呼び出し音

朝吹

 

 水をはった田に星空が映っている。

 提灯で足許を照らしながら、与吉は息子を連れて畦道を歩いていた。与吉には酒が入っている。喋っているのは与吉ばかりだった。

 ハァ寄合からの帰りがすっかり遅くなってしまったァ。清国との大戦景気のお陰で、線路が敷かれることになるとのう。ここからあっちの方まで、機関車の通る道が出来るとな。

 与吉と息子のかかげた提灯が大きな眼玉のように揺れている。

 川には鉄橋を架けて、山は山の腹に穴を通して貨車を通す云うもんだから、そりゃきっと火薬を並べて、どんと鳴る大砲を使って山に穴を開けるんだろうのォ。

「わしはのんびり酔い覚ましするで」

 千鳥足で歩いていた与吉は息子を促した。

「おめえ、先に家に帰って、今夜きいた話を家の皆に伝えとけ」

 提灯を片手に息子が先に行ってしまうと、与吉は畦道をだらだらと歩いた。線路いうたら上野にまで続く。だったら線路を歩いて辿れば東京にまで行けるんと違うんか。

 青光りする水田に、山々が島のような影を落としている。邑が伝え遺していることを与吉は想い返した。

 藤の実の鞘がはぜる音とは違う、濡れたものを叩くような音だで。

「どんな音だァ」

 わざと大声を放っておいて与吉は辺りを眺めてみた。びっしりと星を浮かべた空と、見慣れた野山の蒼い輪郭が変わらずあるだけだった。

 洟をすすると、与吉はふたたび家路を辿った。寄合の者らが皆でおらを嚇かしやがって。

 すると前方から、先に家に帰ったはずの息子が戻ってきた。黒い影が近づく。

「どうしただ」

 与吉が疎水に沈んで死んでいるのが見つかったのは、朝陽が田畑を橙色に染める明け方のことだった。



 各駅しか停車しない地方のしがない駅舎が、最近ようやく建て替えられた。銀色の改札鋏かいさつきょうで駅員が切符に切り込みを入れていた木製の囲いがそのまま残っていた駅だった。

 門構えに瓦屋根を乗せた小さな駅舎はドラマや映画の撮影によく使われて、鉄道おたくや懐古趣味の好事家が全国から写真を撮りに来ていたが、建て変わった新しい駅舎といえば工事現場の小屋のように素っ気ない。太一たいちは前の駅の方が良かったと想っている。

 ぱんっ。

 電車から降りた太一の耳にその音がした。金網ごしの近くの家の庭先で、主婦が玄関マットを叩いて埃を落としている音だ。

 心臓に悪いよな。

 太一は制服の胸を撫でおろした。

 マッチ箱のような新しい駅舎から出ると、太一は家まで歩き出した。ロータリーも何もない典型的な田舎駅。駅を出てすぐ右手の廃屋は、数十年前まで新聞や蝋燭を売っていた。

 低い山に囲まれた平野の田畑を二分して線路がまっすぐに延びている。その左右には古い家に混じって、今風の家もぽつぽつと目立つ。

 駅舎が新しくなったのには、数年前に開通した新幹線の駅からローカル線に乗り換えて十分程度という地の利がおおいに影響している。宅地業者が入ってきたのだ。

「最近はネットがあればどこでも仕事が出来ますからね。在来線と新幹線を使えば都心まで二時間。それなら空気がよい田舎に暮らして、たまに出社するほうがいいと考える人が増えています」

 都心なら猫の額も買えないものが、こちらならば庭付きの新築が手に出来るのだ。

「パネルとホッチキスで建てたような家だ」

 大工が何ヶ月もかけて一から木を組んでいた昔の家造りを知っている老人などは肩をすくめているが、建売だけでなく、自由設計のデザイン性の高い家も増えている。

 太一の家も都会の借家からこちらに引っ越してきた。元々、父の田舎がこちらで先祖代々の墓もある。進学と同時に田舎を離れていた父は、リモート環境が整うのを契機に、故郷に戻ることにしたのだ。

 引っ越した夜、太一の家族は近所に住んでいる父方の祖父母にきつく云われた。

 濡れた洗濯ものを手で叩くような音に気ィつけなさい。

 太一は呆れた。

「そんな音、うっかり鳴るよ。気を付けようがない」

 しかし祖父母は緊張を薄く刷いた顔をして、もう一度同じことを繰り返した。

 その音がいけんの。

 その音がしたらもう助からんの。

 祖父母の剣幕に太一はびっくりしたが、夜に笛を吹くと蛇が出るといった類の田舎特有のおかしな伝承だろうかと、話半分にきいていた。

「ほとんどの音は違う。似ていても違う。でもな、与吉さも他の家の人らもな、その音を出したことで眼をつけられたに違いねえから」

 人が流入するにつれてのどかな田舎にも美味しいパン屋やコンビニが出来てきた。

 ところどころに、奇妙な空き地を残しながら。

 

 

