちらにいらっしゃいましたか。念のため教えていただけませんか」

 石山田は、藤江の説明にどこか引っ掛かるものを感じた。特別不自然な説明ではなかったが、本当にそれだけだろうかという、長年の刑事の勘からかおって来る、匂いのようなものを感じていた。

 「アリバイですか。‥‥先週の土曜日のその時間でしたら、国立の自宅にいました」

「ご家族以外にそれを証明できる方はいらっしゃいますか」

「いませんが‥‥」

「ご家族に確認を取らせていただくかと思いますが、ご承知下さい」 

 石山田は手帳を閉じて、藤江に面会の礼を言い病院を出た。

 「どう思う」石山田は、車を運転している刑事に話し掛けた。

「アリバイの裏は取らなければなりませんね」

 石山田が腕組みをして考えていた時、携帯が鳴った。刑事課長の浦島からだった。

 「係長、倉渕の業務報告書の調査対象者の住んでいるマンションが、空木さんが話していたマンションと同じだった。署に戻ったら相談しよう」

「‥‥空木が倉渕の後をつけた時、立ち寄った国分寺南口のマンションに、調査対象者が住んでいるということですか」

 石山田が、倉渕の業務報告書を読んだ際には、マンション名が書かれておらず、住所の最後は部屋番号のみの記載だったため気付かなかったのだ。


 国分寺署の捜査本部に戻った石山田は、浦島とともに倉渕の業務報告書を改めて見直した。

 「この男性ですか、国分寺南町のマンションに住んでいるのは」

「そうだ。浜寺雅行三十八歳」

「単なる偶然でしょうか」

「俺もそこが気になるところだが‥‥」

「空木が倉渕の後をつけた時に立ち寄ったマンションが、浜寺という男が住んでいるマンションだった。倉渕は自分が担当する調査の対象者である、浜寺という男を訪ねたんでしょうか」

「そうとは言い切れない。通常調査員は、依頼者とは顔も合わせるだろうし、話もしなければ調査は出来ない。しかし、被調査者つまり調査対象者とは顔を合わせたり、話をすることは、調査員にとっては極めてまずい筈だ。とは言え、偶然で済ます訳にもいかない。係長、この報告書に書かれている、依頼人の浜寺佐智絵はまでらさちえへの調査結果報告書は入手出来ないか」

「調査事務所では、依頼者への報告書は、依頼者の許可が無いと渡せないと言われましたので、強制捜査にでもしないと入手は難しいと思いますが、当たってみます」

「とにかく、浜寺雅行と倉渕良介に繋がりがないか調べてくれ」

 石山田は、倉渕の業務報告書から確認した浜寺雅行の勤務先である、プリンス製薬立川出張所に連絡を入れたが、不在で連絡は取れなかった。


 翌日、石山田は、立川市柴崎町のメトロポリタン調査事務所西東京支社を再度訪ね、支社長の富永に、浜寺佐智絵への調査結果報告書を、参考品として借用させて欲しい旨を依頼した。案の定、富永は拒否した。社の信用問題であり、社の存続にも影響すると言って、渡すことは出来ない、の一点張りだったが、石山田の執拗な頼みに、見るだけなら、と言って調査結果報告書を石山田たちの前に持ってきた。

 石山田は、写真も添付された数ページの報告書を読み、手帳に書き留めた。一か月余りの調査の結果は、「ストーカー様行為はあったが、不倫行為は認められなかった」という結論で報告されていた。


 その日の夕方、石山田は同行の刑事と共に、浜寺雅行にやっと面会出来た。プリンス製薬の立川出張所には、応接室も会議室もなかったため、ビルの外のベンチに座っての聴取となった。

