狂情の峠

聖岳郎

第1話 薬事審議会

  「では、本日の薬事審議会は審議事項を全て終了しましたのでこれで終了とします。下山先生、本日の審議の内容を確認していただけますか」

審議会委員長の山本副院長はそう言うと、議事録を担当する薬剤部長の下山に目をやった。

「はい、血液腫瘍科、リウマチ科、消化器外科から申請された薬剤の採用は決定しました。内分泌科と循環器科から申請された薬剤は同一薬効の銘柄違いのため、申請された両剤を仮採用とし、三か月間の試用の後、同審議会でどちらかに決定することとする。以上です」


 立川市北部に位置する昭和記念総合病院は、病床数四百弱の東京多摩地区の医療を支える基幹病院の一つであり、多摩北西部地域の開業医からの紹介患者も数多く受け入れることから、この病院での薬剤の採用は、製薬会社にとっては病院の売り上げのみならず、地域での薬剤の普及への影響も大きいため、重要な意味を持っていた。

 その昭和記念総合病院の採用薬剤を決める薬事審議会は、三月と八月を除く毎月一回、第四木曜日の午後三時から開かれ、二月の薬事審議会が今しがた終了したところだった。

 各診療科から医療上の必要性が高いと判断された薬剤の採用が申請されると、毎月一回の薬事審議会で六人の委員によって審議され、採用の可否が決められる。ここで否決されることは珍しい。しかし今回の審議会では、同じ薬効でありながら、銘柄違い、つまり薬の名前だけが違う薬剤が、二つの診療科からそれぞれ申請されたことから、どちらか一方の採用にするために両剤を一旦仮採用とし、処方量の多い方の銘柄を三か月後の薬事審議会で採用決定するという異例の決定となった。

 この薬剤は、糖尿病薬の一つである、尿細管からのブドウ糖の取り込みを抑える作用のSGLT2と、膵臓に働くホルモンであるインクレチンの働きを強めるDPP4、これら二つの糖尿病薬配合剤に加え、さらに降圧剤のCa(カルシウム)拮抗薬を配合した新規配合剤として、共同開発した製薬会社二社に同時に承認された。両剤ともに高い薬価で昨年末に保険収載されると同時に発売された。

 一社は国内最大手の製薬会社の大和やまと薬品工業、もう一社は中堅製薬会社の万永まんえい製薬で、両社の営業つまり医薬情報担当者であるMR(メディカル レプレゼンタティブ)たちは、自分の担当する病院、医院への採用に全力で活動しなければならない。いわばMRの腕の見せ所ということになる。


 乗倉敏和のりくらとしかずは、昭和記念総合病院の薬剤部長の下山に、午後三時に呼び出され、薬剤部長室の前の壁の前にスーツにネクタイそしてマスク姿で、カバンを床に置いて立待ちしていた。

 乗倉敏和四十歳独身、万永製薬のMRとして昭和記念総合病院を担当して五年になるベテランである。五年前に名古屋支店三重営業所から東京支店に転勤となって以来、多摩地区の病院担当となり、この昭和記念総合病院以外に三軒の病院を担当している。

 乘倉は薬剤部長に呼び出された理由を考えていた。通常薬事審議会の決定事項は、院長決済が下りる一週間後まで製薬会社に知らされることはない。しかし、昨日の薬事審議会の翌日の今日、下山部長に呼び出されるということは、それに関係した話だと考えるのが普通だろう。二社の同一薬効の薬剤が二つの診療科から申請されたことに関する話に違いない。ダイナカルグットとインカルグルについての話に間違いないだろうと考えていた。

 その時、薬剤部長室のドアが開き、中から若い男が「お邪魔しました」と言いながら出てきた。乗倉はその若い男に睨むような視線を送りながら「‥‥ご苦労さん」とだけ言って、入れ替わるように半分開いたドアをノックしながら、薬剤部長の下山に「乗倉です。入って宜しいでしょうか」と伺いを立てた。

 「お待たせして申し訳ない。どうぞ入って、そこに座って下さい」下山はそう言って書類や薬学雑誌が積まれた、小ぶりの応接セットのソファの空いたところを手で指した。そして、乗倉がソファに座るのを待って下山は話し始めた。

