第5話 慟哭(どうこく)

 先崎文恵せんざきふみえがプリンス製薬の本社で実施された二日間のMR研修を終えて、国分寺市西恋ヶ窪の部屋に戻ったのは、五月二十二日土曜日の午後八時過ぎだった。

 長谷辺から、下山したらメールすると言われていた文恵は、未だ何の連絡もないことに不安と、少しの苛立ちを感じていた。

 文恵は「下山しましたか。今どの辺りですか」と長谷辺のスマホにメールをして、テレビをつけた。

 文恵が着替えを済ませ、リビングに戻った時、テレビのニュースで耳を疑うニュースが、女性キャスターの声で流れた。

 「東京都立川市在住の会社員、長谷辺保さん二十六歳が、埼玉県と山梨県の県境の峠で、死体で発見されました。警察は殺人事件として捜査を始めた模様です」

 文恵は、キャスターの言葉が現実の事とは理解できなかった。何が起こったのか、ただ茫然とテレビ画面を見つめ、スマホを握りしめた。

 「‥‥うそ、うそよ。そんな事絶対にあり得ない」文恵は呟いて、長谷辺のスマホに何度も何度も電話を掛けた。電源が入っていない、というメッセージがその度に流れた。

 どの位時間が経ったのか、文恵のスマホにメールの着信があった。「長谷辺さん」と叫んで画面を見ると、そこには岡部綾の名前が表示されていた。

 「長谷辺さんが、大変な事になりました。電話ください」メールの文面は、岡部綾の混乱を物語るように簡潔な内容だった。

 そのメールは山歩会のメンバー全員に発信されていた。文恵と長谷辺が結婚を考えるような付き合いをしていることは、誰にも知られていない。自分だけに来たメールではないことを確認した文恵は、何故かホッとする気持ちとともに、何とも言い難い寂しさを感じていた。

 その夜文恵は、電話はしなかった。信じたくない気持ちが強かったのか、勇気がなかったのか、岡部綾に電話はしなかった。

 ウトウトしたのだろうか、文恵は夢を見た。長谷辺が「俺のお袋に会ってくれ」と言って、文恵の手を引いてくれるのだが、そこは富士山の見える海辺だった。文恵が「お母さんはどこ?」と聞くと長谷辺はニコッと笑った。そこでスマホの着信音で目が覚めた。岡部綾からだった。

 「先崎さん、おはようございます。すみません、まだお休みだったんですね、岡部です」時計は午前九時を指していた。

「いえ、大丈夫よ。昨日は電話出来なくてごめんね」

「先崎さんも昨夜のテレビのニュース見ましたか?」

「ええ、今でも信じられないの」

「山歩会のメンバーも皆同じことを言っています。それで今朝、長谷辺さんの弟の稔君に連絡が出来たんです。やっぱり間違いありませんでした。弟の稔君も、雁坂峠にいたらしくてすごくショックを受けていました。今日、お母さんと長谷辺さんの遺体と一緒に静岡へ帰るそうです。お葬式が決まったら連絡してくれると言っていましたから、連絡が来たら山歩会のメンバーにはメールで流します」

「‥‥わかった。ありがとう」文恵はそう言うのが精一杯だった。

「本当に死んでしまった。本当に‥‥」文恵は呟いていた。

 何故涙が出ないんだろう。私はどうなってしまったんだろう。何もする気力が無かった。


 日曜日の道路は比較的空いていた。仲澤はもう一人の刑事と、立川市曙町一丁目の長谷辺保のマンションに向かった。弟の稔は、母親とともに遺体を乗せた車で静岡へ帰る為、捜索に同行は出来なかったが、捜索を了承していた。

 2DKのマンションは、男二人で暮らしているにも拘わらず、綺麗に片付いていた。長谷辺が使っていたと思われる部屋のカレンダーには、五月二十二日土曜日に雁坂峠と書かれていた。ハンガーに掛けられていたスーツの上着から、仲澤が仕事用の手帳を取り出した時、同行の刑事が仲澤に声を掛けた。

 「係長、日記らしきノートがありましたが、どうしますか。見たところ、毎日書いているようではありませんが、山の事とか、彼女と会った事とかが書かれているようです」そう言って仲澤にノートを渡した。

