第7話 遭遇

 土曜日の夕方、空木うつぎは平寿司で、ある男と待ち合わせていた。ある男とは、村西良太むらにしりょうたという、空木の前職である万永まんえい製薬の入社同期の男で、年齢は空木より一歳上の四十五歳。現在は、東京支店の業務部長で杉並区に住んでいる。その村西良太から、昨夜連絡があり、立川でプライベートな用事があるから、それが済んだら飲もうという誘いがあった。

 空木が二杯目のビールをグラスに注いだ時、暖簾をくぐって店の格子戸が開いた。

 「いらっしゃいませ」と言う女性店員の坂井良子の声に迎えられて、村西の顔が覗いた。

「待たせたな、空木」

「待ったと言うほど待ってはいない。まだビールの二杯目だ」空木はそう言って村西を見た。

 村西の服装は、ポロシャツにジーンズ、淡いベージュのジャケットに野球帽のような帽子を被っていた。

「村西、今日のお前の格好、今までに見たことないからなのかも知れないが、若々しくて格好いいな」

「空木、おちょくるな。どこが格好ええんや。これは競輪場に行くスタイルなんや」

 村西良太は奈良県出身で関西弁が抜けない、というよりも抜くつもりがない。村西は、空木の横に座り、ビールを注文した。

 「立川でプライベートな用事というのは、競輪だったのか」

「まあな、俺は競輪ファンという訳やないけど、今日は大学の同級生に付き合わされた」村西はそう言って、被っていた野球帽をいだ。

「大学と言うと、帝都薬科大学の同級生なのか‥‥」

 空木は、「そうや」と言って村西が脱いだ野球帽をじっと見ていた。

「‥‥‥村西、その帽子はどうしたんだ。どこで買ったんだ。ちょっと見せてくれないか」

 村西は「これか」と言いながら、空木に帽子を渡した。

 「これは、立川競輪場でうたんやけど、それがどないしたんや」

 空木は、手にした帽子のつばの上に付けられたロゴマークを、見つめて考えていた。どこかで見たような気がすると。

 「この鳥みたいなマークはなんだ」

「これは立川競輪のロゴマークで、「鳳凰」という伝説上の鳥を現わしているらしいわ。同級生がそう言うてたで」

 そのロゴマークは、鋭いくちばしの鷲のような鳥が羽を広げた形をしていた。

 空木の記憶が蘇った。二十日ほど前の立川駅の事件の日、電車の中で見たロゴマークだった。その時どこのメーカーのロゴだろうと思った記憶だ。

 「そうか立川競輪場のロゴなのか、どこで売っているんだ」

「競輪場の中のグッズショップやけど、欲しいんか」

「いや帽子が欲しいじゃないんだ。このロゴの入ったバッグも売っているのか」

「売っとったと思うけどな。バッグが欲しいんか」

「以前このロゴが入ったバッグを持っている人を見かけたことがあって、珍しいロゴで、どこのロゴだろうと思ったことがあるんだ。それで聞いてみただけだ。欲しい訳じゃない。ところで、今日は勝ったのか」

「立川市に寄付して来た」

「ははは、負けたのか」

 空木は、鉄火巻きと烏賊刺しに箸を出して、焼酎の水割りセットを頼んだ。

 村西が、ビールから焼酎の水割りに替えて飲み始めた時、店の玄関の格子戸が開いた。「いらっしゃいませ」の声に迎えられて、入って来たのは、乗倉敏和だった。カウンター席に座っていた空木と、驚きの表情を見せた村西は、小上がりに移ることにした。