 「今日来てもらったのは、昨日の薬事審議会に申請されていた、お宅の会社のダイナカルグットの件です。さっき大和やまと薬品の長谷辺はせべさんにも伝えましたが、お宅のダイナカルグットと大和薬品のインカルグルの両剤を仮採用として、三か月間の処方量の多い方を正式採用とすることになりました。異例の対応ですが、これが公平な対応だという薬事審議会の判断です。大和と万永の両社には、必要以上に医師を混乱させることのないよう粛々と情報提供するようにお願いします。宜しいですね」

「‥‥‥薬事審議会の決定は解かりました。しかし、今回の二つの診療科からの申請で、薬事審議会を混乱させたのは、大和薬品です。その事だけは理解してください」

「乗倉さんの言いたいことは解かりますが、この薬剤のメインの診療科の内分泌から申請を上げなかった乗倉さんの責任でもありますよ。それは以前から言っていることですよね。インカルグルの申請が後出しだったことは事実ですが、内分泌の藤江部長から申請書が出された以上は、薬剤部としても受け付けるしかないでしょう。とにかく処方量で大和を上回るしかダイナカルグットの採用は無いということです」

「解かりました‥‥」乗倉はうな垂れた。

 薬剤部長室を辞去した乗倉の足取りは重かった。ダイナカルグットの採用申請を出してくれた循環器科の矢島部長に今すぐに面会したかったが、今日は面会日ではない上にアポイントも取っておらず、病院の医局への立ち入りは出来なかった。

 製薬会社の病院訪問は、数年前から厳しく制限されていたが、新型感染症の感染拡大以降一層厳しくなり、MRのプロモーション活動の有力な手段である製品説明会は、ほとんどの病院で実施出来なくなっていた。従ってMRはインターネットを使ってリモートで情報提供するか、数少ない面会機会を求めてアポイントを取るかの方法になるが、昭和記念総合病院は各製薬会社のMRに、月二回の医局面会しか許していないため、医師との面談は容易には出来なかった。

 乗倉は、月の替わる来週にも矢島部長に面会しなければならないと思いながら、何故こんなことになってしまったのか思い返した。


 乗倉は、年末から年始にかけて仕事の悩みで気分が重かった。その理由は、昭和記念総合病院にダイナカルグットを採用してもらうため、採用申請を依頼していた診療科である内分泌科の藤江部長に、年末の面談時に依頼を断られてしまっていた。

 藤江は「本来この薬剤は糖尿病患者を数多く診ている当科から申請すべきなのですが、大和薬品のインカルグルのこともあって、今回は両方とも出さないことにします」と言われ、乗倉は慌てた。

 慌てた乗倉は、藤江の返答を承諾した上で、二つのことを依頼した。それは、当病院のこの共同開発品の情報提供の担当会社は万永製薬となっていること、つまり採用される薬剤は万永製薬のダイナカルグットになる取り決めが、内密に大和薬品との間に交わされている。ついては自分としては、藤江先生に申請を出してもらえないのであれば、循環器科の矢島部長に申請を依頼するしかないので了解してほしい。そしてもう一つ、大和薬品のインカルグルの申請は出さないでほしいと念押しした。藤江は黙って聞いていた。

 そして年が明け循環器科の矢島部長に面会することとなった。乗倉の目的はただ一つ、ダイナカルグットの採用申請の提出を依頼し、承諾してもらうことだった。もし承諾が得られなかったらどうするか、会社からのプレッシャーも厳しいものがある。乗倉の気分は鉛を抱えているような気分であり、一月の冬晴れの青空も乗倉には曇天の空に見えた。

 「矢島先生、新年早々お願いがあってお邪魔させていただきました」乗倉はそう言って頭を下げた。そして、糖尿病薬と降圧薬の配合剤であるダイナカルグットの採用申請の依頼に来たことを、内分泌科の藤江部長の反応も含めてこれまでの経緯を説明し、改めてダイナカルグットの資料を示しながら説得した。