「取り敢えず、この手帳と一緒に本部に持ち帰って、コピーを取ろう。家族にとっても大事な遺品だろうから、直ぐに返す」

 仲澤は、『きまぐれ』と題された日記らしきノートを捲り、最後のページで止まった。それは五月二十一日金曜日だった。

 「明日、雁坂峠だ。先崎さんと一緒に行けないのは残念だけど、稔との山も久し振りで楽しみだ。稔とも色々あったけど、これからも応援してやるつもりだ。先崎さんには、山から帰ったら、雁坂峠の話をしてあげよう」これがノートの最後だった。

 捜索を終えた仲澤は、弟の稔に捜索が終えて、手帳と日記を借用することを伝えた。そして、手帳に控えていた先崎文恵の携帯電話の番号を押した。先崎文恵は電話に出たものの、無言だった。初めて表示される番号に、警戒しているように思えた。

 「埼玉県警奥秩父警察署の仲澤と申します。突然の電話で申し訳ありません。今、立川にいるんですが、少しだけお話を伺いたいのです。今からお会い出来ませんか」

 先崎文恵は、しばらく考えて会うと返事をした。

 

 西国分寺駅の南口のロータリーで待ち合わせた。

 先崎文恵とともに、警察車両の後部座席に座った仲澤は、文恵のうつろな目にショックの大きさを感じ取っていた。

 「こんな時にすみませんが、先崎さんに確認させていただきたいことがあります。先崎さんは、乗倉敏和さんをご存知だと思いますが、長谷辺さんが雁坂峠に行かれることを乗倉さんに伝えませんでしたか‥‥。実は、乗倉さんは、長谷辺さんが殺害された雁坂峠に行かれていたんです」

「えっ、乗倉さんが行っていた‥‥」

「ただ一人ではないんです。先輩という人と一緒だったんですが、その乗倉さんが、あなたから長谷辺さんと一緒に山に行かないかと誘われたが、どこに行くのかは聞かなかったと言っているんです。その確認をしたいのですが、いかがですか」

 文恵は一生懸命思い出そうとしていた。

 「‥‥‥言わなかったと思います。日程を言った途端に先約があってダメだと言われてしまって、それで話は終わりになりましたから、言いませんでした」

「やはりそうでしたか。では、乗倉さん以外の方で、長谷辺さんの雁坂峠行きを話した方はいませんか」

「‥‥いません。いないと思います」

「‥‥‥長谷辺さんは、誰かに恨まれるようなことはありませんでしたか。例えば、仕事上で恨まれるようなことは?」

「仕事上の競争はあったと思いますが、恨まれるようなことはなかった‥‥」

 仲澤のこの質問に、文恵は中空に目をやった。

 「何か思い当たるような事があるのですか」

「‥‥乗倉さんとは少しゴタゴタがありますが、乗倉さんがそんな事をする人とは思えません」

「ゴタゴタですか。そのゴタゴタを教えていただけませんか」

「乗倉さんから聞いていただいた方が良いと思います。私からは‥‥」

「分かりました。あと、長谷辺さんと親しい方で、一緒に山に登られるような方はご存知ありませんか」

「‥‥山歩会さんぽかいのメンバーしか知りません」

「山歩会ですか?」

 文恵は、昭和記念総合病院関係者で作られた山歩会の説明をして、そのメンバーを仲澤に教えた。

「なるほど、乗倉さんもそのメンバーの一人ということですか」

 文恵は「ええ」と言って頷いた。

 「先崎さんは、他の方たちより長谷辺さんと親しいと思って、お会いしに来ましたが、長々とお話し聞かせていただいてありがとうございました。それから、これは、長谷辺さんの日記のようです。参考品として署に持ち帰るのですが、ご覧になりますか」

 仲澤は運転席の刑事から、ノートを受け取ると文恵に見せた。

 一瞬躊躇ためらった文恵は、『きまぐれ』と書かれたノートの題名を呟いて手に取った。

 そしてぱらぱらとページを捲り、あるページで止まった。そこには、文恵の故郷に行く喜びが書かれていた。文恵は小さく嗚咽をもらすと、その目から涙が溢れ出た。そしてその涙はノートを濡らした。


