第3話 雁坂峠

 乗倉が藤江との面談を終えた翌週から、万永まんえい製薬のダイナカルグットの処方が出始めたことを、医薬品卸の担当セールスから聞いた乗倉は、藤江が処方してくれていると確信し感謝した。しかし大和やまと薬品のインカルグルとは大きな差があり、あと一か月で逆転は難しいだろうと乗倉は思った。

 乗倉は、空木健介うつぎけんすけに連絡を入れた。

 「空木さん、藤江先生が、処方し始めてくれたようです。薬が出始めたという連絡がありました」

「それは良かったね。気持ちが通じたということか。それで競争には勝てそうなのか」

「‥‥いえ、それはかなり難しいと思いますが、最善を尽くすという意味ではすごく嬉しいんですよ」

「なるほど、そうだな」

「それで空木さん、私、久しく泊りの山行に行っていないので、五月になったら泊りの山行に付き合ってもらえませんか。最善を尽くしたら、もうじたばたしても仕方ないでしょう。久し振りの山泊まりの山行に行きたいのでお願いします」

「ああいいよ、日程はノリに任せるからまた連絡してくれ」

 空木への電話を終えた乗倉の気分は、久し振りに晴れ晴れ、うきうきしていた。


 ゴールデンウィークが終わり、弟の稔と共に静岡の実家から東京に戻って来た長谷辺は、西国分寺駅で下車し、山形の実家から戻った先崎文恵せんざきふみえと逢っていた。

 「お母さん元気だった?きんぴらごぼうもたくさん食べさせてもらった?人参も牛蒡も嫌いなのに、きんぴらは好きだなんて面白いわね」

「うん、元気だった。毎日きんぴらでね、しばらくきんぴらはいらない。お袋も今年五十になるんだけど、仕事も元気に続けているみたいだ。稔の学費も俺が出す必要ないって言ってさ、あんたは奨学金の返済もあるし、結婚も控えているんだから、そっちに使えと言われたよ。そっちはどう、山形のご両親は元気だった」

「二人とも元気だったわ。結婚、結婚ってうるさくて、帰る度に言われるわ」そう言うと、先崎文恵は長谷辺の顔を見た。

「山形には一度も行ったことがないけど、良いところなんだろうな。月山がっさん、蔵王、飯豊山いいでさんの百名山。それに冷やしラーメン、そばも有名だよね。今年中に必ず行くよ」

「え、遊びに来るの」

「挨拶しに行くんだよ。つまらないこと聞くなよ」

「じゃあ、私も静岡へ連れて行って。三保の松原から富士山を見てみたいわ。海越しの富士山を見たいわ」

「観光に行くのか」

「挨拶しに行くのよ。つまらないこと聞かないでよ」

 二人は、顔を見合わせて笑った。

 「ところで、再来週の土曜日に、雁坂峠に登ろうと思っているんだけど一緒に行かないか。君は、雁坂峠には行ったことないだろう」


 雁坂峠は、埼玉県と山梨県の県境にある峠で、標高は2028メートル。日本百名山の甲武信ヶ岳こぶしがたけから雲取山を結ぶ、奥秩父主脈縦走路にあって、北アルプスの針ノ木峠、南アルプスの三伏さんぷく峠と並んで「日本三大峠」に数えられる峠で、笹藪の草原が広がり、南に富士山を望む眺望は素晴らしく、ハイカーなら一度は行って見たいと思う峠である。


 「行きたいけど、その週の金曜、土曜は本社で研修なのよ。残念だわ、弟さんとでも一緒に行ったらどう」

「稔とは毎日顔を合わせているし、大学院へ進んでからは、俺が煙たいみたいだから一緒には登りたくはないだろうな。君が行けないのなら一人で行ってくるよ」

「そうだ、思い切って乗倉さんを誘ってみたらどう」先崎文恵はそう言って「フフッ」と笑った。

「誘える訳がないよ。俺の顔を見るのも嫌がっているのに、しかも採用が決定する五月の薬事審議会の一週間前なんだから、尚更だよ」

「私があなたの代わりに誘ってみましょうか」

「‥‥止めてくれよ」

 長谷辺は、乗倉が内分泌科の藤江部長に面会し、処方依頼に成功したであろうということは、万永製薬のダイナカルグットの処方量の情報から推測していた。しかし乗倉から何も連絡がないのは、それが採用に繋がる訳ではないことを、乗倉が承知している証だと思っていた。今月末の薬審で結果が出るまで、どうにも出来ないことは分かっていた。