 「空木さんが、村西部長と同期だったとは知りませんでした。今日は、お邪魔してすみません」

「村西には言ってなかったけど、乗倉を呼んだんだ。乗倉は知っているよな」

「ああ、同じ東京支店に居とるんやから知っとるわ。空木は乗倉と知り合いなんか」

「名古屋支店当時の後輩で、東京では去年偶然、山で出会ってからの付き合いだが、先週の土曜日に、俺たちはある事件に巻き込まれてしまったんだ。村西もテレビ、新聞で知っていると思うが、埼玉県と山梨県の県境の峠で起きた殺人事件だよ。その事件で乗倉も俺も容疑者扱いされている。勿論無実だが、ちょうどいい機会だから、村西に状況を話しておく方が、後々の乗倉の為にも良いだろうと思って、今日呼んだんだ」

 空木は、乗倉をここに呼んだ理由を村西に説明すると、雁坂峠の事件の概要を話した。そして、乗倉が疑われている原因となっている、大和薬品の長谷辺との競合状態の説明を乗倉からさせた。

 二人の説明を聞いた村西は、焼酎の水割りをごくごくとまるでビールのように飲んだ。

 「採用の競争相手だからといって殺しとったら、俺も空木も何人殺しとるかわからんな。その容疑はいずれ晴れるにしても、昭和記念総合病院の先生たちが、乗倉を見てどう思うかを考えたら、乗倉が担当し続けるのもしんどいな。‥‥所長には相談したんか」

「状況は話しましたが、所長は一昨日の薬審で、ダイナカルグットが採用になったかどうかが気になっているようで、事件の影響については関心が無いんです」

「それで薬審の結果は出たんか」

「出ていると思いますが、正式な発表は来週です。院長決済が下りるまでは、メーカーには知らされません」

「所長は、確か土居やったな‥‥。わかった、この件は支店長と相談しとく」

「さすが、部長。同期の出世頭だけのことはある。乗倉の事は頼んだぞ、村西」

 乗倉は村西に頭を下げ、空木に礼を言った。

 三人は「おまかせ握り五貫」を注文し、乗倉は冷酒のグラスを、空木と村西は焼酎の水割りグラスを持って「乾杯」こそ声に出さないが、グラスを掲げた。

 「空木の容疑は何なんや。大丈夫か」

「俺の容疑は、乗倉の共犯だ。明日の日曜日に、奥秩父署の刑事が迎えに来ることになっているんだ」

「へー迎えに来るんか。取調べか、大変やな」

「いや、それが捜査協力ということで呼ばれているんだ。協力費とやらも出るらしい」

 それを聞いた村西と乗倉は顔を見合わせた。


 空木が、車で迎えに来た仲澤たちと共に奥秩父署に入ったのは、翌日、日曜日の午前十時半頃だった。

 捜査本部が置かれた大会議室の一角の会議机を挟んで、空木は課長の野田と仲澤と向い合せに座った。刑事課長の野田とは初対面の空木は、「スカイツリーよろず相談探偵事務所 所長」の名刺を野田に渡した。

 「空木さん、お休みのところご足労いただいてありがとうございます。空木さんの事は国分寺署から聞いていますが、同行していた乗倉さんには、長谷辺さんを殺害する動機が少なからずあります。現状では、疑わない訳にはいきませんので、まずはもう一度、五月二十二日土曜日の朝からの行動を話していただけませんか」野田は、空木の名刺を机の上に置き、静かに丁寧な口調で言った。

 空木は、捜査協力と言われてはいたが、乗倉は勿論の事、自分への疑いも完全に無くなっている訳ではない事を感じた。

 空木はスマホを取り出して、登山地図のアプリから五月二十二日土曜日の記録を取り出し、分単位の行動を説明した。

 朝、八時十六分雁峠がんとうげを出発、燕山つばくろやま九時五分、古礼山これいやま十時十四分、水晶山十一時五十一分、雁坂峠十一時二十三分着。コースタイム二時間四十五分の行程を、三時間以上かけて歩いたことを、スマホで撮影した写真も見せながら説明した。