 平寿司のカウンターで、空木と乗倉はビールの入ったグラスを合わせた。

 「俺の友達に国分寺署の刑事がいるんだけど、その友達から今日の午前中に連絡があったんだ」

「長谷辺の事件に関係した事ですか」

「その通り、俺たち二人を事件の容疑者として監視を依頼されたらしい」

「えっ、僕たち二人が容疑者ですか。関係者ならわかりますが‥‥」

「二人が口裏を合わせれば、犯行は可能だと考えているんじゃないのかな」

「どうしたら疑いは晴れるんでしょうね」

「犯人が捕まるまで晴れないかも知れないな、ハハハ」

「空木さん、笑い事じゃないですよ。何とかして下さい。アリバイを証明出来ないんですか」

「二人が共犯だと思われたんじゃ、アリバイは証明出来そうにないな」空木は、そう言ってにやにやしながら、前に置かれた鉄火巻きと烏賊刺しを摘まんだ。

 二人がビールを飲み干し、空木が焼酎の水割りを、乗倉が冷酒を飲み始めた時、店の格子戸が開いた。女将の「いらっしゃいませ」の声に迎えられて入って来た男は、着古したスーツの上着を腕に抱えて「よっ、お待たせ」と言って、空木の隣に座りビールを注文した。

 「ノリ、これがさっき話した俺の友達の石山田巌いしやまだいわお、通称がんちゃんだ」

「これ呼ばわりはないだろう。お宅たちの監視役なんだから、丁寧な言葉遣いでお願いしますよ」

 

 石山田巌、四十四歳、警視庁国分寺警察署刑事課係長。空木健介とは国分寺東高校の同級生で、「巌ちゃん」「健ちゃん」と呼び合う仲だ。


 石山田は、グラスのビールを一気に飲み、空木の前のゲタから、鉄火巻きを二つ摘まんで口に放り込んだ。

「健ちゃん何やら面倒な事に巻き込まれたみたいだな。うちの課長から大体の話は聞いたけど、何があったのか詳しく聞かせてくれないか」

「その前に、ノリを紹介しておくよ」空木はそう言って、乗倉を前職の万永まんえい製薬の後輩であることを紹介し、二人で事件のあった雁坂峠に山行した経緯から、死体を発見するまでの話を、奥秩父署の仲澤刑事に話した内容と同じ話をした。

 「それじゃあ状況的には、共犯の容疑者扱いされても仕方ないな。警察と言う所はそういう所なんだ。健ちゃんたちの峠に着いた時間が、死亡推定時刻から完全に外れていれば良かったけど、入っているからね」

「俺たちの多機能ツールナイフのルミノール反応までやったのに、やっぱり犯人が捕まらないと疑いは続くのか」

「あくまでも可能性がある人間は容疑者なんだ。ところで凶器はナイフだったということか。山の中に捨てたらまず発見されることは無いが、それが健ちゃんたちにとって吉なのか凶なのかわからないね。健ちゃんたちがすれ違ったという男が見つかれば、状況は変わる可能性があるけどな」

「そいつが犯人の可能性が、より高いということか」

「それは何とも言えないけど、健ちゃんたちより容疑は濃いんじゃないかと思う」

 石山田はそう言うと、空木の前に置かれた焼酎のボトルを取って、水割りを作って飲み始め、ちらし寿司を注文した。いつものようにちらし寿司のネタを肴にして飲むつもりのようだ。

 「ノリ、山歩会さんぽかいのメンバーには確認してみたかい」

「京浜薬品の岡部さんだけしか確認していないんですけど、誰からも雁坂峠への山行計画の連絡は無かったと言っているんです。山歩会の連絡なら、足立先生からメールで来る筈だと言うんですけど、確かにそれはそうだと僕も思います」

