第4話 疑惑

 埼玉県警のヘリコプターから降りた応援の警官と鑑識係員が、現場に向けて峠への登山道を登って行った時、時刻は午後二時を回っていた。それから四十分ほどして二人の警官が下りて来た。一人は、空木たちと共に現場へ行った警官だった。その警官が、ベンチに座っている二人を見て、手招きをした。

 「こちらが担当の仲澤刑事です」警官が二人に紹介した。

「奥秩父署の仲澤です。あなた方が被害者を発見されたということですが、少し話を聞かせて下さい」

 二人は仲澤刑事の後について薄暗い小屋に入り、土間のテーブルに向い合せで座った。空木と乗倉は、ザックから取り出した財布の中から名刺を抜いて仲澤に渡し、改めて名乗った。

「空木さんは、探偵事務所の所長さんですか。そして、‥‥乗倉さんは万永まんえい製薬の社員さんということですね」

 仲澤は、名刺と二人の顔を確認するかのように目線を上下させた。

 「それで、被害者の友人というのは乗倉さんだと聞きましたが、間違いないですね」

 乗倉が「はい」と言って頷く姿を隣で見ていた空木は、仲澤の「被害者」という言葉に事故ではない、事件性を確信した。

 「この山の中で偶然友人に会い、その友人が何者かに刃物で刺されて死亡していた。我々としては、乗倉さんの行動を、事細かく聞かせていただかなければなりません。まずは、どうして雁坂峠に来ることになったのか、そして被害者の予定、つまりこの峠へ来ることを知っていたのか、知らなかったのか、最後に今日の朝から昼までの行動を教えて下さい」

 乗倉は今回の山行は空木の発案であることを、横に座っている空木を見ながら説明し、被害者である長谷辺の山行計画についても、さっき空木に話したことと同じ話を仲澤刑事に説明した。

 「空木さんの発案でここに来たということですが、本当ですか」と仲澤は、空木の顔を睨むように見た。

「はい、その通りです。日程は乗倉が決めましたが、雁峠から雁坂峠への山行計画は、私が計画しました」

「そうですか。ところで空木さんは、被害者の長谷辺さんの山行計画はご存知なかった‥‥」

「勿論です。長谷辺という名前だけは、乗倉の仕事上の競争相手ということで聞いてはいましたが、会ったことはありません」

「‥‥‥雁峠へは、どこから登られたのですか」

「山梨市駅からバスで新地平まで行って、そこから登りました」

「バスにはお二人だけでしたか」

「地元の住人の方たち以外では、ハイカーらしき男性が一人いましたが、新地平で下車したのは、我々二人だけでした」

「なるほどわかりました。それから乗倉さん、先崎さんという方から誘いの電話は受けたものの、被害者の山行の行き先は聞いていなかった、と言われましたが、その事は改めて我々で確認させていただきますから承知していてください。それで今日の朝からの行動を教えてください」

 仲澤に促された乗倉は、雁峠の避難小屋で若い男性と一緒だったことから話を始めて、小屋を出てから長谷辺の死体を発見するまでの行程と行動を、時折空木に確認しながら説明した。

 「そう言えば、途中で一人だけハイカーとすれ違ったな」空木が補足した。

「‥‥そうでしたね」

「お二人はずっと一緒だったようですが、雁坂峠では一時、別行動されていた時間があったということですね。乗倉さんが水を補給するために小屋に下りて、死体を発見して空木さんのいる峠まで戻るまでの数分間です」

「まさか、私が長谷辺を刺したとでも言うつもりですか」

「いえいえ、そんなことは言っていません。一人になる時間もあったと言っているだけです。因みにお二人は、山行する時にはナイフは携行されるのですか。もしお持ちでしたら拝見させていただけませんか」

 空木と乗倉は、半ば諦め顔でザックからそれぞれの多機能ツールナイフを取り出し、仲澤の前のテーブルに置いた。仲澤は二つのナイフをハンカチで包み、鑑識係員を呼んでルミノール反応を確認するように指示した。それを見た二人は、同時に溜息をついた。

