第4話 旅する野良人形
水面近くにあるレールを走る列車なのだから、バシャバシャ水しぶきを上げながら進むものと、ユンゲは思っていた。
でも実際の走行はとても滑らかで、フロイラインが何度も「スイーッて」と騒いでいたように、スイーッと本当に進む。
首を伸ばしてみれば、水しぶきはほとんど見えず、柔らかくなったバターにナイフを入れるように、とろりとした風合いで、ぐんぐん水面をかき分けていくのだ。
ユンゲは感心してしまった。心の中ではまだ水上バスへの愛が勝っていたが、これはこれで魅力的だし、どういう仕組みで進んでいるのか、動力は何を使っているのか、興味が湧く。
でも会話したい相手のフロイラインは、ユンゲにかまうつもりはないらしい。からからと笑い声をあげて配達人との会話に夢中である。
ユンゲのほうからは、フロイラインの後頭部しか見えないが、笑い声と共に「ほんとー?」「まあすごい」「教えてくれてありがとう」などと言っては軽く弾むようにうなずく動きで、彼女が笑顔満面で楽しんでいるのがわかる。
それにアイツ。ユンゲはジト目で郵便配達人をにらんだ。
目尻が下がり、口元がニヨニヨしている青年を見ていると、以前立ち寄った猿島のスケベ猿を思い出す。あのスケベ猿はフロイラインをメス猿と思ったのか、それとも人間の女だと勘違いしたのか、付きまとってきては抱きついてこようとして大変困った。
最終的にはいい加減うんざりしたフロイラインが、「イイイイッ!!」金切り声で威嚇したことで、スケベ猿は退散したのだが、今回の猿——いや青年か——はまだフロイの逆鱗に触れていないらしい。むしろ喜ばせている。だから間抜け面して笑っていられるのだ。
ユンゲはイライラした。
フロイラインが振り向いてくれるかと、と咳払いしてみるも、今日は姉のフロイラインは、「必ず行ってみるわね!」と手を合わせてはしゃいでいるだけだ。むしろ配達人の青年のほうがちらっとユンゲに視線を寄こした。が、すぐにフロイラインに戻り、ニコニコしている。
ちっ。ユンゲの表情が険しくなる。
フロイラインもフロイラインだ。彼女が乗りたいと駄々をこねるから、すでにチケットを取っていた水上バスから水上列車に変更したというのに、さっきから配達人と向き合ってばかりいて、景色をながめてもいない。
こんなことなら水上バスでも良かったじゃないか。あっちはあっちで、もしかしたらもっと品行方正な乗客と出会い、もっと有益な情報を得られたかもしれない。
ユンゲは今からでも湖に飛び込み、泳いで出発駅まで帰りたい気分になった。
フロイラインが何をそんなに夢中になっているのかと聞き耳を立ててみれば、到着地のロージータウンについてだった。
ロージーの名の通り、バラが年中咲いている街で、特産品もバラをふんだんに使ったものが多い、と青年が饒舌に語っている——でもそんなことは、タウン情報誌ですでに読んでいるものばかりなのでは?
バラのジャムはもちろん、バラケーキにバラアイス、バラクッキーにバラチョコレート。バラのお茶にバラのワイン。バラ風呂、バラの香水からバラをイメージしたドレス、自転車、家、フェンスやポールまでバラをモチーフにしているらしい。
ユンゲはオレンジの方が素敵さ、と思った。水上バスの到着地点は年中オレンジが実る半島だった。バラジャムよりマーマレードだし、バラケーキよりオレンジピールが入ったフルーツケーキのほうが好きだ。
フロイラインは「素敵素敵」と連呼していたが、ユンゲからすると何一つ素敵なものはない。オレンジのほうが良い。比べるまでもない。オレンジは元々食べるものだが、バラは鑑賞するものだろう?
フロイラインがまた笑った。キャッキャしている。何がおかしいのかさっぱりだった。ユンゲは肩に首がめりこむほどうずめて、深くずり落ちるような姿勢で座っていた。精一杯の不機嫌を表したものだが、誰も見ちゃいなかった。
「静かにしなよ、フロイライン」
ボソッと注意する。普段なら「静かにしてるじゃない、ユンゲ」と言い返してきただろうが、今日はボソッとくらいでは反応しない。フロイラインがまたキャハハと笑い声を立てる。
まあ、公平な目で見れば、べつにフロイラインはうるさくなかった。
もちろん、笑ってばかりいるしキャッキャしている。周囲は静かに水上列車の運行を楽しんでいる乗客ばかりだ。でも「あの子、うるさいなー」って視線は誰もしていない。穏やかに風景を楽しんでいるか、フロイラインがにこやかにしているのを微笑ましそうに見やるだけ。
周囲が水だからかもしれない。音を吸収するんだろう。それにガタンゴトンが通常だろう列車の音がない静かな中で、風に吹かれながら少女の笑い声が響くのを耳にするのはそう悪いものじゃない——らしい、ユンゲ以外の者にとっては。
「ねえフロイライン、フロイ、フロイライン!」
少しずつ声を大きくして呼んだ。
すると郵便配達人の青年が「弟くんが呼んでるよ」とフロイラインの肩をつつく。この仕草もまた癪にさわったユンゲは、思いっきり顔をしかめた。その顔をちょうど振り向いたフロイラインが間近で見ることになる。
「やーね。なんて顔してるの?」
「君、せっかくの水上列車なのに、会話ばかりしててもったいないと思うよ」
「そう? 会話も景色も楽しんでたんだけど。ねえ?」
にこり、と配達人の青年に微笑みかける。すると嬉しすぎたのか、彼は頬を染め、いやあ、と首筋を照れたようにさする。
けっ、とユンゲは思った。この青年はフロイを人間の美少女だと思っている。まさか機械仕掛けの人形だと見抜いていないはずだ。
動く人形は珍しいものではない。むしろ地域ごとに差はあるが、人間のほうが貴重種だ。圧倒的に人形の数の方が多い。
それでも、ユンゲとフロイラインほど精巧な人形は数が少ない。だいたいは改札にいた駅員のように、一見すると人間だが、目や肌の作り、口などの動きから、それが人形だとわかる。
そしてユンゲとフロイラインレベルの完成度を持つ人形は、富豪や貴族、王や王族の持ち物だったり、あるいは見世物小屋の商売道具だったりする。
そもそも人形が人形の判断で好き勝手に出歩くのが異質だ。人形は人間の持ち物、人間が使う存在だからだ。
そういうわけだから、ユンゲとフロイラインは、世にも珍しい野良人形なのである。
だから、「ぼくら人形なんだ」と打ち明けたら、青年の態度はいっぺんするはずだ。きっとフロイラインへの特別な関心はなくなる。まあそれでも美人なのは変わらないから、ヘラヘラ笑いは続くかもしれないが。
でもユンゲはその衝撃の告白をするのはやめた。青年が不機嫌になり、フロイラインと自分に暴言を吐くかもしれないから。とはいえ、フロイラインが自ら「わたし人形なの」と言い出すのは止めないけれど。
言えばいいのに、とユンゲは思い続けた。願をかけ続けてとも言える。
だがフロイラインは列車が停車し、ロージータウンの駅を出て、大通りの噴水前まで案内してくれた配達人の青年が、「では楽しい旅行を!」とハンチング帽を軽くもち上げ別れの挨拶をして立ち去るまで、何の暴露もしなかった。
「とっても親切な人間だったわね」
ご機嫌のフロイラインに、ユンゲは言った。
「どうだか。ぼくにはただのスケベ猿に見えたよ」
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