「じゃあノリに電話して来た先崎さんと言う人は、山行の誘いをノリだけにしたということなのか。‥‥先崎さんには連絡は取れたのか」

「電話はしましたが、まだ連絡が取れないんです」

「他のメンバーには連絡は取ったのか」

「いえ、まだ‥‥」

「ノリ、お前調べる気はあるのか?」

「すみません‥‥」乗倉が消え入りそうな声で答えた時、乗倉のスマホにメールの着信音が鳴った。

「岡部さんからのメールです。長谷辺の葬儀の日程が決まったみたいです」

 乗倉は、メールの画面を空木に見せて、

「空木さん、一緒に行ってくれませんか」と小声で言った。

「はあ、亡くなった長谷辺さんと全く面識のない俺が、葬式に出るのか」

「面識はなくても、第一発見者ですよ。お願いします」

 乗倉は、一人で参列することが不安だった。あの時、現場にいたことの理由を、弟と思われる男性に問われた時に、空木に一緒にいて欲しかった。

 葬儀は、明日が通夜、明後日が告別式の予定で、長谷辺の実家のある静岡市清水区の斎場で行われるとあった。

 「‥‥分かった。ノリの気持ちも分かるし、行けば何か情報も掴めるかもしれない。行くよ」

「ありがとうございます。ホテルは僕が予約しておきますから、宜しくお願いします」

 乗倉は、ほっとしたのか冷酒を一気に飲み、お替りを頼んだ。

 「空木さん、人間って何故恨んだり、ねたんだりするんでしょうね」

「ノリ、難しい事を聞くね。長谷辺さんが恨まれていたということか。巌ちゃんは刑事としてどう思う」 

 空木は、隣で焼酎の水割りの二杯目を飲んでいる石山田に顔を向けた。

 「俺には難しいことは分からないけど、人間というものは困ったもんだよ。そういう感情が無かったら事件も減るのに、と思う」

「逆説的だけど、恨みというのは感謝の気持ちの大事さ、尊さを分からせるための感情なんじゃないかと思う。恨むという醜い感情を知って「ありがとう」の言葉の本当の意味を知るような気がする」

「分かったような、分からない答えですね。じゃあ、ねたみとかひがみとかの感情は何故生まれてくるんですか」

ねたみ、ひがみという感情は、自己中心的な人間を現わす代表のような言葉じゃないかな。よく分からないけど、無私むしの心を持った人間、他人を思いやる心を持った人間の、美しさを際立たせるために生まれてきた感情じゃないだろうか。長谷辺さんを殺した人間は、この対極にいる最低の人間ということになるんだけど、その最低の人間にもそうなってしまった理由がある。それも考えてやれる人間を目指せ、ということかも知れないが、俺には難しいな」

「僕には無理ですね」

「警察官の俺たちは、そういう人間を目指さなくちゃいけないんだろうな。とは言え、それを考えるのも犯人を捕まえてからだ。捕まえる事が俺たちの任務、責務だし、そうしないと健ちゃんたちの疑いは晴れない」

「その通りだな。ノリ、俺たちも出来る事をやろう。まずは明日だ」

 三人は、改めてそれぞれのグラスを掲げた。


 月曜日の午後三時に、空木と乗倉は東京駅で待ち合わせて静岡へ向かった。「こだま」の車中は空いていた。

 「空木さん、先崎さんから山行の誘いを受けたのは、やっぱり僕だけでした。足立先生も、薬剤部の杉本先生も連絡は無かったと言っています。何故私だけに誘いの電話をしたのか、今日通夜で会うと思いますから聞いてみます」

「メンバーは通夜に来るのか?」

「ええ、全員参列するそうです。全員と言っても僕を含めて五人ですけどね」

「山歩会のメンバー以外で、長谷辺さんの山行を知った人間がいるという事か。それも単独行で行くことを知った人間がいるんだ」

 二人は静岡で新幹線から東海道線に乗り換えて清水駅で下車した。乗倉の予約したビジネスホテルは、駅のすぐ近くだった。チェックインを済ませた二人は、礼服に着替え、駅から歩いて十二、三分のところの国道一号線沿いにある斎場に向かった。

 一階ロビーのガラス張りの喫煙ルームで、空木が煙草を吸っている間に、乗倉は二人の男性と挨拶を交わし、若い女性と立ち話を始めていた。喫煙ルームを出た空木に乗倉が声を掛けた。

