第2話 山歩会(さんぽかい)

 三月中旬、大和やまと薬品の長谷辺は、内分泌科の足立医長と面談の為、昭和記念総合病院を訪問し、面談の前に薬剤部に病院訪問の記帳のため入室した。その時、顔見知りの薬剤師が、長谷辺に話しかけた「インカルグルの処方良く出ていますよ」

 長谷辺は、医薬品卸会社の担当セールスからもこの情報は聞いていたが、予想していた通りの処方の動きに、ますます乗倉と顔を会わすことが出来ない状況になりつつあると思い、悩みは深まった。

 今日面会する足立医師は、内分泌科のナンバー2だった。部長の藤江と面会する前に、内分泌科の方針として藤江から何らかの指示が出ていないか、例えば、インカルグルを積極的に使うように言われているのか、事前に情報が欲しかった。そのための足立医師との面会だった。

 「足立先生にインカルグルのことで伺いたいことがあってお邪魔させていただいたのですが、もう先生はインカルグルを処方されていらっしゃるんでしょうか」

「藤江先生が申請されたことは、先週医局回覧で回って来た書類で知ったけど、まだ処方してないよ。でもこの薬、循環器から申請された薬と同じ薬効なんでしょ。同じ薬効の薬が二つ同時に採用されるのは、この病院では珍しいよね」

 足立の話を聞いた長谷辺は、現時点では部長の藤江からの処方の指示は出ていないと考え、改めて足立に確認した。

 「先生、藤江先生からインカルグルに関して、何か指示されたようなことはありませんでしたか。例えば、処方しなさいとか、するなとかの指示はありませんでしたか」

「いいえ、特段何も指示はありませんよ。藤江先生は薬に関しては、ああしなさい、こうしなさいと言う人ではないですからね。あ、もしかしたら長谷辺さん、循環器科から申請された薬に負けないようにもっと処方してくれ、ということなのですか」

 長谷辺はナンバー2の足立にどう話すべきか逡巡していた。トップの藤江に話す前に、足立に処方を替えて欲しいと依頼したことが、万が一、部長の藤江に伝わったら藪蛇にならないだろうかと考えた。

 「まだ処方されていないのでしたら、ご相談があるのです。山歩会さんぽかいのメンバーの足立先生だからこその相談なのですが、聞いていただけますか」

「どういう相談なのか、内容によるけど、山歩会に関係する相談なら聞かない訳にはいかないでしょう」

 山歩会とは、昭和記念総合病院を担当しているMRと、院内の医師、薬剤師らと数人で作られている登山同好会のことで、足立も長谷辺もそのメンバーで、そして乗倉もメンバーの一人だった。

 「薬審の結果インカルグルは、万永まんえい製薬のダイナカルグットと競争状態になってしまい、乗倉さんともまずい関係になってしまいました。それを修復したいと思っているんですが、いい方法はないかという相談です」

「‥‥難しい相談だな。競争があるのは仕方がないことだし、考えようによっては、競争は必要だと思う。藤江先生は、理由はともかくとして、処方するつもりで申請したんだろうから、長谷辺さんの会社の薬を処方するでしょう。私はどうするかと言えば、‥‥半々の処方にするしかないな。こう言うと嫌な人間だと思われるかも知れないが、長谷辺さんと乗倉さんの関係が悪くなるのは仕方がないことだけど、私は二人との関係を悪くしたくはない。だから両方に公平に処方する、ということです」

 長谷辺は足立の話を聞いて、正直ホッとした。これで内分泌科からも万永製薬のダイナカルグットの処方が出る。まるで乗倉に対しての免罪符を得たかのような気分だが、インカルグル優位の大局に変わりはない。

 「しかし長谷辺さん、乗倉さんとの関係を悪くしたくないと思っているのに、何故藤江先生から採用申請を出したんです。理解できない」

 ここまでの長谷辺の話からすれば、足立がそう思うのも至極当然のことだった。

 「実は、私は何もしていなかったんです。プロモーション活動も申請の依頼も、本当に何もしていなかったんですが、藤江先生が突然採用申請書を出したんです」

「へーそうだったのか。藤江先生らしいね。‥‥待って下さいよ、もしかしたら、大学の医局から藤江先生に何か話があったのかな」

「大学と言うと、京王大学ですか」

「そうだよ。あくまでも私の推測だけど、大学から臨床研究への協力依頼があったら、申請せざるを得ないかも知れないだろう。藤江先生といえども教授からの依頼は、命令と一緒で断れないだろうからね」

