第4話① お偉方がクレーマーの相手をやれ
「はぁ……」
慎之介は名古屋城三の丸にある庁舎の正面玄関に一歩入り、肺の中を空っぽにするように重たい息を吐いた。その横を名も知らぬ同僚たちが追い抜き出勤していく。
憂鬱だった。
自宅を出たときの気分は良かった。祭りで幻獣を倒して侍気分を味わい、咲月と久しぶりの再会もした。また会う約束もして懐かしさと嬉しさを感じてもいた。
しかし、地下鉄を出たあたりで怒鳴り散らす老人を見て思い出したのだ。今日はこれから、クレーマー老人と会う約束があるという事を。
慎之介が最初にそのクレーマー対応をしたのは、今から半年ほど前のことだ。
クレーマーは高校教師あがりの老人だ。現役時代は子供相手に威張り散らしていたが、退職してからマウントを取る相手に不自由したのだろう。老人は地域でも有名クレーマーになっていた。
その時は、幻獣騒動の直後だった。
「子供達が怪我したらどう責任を取る!? お前、本当に確認したのか。確認したフリをして嘘を言ったんだろ! 血税で給料貰ってるなら、市民のために働け!」
老人は近所の公園の安全性を確認しろと言ってきた。クレーマーだと直ぐ分かったので、建物の崩壊や道路の被害があるなかで慎之介は苦労して公園の見廻りを実施。その旨を電話で丁寧に伝えもした。だが老人はそれから自分で公園に行き安全確認を行い、植木の支柱の一つがぐらつく事を発見したのだ。
「大人が子供を守らずしてどうする! 恥を知れ! お前だって何かあれば責任を取らされるんだぞ! 分かる!? 私はね、お前の為にも言ってんだよ」
そんなクレーマーの相手が疲れるのは怒鳴り声だけでない、帰りたいのに帰れない気持ちが一番辛い。
――あの頃は。
しばらく気分が滅入って陽茉莉に心配させてしまったぐらいだ。
それから名前を覚えられ、名指しで呼びつけられるようになっている。だいたいは月に一度ぐらいで、思い出したように電話をかけてきて散々喚いた後に、自分のビルまで来るように言うのである。その度にウンザリさせられるのだ。
――そろそろ休職してやろうか。
エレベーターに乗り込む。
ボタンの横には、『皆は一人のために一人は皆の安心安全のために』といった啓発ポスターが貼られてあった。
「……だったらお偉方が、クレーマーの相手をやればいいのにな」
こんなぼやきは、他に誰も居ない時にしか言えやしない。一人きりのエレベーターは愚痴を言う絶好の場所だ。
チンッと音が響いて普請課のある階に到着した。
そこから足取りも重く廊下を進み、普請課と記されたプレートがあるドアを開ける。明るい部屋だ。外壁側の一面が窓という事もあるが、廊下が薄暗かったせいで余計にそう思える。入室して辺りの同僚に暗い声で挨拶をして自席に向かう。
「ん?」
慎之介は予定ボードを見て眉を寄せた。
そこに書かれてある自分の予定を、同僚の風間が消しているのだ。
「おっと、設楽君。おはようさーん」
「あ、おはようございます。どうして僕の予定を消してるんです? あっ、もしかして代わりに行ってくれるんですか?」
「嫌ですね、そんなわけないでしょが」
風間は手を横に振って、ニタリと笑った。
「やっぱ気付いてなかったね。面白いから黙ってたけど、相手さん居なくなってんだよ。こないだの幻獣災害でさ、あいつのビルが滅茶苦茶に壊れたから」
「えっ? ああっ、そういえば!?」
それで慎之介は思い出した。
あの幻獣騒動の時に、確かにビルが壊れた。いや、むしろ壊した。だがビルを壊した事と損害賠償しか意識していなかったが、あれは確かにクレーマーのビルだった。
「なんか遠くに引っ越したらしいよ。二度と来ないんじゃないの」
「じゃあ、もうクレームは来ない!」
急に世界が輝いて見えてきた。胸の中の重たさが消え失せ清々しい気分でさえあった。今まで黙っていた風間のことも許せる気分だ。
「よしっ!」
慎之介は拳を握って声をあげた。
設楽家は尾張徳川家に代々仕える下士――つまりは足軽の家系――だ。
父親が早くに亡くなり、親戚に家督を奪われかけたので、慎之介は高校を中退して尾張藩に仕官。それから普請行政を運営する部署で藩行政に関わってきた。
だからまだ若いが仕事経験は長く中堅どころぐらいの立場だ。
「……よしよし、よーし」
思わず呟いてしまうぐらい気分が良い。
気分が良いので仕事の進み具合も万全、内線電話であちこち電話し資料の請求や依頼を行い、メールも直ぐ返信して片付けていく。電子決済も素早く中身を精査し、承認したり修正を指示したり全てを軽々とこなしていく。
今日は土曜日。
仕事が昼で終わる半日勤務、通称で『半ドン』だ。
終業チャイムが鳴ったところでスマホを手に取った。今日の食事当番は陽茉莉なので、帰る前に連絡する約束だ。しかし画面にはメッセージの通知がある。
陽茉莉からだ。
「ほうっ、友達と食べて帰るのか。そうか友達とか」
妹が順当に学生生活を送っているのは嬉しい。慎之介は自分が高校を中退しているので、陽茉莉には十分に学校生活を楽しんで貰いたかった。
――そうすると今日の昼をどうしたものか。
帰宅しても食べるアテがない。
自分一人のために料理をするのは、どうもやる気が湧かない。
「食べて帰るか」
壁際にハンガーで吊しておいた背広の上を羽織って、引き出しから鞄を取りだしスマホを放り込む。テーブル側面に設置された刀掛けから刀を取りベルトに差した。
後はどこで食べるかを考えるだけである。
執務室の出口に向かって歩きだせば、丁度そこに誰かが入って来た。
気分良く片付けていると、傍らに誰かが来た。
「設楽君、ちょっと良いかな」
それは普請奉行の春日だった。話しやすく穏やかな上司だが、気が弱くお人好しのためいつも他部署との折衝に負け変な仕事を押し付けられている。
嫌な予感がする。
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