 「空木さん、こちらの女性が岡部さんです。山歩会のメンバーで、京浜薬品のあの所長さんの部下になります」

「岡部綾と申します」岡部綾は、空木に名刺を渡した。空木も名刺を渡しながら、自己紹介した。

「空木さんは探偵さんなんですか‥‥」岡部綾はそう言って改めて空木を見た。

「探偵の空木さんが、うちの所長の小谷原こやはらをご存知なんですか」

「ええ、私も前職は万永製薬のMRでして、小谷原さんとは北海道にいる時からの付き合いで、今も飲み友達なんです」

「長谷辺さんともお知り合いなんですか?」

「いや‥‥」空木が一瞬躊躇した。そこに乗倉が話しに割って入った。

「岡部さん、実は僕たち二人は、長谷辺を最初に見つけた発見者なんだ」

「えっ‥‥」岡部綾は絶句した。

 式がまもなく始まるというアナウンスが流れた。

 三人は、受付のある二階への階段を上がった。受付付近に集まっている参列者は皆若かった。

 記帳を済ませた空木と乗倉は、長谷辺保の遺影が飾られた会場に入り、並べられた椅子に並んで座った。乗倉が、横の男性と一言二言言葉を交わしていた。

 「空木さん、先崎さんはまだ来ていないようです」

「横の方は、山歩会のメンバーなのか」空木は、乗倉に耳元で囁くように聞いた。

乗倉は頷いて「後で紹介します」と小声で返した。

 僧侶が入場し、読経が流れ、喪主、親族の焼香が始まった。

 「お父さんの姿が見えないが‥‥」空木が乗倉に小声で聞いた。

「長谷辺が子供の頃、事故で亡くなったそうです。お母さん一人で男の子二人を育てたそうです」

 それを聞いた空木は、それだけで胸が塞がれる思いになった。ここまで頑張って育て、一人前の社会人に成長した息子を失った悲しみは尋常ではないだろう。その悲しみ、切なさは誰にもわからないだろう。家庭を持たない独身の空木や乗倉には尚更だ。

 若い参列者たちの焼香が続く。前方に供えられた生花の送り主の名前に、大和薬品工業に並んで、清東せいとう高等学校サッカー部OB会と書かれた生花が空木の目に入った。空木は、高校時代野球部だったが、厳しい練習で培われた部活の結びつきは、生涯続くと思っている。今、焼香している若者たちは、長谷辺の部活仲間に違いないと思った。

 空木も乗倉とともに焼香を済ませ、席に戻ると、乗倉が「あっ」と小さく声を上げた。

「先崎さんが来ました」

 ショートカットの良く似合う色白の可愛い女性だった。受付の男性が、喪主である母親に駆け寄り、何かを伝えた。

 先崎文恵は、焼香を済ませ喪主の母、茂美と弟、稔に深々と体を折った。顔を上げると茂美も稔も椅子から立ち上がって文恵に体を折った。喪主が立ち上がって挨拶する姿を見た空木は、相手が故人の上司なら珍しい事ではない光景だが、若い知人女性に対してのこの光景には、違和感があった。

 読経が終わり、係員から参列者への御礼がアナウンスされ、参列者が退出を始めた時、喪主の茂美は、先崎文恵に歩み寄った。

 「貴女が先崎文恵せんざきふみえさんですね」

「はい」文恵はそう言って頭を下げた。

「保の母の茂美です。今日は来ていただいて本当にありがとうございます。保に会ってあげて下さい」茂美は言葉を詰まらせた。

 文恵は、母の茂美が自分の存在を知っているという事で、長谷辺が自分たちの事を話していたことを知った。

 茂美は、文恵を保が収められた柩に案内した。

 「保、文恵さんが会いに来てくれたよ」そう言うと茂美はハンカチで顔を覆った。

 文恵は、しばらく柩に納められた長谷辺保を見つめた。

「‥‥‥保さん、お母さんに会わせてくれたんですね。でも‥‥、私はあなたに紹介して欲しかった。保さんと一緒に会いたかった‥‥‥」文恵は泣いた。

 土曜日のニュースで長谷辺の死亡を聞かされても出なかった涙が、涙を流すことを忘れていたかのような文恵が、体を震わせて泣いた。そして、ハンカチで涙を拭きながら、茂美に振り向き改めて挨拶した。