 一方、ゴールデンウィークを北海道の実家で過ごした乗倉は、東京に戻った週末、平寿司で空木と待ち合わせた。空木健介の前には、今日も鉄火巻きと烏賊刺しが並んでいた。

 「北海道の両親には、少しは親孝行して来たかい」

「新型感染症の事もあって、一年半振りに帰ったんですが、一番の親孝行はお前が早く結婚してくれることだって言われて、実家にいる間中、針のむしろでした。四十過ぎの独身男が、そんなに簡単に結婚出来る筈がないことぐらい分かっているのに、まるでいじめですよ」

「うーん、それは俺も一緒だ。その話は止めにしよう」

 二人の話が聞こえたのか、店員の坂井良子が焼酎の水割りセットと冷酒を二人の前に置いて言った。

 「空木さんもご両親から結婚のこと、言われているんですか」

「‥‥まあね。諦め半分だろうけどね」

「空木さん自身は諦めていないんでしょう。空木さん、優しいから良い人出来ますよ」

「‥‥‥」空木は顔を赤らめて黙ってしまった。乗倉はそれをニコニコしながら見ていた。

 そして二人は、ビールを空けて、空木は焼酎の水割りを、乗倉は冷酒を飲み始めた。

 「ところで空木さんが、行きたいと言っていた雁峠がんとうげというのはどんな所なんですか。しかもそこにある避難小屋に泊まりたいとも言っていましたね」


 数日前、乗倉が山行の日程を五月の二十一、二日の金曜、土曜にしたいが良いか、と空木に連絡した際、空木から雁峠がんとうげから雁坂峠かりさかとうげの道を歩きたいが、どうかと打診された。乗倉自身、どうしても行きたい山がある訳でもなかったことから、空木の山行案に賛成した。そして今日は、その山行の打ち合わせと称して飲んでいた。


 「雁峠がんとうげはね、笠取山かさとりやまの麓の峠で、笹が広がった草原の中に、一つだけだけど大きなベンチがあって、すごく感じの良い峠なんだ。俺は、日本三大峠の雁坂峠も好きだけど、雁峠も標高こそ雁坂峠に及ばないけど、その笹原の広さとかは雁坂峠に勝ると思う」

「笠取山ですか。登ってみたい山です。それなら避難小屋じゃなくて、笠取小屋に泊まったらどうですか」

「そこなんだよ。雁峠の避難小屋は、元々は雁峠山荘という名前の営業小屋だったんだけど、二十年以上前、営林署から許可が下りずに避難小屋になったんだ。俺は、避難小屋になってからしか知らないけど、もう二、三回は泊っているんだ。最後に泊まったのは、十年以上前かと思う。名古屋支店にいた当時に、金峰山きんぷさんからの縦走で、今、北海道にいる土手登志男と一緒に泊まって以来になる。久し振りにこの小屋に泊まりたいんだ。シュラフを持って行かなくちゃいけないが、宿泊料はいらないしね」

「土手と泊まったんですか。しかもお金がかからないというのは魅力ですね。その理由だけで十分わかりました。それで、そこからどっち方面へ歩きますか。雲取山方面ですか」

「いや、雁坂峠へ行って、そこから西沢渓谷に下りる。峠巡りのゆったりした山行も良いよ」

「それ、ちょっと楽過ぎませんか。足を延ばして甲武信ヶ岳こぶしがたけまで行くのはどうですか」

「それも良いかも知れないな。甲武信ヶ岳までをAプラン、雁坂峠から下りるルートをBプランとして、どっちにするかは、雁坂峠に着いた時点での時間と体調、体力で決めることにしよう」

 二人は、二十一日朝の国立駅での待ち合わせ時間を決め、焼酎の水割りと冷酒で乾杯した。そして平寿司の名物になっている、店主の甥の店員、平沼勝利が作るパスタを締めに食べて打合せを終えた。 