 長谷辺は「なるほど‥‥」と呟いた。

 それならインカルグルの突然の申請にも合点がいく。もし、足立医師の推測通りだとしたら、大和薬品の社内で確認出来る筈だ。藤江部長との面会はその確認が取れてからでも遅くはない。

 「足立先生、参考になるお話を聞かせていただきました。ありがとうございます」

「相談には応えられなかったけど、長谷辺さんが参考になったと言うんなら、それでOKということでこの話は終わりとしましょう。ところで、山歩会だけど四月の第三土曜日辺りに、奥多摩の御前山ごぜんやまにしようと思う。何人ぐらいが行けるか分からないけど、メンバーには私から案内のメールを流すようにする。長谷辺さんは何もしなくていいから、必ず参加で頼むよ。乗倉さんとの関係修復になるかも知れないぞ」

「乗倉さん参加するでしょうか。私が参加したら参加しないんじゃないでしょうか‥‥」

「さあどうだろう、そればっかりは私は何とも言えないね。何なら長谷辺さんから誘ってみたらどうなの」

「‥‥‥」長谷辺は返事に窮した。


 週末の土曜日のお昼前、長谷辺は西国分寺駅南口のイタリア料理店で先崎文恵せんざきふみえを待っていた。

 入口のガラスドアの向こうに、彼女らしき女性が、知り合いにでも出会ったのか挨拶している姿が長谷辺の目に入った。まもなく、「お待たせ」と言いながら、先崎文恵が店に入って来た。彼女はコートを脱いで長谷辺の前に座った。

 「今、誰かに外で挨拶していたみたいだけど近所の人に会ったの」

「そうなの、偶然会社の先輩にそこで会ったのよ。単身赴任の人だけどウオーキングしていたらしいわ。それより乗倉さんとの競争はどうなったの。解決策は見つかったの」

長谷辺は首を振りながら「‥‥見つからないけど、藤江先生が急にインカルグルの採用申請を出した理由が分かるかも知れないんだ」そう言うと、長谷辺は先崎文恵に社内で確認したことを話した。

 長谷辺は、内分泌科ナンバー2の足立医長との面会を終えた後、営業所に戻り、京王大学の担当MRと連絡を取った。そしてインカルグルの臨床研究を、内分泌の教授に依頼していないか確認をした。その結果、二百例に及ぶ臨床研究を依頼していたことがわかった。ただしその臨床研究は、大学単独での実施を依頼したもので、関連病院との共同研究は依頼していないとのことだった。従って、昭和記念総合病院のことは大和薬品の関知しないことであり、教授が藤江部長に依頼したかどうかの確認は出来ないし、するつもりもないとの返答だった。

 「その臨床研究二百例のうち何例かを実施するように、京王大学の教授が藤江先生に指示したかも知れないという訳ね」

 長谷辺と先崎文恵の前には、それぞれパスタとリゾットが置かれた。

 「まず間違いないと思う」

「何例ぐらい頼まれたのかしら。二十例ぐらいかしら」

「総症例数で二百例ということだから、その一割の二十例ぐらいだろうね。今までの処方は全て藤江先生だと思うから、恐らく既に十例は処方していると思う」

「すごい勢いで処方しているのね。この三種配合剤ってそんなに患者さんいるのかしら。先生ももしかしたら、二十例を早く終わらせたいと思っているんじゃない。終わったらどうするのかしら、症例数を増やしたいのかな」

 彼女の言葉に、長谷辺はフォークを止めて考えていた。終わった後、万永製薬のダイナカルグットを処方する可能性はないのだろうか。

 「‥‥うちの薬じゃなくて、乗倉さんのところの薬を使ってくれないだろうか」

「そうね。藤江先生に直接会って確かめるのが一番確実なんだけど、あなたにその気があるかどうか、ということね」

「俺から万永製薬に替えて欲しいというのは、藤江先生の場合、逆効果になり兼ねないよ。だけど、大学からの依頼が何例なのかぐらいは聞けるよ。聞いて教えてくれるかどうかは、別だけどね」

「先生に聞いて、分かったら乗倉さんに教えてあげるというのはどう」

 長谷辺はまたフォークを止めた。

 「‥‥なるほど、それで乗倉さんから、藤江先生に直接処方を替えてくれるように依頼するということか‥‥」

「それがうまくいけば、あなたが約束に反してプロモーションしたんじゃないことも解かってもらえるし、乗倉さんところの薬の処方量も増えるでしょ。あなたの悩みが、少しは晴れるかも知れないじゃない。やってみなさいよ」