 「先崎文恵です。初めてお会いさせていただける場が、こういう場になってしまい‥‥」

「私は、貴女にお会い出来て本当に嬉しい。保は貴女とお付き合い出来た事が、本当に幸せだったと思いますよ。文恵さん、保と良い時間を過ごしてくれてありがとう」

 茂美は、文恵の手を握って嗚咽した。そして二人は、抱き合い慟哭した。

 室内に残って二人の姿を見つめていた空木や、乗倉そして山歩会のメンバーたちは、二人の姿に驚きながらも、涙を流さずにはいられなかった。その驚きは、長谷辺と先崎文恵が、付き合っていた、それも長谷辺の母が涙をするほどの付き合いだったことを知った事だった。

 そんな中、文恵は椅子に置いてあった手提げ袋から小さなタッパーを取り出してきた。

 「お母さん、これは私の作った「きんぴら」です。保さんの、大好物のお母さんの作った「きんぴら」の様にはいきませんが、保さんに食べて欲しくて作って来ました」

 茂美の目からまた涙が溢れた。とめどなく流れた。

 「‥‥‥文恵さんありがとう。保がどんなに喜ぶか、お供えしましょうね。保、文恵さんが‥‥」

茂美はそこまで言うのが精一杯で、文恵の手を握った。二人は、こぼれる涙をぬぐおうともせずに声を上げて泣いた。

 

 退室した空木は、乗倉から岡部綾以外の山歩会のメンバーを紹介された。昭和記念総合病院内分泌科の足立医師と薬剤部の杉本部員の二人と、空木は名刺の交換をした。

「空木さんは、探偵なんですか。長谷辺さんとはどういう知り合いなんですか」足立が空木の名刺を胸のポケットに収めながら聞いた。空木は、交換した名刺をカードケースにしまいながら、乗倉を見た。そして乗倉が頷いたのを確認して答えた。

 「実は、私と乗倉さんは、長谷辺さんが殺害された雁坂峠に、あの日ほぼ同じ時間に到着したんです。勿論、長谷辺さんとは別行動でしたが、全くの偶然で事件に遭遇してしまい、長谷辺さんを最初に見つける第一発見者になりました。その結果、我々は長谷辺さんを殺害した容疑者という扱いになってしまいました。それで、長谷辺さんが雁坂峠に行く予定を、事前に知っていた人間がいなかったか、調べようと思っているんです。お二人は、長谷辺さんの山行予定はご存知なかったとお聞きしましたが、山登りを趣味にしている人間で、長谷辺さんの山行予定を知り得る人間に心当たりはありませんか」

「お二人は、雁坂峠に登っていたんですか。それで容疑者扱いに‥‥。乗倉さんが電話で聞いて来たのは、その為だったんだ」

「疑って確認した訳ではないんですよ。どの程度の人が山行予定を知っていたのか知るためだったので、気を悪くしないで下さい」

「それは良いんですが、心当たりと言われても、私には全く心当たりはありません。杉本先生はどうですか」

「うちの病院関係者で山登りを趣味にしている人は、山歩会のメンバー以外にはいない筈ですから、私にも見当はつきません。長谷辺さんの会社とか、友達とかの事は私には分かりません」

 足立と杉本は、明日の勤務の都合上、今日中に東京に戻らなければならないと言って、タクシーで斎場を後にした。そのタクシーが斎場を出た頃から、ポツポツと雨が降り出した。