 腕組みをして聞いていた仲澤が腕組みを解いた。

 「乗倉さんが水を補給するために小屋へ向かったのは、何時何分でしたか」

「昼飯を食べ終わってからでしたから、十一時四十五分頃だったと思います」空木は、仲澤の乗倉への疑いが強いことを改めて感じながら答えた。

「その時間に間違いありませんか」

「間違いありません」空木のきっぱりとした答えに、

「係長、この件はこれで良いんじゃないか」野田が仲澤に小声で話し掛けた。

 仲澤は、「分かりました」と小声で返して、また空木に顔を向けた。

 「空木さん、もう一度水晶山と雁坂峠の間ですれ違った、マスクとサングラスをした登山者の事を思い出していただきたい。髪型、服装、背丈、何でも良いので記憶に残っている事を思い出してくれませんか」

 空木は、腕を組み、視線を斜め下に落としながら、しばらく考え込んだ。

「‥‥‥背丈は中背、服装も髪型も特徴無しというか、記憶に無いのですが、今ちょうど、私自身がザックを買おうと思っているところで、他人のザックに目が行くんです。不正確かも知れませんが、すれ違った登山者のザックのメーカーが、私と同じだったような気がします」

「同じメーカーのザックですか。因みに空木さんは、どこのメーカーのザックなんですか」

「デウテルという海外のメーカーですが、確かな記憶とは言えないですよ」

「そのデウテルというメーカーのザックを使っている人は多いんですか」

「多いかどうか分かりませんが、最近は使っている登山者を時々見ますから、比較的ポピュラーなザックと言えば言えるんじゃないでしょうか。最低限珍しいザックではないですよ。それ以外に記憶していることはありません」

 メモを取っていた仲澤が、野田を見て「見てもらいましょうか」と聞いた。野田は頷いた。

 「空木さん、見て欲しいものがあるので、こちらに来てください」

 仲澤はそう言って立ち上がり、空木を会議室に置かれたパソコンの前に案内した。

 「今から見てもらうのは、塩山駅の構内カメラの画像で、日時は事件のあった五月二十二日土曜日の午後五時過ぎです。サングラスとマスクをした男が映りますが、この男がすれ違った男かどうか確認して欲しいのです」

 仲澤は、パソコン画面を立ち上げて画像を再生した。

 空木は、一度、二度と画像を見た、そして三度目に「ここで止めて下さい」と言った。それは男がザックを背負って背中を向けた画像だった。

 「拡大してください」

 空木は、拡大された画像に顔を近づけた。

 「この男が、すれ違った男かどうかは、サングラスとマスクをしているのが一緒としか言えませんが、この背負っているザックは、私の見たデウテルのザックに間違いないですね。ザックの雨蓋に付けられているロゴがデウテルのロゴマークです」

「ありがとうございます。捜査の上で大変参考になる情報です。ついでと言っては何ですが、この画像も見ていただけますか」

仲澤はそう言って、山梨市駅の五月二十一日金曜日の朝の画像と、五月二十二日土曜日の奥多摩駅の画像を空木に見せた。

 空木は、山梨市駅の画像も拡大し、同じデウテルのザックであることを伝えた。奥多摩駅の夜間の画像を見た空木は、「‥‥マスクを着けているのではっきりしませんが、私たちと雁峠の避難小屋に一緒に泊まった若い男性のような気がしますね。あの人、雲取山へ行くと言っていたのに、あの日に下りたんだ」と言った。

 空木の後ろで画面に見入っていた野田が、仲澤に「来てもらって良かった」と呟いた。

 「空木さん、今日は来ていただいてありがとうございました。ご自宅まで送ります」仲澤はそう言うと、空木に茶色の封筒を手渡した。

 調査協力御礼と書かれた封筒を受け取った空木は、自宅ではなく西武秩父駅で良いと返事をした。事件のあったあの夜に、乗倉と二人で食べた蕎麦屋のかつ丼そばセットをもう一度食べたかった。

