第36話 狩野月隆の終わりと、狩野夜隆の始まり 2(完結)

 月隆は畳に刺さった刀を見て唇を引き結んだ。左手を畳につく。ぶつかった瞬間にしびれたのか、宙に浮いた右手は細かく震えている。


「嫌だ……」


 絞り出すような声だった。


「お前にだけは譲りたくない」


 左手の爪を、畳に立てる。


「たとえ大君の座を辞することになろうとも。夜隆だけは後継者にしたくない」

「なぜ」


 夜隆は右手に裂闇丸を握ったまま、その場に突っ立って月隆を見ていた。いつでも斬れる体勢でもあり、月隆を見下ろせる体勢でもあった。


「ずっと考えていた。俺はそこまで憎まれるようなことをしたのかと。何か理由があるのなら改めなければならないと思っていた。でも今の人非人にんぴにんのあなたを見ていると多少けちをつけられても改める必要はなさそうだ」

「偉そうに。ちょっと目を離した隙に生意気な口を利くようになった」

「目を離したのが運の尽きだったな。俺を飼い殺すことなんて簡単だっただろうに、ありもしない罪をでっち上げてまでわざわざ自由を味わわせた」


 月隆がとうとう吐き出し始めた。


「私はずっとお前が嫌いだった」


 夜隆の心は凪いでいた。


「お前が憎かった。誰からも愛されるお前が。父上もお方様も兄上も、私の母でさえ、お前を肯定した。あんなに馬鹿でへらへらしていて武士の魂のかけらもないのに? 私はずっと疑問だった。なぜみんな夜隆のほうがいいと言うのかと。私よりずっと下等なお前が私より大切にされているのに虫唾が走ったのだ」


 上半身を起こして、夜隆をにらみつける。


「お前が大切にしているものをすべて奪って壊してやりたかった。穴をふさぐ呪術も調べて施した。国じゅうから高価な着物を集めて裂き刀を集めて潰した。奥の古い女たちを追放した。お前を可愛がっていた老人たちの首を刎ねた」


 夜隆は静かに聞いていたが、背後で家臣たちがざわつき始める。


「まさかとは思うが、雲隆兄上の暗殺も?」

「そうだ、私が手配した。私も被害者であると偽るためにわざと私も襲うよう申しつけた」


 義一郎が「なんと」と怒鳴り声を上げる。


「ついでに教えてやろう」


 月隆の口元がゆがむ。


「父上に毒を盛ったのも私だ」


 それを聞いた瞬間はさすがに手が震えた。裂闇丸を握る手に力がこもる。


「ご自身の父上になんということを! 地獄に落ちますぞ」

「それでもいい! 夜隆が苦しむところが見られるならば他のことはすべてどうでもいいのだ!」


 声を掛けた家臣を、悲鳴を上げるように怒鳴る。


「お前が地下牢につながれて獄吏に拷問されていた時」


 彼を支配している狂気が、理解できなかった。


「お前が苦しんでいる顔を見た瞬間が、人生で一番気分がよかった」


 軽く、目を伏せる。


「お前が安穏と暮らしているこの国など滅べばいいと思った」


 これが十九年兄と慕ってきた男の末路だ。


「お前には何も残さない! 何も、何も何も何も!」


 彼を思って涙していた少年時代の自分が可哀想になった。だが、もういい。これで完全に決別した。


 夜隆は自分を肯定した。今の月隆と夜隆のどちらが家臣たちや民にとってマシか火を見るより明らかだからだ。


「俺が大君をやる」

「だから嫌だったのだ」


 月隆の心からあふれ出る悲鳴を、夜隆は受け止めなかった。


「夜隆が帰ってくる前に子供を作らなければならなかったのに……私の子が唯一無二の後継者になるように……夜隆を望む声などもう二度と聞かれないように。だがまだ誰も妊娠していない」

