第6話 ドクターの手紙とオレンジジュース

 ユンゲは、宿のふっさりした高級絨毯がぐっしょりするまで泣きに泣いた。


 あまりに泣きすぎて声がざらざらになり、ヒックヒックとしゃくりあげていた喉も収まったところで、フロイラインが口を開いた。


「喉が渇いたでしょう。さあ飲んで」


 差し出したのは、ルームサービスで頼んだオレンジジュースだった。


 ユンゲは両手で受け取ると、ごくごく飲んだ。


「これはオレンジジュースじゃないよ、フロイライン。バラの味がする」

「オレンジジュースよ。どうしたってロージータウンじゃ、バラの香りづけがしてあるの、我慢して」


 フロイラインは、ユンゲが泣き止んだあとのことを考えて飲み物を用意してあげようと考えた。


 でもフロントが勧めてきたのは「ローズティーはいかがですか?」だった。でも忘れっぽいフロイラインも、ユンゲがオレンジへの執着を見せていたことは記憶していたので、「オレンジジュースありますか?」とお願いした。


 で、運ばれてきたのがこの「ローズ風味のオレンジジュース」なのである。


「バラなんて嫌いだ」

「わたしは好きよ。でもあんたは嫌いになったんでしょうね、ユンゲちゃん」


 ユンゲはまたしゃくりあげた。そして豪快に泣こうとした。でも無理だった。さすがに泣きすぎている。涙は一粒もこぼれなかった。


 人間ならきっと目がパンパンに腫れていたことだろう。でもユンゲは人形だ。美少年の面は相変わらず美少年である。でも高性能なので、ちょっぴり目の端っこが赤らんではいる。


「ぼく、おかしいみたい」

「そうね。確かにおかしいわ」

「このままだと緑の魔女に会う前に、廃棄処分になってしまうかも」


 ぴー、と鼻が鳴った。鼻水が詰まっていたのだろう。フロイラインは周囲を見回し、飾り棚の端にあったティッシュボックスを見つけると、取ってきてユンゲに渡した。


「かみなさいよ、涙は許すけど鼻水垂らしたら怒るわよ」

「ぴー」ユンゲは大人しく鼻をかむ。

「ぼく、おかしくなっちゃったんだ」

「もう聞いたわ、ユンゲ。わたしよりも忘れっぽくなったんじゃない?」


 ぼく、ぼく、とユンゲは呟き、ぎゅっと顔をしかめた。気分的には泣いているのだろう、もう涙は出ていないけれど。


「フロイライン、ぼくが暴走人形だとバレたらどうする? 通報されて廃棄処分だ。そうしたら君は一人で緑の魔女を探すかい?」


 緑の魔女、というのは存在するともしないとも言われている伝説の魔女だ。何人か魔女はいるのだが、その中の一人である緑の魔女は、生命をつかさどっているらしく、ドクターが記した手紙には、「人形を人間にしてくれる」とあった。


 ユンゲとフロイラインが、旅する野良人形になったのには訳がある。


 ある日、二体の人形は、ぱちりと目を開けた。

 今からうん十年も昔の話だ。


 最初に言葉を発したのはフロイラインだった。といっても他愛のない言葉だ。あー。それだけ。でもこれを聞いたユンゲが言った。


「きみはだれ? ぼくはだれ?」

「わたしはだれ? あなたはだれ?」


 二人はそれぞれ木製のベッドに寝ていた。マットレスは硬かった。建物は一室だけのログハウス。とても古びていて隙間だらけで、冷たい風が吹き込んできていた。


 二人は何もわからないまま部屋の中を見回した。

 机だ。手紙が置いてある。


 二人は文字が読めた。内容も理解した。何をすればいいかも、ちゃんと完璧にわかった。


「ドクターか」

「ドクターだ」

「このドクターがぼくらの持ち主?」

「作り主かもね」

「ドクター、って誰?」

「さっぱりわからない」


 差出人はドクターだった。他に情報はない。


『緑の魔女を探して人間にしてもらいなさい。ドクター』


 ——以上、終わり。


「緑の魔女を探さなくちゃ」

「うん、探さなくちゃ」


 二人は声をそろえた。


「人間にしてもらおう」


 二人は自分で名前を付けた。


 ある日、人間が彼女をフロイラインお嬢さんと呼んだからフロイラインになった。


 ある日、人間が彼をユンゲ男の子と指差したからユンゲにした。


 二人は自分たちを十六歳に決めた。

 仲良くなった人間の女の子の真似をしたからだ。


 彼女はフロイラインと同じくらいの年齢に見えたのでそうした。もしも彼女が十七歳と答えたら十七歳になっていただろうし、二十歳と言ったらそうなっていただろう。


 でも、その子は自分は十六歳だ、と答えたし、二人は自分たちも十六歳にしようと決めたから十六歳なのだ。

 


 あなたたちは双子ね、と言われたから、はい、そうです、と答えた。

 どっちが姉で兄なのかわからなかったから、交互に入れ替わることにした。


 そうして旅を続けた。あっちの大陸、こっちの大陸。

 船に乗り、列車に乗り、砂漠を渡り、谷を越えた。


 どんどん年月は経過した。

 でも二人はずっと十六歳だ。

 そして緑の魔女の手がかりは何もつかめていない。


 緑の魔女って本当にいるの?

 ドクターは嘘をついたの?


 それでも探し続けるしかない。もしも二体の機械仕掛けの人形がこの世に誕生した意味があるとするならば、緑の魔女を見つけることにあると思ったから。


「でももう無理、ぼく壊れちゃった!」


 うえーんっ。……と泣こうとしたユンゲの涙は出なかった。

 でもその代わりに、うわーんっ、とフロイラインが泣いた。


「壊れないでユンゲ。わたし一人で魔女探しの旅なんてできないもん。アンタが壊れるならわたしも壊れちゃった!」


 うわーん、うえーん、と二人は抱き合い泣いた。

 泣いて泣いて泣きまくって、フロイラインは涙が枯れると、宿のフロントに電話した。


「オレンジジュースください。できたらローズ風味抜きで」

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