 シューズが床をきゅっと擦る。飛び交う玉。半面をバスケ部が使っているせいで地鳴りのように床が鳴っている。

 太一が靴紐を結び直していると、同じ卓球部の先輩がやって来た。

「幽霊みた?」

「見ません」太一は無愛想に応えた。

「外から来る人におかしなことを云っても、これだから田舎はと云われるだけだから黙ってる人が多いんだけどさ」

 破裂音が体育館に響いた。一瞬、誰もが動きを止めた。音の正体は、用務員が厚みのあるゴミ袋の口を両手で振って拡げた音だった。

「今の音は、違うと想う」先輩は自信なさそうに否定した。

 祖父母が口を濁したことを太一に教えてくれたのはこの先輩だ。

「或る音を立てた者は皆おかしな死に方をするんだよね。駅前で新聞を売っていた家もそれで首を吊ったの」

 その恐怖は、山から降りてくる白い霧のように此処で暮らす者たちの精神に染み付いている。

「戦国時代、山の向こうが合戦場になってさ。敗退して退却する大勢の武士が、そこの山中で討ち取られたらしい」

 ふもとの農民も鋤や鍬を手に落ち武者狩りに参加した。

「山を掘り返したらたくさんの骨がまだ見つかるってさ。身分の高い首だと褒美も高くなるから、この辺りの女が総出で生首を並べて死化粧をほどこしたって、うちのひい婆ちゃんが」

 昭和初期、分校に赴任してきた新任の訓導が豪胆にも、「そんなものは迷信ですよ。試してみましょう」と濡れた手拭いを外に向かってぱんぱんと叩いてみせた。数日後、訓導は蒸気機関車に轢かれた姿となって見つかった。田んぼで不審死していた与吉の一件と併せて、老人は昨日のことのようにこの話を語り継いでいる。

 大昔、武家は濡れたものを干す際に、両手で叩くことを不吉としていた。ぱん、という音が首を斬る時の音に似ているからだ。

 水気のある洗濯物を音が出るまで振ったり、叩いてはいけない。

 その音がいけない。

 決してやってはいけない。


  

 部活の練習が遅くなり、太一が駅に着いた頃にはすっかり夕方になっていた。改札では銀色の改札鋏を手にぶら下げた駅員が通り過ぎるところだった。

 蝙蝠が低空を飛び交う道を家に向かって急いでいると、空き地できもの姿の老婆と女児が古めかしい毬遊びをしていた。

 両手で拍子をとりながら老婆がわらべ唄をうたう。手拍子に合わせて女の子が毬を地に転がす。

 疎水に映る朱い空に濃い色を添えている彼岸花。確かあそこの空き地も、不審死が出た後で家屋が取り壊されたところだ。

 老婆と女の子には影がなかった。濡れたタオルを壁に打ち付けるような音を太一は聴いた気がした。


 早足で帰宅した太一は台所に直行し、細くしぼった流水の下で冷やしてある薬缶を取りあげた。

「麦茶もらうよ」

「沸かしたてだから、まだ熱いわよ」

 母が声をかけてきたが、太一は茶碗に麦茶を注いだ。

 台所から見える空は群青色の雲をたくさん浮かべて色鮮やかに暮れている。近年の猛暑を受けて夕方になってもまだ熱波が漂うようだが、少しずつ夏から秋へと空の色が移っている。

 いつだろう。いつその音を出してしまったのだろう。俺、何かやったかな。

「あの時じゃないかしら、太一」

 真後ろに母が立っていた。電灯をつけてない。母の顔はよく見えない。黒い影法師にしか見えない。何かが身に迫っている気配。

「きっとあの時よ、太一」

 三日前、二階の自室で宿題をしていると、小石がぶつかるような音がした。網戸の隙間からカナブンが部屋の中に入ってきたのだ。カナブンを窓の外に追い出す為に太一はしばらく手で払っていたが、埒が明かないので近くにあった雑誌を手に持った。愕かせようと、丸めた雑誌でカナブンのとまっている机の端を強く叩いた。

 その途端、階下から母がすごい勢いで階段を駈け上がってきた。

「太一」

「あ、ちょっと虫を追い出そうと」

「気を付けなさい」

 母は強張った顔をしたまま階段を降りていった。太一は手にした雑誌をまじまじと見つめた。いけないのは、濡れたものを叩く音だ。雑誌を叩いた時の、空気が抜ける音を含んだ勢いのいい音もよくないのか。刀が振り降りる音に似ているのか。

 足許がすうと冷えた。羽虫は何処かに飛んで行ってしまったのか、部屋の中から消えていた。



 太一、太一どこに行くの。

 母の声がしている。玄関から飛び出した太一は夜道をひた走った。まばらな外灯と家々から洩れる明かりが明暗をつけている田舎道。あの音か。あの日、雑誌で机を叩いた音が悪かったのか。

 老婆と女の子がいた空き地に毬が並んでいる。毬ではないと今なら分かる。

「どうした、太一」

 自転車で通りかかった先輩が愕いて追いかけてきた。自転車のライトが太一の背を追う。先輩の漕ぐ自転車のライトに浮かび上がる人間の顔。岩のようなそれがすごい速さで追ってくる。

 かんかんかん。踏切音。

「とまれ、太一」

 誰か助けてくれ。

 金網の隙間から電車がやって来る線路に太一は飛び込んだ。

 カナブンを追い払った日以来、太一の部屋の網戸は少し開くようになった。何度閉じても、気が付くと開いていた。今夜も開いていた。

 誰も触らないのにな。

 ガムテープを持ち出し、太一は網戸と桟を留めてみた。

 風呂からあがって見るとちゃんと閉まっていた。安心した。明日の学校の準備を終えてふと窓を見ると、網戸が開いていた。夜の空間に繋がる隙間から冷たい風が吹きつけてくる。顔が覗いている。ここは二階だ。

 ガムテープは床に落ちている。

 網戸の隙間から、化粧されたなま




[了]

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呼び出し音 朝吹 @asabuki

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