 西武秩父駅で空木を降ろした仲澤は、名刺を渡して言った。

 「今日はありがとうございました。助かりました。もし事件の件で何かありましたら私の携帯に連絡して下さい。それから、乗倉さんには容疑は晴れたと伝えて下さい」

 空木は、蕎麦屋で遅い昼食を食べ、休日を楽しむ人で混雑する西武秩父駅から帰路についた。


 空木が奥秩父署から帰って来た二日後、空木のスマホの携帯の着信音が鳴った。名前の表示はなく十一桁の番号だけが表示されていた。

 「岡部です。長谷辺さんのお葬式でお会いした岡部綾です。突然お電話してすみません」

「あー岡部さん。空木です。どうかされましたか」

「実は‥‥空木さんに相談というか、お願いというか、お会いしてお話ししたいことがあるのですが、今日の夜お時間空けていただけないでしょうか」

「今日の夜ですか‥‥。時間は空いていますが、岡部さんと二人ですか」

「すみません、お話ししたいのは、私ではなくて長谷辺さんの弟の稔君なんです。ですから私も含めて三人で会うことになるのですが、ダメですか」

「弟さんが話したいという事ですか。分かりましたお会いしましょう。但し、私の行きつけの店まで来てもらうことになりますが、宜しいですか」

「はい、大丈夫です。稔君と一緒に伺います」

 岡部からの電話を切った空木は、弟の話とは一体何だろうと想像はしてみたものの、亡くなった兄に関することだろうとは思うものの、それ以上の見当はつかなかった。


 空木は、約束の六時半の少し前に平寿司に入った。

 岡部綾と長谷辺稔はまだ来ていなかったが、空木が女将に「今日は三人なんで小上がりで‥‥」と言うのと同時に、玄関の開き戸が開き二人が入って来た。

 空木は、二人を手招きし、女将にビールと刺身の盛り合わせ、そして「鮭のはらす焼き」を三人分注文した。

 岡部綾が、「お忙しいのに、突然のお願いを聞いていただいてありがとございます」と礼を言って小上がりに上がると、稔は「長谷辺稔です。兄の葬儀にはお心遣いありがとうございました。今日もお会いしていただきありがとうございます」と緊張しながら丁寧な挨拶をして頭を下げた。

 「長谷辺さんとは、お話しするのは今日が初めてですが、お会いするのは今日が三度目です」空木はそう言うと、探偵事務所所長の名刺を渡した。

 三人は、挨拶を終えるとグラスにビールを注ぎ、空木の発声で「献杯」と小さく声を上げた。空木はグラスのビールを一気に空け、二人もビールに口をつけた。

 「酔いが進む前に、長谷辺さんのお話しを伺いましょうか」

「実は昨日、刑事が話を聞きたいと言って来たんですが、僕を疑っているかのようでした。兄と別のルートで登った理由を聞かれるのはまだ良いのですが、待ち合わせの雁坂小屋に何故あんなに早く着いたのか、最後は大学院進学の事で、兄弟間の軋轢から兄を恨んでいたのではないか、まで言われました。兄にはずっと金銭面で支援してもらって、感謝しかないのに、それを恨んでいたのではないのか、とまで言われて、腹が立って、悔しくて、言葉が出ませんでした。殺したい程犯人が憎いのに、もう警察は信用できません。自分で犯人を捕まえるしかないのか思うと、どうしていいのかわからなくて、岡部さんに電話したんです」

 稔は、岡部綾に顔を向けた。

 「それで探偵の空木さんに相談してみたらどうか、ということになったんです」

「弟さんまで疑われているとは驚きです。私も、私の同行者もつい先日まで容疑者扱いでした。お兄さんが殺害されたあの付近にいた人間は、とにかく疑う。警察も疑う所から始めるのが仕事と言えば仕事ですから、仕方がないとは言え、長谷辺さんの腹立ちはよく分かります」