「殺すまでもないな。俺の刀が汚れるだけだ」


 裂闇丸を、納刀した。


「貴様を万松州から追放する」


 目を開け、顔を怒りで真っ赤にしている月隆に、言い渡した。


「俺がどんな気分で生きてきたか、存分に味わってもらう。手に入れ墨を施して七ノ島に連れていってやる」


 踵を返し、背を向けて、夜隆は家臣たちを見た。彼らはみんな畳に手をついた状態で夜隆を見ていた。


「皆の者、そのつもりで用意せよ」


 全員が頭を下げた。


 彼らの中から若い武士が二人歩み出てきて、月隆を取り押さえに掛かった。おおかた背後で刀を握ろうとしたのだろう。一度「離せ」「離すものか」というやり取りがあったようだが、二人に続いて三人、四人と大勢の人間が小走りで近寄ってきて対処し始めたため、もうどうにもならない。


「夜隆様」


 沓間兄弟が歩み出てくる。


「いえ、大君夜隆公。これから先、いかが致しますか」

「そうだな」


 夜隆は、ちょっと笑った。


「まずはみんなで飯を食おう。戦勝祝いだ」

「そうおっしゃってくださるからこそ、あなた様が好かれるのです」


 義一郎が目元を押さえる。


「よかったな」


 不意に真横で黒い尾のような髪が揺れた。そちらを見ると、夢之助がにやにやと笑っていた。


「お前、やればできるやつなんだな」


 夢之助の頭を撫でるように優しくはたく。


「これが終わりじゃなくて始まりなんだけどな。大変なのはここからだ」

「でも、家に帰ってこれた」


 桜色の唇は笑っているのに、長い睫毛はかすかに震えている。


「おれの出番はもう終わりだ」


 夜隆は体ごと夢之助のほうを向いた。夢之助も、まっすぐ夜隆と向き合った。


「これからがんばれよ」

「他人事かよ」

「他人だろ?」


 周りの声が、遠くに聞こえる。


 獅子浜城に帰ってきてから、初めて緊張というものを思い出したかもしれない。


「お前はこれから大君になる。もう雲の上の人間になった。ここでお別れだ」


 夢之助の黒真珠のような瞳が、夜隆を見つめていた。


「おれは農民の子で、大きい声では言えない経歴の持ち主で、本来は城に上がることもできない身分だ。なんなら斬首までありえる」


 月隆が出した法令はことごとく撤廃してやるつもりではいるが、海賊行為だけはこれからも禁止のままにするつもりだった。しかも鉄波党の頭領の克自はこれから政府で役職を得るので、海賊船に戻ることはない。夢之助が上乗りとして活動する機会はもう来ないだろう。


「これからどうするつもりなんだ」

「さあ。いまさら翠湖州に帰れないし、万松州で適当に仕事を探そうかな」


 少し、間が空いた。


 夜隆は、考えて、考えて、特に何を言われたでもなく一人でなんとなく頷いて、こう言った。


「では俺が仕事を与えてやる。ここにいろ」


 夢之助が、真剣な顔つきをした。


「俺のそばにいろ。俺がお前のような経歴の持ち主でも表舞台で働けるような国にしてやる」


 形の良い唇が、わなないた。


「……磔獄門」

「え?」

「結構楽しみにしてる」


 夜隆は笑った。笑って夢之助の頭を撫でた。夢之助は「やめろよ、ガキじゃねえんだからよ」と言って抵抗するそぶりを見せたが、やはり笑っていた。






* * *




 葦津国第十二代目大君狩野夜隆公は、税率を二公八民まで下げ、かわりに商品作物の貢納を進めた。広く工芸品を保護して、職人たちの地位を向上させた。また、寺社を手厚く扱い、親のない子供たちへの喜捨を奨励したといわれている。海上防衛のために海軍を組織し、きたる異国船の出現に備えたことも有名である。密貿易は根絶され、政府の公認を得た廻船問屋が儲かる仕組みも確立した。


 そんな彼のそばには常に美しい近侍がいて、この近侍が定期的に彼になんらかの助言を行っていたようだが、武家の出ではなかったこと、その後も特定の家の系譜に組み込まれなかったことにより、彼の名前や経歴は後世に伝わっていない。





<終わり>


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澎湃《ほうはい》 ~追放されし青年夜隆公、海上で万難を排して帰還する事~ 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

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