 乗倉の話を黙って聞いていた矢島は、おもむろに眼鏡のずれを直しながら椅子に座り直し、腕組みをして言った。

 「藤江先生の言う通りこの薬は、内分泌科から申請すべき薬剤だと思いますが、降圧薬も配合されていることを考えれば、循環器からの申請も不思議ではないと思います。藤江先生が了解済みということであれば、私から万永製薬さんのダイナカルグットの採用申請を出しますよ」

「先生ありがとうございます。突然のお願いにも拘わらず了解していただき、本当にありがとうございます」

 乗倉は深々と頭を下げ、憂鬱は一気に晴れた、と思われた。しかしながら、矢島部長の診療の忙しさの中、一月の薬事審議会には申請の提出は間に合わず、二月の薬事審議会にはかられることになってしまった。この一か月の遅れが乗倉にとって事態を悪化させる原因となり、二月の薬事審議会の申請締め切り直前になって最悪の事態を迎えることになった。

 下山薬剤部長から急遽呼び出された乗倉は、内分泌科の藤江部長から大和薬品のインカルグルの採用申請が提出され、受け付けた事を告げられた。乗倉は、昭和記念総合病院の採用ルールでは同一薬効の薬剤は一品のみ採用で、薬剤部で事前に許可した薬剤のみのはずであり、インカルグルは薬剤部から許可されていないはずであることを訴えた。しかし下山からは、糖尿病患者を最も多く診ている藤江部長からの申請は拒否出来ず、「万永製薬のダイナカルグットの採用申請も出ていることを承知の上で、薬事審議会の決定には従うので、自分の信条としての申請を受け付けて欲しい」とまで言ってきた藤江部長の申請を受け付けざるを得なかった、と弁明された。それを聞いた乗倉は、藤江部長に一体何が起こったのか呆然としながら下山に再度尋ねた。

 「うちのダイナカルグットは採用になるのでしょうか‥‥」

「正直言ってわかりません。薬事審議会の委員の先生方の審議次第です」

 薬剤部長室をどのように退出して、駐車場までどう歩いたのか定かではない位、乗倉の頭は真っ白になっていた。

 三鷹の営業所に戻った乗倉は、大和薬品工業の立川営業所の長谷辺に連絡を取った。

 乗倉は長谷辺に会社同士の約束を破って、昭和記念総合病院の藤江部長にインカルグルのプロモーション活動をしたことを確認した上で、怒りをぶつけたかった。

 しかし長谷辺は、自分は全く何の活動もしていない。藤江先生が勝手に採用申請を出してしまったようで、実は自分も困惑しているとの返答だった。ならば申請の却下を申し出ろ、と乗倉は強い口調で言ったが、長谷辺は、それは藤江先生に大変失礼になるので出来ない、薬事審議会の結果を待ちましょう。それで万永製薬のダイナカルグットが採用になれば問題ありませんから、と返したのだった。

 乗倉は、活動していないなど、そんな見え透いた嘘はつくなと言いたかったが、言ったところで何の解決にもならないことは解かっていた。こうなったら長谷辺の言う通り、来週に予定されている審議会の結果を待つしかないと諦めて電話を切った。


 薬事審議会の結果を下山薬剤部長から伝えられた乗倉は、重い足取りで三鷹の営業所に戻り、所長の土居に下山から伝えられた結果を報告した。土居からは、「昭和記念総合病院はうちの製品が採用になることが決まっている病院で、多摩営業所にとって大学病院と並んで最も重要な施設の一つだ。絶対に採用させてくれ」と強く言われた。

 ダイナカルグットは、製薬二社の共同開発品ではあるが、大和薬品工業に比べて企業規模の小さい万永製薬にとっては、これから数年間の会社の業績を左右する製品であり、それだけに営業へのプレッシャーはきつかった。しかし一方の大和薬品工業は、外資を除いた国内製薬企業では最も規模は大きく、医薬情報担当者つまり乗倉や長谷辺たちのようなMRの数においても万永製薬の二倍の数を有していて、営業力という言葉で表すならば国内最強と言われている。そんな競争相手に対し万永製薬は、全国の大規模病院の棲み分けを提案した。それは全国二百床以上の規模の病院の半分だけは、ダイナカルグットを採用したいという万永製薬の営業本部の切なる思いであり、中小病院、開業医の市場は半ば諦めても止むなし、という戦略が現れた提案だった。大和薬品工業もこの提案を受け入れ、合意したのだった。そうした中での昭和記念総合病院の事態は、担当者である乗倉の気持ちを、深い海の底に沈めたかのように暗くさせると同時に、何とかしなければという焦りを生じさせていた。