「同行者というのは、乗倉さんのことですか」

 岡部綾の、確認するかのような問い掛けに、空木は「そう」と頷いた。

 「それで私に何を相談したいのですか」

 話している三人の真ん中に、盛り合わせの刺身が置かれ、それぞれの前に、鮭のはらす焼きが置かれた。岡部綾が、空木のグラスにビールを注いだ。

 「それなのですが、稔君の疑いを晴らす方法はないか、という相談なんです」

 空木が、二人の顔を交互に見ながら、注がれたビールを飲み干すと、今度は稔が空木のグラスにビールを注いだ。空木の飲むペースに、二人が不安そうな顔つきになっているのを空木は感じた。

 「まだ酔っていませんから、心配しなくていいですよ」と前置きして

「疑いを晴らす最善の方法は、犯人を見つけることですから、調べる方策がない私たちは、警察の捜査を待つしかないですよ。例え警察が頼りにならないと思ってもね。今警察は、私と乗倉があの日雁坂峠の近くですれ違った登山者を探している筈です。捜査に協力することが、稔さんの疑いを晴らす最善の方法だと思います」

「その警察が、全く見当がついていないようなので、腹立たしいのです。空木さんはもしかしたら、犯人の見当がついているのではないですか」

 稔は、ビールの入ったグラスを一気に空にした。怒りが増してきているようだった。

 「とんでもないですよ。見当なんかつく筈がないでしょう。お兄さんの人間関係も、何も知らない私には、見当をつけるすべがありません」

 岡部綾は、刺身の盛り合わせから数切れを取り皿に取って、箸をつけた。

 「長谷辺さんは人から恨まれるような人じゃなかったのに‥‥‥」

「岡部さんも警察から話を聞かれたんですか」

「はい、長谷辺さんとの関係から、山歩会で長谷辺さんと一緒の山に行ったこととか、稔君と大学で同じサークルだったことも、その時話しました」

 空木は、ビールを空けて焼酎の水割りセットを頼んだ。そして二人に断って、店外に煙草を吸いに出た。心地良い風が、思考回路を働かそうとする空木の頬を撫でた。

 恐らく警察は、事件は長谷辺保が誰かに恨まれて殺害されたと考えている。だが本当にそうなのだろうか、他に何か理由があったのではないだろうか。それが何かは分からないが‥‥。

 店に戻った空木は、焼酎の水割りを作って一口飲んだ。

「岡部さん、山歩会で長谷辺さんと一緒に行った山は、乗倉に見せたあの写真を撮った御前山だったと思いますが、そこで長谷辺さんに何か変わったことはありませんでしたか」

 岡部綾は、しばらく考えていた。

 「長谷辺さんには変わったことはありませんでしたけど、足立先生のザックに水が掛けられてしまって、足立先生は勿論ですけど、私たちも不愉快な思いをしたことがありました」

「水を掛けられた。誰に掛けられたのか分かったんですか」

 岡部綾はスマホの写真を空木に見せて、「この男性が足立先生で、この集合写真を撮っている間に、置いていたザックに水が掛けられていたんです。誰が掛けたのか全然分かりませんでした。この写真空木さんにも送りますから、スマホのメルアド教えて下さい」

 空木はスマホのメールアドレスを岡部綾に見せた。

 そして、空木は「足立先生が嫌がらせをされた‥‥」と呟き、もしかしたら山歩会そのものが誰かに恨まれるか、妬まれるか、していないだろうかと考えた。

 「岡部さん、山歩会という会が、誰かから恨まれたり妬まれたりしている、という事は考えられませんか」

「えっ、山歩会が誰かから恨まれるなんて、あり得ない事だと思いますけど、私には分かりません。足立先生に聞かないと分かりませんが、先生もそんな事は無いって言うと思いますよ」

 岡部綾と稔は一通り話が済むと、平寿司おすすめ、店主の甥の平沼勝利の作る特製パスタを食べて店を後にした。

 

