第3話 郵便配達人の青年

 水上列車は最高である。

 ユンゲも、そう認めざるを得なくなった。


 出発時刻までまだ少しあったため、ユンゲとフロイラインは、ホームでしばらく周囲を眺めることにしたのだが、そのあまりの素晴らしい景観に棒立ちになり、どちらともなく手を繋いでいた。


 列車の車体はしっとりとした深みのある群青色だ。数えてみると七両編成だったが、ひとつひとつが短いため、そこまで長いとは感じない。


 停車している列車は水面に浮かんでいるようだ。目を凝らせば水中に線路を発見できたが、とても華奢で金色をしているため、湖面にきらめく陽光と混ざり合い見つけにくくなっているためだ。


 車体が青緑色に輝く湖面に鏡映しになっており、見渡す視界に収まる光景は、まるで絵画だった。


 そして湖の規模。こっちもすごい。とにかく広い。広大。対岸らしきものが地平線に見えるような気もするが、あまりにぼんやり霞んでいるため、さだかではなかった。


 ユンゲは、海っぽい、と鼻から空気を吸って確かめていた。香るのは塩気ではなく、ほんのり甘さを感じる水の匂いだ。ここはやっぱり湖なのだ。


「なんて素敵なの、うっとりしちゃう」


 フロイラインはあまりの素晴らしさにしびれたのか、左右にゆらゆら体を揺らしている。ユンゲは「まあね」とぶっきらぼうに応じたが、動悸がして浮き立つ心持ちになっていた。


 ホームには人や人形の姿がたくさんあった。車内はきっと満席だ。もしかしたら、ぎゅうぎゅう詰めで、席を取るのは無理かもしれない。


 それでも人の数に対してあたりは静かで、森深くにいるようだった。この厳粛とも言える荘厳な光景に誰もが圧倒されているのか、小声で話している乗客ばかりだ。


 美術館に来たみたい。ユンゲは少し緊張してきていた。

 でも。


「ねえ見て見て。本当に素敵、素敵、素敵すぎるわ」


 バスに未練があるユンゲですら列車に感動しているのだ。フロイラインの興奮はその比ではない。周囲が静かにしているというのに、彼女は小さい子のように騒ぎ出す。


「フロイライン」


 ユンゲは小声で注意する。それだけで「静かにする」と彼女が理解すればよかったのだが、フロイラインは「なあに?」と大きな声で返してきた。


「周囲を見なよ。誰も君みたいに騒いでないだろ」


 フロイラインはきょろきょろとあたりを見回した。ユンゲは、フロイラインも空気を読んで恥じるだろう、とちょっと得意げに胸をそらしたのだが、彼女は肩をすくめただけで何も堪えていないようだ。


 その態度にむっときたユンゲが、また苦言しようとしたときだ。


「そろそろ出発するかも。乗り遅れたら大変だから早く行きましょ」


 フロイラインはパタパタと足音を立てて乗車口に向かう。ユンゲはますます腹立たしくなった。


 水上列車は車内も素晴らしかった。ゆったりとした座席はベルベット調の生地でワインレッド色。座り心地もふわりと抜群だ。窓にガラスはなく、両脇に白い大きな窓枠が開放的に並んでいる。


 それでもユンゲのくさくさした気分は、ひどくなる一方だった。


「早く出発しないかな」


 大きなトランクを吊り棚に放り投げるように置いたフロイラインは、窓枠に肘を乗せて鼻歌気分でいる。ユンゲは吊り棚のトランクを強調するようにドスンと下ろした。


「そんなに長い時間乗るわけじゃないし、ぼくらの大事なものがたくさん入ってる荷物なんだぞ。もっと用心できないのか、フロイライン」


「ふーん、そう」

「聞けよ、フロイライン。もしも盗まれたら困るだろ」

「お金はユンゲが管理してるじゃない。わたしが持ってるのは着替えくらいよ」


「でもなくなると……、ああっ、もういい」


 フロイラインが自分の忠告に耳を傾けていないのを見てとり、ユンゲは話す気をなくす。そのまま無言でにらみつけていたが、フロイラインはニコニコと上機嫌で、ユンゲには目もくれず、湖の景色を楽しんでいる。


 リリリ、と甲高いベルの音が鳴った。


 ホームにいた乗客が続々と乗り込んでくる。ユンゲは、トランクを足の間に挟み、邪魔にならないように、そして盗まれないように、しっかり確保した。


「フロイライン、ちゃんと座って」

「そのうちね」

「今、座って!」


 きつく声をかけると、窓枠に肘を乗せて外を見ていたフロイラインの眉がぐぐっと中央に寄った。不機嫌そのものだったが、フロイラインは反論しなかった。窓側に向いていた姿勢を正して座りなおすと、スカートの裾を整え、つんと顎を上げる。これでいいでしょ、と言わんばかりだ。