 乗倉からの抗議の電話を受けた長谷辺も、所属する立川営業所で、昭和記念総合病院で発生している事態を所長に報告した。

 所長は、「先生が好意で申請してくれたとしたら、うちの会社が約束を破った訳ではない。担当MRとしたら喜ぶべきことじゃないのか。しかも長谷辺の言う通り、採用云々うんぬんは病院が決めることなのだから、お前が気にすることじゃない」と言ったが、長谷辺の心は「それで良いのか」と揺れた。

 長谷辺保はせべたもつ二十六歳、独身。大学卒業後大和薬品工業にMRとして入社、東京支店立川営業所に配属となり四年を迎え、昭和記念総合病院は新人の時から四年間担当していた。営業所近くの立川市曙町一丁目のマンションに弟と共に住んでいる。弟は稔と言い、長谷辺の東京支店配属に時を合わせるかのように大学に合格し、八王子のキャンパスに通うため兄の保と一緒に住むことにしたのだった。それは家の事情にも適っていた。

 曙町のマンションは、営業所から歩いて十分ぐらいだが、午後七時を回りアルコールを出す店がない所為か歩いている人は少なかった。コンビニで弁当とビールのつまみを買って帰る長谷辺の足取りは重かった。万永製薬の乗倉とは年齢は十歳以上も離れているが、昭和記念総合病院の担当MRとなって四年、親しくしてもらっている。それが思いもよらない事態となり、乗倉の怒りを買ってしまった。こんな事は給料を貰っている会社に言えることではないが、来週の薬事審議会で万永製薬の薬剤が採用になることを長谷辺は願った。しかし、長谷辺の願いとは裏腹に薬事審議会の結果は、三か月間の処方量で決めるという二社の、いや二人の関係をさらに悪化させる決定になってしまった。下山薬剤部長室を出たあの時の乗倉の目は、今までにない厳しい眼つきだった。病院の山歩きの会の仲間としての親交も終わるだろう。


 三月になった最初の土曜日、長谷辺はJR西国分寺駅南口のイタリア料理店で待ち合わせをしていた。

 パスタを注文して暫くすると、入口に若い女性が入って来て辺りを見廻した。長谷辺が手を挙げて合図をすると、ニコッと微笑んでコートを脱ぎながら長谷辺の座っているテーブルに座った。

 「待った?」

「いや、僕も今来たところでパスタを注文したところだよ」

「そうなんだ。じゃあ私もパスタ食べるわ」先崎文恵せんざきふみえは明るく言った。


 先崎文恵二十八歳、独身。外資系の製薬会社のプリンス製薬のMRで、昭和記念総合病院を担当して三年になる。山形出身の先崎文恵は、西国分寺駅北口から歩いて直ぐの西恋ヶ窪のマンションに住んでいた。彼女は、ショートカットが似合う色白の可愛らしい顔立ちに加えて、明るい性格と周囲の人たちへの自然な気配りが出来る人柄から、担当する病院の医師を含め周囲の人たちから人気があり好かれていた。

 二人がこうしてプライベートで会うようになったのは、去年の夏ごろからだった。新型感染症の感染拡大の影響で、出社の規制、病院などの医療機関、医薬品卸などの取引先の訪問は、制約を受たり、或いは禁止された。また、各製薬会社が主催する講演会は軒並み中止された時期で、それまでは昭和記念総合病院で顔を会わせた際に話をしていた程度だったが、顔を会わせる機会が減ることによって、寂しさを感じたのか、話をしたくなったのか、長谷辺から先崎文恵に連絡を取り、逢い始めた。

 先崎文恵は長谷辺より二歳年上だったが、長谷辺には全く気にならず、それどころか逢う度に気持ちが落ち着き、一緒にいるだけで人生の楽しさを感じさせてくれる女性となった。二人は結婚という言葉はお互いに口にしなかったが、返ってそれが二人の意識を結婚に向けさせているのかも知れなかった。