 事務所兼自宅のマンションに戻った空木は、乗倉の携帯に電話をした。

 「ノリに頼みがある」

「どんな頼みですか、疑いを晴らしてくれた空木さんの頼みなら聞かない訳にはいかないですね。何でも言って下さい。お金ですか」

「あほか。金も欲しいが、そんな頼みじゃない。山歩会という会そのものが、誰かから恨まれたり、妬まれたりしていないか、思い浮かべて欲しい。どんな些細な事でも良いんだが、これはノリだけじゃダメだ。足立先生が会の代表だろうから、足立先生にも話をして欲しいんだ。特に足立先生には、御前山でザックに水を掛けられた原因もそこにあるかも知れないと伝えてくれ。やってくれるか、何も出てこなかったら、それはそれで仕方が無い」

「分かりました。今回の空木さんの依頼というのは、長谷辺の事件に関係しているんですか‥‥」

「それはまだ何とも言えないが、その可能性があるかも知れないんだ。ちゃんと思い出してくれよ」

「分かりました。明日にでも足立先生に会いに行ってきます。また連絡します」


 翌日、乗倉は足立医師と面会した。

 乗倉自身には、山歩会が恨まれるような出来事には全く覚えは無かった。乗倉は空木から依頼された内容を足立に話し、四月の山歩会での出来事についても、空木の推測を伝えた。

 「空木さんという人は、長谷辺さんの葬儀で会った人だね。空木さんの言う通り、御前山の出来事は、気分の悪い悪質な嫌がらせだった。しかし、その延長線で長谷辺さんが殺されたと考えるのは、飛躍のし過ぎだと思うよ。ある意味、さすが探偵さんだとは思うけどね。山歩会を作って三年だけど、思い当たる事なんてあるかな‥‥」足立は首を捻った。

「この会は、長谷辺がこの病院を担当してから、先生と長谷辺で作った会ですから、先生に思い当たる事が無かったら、恨まれるようなことは無かったということですよ。空木さんはどんな些細な事でも良いとは言っていましたけど」

 足立は、両手を頭の後ろで組んで「うーん」と言いながらしばらく考えていた。

「‥‥‥恨まれるような事ではないと思うけど、一つだけ長谷辺さんと一緒に悩んだ事がある。この病院の関係者以外からの入会希望者がいて、どうするかの相談をしたことがあって、結局断ることにしたんだ。長谷辺さんが断り役をした筈だけど、そんな事で山歩会を恨むかな、嫌がらせはあるかも知れないけど、人を殺すなんてあり得ないよ」

「普通はあり得ませんが、普通では無い人ならあり得ますよ、先生。それで、その入会希望者は誰だったのか覚えていますか」

「確か、一年前ぐらいだったと思うけど、この病院の担当者じゃなかったから名前は憶えていないけど、会社は確かホープ製薬だったと思う。長谷辺さんが担当している他の病院でよく会っていると言っていた記憶があるよ」

「ホープ製薬のMRですか‥‥。空木さんに伝えておきます」

「ところで、新薬の採用はどうなった。薬審は確か先週の木曜日だったよね」

「もう決定していると思いますが、まだオープンにはなっていません。明日辺りにオープンになると思いますが‥‥、長谷辺があんな事になってしまって、私としては長谷辺の会社の薬が、採用になれば良いと思っているんです」

「なるほど、乗倉さんとしては、そういう思いになってしまうんだね。でも長谷辺さんは生前私には、乗倉さんの会社の薬が採用になるべきだ、と言っていたことを考えると、故人の遺志を立てて上げるのも、供養になるのかも知れないよ。いずれにしても乗倉さんにとっては辛いことかな」

 乗倉は、足立医師の最後の「長谷辺の遺志」という言葉に、複雑な思いが募った。


 その日の夕方、空木の携帯に乗倉から電話が入った。

 「今日、足立先生と話してきました。恨まれるような事があったとは思えないと言っている中で、一つだけ気になる出来事があったと言っていました。それは、病院外からの山歩会への入会希望を断った事だそうです」