 零細探偵業の空木健介は、調査の仕事ばかりではなく、よろず相談の仕事も喜んで引き受けている。高齢者の病院通いの付き添いも、MR経験のある空木には得意かつ大事な仕事だった。

 今日も、月に一回の病院付き添いのため、クライアントの家のある東小金井に向かっていた。

 そのクライアントは、大松道子という七十八歳になる高齢の女性だったが、契約主は、神戸に住む息子だった。息子は、平寿司の主人と中学の同級生だったことから、息子は母親の病院通いに誰か付き添ってくれる人間がいないか、同級生の平寿司の主人に相談した。相談を受けた主人が、よろず相談を請け負う空木を紹介したことから、息子が月に一回の付き添いを、空木に依頼したのだった。

 大松道子は、十五年ほど前から関節リウマチを患い、月に一回の生物学的製剤の治療を受けるために、立川の昭和記念総合病院のリウマチ科に通院していた。新型感染症の感染拡大の時期は車を使ったが、ワクチンの接種を終えた大松道子は、月に一度は電車に乗って立川に行きたい。そして病院の帰りに立川の百貨店を歩きたい、という強い希望があり、しかも強情だった。

 道子の家から東小金井の駅までは三百メートル程で、空木の足なら五分程だが、リウマチで足を患い、杖をついて歩く道子は、十五分程かかる。東小金井から立川までは中央線の電車で移動し、立川駅からはタクシーで昭和記念総合病院へ向かうのだが、今日の中央線の電車は、いつになく混んでいた。

 時間は午後一時を回ったところだったが、座席は優先座席を含め、満員で空席は無かった。その時、大松道子の手を引く空木に声を掛ける中年の男性がいた。

 「どうぞ座って下さい」と言ってその中年の男性は席を立った。横に座っているスーツ姿の男は、足を組んだまま寝ているのか、目を瞑っている。

「ありがとうございます」空木は礼を言って、道子を譲られた席に案内して座らせた。

 そして空木が、道子の前に立った時、マスク越しに「チッ」という舌打ちしたような不快な音が聞こえた。それは道子の隣で、組んだ足の上に黒いバッグを置き、目を瞑っているスーツ姿の男から聞こえたように思えた。

 電車は、二十分程で立川駅の6番線に到着した。

 ホームから改札口に上がるエスカレーターで、道子を前にして後ろから支えるように空木は立った。エスカレーターの空いている右側を、黒いバッグを肩にかけた、さっきまで道子の隣に座っていた男が駆け上がって行った。その男は、道子の二、三段前に立っていた男性を、黒いバッグで叩きつけた。その拍子に道子の前に立っていた男性は、バランスを崩し道子に倒れ掛かって来た。道子は「あれー」と声を上げて、今度はすぐ下の空木にもたれかかった。三人は、動いているエスカレーターに将棋倒しのように倒れてしまった。

 「誰かエスカレーターを止めて下さい」

 空木の声がホームに響くと、乗客の一人がエスカレーターの非常停止スイッチを押しエスカレーターを停めた。

 まもなく二人の駅員が倒れている三人に駆け寄った。

 「大丈夫ですか。怪我はありませんか」

 駅員の呼びかけに、空木は「大松さん、大丈夫ですか」と顔を覗き込むようにして声を掛けた。

 「私は大丈夫です。空木さんが支えてくれたお陰ですよ。でも、この人大丈夫かしら」

 最初に道子に倒れ掛かった男性は、足を痛めたようだった。

 「すみませんでした。私も大丈夫です。横を通った人にバッグを振り回されて、バランスを崩してしまいました。申し訳ありません」

 道子を抱えて起こした空木は、駅員に向かって声を上げた。

 「駅員さん、警察を呼んでください。私たちの横を駆け上がって行った男は、故意にこの方をバッグで殴ったように見えました」

「事故ではないということですか‥‥」駅員の一人が聞いた。

「どうみても故意だと思います」

空木は、そう言うと最初に倒れてきた男に目をやった。

「あ、あなたはさっき席を譲ってくれた方‥‥」

 その男性は、東小金井駅から乗った中央線の車内で、道子に席を譲ってくれた中年の男性だった。

 しばらくして、鉄道警察の腕章をつけた警察隊員が駆け付けた。そして空木たちから簡単に事情を聴くと、駅構内にある鉄道警察立川分駐所の事務所に三人を案内した。

 被害者となった男性は、藤江秀樹と名乗り、隊員に名刺を出しながら昭和記念総合病院に勤務する医師だと説明した。

 藤江と言う名前を聞いた空木は、「え、まさか‥‥」と小さく声が出た。横に座っていた大松道子が、空木の声が聞こえたのか「空木さんのお知り合いだったんですか」と空木の耳元で小声で聞いた。