 リリリ、と再びベルが鳴った。

 列車が動き出す。


 ユンゲはもっとたくさんの人が乗り込み、車内はぎゅうぎゅう詰めになると思ったのだが、見送りや見学が多かったらしく、意外とすいている。空席だってあるくらいだ。


 ユンゲはトランクを確保していた足の力を抜き、挟んでおくのはやめて脇にそっと移動させる。


 フロイラインの何か物言いたげな視線を感じた気がしたが、見ても彼女はまたつんとして前を向いているだけだった。背はこれでもかとピンっとしている。


「結構、すいてるね。もっと混雑するかと思ったよ」


 機嫌を直してもらおうと陽気に話しかけるユンゲ。だがフロイラインは軽く肩をすくめるだけで見もしない。バカみたいに前ばかり向いている。


「シーズンオフだからね。まあいつでもロージータウンは花盛りだけど」


 すると向かいにいた乗客が、ユンゲの声を拾ったらしくそう教えてくれた。ハンチング帽をかぶった青年で、そばかすのある人の良さそうな雰囲気の彼は、目が合うと微笑みかけてくる。この青年は人間だ、とユンゲは瞬時に判断した。


「そうなんですね」


 フロイラインも何か応えると思ったのだが、むっつり黙ったままだ。あまりに不愛想なので、ユンゲは肘で彼女を小突いた。


「二人はきょうだいかな?」


 質問に、ユンゲはもう一度フロイラインを小突いたが、彼女は無反応。ユンゲは申し訳なさそうにして青年に苦笑を返した。


「はい、双子なんです」

「やっぱり。君がお兄さん?」

「えーっと」


 言葉に詰まると、「わたしが姉よ」とフロイライン。やけにつっけんどんな言い方に、ユンゲは焦る。


「ぼくら交互に入れ替わるんです。今日はこっちが姉で」とフロイラインをまた小突く。「明日はぼくが兄って具合に」


「そうか。おもしろいね」


 青年は郵便配達人をしているそうだ。大きな肩掛けカバンの他に、パンパンに膨らんだ袋が二つそばにある。青年はユンゲに話しかけながらも、ちらちらフロイラインに視線をやった。ちっとも愛想がないままなのだが、それを悪く思ってはいないようだ。


 フロイは美人だからな、とユンゲは思った。


 このくらいの年頃の青年は、フロイラインを見ると、にらまれようとも笑顔を返すことがある。郵便配達人だというこの青年も、そういう質らしい。フロイラインのほうを見るたびに、唇の端がうれしそうに緩んでいく。


 でもユンゲは、フロイラインの不愛想な態度が気に入らなくて、話がひと段落したところで彼女を強くなじった。


「何が不満なんだ、フロイライン。君のご希望通り、水上列車に乗っただろ。なんでむっつり黙ってるんだよ」


 前方の一点をつまらなそうに見続けていたフロイラインの視線が、ついっと斜めに下がるようにしてユンゲを見た。


「お行儀よくしてるだけですけど?」

「どこが。さっきから、ぶすっとした顔をして。少しは愛想よくしたらどうだ」

「ごきげんよう、配達人のお兄さん」

「え、ああ、ああうん」


 罰が悪そうに、配達人の青年は頬をかく。ユンゲは「君って人は」と声を荒げた。と、青年が「まあまあ」と腰を上げ、なだめてくる。彼は向かいからフロイラインの隣まで移動すると窓の外を手で示した。


「ごらんよ、お嬢さん。最高の眺めじゃないか」


 フロイラインは一瞬嫌そうな顔をしたが、身体をひねり、窓側を向く。と、すぐに引き結んでいた唇がほころび、笑顔になった。


「わあ、綺麗ね。湖面が宝石みたい。キラキラしてる」


 ユンゲも横目で見やる。確かに綺麗だ。混じりっ気ない青緑色の湖面が陽光にきらめき、空と溶け合うようにどこまでも広がっている。


 それでもユンゲは、自分が苛立っているのがわかった。癇癪を起しそうだ。フロイラインはすっかり機嫌を直して笑っているし、その横顔を配達人の青年が、緩んだ顔して見ているのも気に食わない。


 ここで怒鳴り声を上げて騒いだら、さぞ驚くだろう。黒い誘惑が沸々してきたユンゲだが、膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締めて我慢した。

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