第34話 意外と善行を積んできた
拍子抜けするほどあっさり獅子浜城に帰れることになった。
港の奉行所に沓間兄弟が迎えに来たからだ。
「たいへん申し訳ございませんでした」
兄の義一郎が真っ青な顔を玉砂利にこすりつける。
「夜隆様こそ獅子浜城のまことの
同じように隣で玉砂利の上で膝を折って土下座をしている弟の忠二郎が、「自分も連座したく存じます」と言う。この兄弟は真面目も度が過ぎておかしいやら怖いやらだ。
夜隆の隣で、夢之助が目を真ん丸にして沈黙している。おおかたまた夜隆がこんなに偉いとは思っていなかったとでも言いたいのだろう。それで、たぶん、口を開くと馬鹿を見ると思って黙っているのだ。
夜隆は、今、武家の名門の中でも屈指の家系の跡継ぎである沓間兄弟に頭を下げさせている。生善寺で床の雑巾がけもまともにできないと見下されていたことももう、はるかかなた昔の話になった。
「よい。面を上げよ。そのほうらに死なれては困る。俺に悪いと思うなら月隆兄上を裏切って俺についてくれ」
「御意に」
「えっ、いいのか? そんなにあっさりと……」
沓間兄弟が揃って顔を上げる。
「俺が獅子浜城のまことの主とは何だ。今獅子浜城で何が起こっているんだ」
「我々はもう月隆公の独断専行についていけませぬ」
義一郎が深刻そうな顔で語り出した。
「月隆公は次々と冬隆様の寵臣たちに冤罪を吹っかけて腹を切らせておるのです。年寄りたちは激減し、我々の父も
「どうしてそのようなことに」
「誰も信じられぬのだそうです」
今度は忠二郎が口を開いた。
「雲隆様にお仕えしていた人間は自分の味方をせぬであろうとおおせになられて。まずそのようなことを家臣の前で口にするようなお方についていく者がありますか」
忠二郎の言うとおりだ。主従関係の基礎は仁義である。仁の心を示さない主君に義の心を持つのは難しい。
「月隆公は諫言する老臣をことにお嫌いになられました」
「そういう者こそまことの忠義者だと思うのだけど。叱られなくなった時は精神の成長の終わりだぞ」
「であるから夜隆様こそ我々の主君にお迎えすべきであると考えておるのです。夜隆様ならそうおおせになると思っておりましたからな」
「夜隆様はひとの話を聞くのがお得意でしたので。どこまで頭に残っているかは存じませぬが、月隆公のように何も聞かずに一蹴するお方ではないと記憶しておりました」
沓間兄弟の表情はなおも険しい。
「月隆公は税率を七公三民まで上げられ、昨年はせっかく豊作だったのに民には何の恩恵もなく苦しい生活を強いられております」
「着物にも絹を禁じ、茶や塩にも税をかけております」
「挙げ句の果てには――」
二人揃って、大きな溜息をついた。
「死なせた家臣の妻や娘を召し上げるなどと」
夜隆は目を剥いて驚いた。
「月隆兄上がか? あの人はそんな色狂いではない」
忠二郎が半目で「我々もそう思っておりましたが」と言う。
「民から搾り取った税で、奥の古い女たちを追い出し、自分が集めた若い女たちを住まわせているのです」
「なんと」
予想外の話だった。あの四角四面で浮いた話のひとつもない次兄がそんなことをしているとは、まったく思ってもみなかった。どうしてそんなに税を掻き集めているのかと思ったら、まさか自分のそんな欲を満たすためだったとは、驚天動地である。
「なぜそんなことに……」
「わかりませぬ。我々も困惑しました、そのようなお方では断じてないと思っていたので……。なぜ急に女に目覚められたのか……お側近くでお仕えしていたつもりでしたが、二十二のお年まではかような獣欲などむしろお嫌いなのだと思っておりました」
「俺もだ。俺は昔女にでれでれ鼻の下を伸ばすなと怒られたことがある。そのようなつもりはなかったけど」
「そうですよ、そのへんは三兄弟で一番夜隆様がだらしないものと思っておりました」
ここまで断言されるとつらいものがある。ちらりと横を見ると、夢之助が笑いを噛み殺している。
「権力を持つと色に目覚めるっていうからな。人間、昇り詰めると金と女よ」
「そういうものか、兄上に限ってそんなことはないと思っていたのに……」
夢之助と視線と交わし合う夜隆を、忠二郎が「まあとにかく」と言って彼のほうに向かせる。
「奥の女たちがいつ何を言い渡されるかと思っておびえております。特に年を取った者は言いがかりをつけられて縛り首や島流しにあいましたからな。その月隆公が集めた女たちにいびられている者も多いようですし」
「夜隆様が能天気に暮らされていた時代はよかったと、夜隆様は決して女子供を泣かせるようなお方ではなかったと、皆申しております。夜隆様は、重いものを持ってくださったり、髪形を変えたら気づいて声を掛けてくださったりと、日常のこまごまとしたお気遣いがたいへんよかったと」
夢之助が「意外と善行を積んでるな」と呟く。
「冬隆様や雲隆様を最期まで看病されていたのもほかならぬ夜隆様でしたしな」
「それで、奥の女たちは俺に帰ってきてほしいと言ってくれているのか」
「女だけでなく、我々の間にもそう思っている者は多くございます。女に親切な男はだいたい男にも親切なものですからな。泰平の世に必要なのはそういう真心であったということです」
夜隆は思わず笑ってしまった。真心とは、少なくとも月隆にはないものだ。
「よい。わかった。俺が帰って月隆兄上を追いやって皆を安心させてやればよいのだな」
「そういうことにございます」
「やる気が増したぞ。感謝する」
兄弟がまた頭を下げる。
「月隆公は、感謝などと口が裂けても言わぬのです」
そして、立ち上がった。
「善は急げ、です。話がまとまったばかりで恐縮ではございますが、さっそく獅子浜城にお戻りください。夜隆様のお戻りを知ったら、皆が歓迎致しますぞ」
夜隆も腰を上げ、「ああ、わかった」と告げた。
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