 「涙雨か」空木は呟いた。

 空木と乗倉がタクシーでホテルに戻ると、ロビーに先崎文恵と岡部綾が座っていた。

 岡部綾が立ち上がり、「一緒に食事に行きませんか」と声を掛けた。その顔は何故か怒っているかのようだった。

 四人はフロントで教えてもらった、駅前銀座と呼ばれるアーケード街にある料理屋に入った。

 空木は、先崎文恵とはホテルのロビーで初対面の挨拶は済ませていたが、文恵の目は泣いたためか目は充血し、瞼は腫れていた。

 注文を終えた四人に、重苦しい沈黙が続いた。最初に口を開いたのは岡部綾だった。

 「乗倉さん、何故長谷辺さんが亡くなった雁坂峠に行ったのか、先崎さんと私に説明してくれませんか」そう言う岡部綾の目も、涙を流したことがわかるほど赤く充血していた。

 岡部綾と先崎文恵が乗倉を食事に誘ったのは、このことを明らかにしたかったのだろうと、空木は想像した。

 「乗倉さんも今日知ったと思いますけど、先崎さんと長谷辺さんの関係を知れば、先崎さんに納得できる説明をしてあげなければいけないと思います」岡部の口調は、不信感と怒りが入り混じって厳しい口調になっていた。

「岡部さん、そんな言い方をしたら乗倉さんが可哀そう。私は、乗倉さんが長谷辺さんとのことで、どう思っていたのか知りたいだけで、疑ったりしていませんから大丈夫です」

 四人の前に、料理が運ばれ、グラスビールも置かれた。空木は、三人の顔を見廻した。

 「お話しする前に、私から言うのも差し出がましいかも知れませんが、長谷辺さんの冥福を祈って献杯しませんか」そう言って空木は先崎文恵を見た。

 文恵は「はい」と小声で答え、グラスを持った。四人は、「献杯」と小さく声を上げた。

 グラスを置いた空木が、「まず私から、雁坂峠へ山行した理由を説明します」と言って、雁峠を、そして雁峠の避難小屋泊まりを選定した理由、さらに日本三大峠の一つである雁坂峠への道を歩きたかったことを説明した。

 「第三金曜日、土曜日を選んだのは、僕なんだ。だから先崎さんから第三土曜日と、言われた時に、即座にブッキングしていると断ってしまったんだ。今から思えば、目的地を聞くべきだったと後悔している」乗倉が空木の説明に続けて説明した。

「昨日、埼玉県警の刑事さんが来られて、同じことを言っていました。今、乗倉さんは目的地を聞くべきだったと言われましたけど、それは何故ですか」

「‥‥岡部さんは知らないだろうけど、先崎さんは長谷辺からある程度話を聞いているかも知れないね。僕と長谷辺は新薬の採用で争っていたんだ。最初は腹が立って、恨む気持ちもあったけど、長谷辺は結局、信用出来る人間だということが分かった。薬審の結果がどっちに転ぼうと、結果が出たら長谷辺には礼を言おうと思っていた。同じ日程で、雁坂峠で合流するとわかっていたら、そこが礼を言う場所に、タイミングになったかも知れないと思ったんだ」

「じゃあ、長谷辺さんを恨んで、付き合いを止めようとか思っていなかったんですか」

「そんなことを思っていた時もあったけど、空木さんとも話をしてそんな気持ちは全く無くなったよ。長谷辺が雁坂峠に行くことを聞いていれば、峠で落ち合っていただろうから、あんな事件も起こらなかったかも知れないと考えると悔しい」

「‥‥それは、私にも言える事です。私の研修さえ無かったら、私は彼と一緒にあの峠に行っていました。私が行けない代わりに乗倉さんに電話したんですから‥‥」

「先崎さんは、何故僕だけに連絡して来たんですか?」

「それは、彼が乗倉さんとの関係を元通りにしたいって、ずっと思っていたからなんです。それで私が、彼の代わりに乗倉さんに電話したんです。他の人に連絡していないのはそういう事なんです」

「そうだったんですか。長谷辺は、それほど僕との関係を気にしていたんですか‥‥」

「乗倉さん、明日の告別式で、彼に言葉を掛けてあげて下さい」

 先崎文恵の赤く充血した目からまた涙が零れ落ちた。

 乗倉は顔を天井に向け、涙が落ちるのをこらえているかのようだった。

 涙を拭いていた岡部綾が、「乗倉さんも四月の山歩会に来れば良かったのにね」と言ってスマホの写真を乗倉に見せた。それは、山歩会の四人が御前山の山頂で撮った集合写真だった。