「その事で恨みを持つとは考えにくいが、一応会うだけ会ってみようか。その人の名前は?」

「それが、MRなんですが、昭和記念総合病院の担当ではないので、先生は名前を全く覚えていないらしいんです。分かっているのはホープ製薬という会社名だけです。ただ、長谷辺と同じ病院を担当しているMRだと言っていましたから、見当はつくと思います。確か長谷辺の担当病院は、三軒だと言っていましたから調べれば分かると思います」

「そうか、じゃあ調べて分かったら連絡してくれ」

「分かりました。連絡します。ところで空木さん、今日飲みませんか」

「いや、申し訳ないけど、今日は止めておくよ。明日また病院への付き添いの仕事が入っているんで、体調整えておきたいんだ」

 電話を終えた空木は、ベランダに出た。空木の事務所兼自宅の部屋は、六階建てのマンションの四階で、このマンションそのものが国分寺崖線の上に建っていることから、眺めは良好だ。空木は、ここからの眺めが好きだ。西方に丹沢の山並みを前衛にした富士山が見える日は、長い時間眺めている。そして、それが夕焼けの空、オレンジ色のグラデーションに染まる空をバックにしたスカイラインとなれば、さらに眺望の見事さは増す。ここで煙草を吸いながら、缶ビールで喉を潤し、そして考え推理する。

 山歩会の入会を断られた人物に会ったところで、長谷辺殺害の解決に繋がるような話が聞けるとは思えない。会う意味は無いのではないか。しかし、山歩会に何かが起こっているのではないか、と考えた以上、少しでも山歩会に対して悪い感情を持っている可能性のある人物には、会っておくべきだと思う。足立は嫌がらせを受け、長谷辺は殺された。次は、乗倉かも知れない。いや先崎文恵かも、岡部綾かも知れない。


 翌日、空木は大松道子の病院の付き添いで、立川の昭和記念総合病院へ来ていた。

大松道子の関節リウマチの点滴治療の終了をロビーで待つ間に、空木の目に、院内を歩く藤江医師の姿が入った。空木は、立川駅での出来事を思い出した。

 あの日も大松道子の付き添いの日で、東小金井から乗った中央線で座席を譲ってくれた藤江が、思わぬ災難に遭ってしまった。藤江をバッグで殴った男は、どこにいるのか。またどこかで同じ事を繰り返しているのではないだろうか。そんな事を考えている間に、道子の治療は終わった。

 タクシーで道子と一緒に立川駅に戻った空木は、駅近くのデパートでショッピングをしたいという道子に付き添った。

 そして二人がレストラン街で食事を済ませると、時間は夕方の六時近くになっていた。勤め帰りの人通りが増え、駅へ向かう歩道橋は混雑し始めていた。あと三十分程すれば、人込みは夕方のピークを迎えるだろう。

 「大松さん、混み始めましたよ。そろそろ帰りましょう」空木は、道子を促して駅に向かった。

 混雑し始めたコンコースを、道子をエスコートしながら、二人は中央線の上りホームに下りるエスカレーターに乗り、空木は道子の前の段に立った。その右側を、左肩にバッグを掛けた男が下りて行った。その瞬間、見覚えのあるロゴマークが、空木の目に入った。それは先日、空木の前職の会社の同期である村西良太の帽子にあった、ロゴマーク「鳳凰」と同じマークだった。

 空木の血がざわついてきた。たった三年、されど三年の探偵の血がざわついた。空木はそのバッグを肩に掛けた男を目で追い、道子をエスコートしつつ後ろをつけた。

 車内は混んではいたが、東小金井に向かう上りは下り線ほど混んではいなかった。道子は優先座席に座り、空木はその前に立った。バッグの男は、同じ車両の道子と同じ並びのドア一つ隔てた席に座っていた。マスクを着けていて、はっきりあの男とは判らないが、立川競輪のロゴが入ったバッグが滅多にあるとは思えなかった。