 「薬審(薬事審議会の略)の結果はどうだった?」先崎文恵は軽い口調でそう言って、パスタをフォークで巻いて口に運んだ。

「‥‥困ったことになった」長谷辺もパスタを口に入れた。

「乗倉さんの会社の薬は採用にはならなかったということなの?」

「採用にならなかった訳じゃないんだけど、うちとの競争になってしまったんだ。三か月の処方量で多い方が採用ということになる。うちの薬が採用される訳にはいかない病院なのに、乗倉さんと競争だなんて俺には出来ないよ」

「じゃあ競争なんてしなければ良いじゃない」

「俺に競争する意志がなくても藤江先生が処方しちゃうよ。藤江先生が診ている糖尿病の患者は多摩でも一、二の数なんだ。どうやっても勝ってしまうよ。乗倉さんに何と言って謝ろうか‥‥」

「ふーん、そうなんだ。それじゃあ、あなたから藤江先生に、乗倉さんの会社の薬を処方してくれるように頼んでみたらどう。先生、あなたを評価しているし、好感も持っているから、理由を話してお願いしたら聞いてくれるかも知れないわよ」

「‥‥そんなことしたら会社に知れたら大変なことになるかな。自社品の採用をさせないために、処方を他社の処方に替えてくれるように頼んだことがバレたら、首かな」長谷辺はパスタを口に頬張った。

「会社に評価されたいんだったら、悩む必要なんかないんじゃないの。放っておけばあなたの会社の薬が勝つんでしょ。乗倉さんとの関係を悪くしたくないから悩んでいるんだったら、会社の評価を気にしちゃいけないでしょ。どっちがあなたにとって後悔しない道か良く考えてみたらどう」

 先崎文恵のゆったりした口調とその言葉は、強くもなく淡々と落ち着いた話し振りで、長谷辺の気持ちを落ち着かせるとともに、冷静にさせてくれた。


 同じ土曜日の夕方、乗倉は、国立北一丁目のマンションから歩いて十分ほどの所にある寿司屋に向かっていた。その寿司屋は国立駅北口から北へ真っ直ぐ、通称新幹線通りと呼ばれる通りを五分程歩いた、国分寺光町の商店街の端に位置するひら寿司という店だった。

 乗倉が平寿司の暖簾を潜り、引き戸を開けて店に入ると「いらっしゃいませ」の声とともに、「お、来たね」という声に迎えられた。カウンターの端の席で乗倉に声を掛けたのは、空木健介うつぎけんすけという万永製薬のOB、つまり乗倉の先輩だった。


 空木健介、四十四歳独身。三年前に万永製薬の北海道支店を最後に、退職し探偵業を始めた。国分寺市光町の自宅マンションを事務所にして、自分の名前の空と木から「スカイツリーよろず相談探偵事務所」と命名し、マンションのメールボックスに小さな看板を貼り付けている。名刺には、所長という肩書が書かれているが、実際は事務員兼調査員兼所長であって全て一人で熟さなければならない零細貧乏事務所の所長だ。仕事は、行方知れずのペットの猫探し、不倫調査、高齢者の病院通いの付き添いなどが主だったところだが、多くの依頼があるわけではない。ところがどういう訳か、この三年間で殺人事件に絡む調査も数件請け負っている。趣味の山登りと下山後の一杯を楽しみに、のんびり探偵業をしているが、実態は年金生活に入っている親の脛をかじるプー太郎的な生活だ。


 乗倉が空木と出会ったのは、昨年の十二月の初旬の土曜日、JR青梅線の奥多摩駅の二つ手前の鳩ノ巣駅だった。

 駅を出て右側にある小綺麗なトイレの前のベンチで身支度を整えているハイカーを見て、乗倉はゆっくり近づき恐る恐る声を掛けた。

「あのう、空木さんではありませんか」

声を掛けられた男は、登山靴の紐を締め直している顔を上げて、声を掛けてきた乗倉を見た。

「‥‥‥」

「やっぱり空木さんでしたか。覚えていませんか。以前名古屋支店で一緒だった乗倉です」

乗倉のりくら‥‥」

「車に乗るのり、に倉庫のくらです。三重の営業所にいましたから、空木さんとは半年に一度ぐらいしか顔を会わせる機会はありませんでしたから、空木さんは覚えていないかも知れませんが、私は空木さんを良く覚えています。名前が珍しいこともありましたが、上司にあらがう男という噂がありましたし、良く覚えています」