「いい写真だね。長谷辺も良い顔しているよ。この写真、僕にも送ってくれないか」

「いいですよ。後で送っておきます」

 部屋の雰囲気が少し和んだ。四人は、料理に箸をつけ、空木はビールのお替りをした。

 「先崎さん、私たちは長谷辺さんを殺害した犯人は、長谷辺さんの山行計画を知っていた上に、単独で行くことも知っていた。さらに奥秩父の山をかなり知っている人間だと思っています。先崎さん自身は、長谷辺さんの計画を誰にも話していないと仰っていましたが、長谷辺さんが話すとしたら誰なのか、心当たりはありませんか」

「彼が、山の話をする人ですか‥‥。今回は弟さんには間違いなく話していると思います」

「そうだろうと私も思います。そうでないと弟さんが、雁坂小屋にいたことの説明がつきません。と言っても弟さんが、長谷辺さんを殺害するとは思えません」

「そんな事あり得ない事です。あとは私の想像ですが、上司の所長には、どこに行くのか話しているような気がします。所長さんは、山登りはしないようなので山に興味はないと思いますが、彼の性格からすると上司には話しているような気がするんです」

「所長ですか。今日の通夜には来ていたんですかね」

「わかりません」

「今日は来ていなかったと思います。僕は、その所長とは顔見知りなので分かります」乗倉が話しに加わった。

「明日の告別式には、来るんじゃないですか。来たら僕から聞いてみます」

 先崎文恵は、料理にはほとんど手を付けていなかった。

 「空木さん、彼は何故殺されたんでしょう。誰かに恨まれているようなことはなかったか、警察にも聞かれましたが、彼は人から恨まれるような人間ではないんです。一体誰が、こんな事をしたんでしょう。悔しいです」

「先崎さんだけではありませんよ。お母さんも、弟さんも皆、同じ思いですよ。犯人を捕まえて罰を受けさせましょう」

「空木さん、探偵なんですから、頼みますよ」乗倉がビールグラスを空けて言った。

「探偵だから頼むと言われても困るが、いつまでも容疑者扱いは迷惑だから、何とかしないとね。しかし、人間の恨みとかねたみとかは本人の思いとは全く違うところで生まれることもあるから、思わぬ人間が恨んでいたということもあるだろうね」

 空木の言葉を聞いた先崎文恵は、溜息をついた。雨は本降りになっていた。四人は雨の中をホテルに戻った。

 

 翌日の朝も雨は降り続いていた。告別式は予定通り、午前十一時から始まった

大和やまと薬品の所長が来ています」乗倉が空木に囁いた。

 僧侶の読経が流れる中、焼香が始まった。空木の横で焼香している乗倉の呟きが、空木に聞こえた。

 「長谷辺、お前がどれだけ誠実な人間なのか良く分かったよ。藤江先生も処方してくれた。改めて礼を言わせてもらうよ。ありがとう」

 焼香が終わり、僧侶が退出した後、喪主である母、茂美の切なく悲しい挨拶も終わった。出棺となり、茂美は、先崎文恵を側に呼んだ。そして、供えてあったタッパーを文恵に手渡した。

「文恵さん、貴女の手で貴女の作ってくれた「きんぴら」を柩に入れてくれませんか」

文恵は、小さく頷きタッパーを手に取り、柩の中にそっと置き呟いた。

「保さん、山形の母には会ってもらえなかったけど、貴方の話はさせてもらいますね。一緒に行きましょうね」

文恵の言葉に、茂美が涙を流しながら声を震わせた。

「保、山形に文恵さんと一緒に行くんですよ。‥‥どうして死んじゃったの‥‥、保」

 出棺を見つめている参列者同様、空木もどうにも涙が止まらなかった。

 空木は、火葬場へは行かず、東京へ戻ることを予め乗倉に伝えていた。

 乗倉は、告別式が終わった後、大和薬品の長谷辺の上司である営業所長に、話を聞いていたらしく、出棺に並んだ空木に「先崎さんの想像通りに、所長は長谷辺から何とか言う峠に行くことは聞いたと言っていましたが、その事は誰にも話していないと言っていました」と伝えた。それを空木に伝えると、乗倉は空木に一緒に葬儀に参列してくれた礼を言って、火葬場へ向かうバスに乗り込んだ。

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