 長谷辺は頷いてパスタを口に入れた。

 「ところで、山歩会の件だけど、足立先生から四月の第三土曜日に御前山に行くと言われた。君も空けといてね」

 先崎文恵も昭和記念総合病院山歩会のメンバーだった。女性は、彼女の他に岡部綾と言うMRが、会のメンバーに入っていた。

 「四月の第三土曜に御前山ね、分かった。乗倉さん来るかしら」

「‥‥‥」長谷辺は、返事はしなかった。しかし、その山歩会の日までには、藤江部長との面会を終えて、乗倉に情報を伝えておきたいと思った。

 

 長谷辺が藤江部長との面会アポイントが取れたのは、例年になく早い開花をした染井吉野が散り始めた四月の初旬だった。

 これまでに、長谷辺が知る限りインカルグルの処方例数は、十五例になっていた。一方、万永製薬のダイナカルグットは五例に留まり、処方量はインカルグルが圧倒していた。


 「インカルグルについての話という事のようですが、一体どんな事でしょう。もう直ぐ会議があるのでなるべく手短にお願いします」

 藤江の機嫌は悪そうだった。

 「お忙しいところ恐縮ですが、先生に伺いたいことが、二点ありましてお邪魔させていただきました。一つは、突然なのですが、インカルグルの採用申請書を出していただいたのは、京王大学の教授から臨床研究への協力依頼があったからなのでしょうか。二つ目は、もしそうだとしたら症例数は何例依頼されたのでしょうか。教えていただきたいのですが、いかがですか」

長谷辺はいつになく緊張して言った。その長谷辺を藤江は見ながら言った。

「長谷辺さん、それはどこで知ったのですか」

「社内で京王大学の担当者からです。担当者は大学単独で実施するつもりでの研究依頼だと言っていましたが、藤江先生の患者さんの多さから、もしかしたらと思い、お聞きした次第です」

「長谷辺さんの推測した通りです。二月の初旬に教授に呼ばれ、二十例協力してくれと頼まれましたよ。断る訳にはいきませんから、引き受けました。万永製薬には、嘘をつく結果になってしまいましたが、もう直ぐ二十例の処方も終わりますから、終われば二社に公平に処方しますよ。あなたの質問への答えはそれで良いですか」藤江はそう言うと腕時計に目をやった。

 長谷辺はやはりそうだったのかとホッとするとともに、乗倉に早く伝えたいと思った。

 「分かりました。ありがとうございました」そう言って、長谷辺が部屋を出ようとした時、藤江が呼び止めた。

「長谷辺さん、私からも一つ聞きたいことがあるのですが、良いですか」

呼び止められた長谷辺は、早く緊張から解かれたかったが、一層緊張した。

「はい、どうぞ、何でしょうか‥‥」

「貴方は、電車の中で座席に座ると足を組んだりするんですか」

 薬には全く関係ない話に、長谷辺は拍子抜けすると同時に、ほっとした。

 「いいえ、私は絶対に組みません。我々男性は、それでなくても女性に比べて席を幅広く取ってしまいます。それに加えて足を組んだらどれだけ周りに迷惑になるのかということは、母からきつく気を付けるようにと言われていましたから、いている時でも絶対に足を組むことはしません」

「素晴らしいですね。貴方もですが、お母さまはもっと素晴らしい。こんなことを聞くのは、その二月に教授に呼ばれて大学に行く時、電車の中で足を組んでいる若い男がいましてね、社内を通る人が注意したんです。そうしたらその男は、あろうことか逆切れして「良い恰好するなよ」って言った上に、下車した新宿駅でホームの非常停止ボタンを押して逃げて行ったんです。驚きました。嫌がらせだったんだと思いますが、あんな若者もいるんだなってびっくりしました。それで若い長谷辺さんに聞いたという訳です。つまらないことで引き留めてすみませんでした。私も会議に出ますので、これで失礼します」

 長谷辺は部長室をホッとした気分で出た。

 病院の駐車場に戻った長谷辺は、スマホを取り出し電話リストから万永製薬、乗倉敏和を探し、キーを押した。呼び出し音が三度四度と鳴り続けている。乗倉さんは出てくれるだろうか、乗倉さんの携帯の画面には、自分の名前が表示されているに違いない。話したくないのだろうか、と思った時「もしもし、乗倉です」と低く静かな声がした。