 「浜寺さんは、国分寺市南町のマンションに単身でお住まいですね」

「ええ、そうですが、今日は一体どんなご用件でしょう。一昨日おとといは、埼玉県警の刑事さんが来られて、今日は国分寺署の刑事さんです。どうなっているんですか」

「埼玉県警が‥‥埼玉と私たちは、全く別ですが、埼玉県警は浜寺さんに何を聞きに来たんですか」

「先月の事件のことを聞きに来たんです。私には全く関係ない事でした。刑事さんたちは、それとは別の話ということですね」

 浜寺は落ち着き払っていた。石山田には、それが妙に癇に障るというか、嫌みに感じた。

 「浜寺さんは、倉渕良介さんをご存知ではありませんか」

「倉渕?‥‥」

「実は、ある方が以前、浜寺さんが住まわれているマンションに倉渕さんが入って行くのを見ました。お知り合いではありませんか」

「その倉渕という方がマンションに入って行ったと言われても、あのマンションには二十世帯以上住んでいるのに、何故私のところに来たと言うんですか、何か根拠でも」

「全所帯の方にお聞きしていますから、浜寺さんと決めつけている訳ではありません」

「‥‥倉渕さんですか。全く知りませんが、どういう方なんでしょうか」

 石山田は、倉渕良介の写真を見せながら、「先週の土曜日に国分寺の公園で首を絞められて殺されました」と説明した。

「え、殺されたんですか。‥‥私はこの人を知りません」

 浜寺は石山田の持つ写真を覗くように見て答えた。

 「そうですか。因みに、浜寺さんは先週の土曜日の午後七時半頃、どちらにいらっしゃいましたか。参考までに教えていただけませんか」

「それもマンションの住人全員に聞いているんですか」

「はい」

「上高地の小梨平のキャンプ場で、テントの中にいました」

「長野県の上高地ですか?どなたかと一緒ですか」

「一人です。金曜日に休みを取って金、土、日の三日間のテント泊で上高地に行っていたんです」

 石山田にはベンチに座っている浜寺の横顔しか見えなかったが、答えた浜寺がニヤリとしたように見えた。

「そうですか‥‥。浜寺さんは山がお好きなんですか」

浜寺は「ええ、山登りが趣味です」と言って、スマホの写真ホルダーから一枚の写真を石山田たちに見せた。

「上高地にいる間は、今の季節は上の方はまだ雪が多いので、登りませんでしたが、涸沢からさわまで歩いて涸沢カールからの奥穂高岳を撮って来ました」

 石山田が見せられた写真の日付は、六月十二日だった。

「東京には日曜日に戻って来たんですか」

「はい、早めに上高地を出ましたから、国分寺にはまだ陽があるうちに帰って来ました」

 石山田は、メモを取っていた手帳をポケットに収め、浜寺からの聴取を終えた。


 その夜、国分寺署の捜査本部では、捜査会議が開かれた。

 犯行現場周辺の地取り捜査から報告は始まり、被害者の倉渕良介の周辺調査いわゆる鑑取りの捜査報告がされた。

 地取り捜査は初動捜査と同様で、目撃者はおろか現場周辺を犯行時間近くに歩いていた人間は、発見者の犬の散歩中の主婦以外見つからなかった。周辺の住人への聞き込みも有力情報は得られず、空木から情報を得たマンション『グランメゾン サウスタウン』の住人への聞き込みでも、倉渕良介についての情報は、テレビ、新聞のマスメディアから知り得たと思われる情報だけだった、と報告された。

 「そのマンションで鑑取りの捜査班と出くわした訳か。それで浜寺雅行の反応はどうだった」刑事課長の浦島が報告していた捜査員に聞いた。

「402号室の浜寺雅行には、まだ面会出来ていません」捜査員は手元のリストを見て答えた。

「課長、浜寺雅行については、今日聴取した内容を含めて、後程私から報告します」石山田が補足した。

 鑑取りの捜査報告では、倉渕良介の業務報告書を基にした調査が報告された。浜寺雅行以外の三人の被調査者へのアプローチによる報告では、三人のうち八王子市と武蔵野市の二人の男性は、離婚していなかったが、府中市の女性は離婚していた。結果としては、三人ともに倉渕良介という名前には、全く記憶が無かったという聞き取り結果が、報告された。

 浜寺雅行については、石山田から、倉渕とは面識が無く、犯行当日は長野県の上高地に行っていた、という浜寺から聴取した結果が報告された。

 「倉渕が、あのマンションに何故立ち寄ったのか、分からないということか。係長、浜寺の奥さんへの調査結果報告書はどうだった」

「現状では、強制捜査ではないので、入手出来ませんでしたが、報告書を閲覧することは出来ました。報告書の結論は、「不倫は認められなかった」なんですが、ストーカー様行為があった、と書かれていたことが気になっています」

「ストーカー様行為?相手は誰だ」

「それは書かれていませんでした。ストーカー様行為を受けていた人間、恐らく女性でしょうが、その人に配慮して依頼者には知らせなかったのではないかと思われます」

 浦島は腕組みをしたまま立ち上がった。

 「倉渕の部屋と、職場から持ってきたパソコンに、浜寺に関連した写真のようなものはないか、もう一度確認して見てくれ。浜寺が倉渕に面識が無くても、倉渕は浜寺を被調査人として知っていたことは間違いないことだ。倉渕から浜寺に何らかのアプローチがされていたと考えるのが筋だ」

 石山田も全く同感だった。それに加えて、今日の浜寺のあの余裕の態度が石山田には気になっていた。

 「係長、倉渕と一緒に浜寺の不倫調査に当たった調査員に、話を聞いてみてくれないか」

石山田は「了解しました」と応じた。

 次に石山田は、昭和記念総合病院の藤江医師から聴取した内容を報告した

 説明に矛盾はなかったが、何か引っ掛かるものを感じたこと。嘘ではないだろが、何かを隠しているように感じて、当日のアリバイの裏を取ったが、家族以外の証明者は今のところいないことを報告した。

 浦島は、浜寺の周辺捜査の継続とアリバイの裏を取ること、浜寺自身の写真の入手を指示、加えて藤江医師と倉渕の繋がりについて再度調査するよう指示して捜査会議を終了した。

 石山田は、浦島に「課長」と呼び止めた。

「捜査とは直接関係しないので会議では話しませんでしたが、浜寺は埼玉県警の聴取も受けていたようです」

「埼玉県警の‥‥。一体何の聴取だったんだ」

「先月の事件の件で聞かれたと、言っていましたから、奥秩父署の管轄するあの事件のことだと思いますが‥‥」

「空木さんたちから目を離さないでくれと言って来た、何とか言う峠で起こった殺人事件のことだな。我々の事件とは関係ないだろうが、どんな事で聴取したのか、奥秩父署に一応確認しておいたらどうだ」

 石山田は「そうします」と返事をして腕時計に目をやった。時刻は九時を回っていた。

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