第9章 帰還
第35話 狩野月隆の終わりと、狩野夜隆の始まり 1
獅子浜城に砲弾をぶち込むことなく、夜隆は獅子浜城の正面を開門させた。
沓間兄弟の先導があったことで、この兄弟と親しくしている若い武士たちが一斉に夜隆側についたためだ。
月隆に
獅子浜城の表を、夜隆が悠々とした足取りで歩いていく。
のちに義一郎がその姿は勇ましく堂々として獅子のようだったと回顧している。子供の頃の頼りなさはまったくなくなっていた、我々のまことの長にふさわしい姿であった、とのことだ。
夜隆自身、一応なめられないよう多少は気を張っていたが、ほぼほぼ自然体だった。
緊張、というものはこの半年ほど感じたことがない。ずっと命を懸けた戦場に身を置いてきた。ずっと戦闘状態なのは変わらない。しかも今は昏の穴を自由に使える。いつでも刀を抜ける。不安になることは何もなかった。
廊下に上がれば若い武士たちが左右に控えて手を床についており、夜隆が通過すると立ち上がって、その後をついてきた。
まっすぐ、大広間に向かった。
「開けろ」
夜隆が一言そう言うと、左右に立って入り口を守っていた若者たちが刀を抜いて刃をこちらに向けてきた。しかし今度はそんな彼らに対して沓間兄弟も刀を抜く。この兄弟もなかなかの剣豪で有名だ。相手がたじろいだ。
「月隆公は今
「開けろと言っている」
入り口を守っていた二人を無視して、夜隆の後をついてきた者たちが強引にふすまを開けた。
広い部屋の中には、五十人程度の人間がいた。
以前は格式によって着ているものに大きな違いがあったが、今はみんな画一的な意匠に地味な色の着物を着ている。
月隆の強権政治に誰も抗えないでいることの証だ。
廊下の騒ぎを聞きつけてなんらかの対応を取ろうと思ったのか、立っている者が多い。けれど刀まで抜いている者はなく、ただ徒手のまま体を強張らせている。
「夜隆様……!」
夜隆は大広間の中に足を進めながらどんな人間が月隆におもねったか確認した。もともと風見鶏的な性格をしていた者が中心のようだ。この面子なら、夜隆と月隆のどちらに分があるか示せば簡単になびきそうではある。
一番奥、上段の真ん中に、座している者がある。
秀麗な面立ちの若い男は、一度も忘れたことのない、見間違えようもない、この世で唯一となった兄の月隆だ。
夜隆はまっすぐ部屋の中央を歩いた。何人かが刀を抜いたようだったが、向かってくる者はなかった。腰抜けどもめが、と心の中で吐き捨てる。彼らにとって月隆はその程度の主君なのだ。
月隆は正座を少し崩した姿勢で肘掛けに肘をついていた。頬杖のような恰好で頬を押さえている。眉間にしわを寄せて顔をしかめている。頭痛をこらえているような表情だ。
「兄上」
月隆の真正面でいったん立ち止まってから、夜隆は口を開いた。
「約束です。俺があの島を出て獅子浜城に帰ってこられたら、今までどおりに獅子浜城で暮らしてもいい、と。兄上がおっしゃったんですよね。帰ってきましたよ」
夜隆のその言葉に、月隆は、頷かなかった。
「お前が天竜鳴秋を殺したと聞いた」
話はここまで広がっていたのか。
すかさず後ろに控えていた忠二郎が言った。
「あれは海賊に追い詰められて自害したのです。そしてその海賊とは鉄波党という海賊集団の若者の三郎という男で、夜隆様ではございません」
忠二郎の機転に感謝する。鉄波党にいる間本名を名乗らなかったことも幸いした。元鉄波党の仲間たちは夜隆のことを話さないでいてくれるだろう、という確信もあった。三郎はおおかたどこかで死んだことにでもなっているに違いない。その上大君になれば海賊の一人や二人存在を揉み消すのも簡単だ。今ここにいる夜隆が必要以上に気に病む必要はないだろう。
「天竜鳴秋とはずいぶん仲が良かったようですね」
「他の七州の当主とは同盟関係にあるのだから当然だ。葦津八州のすべてを従えるのが大君の務めだ」
「その同盟関係とは、法を犯して密約を交わすことも可能な共犯関係ということですか」
「どういう意味だ」
夜隆はその場で穴を開いた。月隆は夜隆が穴を取り戻していることに驚いたらしく上半身を起こした。しかし、何も言わず、何もしない。ただ、目を見開いて夜隆の焼けただれた手の平を見つめる。
穴の中から、折りたたまれた白い書状を取り出す。
兄の目の前に広げて見せる。天竜家で手に入れた、奴隷貿易を認める代わりに利益の上前を納めよという内容が書かれたあの、書状だ。
月隆の顔が色を失った。
「……貴様」
彼はようやく立ち上がって手を伸ばした。
夜隆の手から書状を奪い、真ん中からまっぷたつに破った。
けれど用心深い鳴秋が定期的に同じ書状を交わして内容を確認していたので、内容はほとんど変わらない同じ筆跡の似た書状がまだ十通以上ある。
夜隆は一歩下がって、近くにいた宰相級の男たちにそれらを配った。
月隆が「やめろ、返せ」と怒鳴るが、男たちは次々と回覧していく。
どよめきが起こる。
「これは……!」
「さすがにこれは」
「擁護できませぬぞ」
男たちが、一歩、二歩と月隆から離れた。その距離はすなわち心の距離でもある。
「あなた様がそこまでして金策に明け暮れていたとは……!」
「これ以上はお味方できませぬ……」
「鬼のごとき行いですな」
月隆は、その場に突っ立って、唖然としていた。
「これは……、私は……」
「何か申し開きがございますればおおせください」
少しのあいだ、間が開いた。大広間にいる全員が沈黙して、月隆を見つめていた。
どれくらい時間が経ってからだろう。
月隆は、青い唇で、こう言った。
「何が悪い」
指先が、震えている。
「私は大君だぞ。民の一人や二人売りさばいて何が悪い。民など畑から収穫できるも同然だ。私の庇護下にあるものを私が好きにして何が悪いのだ」
「あなた様は大君の座にいるべきではない」
場を見守っていた老臣が言う。
「哀れに思ってだましだましついてまいりましたが、あなた様が君主の器ではないことがはっきりした今、これ以上は従えますまい。我々はあなた様を見限って昏の穴を持つ正統な狩野家の御子息の夜隆様を押し上げることに致しましょう」
彼がそう言うと、他の男たちからもぽつりぽつりと声が上がる。
「そうだ、夜隆様がいらっしゃるではないか」
「夜隆様が生きてお戻りになられたのだ」
「夜隆様は奇跡を起こされたのだ、まことの天命があるに違いない」
「夜隆様万歳!」
月隆が「黙れ」と怒鳴った。
彼の手が腰の刀に伸びた。柄を握る。刀を抜く。
しかし、戦闘行為に慣れ切った夜隆の目には、その動きが非常に緩慢に見えた。すぐに見切った。
穴から裂闇丸を抜く。
月隆の刀は、裂闇丸にあっという間に弾かれて、床の畳に刺さった。
そのまま、夜隆は月隆に裂闇丸を向けた。振り下ろす。月隆が顔を背ける。
額を切るか否かのところで、寸止めする。
「大君の座を俺にお譲りください、兄上。――いや」
いまだかつて出したことのないくらい低い声が、出た。
「大君の座を俺に譲れ、狩野月隆」
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