 「長谷辺です。忙しいところすみません。電話をしたのは、藤江先生の件で会って話したいのですが、会ってもらえませんか」

「‥‥‥」乗倉は考えているようで、何秒間かの沈黙があった。

「どうしても会わなければ言えない話なのか。今なら、俺の周りには誰もいないから電話でも話は聞けるけど、長谷辺の周りはどうだ」

「自分の周りにも誰もいませんから大丈夫ですが‥‥」

 やはり乗倉は、自分と顔を合わせたくないのだ、と改めて感じた。

 「じゃあこの携帯で話してくれないか」

「‥‥分かりました。実は今、藤江先生にお会いして確認したんですが、インカルグルの採用申請を出したのは、大学の教授からの臨床研究への協力依頼があったためでした。先生は、教授から二十例を依頼され断れなかった、と言っていました。「万永製薬には嘘をつく結果になってしまったが、もうすぐ二十例が終わるから、終わったら公平に処方する」と言っていました。乗倉さん、私から聞いたと言ってもらって構いませんから、藤江先生に万永製薬のダイナカルグットを、全ての症例に処方してくれるように頼んでみてくれませんか」

 また暫く沈黙があった。

「‥‥‥長谷辺に頼んでくれと言われて、今この電話で、「了解した」という訳にはいかない。お前を信用していない訳ではないが、一つの情報として聞いておく。どうするかは俺が考える。話はそれで終わりか」

「はい、終わりですが、足立先生からメールで案内があった山歩会に、乗倉さんは参加出来ますか」

「いや、俺はその日は都合が悪いんで不参加だ。足立先生にも返信しておいた」

「そうですか、残念ですね」

 乗倉への連絡は済んだ。長谷辺は少しだけ気分が軽くなる思いだったが、乗倉の山歩会不参加は、現状に対する意思表示だと、改めて感じざるを得なかった。


 その夜、乗倉はまた空木健介と「平寿司」で待ち合わせた。

 「今日の誘いは、気晴らしじゃなくて相談らしいけど、この前聞いた話の延長線かな」

 空木の前には、鉄火巻きと烏賊刺しが既に置かれ、ビールの中瓶は半分程になっていた。

 「ええ、そんなところです。営業所内では相談出来ないので、また空木さんに話を聞いて貰おうという訳です。忙しいところ申し訳ありません」

「時間だけはたっぷりある俺に、嫌みな事を言うなよ。それより、相談ということなら、酔っ払う前に話を聞かせてくれよ」

 乗倉は、昭和記念総合病院での、圧倒的に負けている処方競争の状況と、今日長谷辺から伝えられた話を空木に話すと、ビールを一気に喉に流し込みグラスを空けた。

 「それでこれからどうしたら良いか、ということか」

「そういうことです。空木さんならどうしますか」

「最善を尽くすからには、その藤江先生に会うしかないね。会って万永製薬の薬を使って下さい、とお願いするしかないだろう。俺なら、そうするよ」

「やっぱりそうするしかないですよね。うちが採用されるべき病院だ、ということも改めて訴えた方が良いですよね」

「いや、それは絶対に口にしない方が良いよ。俺のMR経験だけど「どこを採用するのかは、メーカーが決めるべきことではない。病院が決める」と一喝されたことがある。逆効果になる可能性がある。その長谷辺という人が言っているように、彼の名前を使うべきだよ。彼から臨床研究の話を聞いたと切り出すことが、相手にこちらの意志を伝えることになる筈だ。藤江先生の判断で万永製薬の薬を使って欲しい、大和薬品との競争に勝って採用になるには、先生に処方してもらうしかないと訴えることだと思うよ。それでダメなら諦めもつくだろう」

「正面突破ですか‥‥。空木さん、私の代わりに藤江先生に会ってくれませんか」

「アホ、馬鹿な事を言うんじゃない。圧倒的に負けている状況で冗談言ってる場合じゃないよ。ノリが頑張るしかないな」

 いつしか空木は、乗倉のことを「乗りさん」から「ノリ」と呼んでいた。乗倉は、それが親しさの表れのように思えて嬉しかった。

 空木が焼酎の水割りを、乗倉が冷酒を飲み始めた時、店の格子戸が開き、女性店員の坂井良子の「いらっしゃいませ」の声が響いた。

「空木さん久し振りですね」

「あら、小谷原こやはらさんじゃないですか。お久し振りです」


 小谷原幸男こやはらゆきお、四十七歳、京浜薬品という製薬会社の多摩営業所の所長だ。空木健介とは、北海道からの友人で、四年前に東京の多摩に転勤となり、家族とともに国立市に住んでいる。MRとして異動してきたが、昨年四月所長に昇格したのだった。小谷原もここ「平寿司」の常連の一人だった。