 空木は大松道子の耳元で、小声で伝えた。

 「大松さん、以前立川駅で、バッグで先生を殴った男が、この車両の中にいます」

「え、そうなの。どこ?」道子はそう言って、辺りを見廻した。

「直ぐ近くに座っています。あまりキョロキョロしないでください。私は、その男を追ってみたいのですが、大松さん一人でも大丈夫ですか。お宅まで帰れますか」

「ええ、大丈夫よ。点滴治療をした日は、特に調子が良いのよ。心配しなくても大丈夫、その悪い男がどこの誰なのか調べるのね。分かったら私にも教えて頂戴」

 

 国立、西国分寺と過ぎた。国分寺駅でその男は席を立った。

空木は道子に「失礼します」と別れを告げ、その男を追って国分寺駅で降りた。空木は、あの男は国分寺に住んでいるのか、と思いつつ後を追った。

 男は南口を出て、駅前の通りを渡ってさらに南へ歩いた。空木は、十メートルほど後を歩いたが、人通りが少なくなるとさらに距離を空けた。しばらくすると男は、左手のマンションに入って行った。

 「ここに住んでいるのか」と呟き、空木はマンションの前を通り過ぎようとした時、その男が、入ったと思われたマンションから出てきた。空木は思わずぶつかりそうになったが、咄嗟とっさに避けた。

 空木はマンションの名前を手帳にメモし、またその男の後を追ってみる事にした。さっきの印象では、男は部屋には入っていない筈だ。買い物か何か、忘れ物があって、それを思い出して、引き返して来たのではないかと空木は推測した。しかし、空木の推測に反して、男は国分寺駅に戻り、改札を通って中央線の上りホームに下りて行った。

 国分寺からの上り快速電車も混んではいなかったが、座席は空いてはいなかった。時間は、午後七時前だったが、陽はまだ沈んではおらず、明るかった。気付かれはしないか空木は気になったが、自分が気にするほどに、他人は自分を見ていないものなのだろう。男は空木の存在に、全く気付く様子は無かった。

 男は、今度は荻窪駅で下車し丸ノ内線の改札に入った。

 丸ノ内線の池袋行は、荻窪駅が始発駅だけに空いていた。空木は、男とは少し離れた席に座ったが、男を良く見通せる席だった。

 男は、中野坂上駅で下車した。陽が沈んで暗くなった事が幸いしてか、人通りは少なかったが、空木は気付かれずに後を追う事が出来た。

 途中、空木はその男が飲み屋にでも入るのでないかと思っていたが、そんな素振りは見せずに、十分以上歩いたところで男は、アパート風の二階建ての「坂上さかうえハイツ」と書かれた建物に入って行った。

 空木は、アパート全体を見渡せる場所で、どの部屋に明かりが点くのか見ようとした。二階の一番端の部屋の明かりが点いた。空木は、アパートの階段を静かに上がった。明かりが点いた部屋番号は205と書かれていたが、表札は出ていなかった。一階に下りた空木は、郵便受けの205を確認したが、ここにも名前は無かった。郵便受けには鍵はかかっておらず、中を確認出来たが、空だった。メールポストに名前を表示しないということは、独身者若しくは、単身赴任者の可能性が高いだろうと空木は推測した。独身の自分も過去に、メールボックスに名前を表示させたことは、一度も無かったことを思い返していた。

 空木は、明日もう一度来て調べることにした。

 中野坂上の駅に向かう途中、乗倉から携帯に電話が入った。

「山歩会の入会希望者が分かりました。ホープ製薬の遠藤というMRでした。それで会えないか聞いたら、明日の午前中なら立川で会えると言われたんですが、どうしますか‥‥。明日以降だと来週なら大丈夫だそうですが」

「明日の午前中に立川だな。わかった、行くよ。ありがとう」

 電話を切った空木は、無報酬の調査を二件も続けることになるが、これで良いのだろうかという思いが湧いたが、「忙しい訳でもないし、乗り掛かった舟だ、やれるだけやろう」と独り言を言って、自分を納得させていた。

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