第3話

   

「記録にない? それって、どういうことですか?」

 バンッと激しく音を立てて、机を叩いてしまう。

 そんな私に対して担当の警官は、あからさまに煩わしそうな表情を浮かべて、落ち着きのある声で返してきた。

「どういうことも何も……。文字通りの意味ですな」


 取調室なのだろうか。

 小さな部屋に通された私は、そこで事情を説明することになった。

 不審者という立場で通報された身ではあるものの、私としても困っていたのだから、警察の厄介になるのは好都合だった。

 しかし……。

 警察側で色々と調べた結果。

 私の妻「古木里美」は戸籍に存在せず、会社の記録でも私は独身。ニューヨーク支社へ転勤する前の私は、独身者用の寮で暮らしていたことになっていた。転勤前の同僚たちの証言でも、同様だったという。

 さらに、私の記憶では大学で里美と知り合ったはずなのに、当時の在籍名簿を彼女の旧姓で調べても、そこに彼女の名前はなかったという。

 つまり、記録でも私以外の記憶でも、私の妻は存在しないことになり……。妻の里美が存在を否定されるのであれば当然、彼女から生まれる娘の藍里も存在しないという話になるのだった。


 私は呆然とした状態で、色々な人たちと話をさせられ……。

 その中には白衣の男、いかにも精神科医らしき人物も含まれていた。

 彼との面会の時点で、既に私は大きく気落ちした状態。だから第一声で、思わず呟いてしまった。

「私は統失で、妻も娘も私の妄想に過ぎないのでしょうか……」

「とうしつ……?」

 と聞き返されて、心の中で苦笑いする。

 インターネットでは「統失」と略されることが多いが、それは相手を侮蔑したり、煽り文句として使ったりする場合だ。医学用語としては、正式に「統合失調症」と言わなければ伝わらないのだろう。

「ああ、すいません。私は統合失調症なのでしょうね、と言いたかったのですが……」

「とうごうしっちょうしょう……? 何ですか、それは?」

 改めて聞き返されて、私は目を丸くする。

 驚いて顔を上げると、目の前の医師は、本当に不思議そうな表情を浮かべていた。


 一般人ですら知っているような医学用語、いや「知っている」どころか、略語がネットスラング的に使われるほど、広く知れ渡っている言葉ではないか。

 そんな「統合失調症」という言葉を、専門家である医師が知らないなんてあり得ない!

 しかし「あり得ない」というのであれば、そもそも里美や藍里が存在しないという話も同様ではないか。そんな「あり得ない」が、これほど続くのだから……。

 この瞬間、私にはピンときた。

 おかしいのは私ではなく、この世界そのものなのだ、と。


 後になってパソコンに触れることを許可された際、念のため確認してみたが、いくら検索しても「統合失調症」という言葉は出てこなかった。それに類するネットスラングも存在しない。

 ならば、ここはそういう世界なのだろう。里美や藍里が存在しないという点も含めて、私が知る世界ではないのだ!


 どうやら私は、いつのまにか並行世界、いわゆるパラレルワールドへ迷い込んでしまったらしい。

 いや、おそらくは単身赴任を機に起こった現象なのだから、並行世界へ引っ越してしまった、というべきか。

 いずれにせよ、ここは最愛の妻も娘も存在しない世界。このまま二度と二人に会えないだなんて、考えただけでも胸が張り裂けそうになる!

 だから私は……。


「出してくれ! ここから出して、元の世界へ私を返してくれ!」

 病室の窓にはまった鉄格子を、今日もガンガン叩いてしまうのだった。




(「家族を残して引っ越すと」完)

   

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家族を残して引っ越すと 烏川 ハル @haru_karasugawa

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