 「小谷原さんはノリと同業者だ、紹介するよ」空木は乗倉にそう言って、小谷原に乗倉を万永製薬の後輩だと紹介し、続けて乗倉に小谷原が京浜薬品の多摩営業所の所長で、自分とは北海道の時からの友人であると紹介した。

 「小谷原さんは京浜薬品の所長ですか。それでしたら岡部さんは小谷原さんの部下ですね」

「岡部綾ですね。そうです、多摩営業所で一番若いMRです。乗倉さんは、岡部とはどこで」

「昭和記念総合病院です。MR仲間ですし、その病院の山歩会さんぽかいというハイキング同好会でも一緒です」

「ああそうだったんですか。そう言えば、岡部が今度、奥多摩の御前山に行くとか言っていましたが、乗倉さんも行くんですね」

「いえ、私はちょっと都合が悪くて‥‥」乗倉の歯切れは途端に悪くなった。


 四月の第三土曜日、快晴ではなかったが雨の心配はなさそうな天気の中、奥多摩駅は多くのハイカーたちがバス乗り場に並んだ。新緑が芽吹くこの時期の奥多摩の山々も人気がある。

 昭和記念総合病院の山歩会のメンバーも七時四十五分発のバスに並んだ。

境橋さかいばしで下車したメンバーは、橋のたもとの林道を歩き、三十分弱で登山道に入った。

 先頭に長谷辺、続いて先崎文恵、岡部綾、そして最後尾に足立という順で女性二人を男性が挟む形で、栃寄沢とちよりざわと言われる沢の登山道を登って行く。栃寄大滝を過ぎ、ひたすら樹林帯を登ると御前山の避難小屋に着く。ここから二十分程で1405メートルの御前山頂上に到着する。

 四人が十一時半ごろ頂上に到着した時、頂上の広場には既に十人以上のハイカーがいた。単独行の男女、三、四人のパーティー、年齢も若者から年配者まで様々だ。

 御前山ごぜんやまは、大岳山おおだけさん三頭山みとうさんと並んで奥多摩三山の一つに数えられる。山頂からの眺望は、北側の雲取山から石尾根と呼ばれる山々の眺望は望めるが、南側は樹林に囲まれ眺望は良くない。この山の人気は、広い山頂でのんびり出来ることだろう。

 四人は、食事スペースを探して山頂南西の端にレジャーシートを敷き、ザックを降ろした。

 「乗倉さんも来てくれれば良かったのに残念ね」先崎文恵が、隣に座っている長谷辺に小声で話し掛けた。

 「うん、でも俺はやるべき事、出来る事はやったつもりだから仕方がないよ」

「そうね。あなたの想いはいつか伝わるわよ」

 先崎文恵が、持ってきたカットフルーツの入ったタッパーを三人に回していた時、岡部綾が先崎に呟くように言った。

 「先崎さん、あの人先崎さんの会社の浜寺さんじゃないですか」

先崎文恵は、岡部綾の視線の方向に目をやった。

「‥‥ほんとだ、浜寺さんだ」そう言って立ち上がり、二人が浜寺と呼んでいる男の方へ歩いた。

「浜寺さんどうしてここにいるんですか。びっくりしましたよ」

先崎文恵はベンチに座っている浜寺に声を掛けた。

「驚きましたか。営業所で先崎さんが、御前山に登ると話していたのが聞こえて、自分も久し振りに登ってみようかと思ったんだ。奥多摩駅から同じバスに乗っていたんだよ。先崎さんたちは、境橋で降りたでしょう。僕は、奥多摩湖で降りて大ブナ尾根を登って来たんだ。先崎さんたちが着く十五分ぐらい前に着いたよ」