 「いえ、知り合いということではないんですが‥‥。私が一方的に知っているというか、名前だけですけど知っているんです」

 被害者の藤江は、その時の状況を説明した。

 中央線の電車で隣り合わせになったかも知れないが、全く知らない男で、何故バッグで叩かれたのか全く解からないと話した。それを聞いていた空木が、藤江の話を補うように、間違いなく車内で大松道子の隣の席にすわっていた男で、スーツ姿で黒いショルダーバッグを持っていたと話した。隊員から改めて身元を問われた空木は、「スカイツリーよろず相談探偵事務所 所長」の名刺を隊員に渡して、大松道子に付き添って昭和記念総合病院に行く途中だったことを説明した。

 被害届の聴取を終えた三人は、コンコースから改札口を出た。空木と藤江は、そこで改めて挨拶し名刺を交換した。

 「空木さんは、探偵事務所の所長さんなのですか。探偵さんと挨拶するのは初めてです」

「所長と言っても、全部一人でこなさなければならない、たった一人の零細探偵事務所です。それより、私は大変驚きました。藤江先生にこんな所で、こんな形でお会いするとは思ってもみませんでした」

「‥‥空木さんとはどこかでお会いしているのですか‥‥。もしかすると患者さんですか。失礼しました」

「いえ、幸いにもまだ先生の患者にはなっていません。健康体です。先生は、万永製薬の乗倉をご存知だと思いますが、彼は私の後輩なんです。乗倉から、先生のお名前を何回か聞いていましたので、さっき先生のお名前を聞いた時はびっくりしました」

「そうだったんですか。乗倉さんの先輩ですか。ということは製薬会社のMRから探偵への転身という訳ですか」

「探偵と言っても何でも屋ですから、今日もこちらの大松さんの病院への通院の付き添いが仕事です」空木はそう言いながら頭に手をやった。

「通院している病院は、私の勤務する昭和記念総合病院だと言っていましたね。私もタクシーで行くところですからご一緒しましょう」

 三人は、北口からタクシーで昭和記念総合病院へ向かった。

 「空木さん、私にバッグをぶつけてきた男が、すれ違う時に「恰好つけるんじゃねえ」と言っていました。最近は人に親切にしたり、迷惑を注意したりするのも大変な世の中になりました」

「自己中心的な人間がいるんですね」

 空木は、そう言いながら、電車の中で大松道子の前に立っていた時に目に入った、ある物を思い浮かべていた。あの男が持っていたショルダーバッグに付いていたマークだ。空木はブランドに興味もなく知識もないが、あれはブランドマークではなかった。なんだろうと考えていた。

 病院の玄関で、空木たちと別れる際に藤江は、「空木さん、乗倉さんに一度来てくれるように伝えてください」と言った。

 空木は、乗倉を悩ませている例の薬の話なのかと、勝手に想像した。


 翌週の金曜日の朝、空木と乗倉は、国立駅で待ち合わせた。

 二人は立川駅を九時ちょうど発の特急かいじに乗り継ぎ、十時過ぎに山梨市駅に到着した。そして十時九分発、市民バスの西沢渓谷行きに乗車した。バスには、二人の他には。同じ特急かいじで下車した、六十リッターぐらいの大きなザックを背負った登山姿の男性が乗車した。途中五、六人の乗客が乗り降りしたが、新地平しんちだいらで下車したのは、空木と乗倉の二人だけ、時刻は午前十一時十五分だった。

 二人は改めて身支度を整え、雁峠がんとうげを目指して林道を歩き始めた。一時間以上の林道歩きから登山道に入る。登山道の周囲の樹木は、標高が上がると杉からつが、シラビソに変わっていた。