 「あくまでも念のためですから、気を悪くしないで下さい。それから、ここに来る登山道ですれ違ったというハイカーは、どの辺りで何時頃だったか覚えていますか」

 仲澤刑事の問いに、腕組みをしていた空木が、腕組みを解いて顎に手をやった。

 「‥‥水晶山を過ぎた辺りだったと思います。時間は、十一時を回ったぐらいだったと思いますが、ノリは覚えているかい」

「水晶山は越えていましたね。時間もその位だったと思います」

 手帳にメモを取っていた仲澤が身を乗り出した。

 「その男はどんな様子でしたか」

「私が前を歩いていたんですが、挨拶しても何の反応もありませんでしたね。普通は、山で会えば挨拶するものですし、この山域のようにハイカーの少ない山で出会うと、一言二言会話をすることもあるんですが、そのハイカーは全く我々を無視でしたね」

「‥‥それとサングラスとマスクをしていましたね」乗倉はそう言って、空木の同意を求めるかのように顔を向けた。

「そうだったな、サングラスは時折見るけど、マスクは珍しかったね。新型感染症の影響がここまで来ているのか、と思いましたよ」

「‥‥‥そのハイカーは、被害者とここで出会っているかも知れませんね。どこへ向かって、どこへ下山するつもりなのか‥‥まだこの山域のどこかにいるかも知れないですね」仲澤は、二人のどちらに話すのでもなく、二人に問いかけるように言った。

「今日中に下山するなら、我々の逆コースで雁峠から新地平に下りるか、或いは、笠取小屋から一ノ瀬に下りて丹波たばのバス停まで歩くかのどちらかでしょうが、泊まるとなると将監しょうげん小屋までの歩きもあるかも知れませんね」空木だ。

「空木さんは、奥秩父の山をよくご存知ですね。ところでお二人は、今日はここに泊まる予定なんですか」

 話している仲澤に、鑑識係員が二本の多機能ツールナイフを渡し「反応なしです」と伝えた。「わかった」と言って仲澤はナイフを二人に返した。

 腕時計をじっと見ていた空木は、乗倉を見てから仲澤に顔を向けた。

 「この小屋は、食事は無いんですが、予備食を持っていますから泊まることは出来ます。それにこれから下りるとなると、バスの時間が問題で間に合わないかも知れませんから、ここに泊まるのが正解だと思いますが‥‥」

「我々は、これから署に戻ります。雁坂トンネルの駐車場に、署の車が迎えに来るんですが、一緒に下りますか。我々の都合で待たせてしまった上に、話を聞かせていただいて遅くなってしまったのですから、秩父の駅までですが、送りますよ。いかがですか」

 仲澤刑事の思わぬ言葉に、空木と乗倉は顔を見合わせた。

 「空木さん、下りましょう。長谷辺がこんな事になって、ここでは落ち着いて寝ていられないですよ」

 空木は頷いた。


 雁坂トンネル料金所手前の駐車場に、空木と乗倉が仲澤刑事らとともに着いたのは、小屋を出てから二時間半程経過した午後六時過ぎだった。山間やまあいのこの駐車場は、既に薄暮から夜に向かっていた。

 仲澤が、少し離れたところに駐車していた、レンタカーと思われるナンバーの車から出てきた署員に「済んだか」と声を掛けた。

 そして一行は、三台の警察車両に分乗した。空木も乗倉も同乗し、雁坂トンネルを抜け、秩父市の西武秩父駅までのおよそ一時間半の道のりを警官とともに無言で乗った。

 駅に到着し二人が車を降りると、仲澤刑事が名刺を出しながら言った。

 「何か気になることがあったり、思い出したりしたら連絡して下さい。それからお二人には、また話を聞かせていただくことになるかも知れませんので承知しておいて下さい」

 仲澤たちと別れた二人は、駅近くに蕎麦屋を見つけて入った。時刻は七時半だった。

 生ビールで形だけの乾杯をして、蕎麦とかつ丼のセットを頼んだ。

 「殺人事件だな」空木が口を開いた。

「‥‥長谷辺は誰に殺されたのか見当もつきませんが、あの雁坂峠で行きずりの犯行とは思えませんよね」

うらみ、ねたみを持った人間の仕業ということか。あの長谷辺という人は、誰かに恨まれるようなことをする人間なのか」

「さあ、僕には社内のことも友人関係も分かりませんから、何とも言いようはありませんけど、最低限MR仲間や病院関係者から恨まれているような話は聞いていませんし、なかったと思いますよ」

