第20話① 儂とて若い頃があったのだぞ
「調査結果が出ましたけどね、これは完全に白ってもんですよ」
風間が頭を掻いて渋い顔をしている。
名古屋城三の丸の尾張藩庁舎、その四階にある普請課では忙しげな声が飛び交っているのが常だ。しかし今は、それに加えて張り詰めた空気が漂っていた。
修羅場っているのだ。
その原因は、とある建設会社にあった。藩が発注する工事を落札できなかったところ、いきなり藩の発注に不正があると審査請求を出してきたのだ。
もちろん寝耳に水であるし、そんな不正など誰もするはずがない。
だが誰だって、そうした事を言われては緊張する。そしてデリケートな対応が求められる案件のため、普請課の皆はピリピリしていた。
「うちと落札者の積算内訳を突き合わせて確認しましたけどね、別に情報が漏洩したような痕跡はなしです。どこの誰に見せても、堂々と胸を張って言えます」
「だとすると、なぜ相手は不正があると言いだしたのか。それが問題ですかね」
困惑する慎之介に風間は鼻で笑った。
「おや分かりません? 簡単な話ですよ。つまりは自分たちが工事を落札出来なかった腹いせってもんです。紙切れ一枚で出来る嫌がらせですわな」
「いや、それは少し違うよ」
否定したのは奉行の春日だ。
ちょうど執務室に入って来ており、気付いた皆は軽く礼をとる。風間は自分の言葉を否定され、わずかに顔を顰めたが直ぐ取り繕った。
「流石は御奉行様ですね、我々の知らない情報を握っておられるようで」
「うん。知り合いから聞いてきたが、どうやら相手の会社のバックには天邪古商会がついているらしい」
「ははぁ、あの噂の組織的犯罪集団ですか?」
風間が訳知り顔で頷いた。
その情報を慎之介は知らないが、とりあえず黙っておいた。知らないとなると風間が小馬鹿にしてくるだろうし、どうせ勝手に説明してくれるからだ。
思った通り、風間が喋り出す。
それによれば天邪古商会は最近台頭した集団で、各種詐欺行為を行うだけでなく、一度関わるとそこから脅迫や恐喝などに移行してくるらしい。被害者の大半が言うに言えない状況に追い込まれているため、まだ被害状況は噂という段階だ。
「御奉行、これは一大事ですね。直ちに同心連中の協力を仰ぎませんと」
「うん、風間君の言うとおりだ。ただし天邪古商会が関わってることに、我々が気付いた事を悟られてはいけない。対応は慎重にやらないといけない」
「面倒な話ですねぇ」
「これも連中を追い詰めるためだ。仕方がない」
春日も風間もウンザリした顔を見せるが、もちろん慎之介も同じ気分だ。
こうした相手は徹底的に叩き潰し再起不能に追い込むのが藩の方針だが、そのために対策会議が何度も開かれ、その度に資料を作る必要がある。もちろん作業するのは現場の藩士たちだ。
考えただけでも、うんざりしてくる。
主務になる事を避ける為、無言の牽制が始まっている。慎之介も上手く逃げる算段をしていると、タイミング良く自席で電話が鳴った。
――よしっ!
しかし、気を利かせた女性が電話を取ってしまう。逃げそびれた慎之介が悶えていると、彼女は受話器を持ったまま立ち上がり、背筋を伸ばし電話の相手に答えながら頭を下げだした。
「…………」
もう慎之介は電話の相手が誰か分かった。さらに言えば、春日も風間も誰からの電話なのか察したらしく黙り込む。
受話器を置いた彼女は、案の定と言うべきか、畏れ入った様子で言った。
「設楽さん。そのっ……御家老様から、ちょっと来てくれとのことです」
以前は御家老に呼ばれると羨まれたものだが、最近は微妙に憐れむような顔を皆がする。無茶ぶりされ振り回されていると、こちらはこちらで噂になっているのだ。
家老の執務室に入るのも何度目かで、慣れてきた。
もちろんそれは、控えの間で待機する藩士も同じらしい。慎之介の顔を見ると苦笑して、何も言わず奥のドアを指し示すぐらいだ。
そして成瀬も慎之介が来るなりソファにどっかり座った。
「よし、良く来た。良く来た。ほれ、早く座るといい。少し頼みがある」
いつもより急いた口調で、何か気がかりがあるのは明らかだった。
庁内放送がかすかに聞こえるが、他には空調の音がするだけで喧噪というものとは程遠い環境だ。ここで仕事が出来れば、さぞ集中できるだろう。
「静奈のことだが、最近どうにも機嫌が良い」
「はぁ、それは良いことで」
「いや良くない、あれは浮かれておるのだ。浮き立っていると言うべきか……儂が思うに、あれは恋をしておるに違いない。男の影を感じる!」
恋という言葉が大変似つかわしくない人から発せられ、慎之介は僅かに片眉を上げた。もちろん成瀬は目聡く気付く。
「なんだ、その顔は。儂とて若い頃があったのだぞ。だから若い頃は恋だの愛だの、それで頭がいっぱいになる事はよーく分かっておる」
「なるほど」
しかし返事をする慎之介は、恋だの愛だの分からなかった。
人生を振り返ってみれば家を守るため働いて、そちらに必死になって、恋だの愛だの考える暇などなかったのだ。それに気づくとちょっと侘しい。
「故に、ああいう状態は実に良くないわけだ」
成瀬は腕組みをして、どっかりとソファに背を預け天井を睨んだ。思わしい顔で何度もゆっくりと頷いた。
「恋や愛に浮かれ、とんでもない失敗をしでかすものだ」
多分それも成瀬は経験して、よーく分かるのだろう。
「それも経験と言えば経験ではある。だが、娘が傷つき悲しむ危険をみすみす見逃すわけにもいかん。故にお主、それらしき男がおらぬか探れ」
「は? 静奈、お嬢様を見張るというわけですか?」
「当たり前だろうが」
「それは、前にも言われておりますが……」
「あれは妹御に頼んでの話であったろうが、今度はお主が直々に探るのだ。分かったな、やれ。仕事の方は気にするな、儂が手配しておいてやろう」
必要に応じ成瀬の名前を使い外出しても良く、さらには経費も出すとさえ言っている。あんまりにもあんまりすぎる内容で、親バカの無茶ぶりが過ぎた。
成瀬がジロリと睨んだ。
「何を考えておるか当ててやろう、儂の事を親バカなどと思っておるだろう」
「いえ、滅相もない」
「分かっとるわい、自分でもそう思うのだからな。だがお主も考えてみよ、うん? 自分の妹にどこの馬の骨とも知れぬ男が近づいた状況を」
「……うっ」
想像するだけで胸が詰まる。
親代わりとなって育てた陽茉莉がそうなったとしたら、相手を調べて確認し、よからぬ相手必要とあれば闇討ちしてでも密かに片づけるだろう。
「分かったか」
「分かりました」
「やるか?」
「やります」
慎之介は力強く宣言した。
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