 バス停を出発してからおよそ三時間で、笹が広がる明るい雁峠に到着した。天気は上々だったが、今日は暖かい所為か、霞がかかったようで、ぼんやりとした眺めですっきりとはしなかった。峠には、二人以外は誰もいなかった。

 「あれが避難小屋ですか」

 乗倉は、つが、シラビソの樹林の中にひっそりと建つ、二階建ての古びた小屋を指差した。

 「そう、あれが旧称雁峠山荘だ」

 空木は、ザックを降ろしてベンチに座り、小屋を眺めて煙草をうまそうに吸いながら嬉しそうに答えた。

 二人は、ザックを小屋に置いて、笠取山に登ることにした。

 小屋の入口は、営業小屋当時の入口とは違い、登山道からは見えない小屋の北側の勝手口が入口になっていた。一階は台所があったと思われる二間の土間で、二階が居室、寝床となっていて、広さ十五、六畳はあるだろうか、二人だけでは寂しくなる広さだ。二階に上がる階段は、ぎしぎしと音を立てた。利用する登山者たちが、しっかり掃除しているのだろう、非常に綺麗に使われている。

 空木は、南側の窓の下に置かれている、ノートを手に取った。この小屋を利用した登山者が記憶に残す為か、感謝を表す為か日記風に記帳しているノートだった。空木もこのノートに書き記したこともあったが、その十年前に書いたノートは回収されたのかもう無かった。

 ザックを置いた二人は、再び登山靴を履き、笠取山に登った。小屋から十分ほどで、富士川、荒川、多摩川分水嶺と書かれた標識が立っている。そこから急登を三十分ほど登ると眺望の良いピークに着いた。 標高1953メートルの頂上はここから東に少し行ったところだが、眺望が悪いことから登山者はこのピークを目指して登る。二人もここでお互いのスマホで写真を撮った。富士山は霞んではっきりしないものの、気持ちの良い時間を過ごした。

 「藤江先生に会って来たんだろ。例の薬の話だったのか」

「ええ、処方していると言ってくれました。ありがたいです。それと立川駅での出来事も聞きました」

「そうか、駅での事も話されたか。しかし、藤江先生に処方してもらっても競争に勝てないのは悔しいだろう」

「悔しくないと言ったら嘘になりますが、前にも話したように、藤江先生に処方してもらったのは、本当に嬉しいですよ。それに勝負は最後までわからないって言うじゃないですか。来週の水曜日までの処方量次第です」

「祝杯を挙げられるように祈っているよ」

「どんな結果になっても、薬審が終わったらまた平寿司で一杯やりましょう。とは言うものの、薬審の一週間前にも拘わらず、こうして山に泊りで来ているぐらいですから、腹はくくっています。それより、立川駅で藤江先生をバッグで殴った犯人は、どうなっているんでしょうね。先生も「果たして捕まるんだろうか」って言っていましたけど」

「鉄道警察も構内のビデオで確認している筈だけど‥‥、犯人を捕まえるのは難しいだろうな。しかも重大犯罪という訳ではないから、どの程度調べるのか疑問だよ」

「空木さん探偵なんですから、調べてみたらどうです」

「簡単に言うなよ。そんな事出来る訳ないだろう」

  二人は小屋に戻った。ザックを置いた二階に上がると、一人の若い男性がシュラフを広げてくつろいでいた。

 「こんにちは」と、その若い男性は、空木と乗倉に軽く頭を下げた。

「大きなザックですね。どこから来られたんですか」空木が男性のザックを見て聞いた。

その男性は、金峰山きんぷさんからの縦走で、今日は甲武信小屋からで、明日は雲取山、そして奥多摩駅まで歩くつもりだと話した。

 翌朝の雁峠がんとうげは、昨日に続き好天に恵まれたが、標高1800メートルの峠の朝はかなり寒かった。空木はウィンドヤッケを、乗倉は薄手のフリースを着てスタートした。時刻は八時を回っていた。一緒に避難小屋に泊まった男性は、朝六時には既に小屋に姿はなかった。長い縦走での早立ちは当然で、のんびりしたスタートの方が珍しい。空木はこののんびりした山行がしたかった。