 空木と呼ばれた男は、まじまじと乗倉の顔を見た。

 「はっきり覚えている訳ではないので申し訳ないのですが、何となく思い出してきました。もしかしたら、今北海道支店で所長をしている土手登志男どてとしおと親しかったのではなかったですか」

「そうです。土手登志男とは親しくしていました。山も海もあいつとは一緒に遊んだ仲ですから、今でも時々連絡を取り合っています」

「私も土手とは、名古屋支店当時からの山仲間で、今でも時々連絡しています。札幌でも会いました」

 二人は、万永製薬名古屋支店在籍時代の共通の知人である土手登志男という人物を介して改めて知り合うこととなった。

 「空木さんは、今日はどちらに登るんですか。川乗山かわのりやまですか本仁田山ほにたやまですか」

「川乗山に登るつもりです。奥多摩駅方面は川乗谷からのルートが今は通行禁止になっていて登山者がいませんし、季節も冬に入って静かな山頂で、ゆっくり食事ができることを期待して登ります」

「僕も川乗山に登ります。よかったら一緒に登りませんか、いやご一緒して良いですか」

「‥‥私の足は遅い方ですけど、それでも良かったら一緒に登りましょう」

 鳩ノ巣駅には乗倉と空木以外の登山者らしき人はいない。十二月の奥多摩の八時過ぎの気温はやっと氷点下を上回ったところで、日陰の雪は溶けない。二人は集落の中を抜けて登山道に入る。最近降った雪が溶けずにあちこちに残雪になっていた。

 大ダワから尾根道を登り、舟井戸と言われる窪地を過ぎて、1364メートルの頂上へ到着したのはスタートして三時間半経過した十一時四十分頃だった。小広い山頂には二人以外誰もいなかった。天気は良いが吹く風は冷たい。北側に開けた眺望は雲取山が間近に望める。南側は樹木に遮られているものの、富士山がその間に見える筈だが、今日は冬の雲に隠されてしまっていた。二人はそれぞれ湯を沸かし、カップ麺を腹に入れた。下山ルートは東に延びる赤杭あかぐな尾根から古里こりの駅に下りた。

 お互いの下車駅が同じ国立駅であることを知った二人は、その偶然に驚き、お互いの携帯電話の番号を交換し、再会を約束して国立駅で別れた。

 それから三か月が過ぎ、気持ちが晴れない日が続いた乗倉は、フッと空木健介を思い出し、先輩に失礼とは思いつつ、気晴らしに飲めたらと思い連絡をしたところ、OKの返事が返ってきた。そして今日、空木の馴染みの店「平寿司」で再会したところだった。


 空木の隣のカウンター席に座った乗倉に「いらっしゃいませ、うちに来るのは初めてですね」と言って、女将がお絞り、小皿、箸のセットを置いた。平寿司は主人、女将の他に女性店員と主人の甥の店員の四人でやっている店で、新型感染症の感染拡大の対策以来、席数は半分に減らしていた。

 「ええ、初めて来ました。私は国立市北が住所ですから近いんですが、こんなに良いお店が、こんな近くにあるとは知りませんでした。空木さんと会わなかったら知らないままだったと思います」乗倉はそう言うと女将にビールを注文した。

「乗倉さん、お世辞を言うほどの店じゃないから気を遣わなくても良いですよ」

「まあ、空木さん「言うほどの店じゃない」って何よ。空木さんもたまにはお世辞の一つも言った方が良いわよ。サービス良くなるかも知れないわよ」

「いや、今のままで良いです。これ以上のサービスは遠慮します」空木はそう言いながら、ビールをコップに注ぎ、鉄火巻きと烏賊刺しを、カウンター越しに主人に注文して乗倉とグラスを合わせた。