「あの人を恨むとしたら、ノリ、お前が一番恨んでいる筈だからな。ノリが恨んでいないって言うんだったら、他に恨む人はいないだろうな」

「‥‥空木さん、やっぱり僕は疑われるんでしょうね」

「仕事上のライバルで、しかもお前は仕事では不利な状況と来ている。それに加えて滅多に人が来ない峠で起こった殺害現場にいたんだから、疑われるのは当たり前かも知れないな。でも俺と一緒にいたことが、何よりのアリバイになる。良かったな」

「良かったのか、悪かったのか、空木さんが雁峠から雁坂峠のコースを選ばなかったらこんな事にはならなかった筈ですから、何とも複雑ですよ」

「まあ、そう言うなよ。それを言ったら、ノリがこの日程にしなかったらノープロブレムだったんだからな。それよりノリに電話を掛けてきた女性MRは何故お前に電話して来たんだ」

山歩会さんぽかいの山行連絡だと思いますよ」

山歩会さんぽかい?」

 乗倉は、昭和記念総合病院に足立医師を中心に作られている「山歩会さんぽかい」の説明を空木にした。

「じゃあ、その山歩会のメンバーは全員、長谷辺さんの山行予定を知っているということか」

「そうかも知れませんが、長谷辺に恨みを持って殺そうとする人間なんかいませんよ」

「ノリは疑われても仕方がないけど、恐らく俺も少なからず疑われていると思う。身の潔白を証明する意味でも、誰が長谷辺さんの予定を知っていたのかだけでも調べてみたい。ノリも一緒に調べてみないか」

「僕も含めて、山歩会のメンバーの誰かが、長谷辺と一緒に行っていたらこんな事にはならなかったと思います。調べてみたいです」

 乗倉の言った「誰かが一緒に‥‥」という言葉を聞いた空木は、長谷辺を襲った人間は、長谷辺が単独で登ることを事前に知っていたに違いないと思った。

 二人が国立駅に着いたのは、西武秩父駅を出てからおよそ二時間後の十時半頃だった。二人は明日の夕方、再び平寿司で会うことを約束して別れた。


 奥秩父署に戻った仲澤たちは、夜八時から予定されている捜査本部会議の準備に加わった。

埼玉県警奥秩父署は、医大での司法解剖の結果を受けて他殺と断定、殺人事件として奥秩父署の署長を本部長に捜査本部を設置することとし、県警本部と近隣の警察署からの応援を含め、三十名近い捜査員が招集された。

 「雁坂峠殺人事件捜査本部」の戒名が付けられた捜査会議は、奥秩父署の大会議室で午後八時過ぎから開かれ、刑事課長の野田によって進められた。

 「被害者は、ザックの中の遺留物と、雁坂小屋で待ち合わせをしていたという弟の検分により、長谷辺保、二十六歳。大和やまと薬品工業の社員で、東京支店立川営業所に勤務している。住所は東京都立川市曙町一丁目、弟の長谷辺稔と同居。死因は、刃渡り十センチ強のナイフによる腹部二か所の刺創からの大量出血。死亡推定時刻は、本日の午前十時三十分から十一時三十分の間と思われる。被害者の遺留物の中に、レンタカーのキーがあった。弟の証言からも被害者はレンタカーで雁坂トンネルの料金所駐車場に移動し、そこから雁坂峠へ登ったと思われるが、その裏は取れたのか」

 野田刑事課長は一人の捜査員に目をやった。

 「はい、雁坂トンネルの料金所駐車場に該当のレンタカーが駐車していました。その車のナビの記録から、被害者は自宅付近を午前五時三十分頃に出発し、料金所駐車場に午前七時四十五分に到着しています」報告した捜査員は椅子に座った。

「七時四十五分に到着後、身支度を整えてスタートするのに十分から十五分。午前八時にはスタートしたと思われる。雁坂峠までのコースタイムはおよそ三時間、若い被害者なら三時間は掛からないだろうから、午前十一時には峠に着いていたと考えられる。死亡推定時刻には一時間の幅があるが、十一時前後十分間の犯行に絞られる。次に弟の長谷辺稔からの聞き取りを報告してくれ」