 雁峠から雁坂峠までの縦走路には、三つのピークがある。一つ目は2004メートルの燕山つばくろやま、次に2114メートルの古礼山これいやま、三つ目が2158メートルの水晶山だ。二人は、何度か休憩を取りながら二時間四十五分のコースタイムの所を三時間以上かけ、雁坂峠には午前十一時二十分頃着いた。途中、単独行のハイカーとすれ違っただけで、つがやシラビソの樹林の中、視界の開けた場所からは富士山を望み、静かな山行を満喫した。

 雁坂峠からの眺望は、天気にも恵まれ富士山を見事に望むことが出来た。日本三大峠に選定されているのは、2000メートルを超える標高に加え、この眺望が選ばれる理由だと、空木は思った。昨日の雁峠同様、雁坂峠には二人以外に誰もおらず、ここでもまったりとした時間を楽しみ、昼食のラーメンを二人は腹に入れた。


 その土曜日の早朝、長谷辺はレンタカーで中央道の下りを、勝沼インターを目指して走っていた。国道140号線を西沢渓谷方面に向かい、雁坂トンネル料金所手前の駐車場に到着した。

 長谷辺は雁坂峠を目指し、雁坂道と言われる登山道を行くルートを選んだ。ここから目指す峠まではおよそ三時間かかる。長谷辺はアスファルトの作業道から沢沿いの登山道に入る。そして沢から峠を目指す急登に入り、一時間余りの喘ぎで雁坂峠に到着した。時刻は午前十時五十分だった。長谷辺の他にはハイカーは見当たらない。峠からの眺望は富士山を見事に見ることが出来た。「彼女にも見せてあげたかったな」長谷辺は呟いて、しばらく見入った。そして、雁坂小屋に向けて、峠の北側の道を下って行った。


 「どうしますか。下りますか、それとも甲武信ヶ岳こぶしがたけへ行きますか」食事を終えた乗倉が、腕時計を見て空木に聞いた。空木も煙草をくわえながら腕時計を見た。

「AプランかBプランか、下りるには早いけど、とは言え甲武信ヶ岳に行くとなると小屋泊まりになるね。どうしようか‥‥」

「いずれにしろ、僕は水を補給しないといけない状態なんですけど、途中に水場はありますか」そう言って、乗倉は水の入ったタンクを空木に見せた。

「俺も不安だな。水場はこの下の雁坂小屋にしかないんだ。十分ちょっとで行けるから補給しておこうか」

「それなら僕が、空木さんのタンクにも水を入れてきますよ。空木さんはここでのんびり煙草でも吸っていてください。三十分ぐらいで戻れるでしょう」

 乗倉は、二人分の水タンクを持って、峠の北側に付けられた小屋への道を下って行った。

 しばらくして、血相を変えて乗倉が峠に戻って来た。水を補給しに行くと小屋に下りて行って、五分と経っていなかった。

 「空木さん、大変です。人が倒れています。来てください。男性のようですが、声を掛けても何の反応もないんです」

「体に触ってみたか」

「いいえ」

 二人は、男性と思われる人が倒れている場所に急いだ。

 やはり男性だった。その男性は、登山道を塞ぐようにザックを背負ったまま頭を下にして、俯せ状態で、谷側に顔を向け倒れていた。空木の呼びかけにも全く反応はなく、膝まずいた空木の登山ズボンの膝に血らしき液体が染みた。

 「まずいな、息もしていない。ノリ、小屋に下りて行って小屋番に知らせてくれ、俺はここに居るから急いでくれ」

 空木から指示を受けた乗倉は、倒れている男の顔を覗き込んでいた。

 「‥‥‥空木さん、これは長谷辺です‥‥」

「なに‥‥」

大和やまと薬品の長谷辺です。何で‥‥」呆然とした乗倉の顔は蒼白に変わっていた。

「とにかく早く小屋に知らせてくれ」

 乗倉は無言で小屋に走って下りた。

 そして乗倉が、小屋番と息を切らして戻って来たのは、およそ二十分後だった。

 「県警の救助ヘリが来るまでに、小屋まで下ろしてほしいと言われましたので、担架を用意しました。人手も心配なので、お客さんにも手伝ってもらうように声を掛けました」

 小屋番にお客さんと言われた男性は、空木たちが、倒れている男からザックを外して俯せから仰向けにした瞬間、「兄さん」と叫んだ。空木も乗倉もそして小屋番も、言葉を失い絶句した。