「乗倉さんから山の誘いではなくて、飲みの誘いが来るとは思いませんでした。ヒマな私にとってはありがたいお誘いでした」

「空木さん、その「乗倉さん」という呼び方は勘弁してください。私は名古屋支店に居た頃は、土手たちからは「乗さん」とか「ノリ」とか呼ばれていましたから、そう呼んでもらえるとリラックス出来るんでお願いします」

「そうか、それで鳩ノ巣駅で乗倉と名乗られてもピンと来なかったのかも知れないな。「ノリ」の呼び名は記憶にありますよ。じゃあこれからは、その「ノリ」で、いや‥‥「乗さん」で呼ばせてもらいましょう」

「そうして下さい。それと今日は、突然の誘いを受けていただいてありがとうございます。少し仕事で気持ちが重かったんで、失礼ながら空木さんに気晴らしの相手になってもらおうと思って電話したんです。社内の人間と飲んだのでは気晴らしにならないので、すみません先輩相手に気晴らしだなんて言って」

「そんなことは全く気にしませんから、心配ご無用です。それより乗さんの気持ちを重くしている仕事と言うのは、一体どんな仕事なんですか。気晴らしになるなら、私に話して見たらどうですか。人に話すだけでも事は解決しなくても、気分が軽くなることもありますよ」空木はそう言うと、ビールを飲み干し、芋焼酎の水割りのセットを頼んだ。

「新薬の採用活動が思うように進まなくて、このままでは採用どころか競合会社の薬が採用になる可能性が高いんです」

 乗倉は、空木に昭和記念総合病院での出来事のあらましを話し、社内の状況と自分の置かれた立場も話した。空木は、MR当時の新規採用活動のプロセスと、会社から受けるプレッシャーを思い返すかのようにじっと聞いていた。

 「その大和薬品の長谷辺という人が、会社間の取り決めを破ったということですか。その人はそういうことを平気でする人なんですか」

「四年間の付き合いのある男なんですが、そんな事をする人間とは思ってもみませんでした。私の甘さ、油断があったのかも知れませんがショックでした」

「申請を出した先生は、どんな反応でしたか」

「うちの薬の申請を出してくれた循環器の矢島先生は、今週お会いしたんですが、内分泌と張り合うつもりは全く無くて、この薬で循環器科の処方量が内分泌科を上回ることは、あり得ないが申請を出した以上は、出来る限り処方は出す、と言ってくれました」

「大和薬品の申請を出した先生には会いましたか」

「いいえ、会っていません。アポイントを出しても会ってもらえないだろうと思って、連絡も入れていません。会った方が良いんでしょうか、空木さんなら会いますか」

 ビールを飲み終えた乗倉は、冷酒を注文し赤身とヒラメの刺身を頼んだ。

 「そうですね、私も会いたくはないですし、何のために会うのかと聞かれれば、約束を破った文句を言いたいので会いたい、なんて言えませんしね。向こうも会いたくはないでしょうね。ところで私の想像なんですが、その大和薬品の薬の申請を出した先生は、MRからの依頼で出したんじゃなくて、何故かは解かりませんが、自分自身の判断で出したんじゃないですか。製薬会社の頼みをすんなりと聞いてくれる先生もいますが、その内分泌の部長は、自分の判断で物事を決めることを信念として持っているんじゃないかと思います」

「私も確信を持って言える訳ではありませんが、藤江先生という先生は、空木さんの言われるタイプの先生だと思います。もしかしたら、私が採用申請を出してくれるように頼みに行ったことは、逆効果になったかも知れません」

「全く別の理由があるのかも知れませんが、逆効果になった可能性もあるかも知れないですね」

「‥‥今の事態になったのも、自業自得なのかも知れないということだとしたら、他人の所為にする訳にはいかないということですか。最悪の結果になっても仕方がないということですね‥‥」

「そう悲観的にならなくても良いんじゃないですか。三か月の間に何が起こるか誰にも分かりませんよ。最善を尽くしましょう」

「そうですね‥‥。競争相手の長谷辺は強敵ですけど頑張るしかないですね」

「その通りです。じゃあ乗さんの健闘を祈って乾杯しましょう」

 空木は焼酎の水割りの入ったグラスを、乗倉は冷酒の入ったグラスを持って盃を合わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る