 また一人の捜査員が立ち上がった。

 「長谷辺稔は、被害者とは三歳違いの二十三歳で大学院生です。被害者とは同居していて、今回の山行では、稔は昨日五月二十一日金曜日に、小海線の信濃川上しなのかわかみ駅からバスにて梓山で下車、千曲川源流から甲武信ヶ岳こぶしがたけに登り、甲武信小屋のテント場で一泊して今日雁坂小屋で兄と待ち合わせていた。約束の午前十一時から十一時半を過ぎても兄は来なかった。会社関係、仕事関係のことは全く分からないが、付き合っていた女性はいたようだ、とのことでした。雁坂峠までの道のりで誰かに会わなかったか確認したところ、出会いはしなかったが、甲武信小屋からの途中の笹平の避難小屋に人がいたような気がすると言っていました。その時刻は、午前八時少し前だったように思うとのことでした。その後は、雁坂小屋に十時三十分頃着いたと言っていましたが、誰にも会わなかったと言っています」

「笹平の避難小屋に人がいたのか‥‥。被害者の遺留品で他に報告することはあるのか」

「財布は、現金もクレジットカードも手付かず、でした。スマホのメールも電話もこれと言ったものはありませんでしたが、スマホの履歴からは先崎文恵という女性と数多くやり取りをしています。この女性が弟の言う、付き合っている女性ではないか、と思われます。以上です」

 報告を聞いた野田は、仲澤に「仲澤係長、現場の確認状況と第一発見者からの聞き取りを報告してくれ」と指示した。

 仲澤はパイプ椅子から立ち上がり、手帳を開いた。

 「現場は、雁坂峠から小屋に向かう登山道を一、二分下ったところで、被害者はザックを背負ったまま俯せで倒れているところを発見されました。先に現着していた署員から刺創だと聞き、周辺を捜索しましたが、刃物の類は発見されませんでした」仲澤は、現場写真を示しながら報告した。

 さらに仲澤は、雁坂小屋で空木と乗倉からの聞き取った内容を報告した。空木は、探偵事務所の所長、乗倉は万永製薬の社員であることから始まり、乗倉は被害者の仕事上の競争相手だったが、被害者の山行計画は知らず、偶然死体を発見することとなった。雁峠から雁坂峠の山行計画は、被害者とは全く面識のない空木が独自に考えた計画だったと言っていると報告した。そして二人が雁坂峠までの行程で出会ったハイカーは、雁峠の避難小屋で出会った若い男と、水晶山と雁坂峠の間ですれ違ったハイカーの二人だったと報告した。

 「鑑識結果、初動、聞き取りの報告は以上だ。この殺人事件は、被害者の山行計画を事前に知った人間の、怨恨を動機にした計画的犯行と思われる。標高2000メートルで発生した殺人事件だけに、目撃者は勿論、防犯カメラもない。現状では発見者と弟から聞き取った情報を基に、午前十一時前後に雁坂峠付近にいたと思われる人間を捜し出し、凶器となった刃物を見つけることだ。質問、意見を出してくれ」

 野田課長は捜査員たちを見廻した。捜査員たちからは、凶器の捜索は現場周辺に限定するのか、第一発見者の二人が共犯である可能性は無いのか、弟が約束の時間よりかなり早く小屋に到着しているのは不自然ではないか、被害者の鑑取かんどり、つまり社内、仕事関係、友人関係を洗うのが先決ではないか、などの意見が出され、時刻は夜十時半を過ぎようとしていた。

 捜査員たちの意見、議論を聞いていた野田が立ち上がって発言した。

 「まず、もう一度現場周辺を捜索して凶器の刃物を探す。次に、犯人の峠までの足取りを追う班は、山梨のバス会社と甲武信小屋の利用者を確認、さらに当日早朝に雁坂トンネルの料金所の駐車場に駐車した車が無かったか確認すること。下山についても、山梨と東京のバス会社に単独行のハイカーを乗車させなかったか確認してくれ。鑑取り班は、怨恨の線を徹底的に調べてくれ。会社関係、仕事関係、友人関係を漏らすことなく調べて欲しい。仲澤係長しっかり頼む。第一発見者の二人と弟についても監取り班で追ってくれ。ついては、三人とも警視庁の管内であり、警視庁所轄署の捜査協力が必要です。協力依頼を署長からお願いします」

 野田刑事課長は、本部長である署長を振り返った。捜査本部の会議が終了したのは、夜十一時を回っていた。

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