 

 埼玉県警のヘリコプターが飛来し、乗倉が「長谷辺」と呼び、小屋の客が「兄さん」と呼んだ男性をヘリコプターに引き上げたのは、午後一時に近かった。「兄さん」と呼んだ客の男性も一緒に乗り込んだ。

ヘリコプターから小屋に降り立った警官が、誰にとはなく第一発見者は誰か聞いた。

 「私たちです」空木は、まだ呆然自失状態の乗倉の二の腕を掴んで答え、名前を名乗った。乗倉も続いて名乗った。

 「ご足労掛けますが、あの男性が倒れていた現場まで案内していただけませんか」

空木は「はい」と答え、現場への登山道を先導し、登りながら警官に聞いた。

「倒れていた男性は、大量の出血をしていましたが、もしかしたら何かで刺されたんでしょうか」

「分かりません。分かりませんが、可能であれば応援の警官、鑑識が到着するまでここに居ていただくことは出来ませんか」

 空木は、鑑識という言葉を聞いて、自分の推測が間違いではないことを直感した。空木は乗倉と顔を見合せてから、腕時計を見た。午後一時を回っていた。

 「分かりました。あとどの位の時間で来るんでしょうか」

「一時間はかからないと思いますが、お二人は被害者と、いやあの男性とは面識はありませんね」

空木は、振り返って乗倉を見た。乗倉は戸惑いの表情を浮かべた。

「‥‥‥私の知り合いです。長谷辺という友人です」

「一緒に登っていたんですか」警官は気色ばんで聞いた。

「いえ、全く別々に登って来たんです。ここで倒れているところを偶然見つけたんです」

「それは、私が証明します。乗倉は私と昨日から一緒で、雁峠からここに来たんです」

空木は、動揺している乗倉に助け船を出したつもりで言った。

「いずれにせよ、そういう事でしたら、事情を聴く必要があります。担当の者が来るまでここに居て下さい」

 二人は黙り込んだ。山中で偶然出会った友人が、何者かに刺されて倒れていた。そんな事は滅多にある事ではない。警察も事情を聴かざるを得ないだろうと、空木は思った。乗倉もそう思ったに違いなかった。

 「本当にあの彼がここに来ることは知らなかったのか」空木は小声で乗倉に話し掛けた。

「本当です。空木さん信じて下さいよ。実は、先崎せんざきという女性MRから五月二十二日の土曜日に長谷辺さんと山行しませんか、という電話はありましたが、行く先は聞きませんでした。というのも空木さんと山行する日程とブッキングしていて即座に断ったので、行き先は聞かなかったんです。まさか雁坂峠が長谷辺の目的地だったとは、思いもしませんでした」

「そうか分かった。ところで、どうやら長谷辺という人の弟らしき人もここに来ていたようだが、ノリは弟には面識はないのか」

「長谷辺と一緒に住んでいるということは、本人から聞いたことがありますが、会ったことはありません。ここで長谷辺と待ち合わせでもしていたんでしょうか」

「そうかも知れないな。こんな事になるとは思ってもいなかっただろう。一体誰が‥‥」

 空木と乗倉は警官の作業をじっと見ていた。

 現場に着いた警官は、血痕が黒くシミになっている登山道一帯にKEEP OUTと書かれた黄色のテープを張り巡らし、二人から発見した時の状況を聞き取った。そして、二人には、小屋で待つように指示した。二人は、峠に残してあったザックを取りに登り返した。雁坂峠に再び立った空木は、ザックを背負い、富士山を眺めて言った。

 「‥‥見事な富士山を見ることが出来て最高だけど、とんでもない事に巻き込まれてしまったな。AプランもBプランも無いな」

 乗倉も黙って富士山を眺めていたが、ぽつりと呟いた。

 「長谷辺に、一言礼を言いたかった‥‥」

 二人は、小屋へ下りた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る