「そうなんですか。それでどこに下りるんですか。私たちは、浜寺さんが登って来た奥多摩湖に下りるつもりですけど」

「僕は湯久保尾根を下って、小沢のバス停から武蔵五日市の駅に出るつもりだけど、奥多摩湖への下りは急坂だから気を付けて」

「はい、ありがとうございます。浜寺さんも気を付けて帰って下さい」

 戻って来た先崎文恵に、コーヒーを淹れながら長谷辺が「誰」と聞いた。

 「浜寺さんって言う会社の人。山好きみたいなの。ところで岡部さんは、どこで浜寺さんを知ったの」

「卸さんです。私はエリアの開業医さんも担当していますから、浜寺さんとは卸さんで時々顔を会わすんです。話はしたことありませんから知り合いというほどではないです。でもこんな所で会うなんて不思議ですよね」

「不思議と言えば、僕の弟と岡部さんが、大学のテニスサークルで一緒だったというのも不思議な偶然だよ」

 長谷辺はそう言いながら、紙コップのコーヒーを三人に渡した。

 長谷辺の弟の稔は、一浪して大学に入りテニスサークルに入ったところ、一年上にいたのが、岡部綾だった。

 「弟さんは、この春就職したんですか」

「いや、大学院だよ。学費が大変だよ。俺としては早く働いてほしかったんだけどね」

 長谷辺の実家は静岡にある。父親が早くに亡くなり、母親が女手一つで兄弟を育て上げた。長谷辺は母の苦労を少しでも少なくするために、弟の学費を援助していた。兄弟で長谷辺のマンションに住んでいるのもそのためだった。

 「長谷辺さんは、弟さんの学費を出してあげているんです」先崎文恵が、足立と岡部に目をやりながら言うと、長谷辺は「‥‥先崎さんその話は止めよう」と制した。

 雰囲気を感じ取ったのか、足立がザックから小さな三脚を取り出して言った。

 「四人の集合写真を撮ろう」

 足立は、御前山と彫られた高さ2メートルほどの石塔の前に立って、三人を手招きして呼んだ。何枚かの写真を撮り終え、北側の眺望を眺めた四人は、下山の準備にかかった。その時、足立が声を上げた。

 「うわ、ザックがびしょびしょに濡れているよ。水みたいだけど酷いな」

 三人も何が起こったのかと、足立のザックを見た。

 「誰かが水を掛けたとしか思えないな」足立はそう言って辺りを見廻した。

 山頂には、四、五人のハイカーの姿があったが、誰もこんな事をする人間には思えなかった。

 「私たちが写真を撮っている間に、水を掛けたということね。酷いことをする人がいるんですね。誰が何のためにこんな事をしたのかしら‥‥」

 先崎文恵は、ザックからタオルを取り出して足立のザックと、レジャーシートに掛かっている水を拭いた。

 リーダーの足立が意味不明の嫌がらせをされたことで、四人の下山はほとんど会話のない下山となり、帰りの電車も会話は弾まなかった。

 「嫌がらせの目的は、私たちをこういう雰囲気にすることだったかも知れないわね」先崎文恵が、長谷辺の隣で呟いた。

「そうかも知れない。楽しそうにしていることに嫉妬したんだろう。異常だね」

 長谷辺は、乗倉の恨みの想いがこんな事を起こさせたのではないかと思ったが、口には出さなかった。


 乗倉が内分泌科部長の藤江と面会が出来たのは、四月も二十日過ぎだった。

長谷辺の電話を受け、空木健介に相談した後すぐに、藤江に面会を申し込んだが、多忙な藤江の都合から面談日は延びてしまった。


 「ダイナカルグットの件で話したいということですが、どんなことでしょう」

藤江の口調は、ゆっくりだったが、威厳を感じさせる響きがあり、乗倉を緊張させた。

 「大和薬品の長谷辺さんが、京王大学で実施するインカルグルの臨床研究の話を私にしてくれました。それで先生にお願いに上がった次第です」

「長谷辺さんが、あなたに話したのですか‥‥。それでお願いと言うのはどんなことでしょう」

 乗倉は緊張の為か口が渇き、声がかすれてきていた。

 「二十例の処方が終了しましたら、うちの薬、ダイナカルグットを全面的にお使いください。大和薬品のインカルグルとの競争に勝って、昭和記念総合病院の正式採用品になるためには、先生に処方していただくしか道がありません。お願いします」

 乗倉は、空木のアドバイス通りに依頼をし、深々と頭を下げた。藤江は、両腕を体の前で組んで、じっと考えていた。

「‥‥‥考える時間を少し下さい。乗倉さんの依頼は理解しました」

 藤江の返答に、これ以上のお願いは逆効果になると直感した乗倉は、面談の礼を言って部長室を辞去した。乗倉の口、喉はカラカラに乾いていた。

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