【10】後ろの正面
「つむぎちゃんっ‼」
私の声が聞こえたのか、ミユキさんは係員を肩で押しのけて、防音扉を無理矢理こじ開けた。その隙間から見えたミユキさんはとても焦っていて、一目で非常事態だということが分かった。
「すいません、私の知り合いです。迷惑はかけないので入れてあげてください。」
係員の人は怪訝そうな顔をしたけれど、品行方正なシオンと、長くここに通っていたタクミ先輩が後ろで頷くと、「他の迷惑になるようなことはしないでください」と言って引き返してくれた。
「ミユキさん、何かあったんで…」
「…み…」
「え?」
掠れた声が聞きとれなくて聞き返す。それほどまでにミユキさんの声は枯れていて、酷い疲労が感じられた。
「鏡…だったよね?あの日、ポケットから落としたのは…」
膝に手をついたミユキさんから仰ぎ見られて、咄嗟に背筋が伸びた。何が起きたのかわからないけれど、何故か怒られているような気がしてくる。
「はい。今も、ここに…」
そう言って私は、髪を切ってもらったあの日と同じ場所から鏡を取り出した。そのとき、なぜか鏡面の染みが心なしか濃くなっていて、しかもそれを中心として、僅かにひびが入っているように見えて、私は思わず首をひねった。
「あれ、こんなの…」
「何これ?」
「鏡?」
シオンとタクミ先輩も私の手元を覗き込んで、鏡を見た。シオンがぼそりと言葉を漏らす。
「なに…血?」
確かに、鏡についている黒いように見えていた染みは、色が濃くなって見てみれば血に見えなくもない。急に手元から禍々しい何かが出ている気がしてきて、私は体を少し引いてミユキさんに尋ねた。
「これがどうしたんですか?」
ミユキさんの口から聞こえたのは、およそ大人が言うとは思えない陳腐な言葉だった。だけど、自分の手の中にある実物こそが、それを一番証明している気がして、私は何も言えないまま、ただ頭の中で言われたことを反芻させることしかできなかった。
「その鏡…もしかしたら、呪われているかもしれない…」
「え?」
初めに声を出したのはシオンだった。私とタクミ先輩は、あまりにも突飛な話で、何の言葉も言えなかった。信じられない、だって、呪いなんてそんなもの、現実にあるだなんてありえないから。だけど、そう指摘された目の前の鏡は、何だか様子が変わっているし、何を信じたらいいのか全く分からないというのが現状だった。
「ずっと昔、ここに来たばかりのときに、サーファーの先輩が、『あの崖の近くの海で波に乗るのはだめだ』って言っていたのを思い出したんだ。どうしてか理由は言われなかったけど、他の仲間もあそこには近寄らないし、何らかあるんだろうと思って、これまでは無意識に避けていたんだ。
そこで拾ったってつむぎちゃんが言うから、気になって…。」
そんなことがあったなんて全く知らなかった。
「シオン、聞いたことある?」
「…」
「シオン?」
知らないよ、で済むと思っていたのに、振り返ってシオンを見ると、青ざめて視線を逸らす彼女がいた。シオンは真面目な人。私をびびらせるために、こんな演技をするような性格じゃない。これまでの経験値から導き出された結果が、こんなにも不穏だなんて、誰も考えたくないだろう。
「…私達は、子供の頃に麓のほうで遊んで、それ以降は花火大会のときに行くくらいだけど…。おばあちゃんは、絶対に近寄らない。認知症もあるし、正しいことを言っているのかわからないけど、確か、”姫様が眠っている”だとか、なんとか…」
それを聞いたタクミ先輩がはっと顔を上げる。
「俺も、…叔母さんから、”あの城には姫神さまがいる”みたいな話を聞いたことがある、ような…」
「…え?」
ここに引っ越してきて、1年半。それだけじゃ知り尽くせないことは沢山あると分かっていたけれど、まさかここまでとは。それが分かっていたら、一人であそこに行くことも、こんなものを拾ってくることもなかったのに。
気味が悪くなって、鏡を床に置く。それをぼんやりと目で追ったミユキさんが、うわ言のように呟いた。
「やっぱり…」
私のことなのに、何も分からないまま話が進んでいく。ただ一つだけ、自覚としてあるのは、とんでもないことをしてしまったらしいということ。
”呪い”だなんて、この歳になって大人の口から聞くこともあるんだなぁ、しかも自分のこととして、か、なんて、現実逃避し始めた頭の中で、他人事のように思っていた。
「俺もその鏡だけじゃ判断つかなくて、先輩に聞いたんだ。
そうしたら、『俺も小さい頃に聞いた話だからはっきりとは思い出せない』って言いつつ、教えてくれたのが、この話。」
そう言ってミユキさんが話し始めたのは、ある昔話だった。
その昔、まだあの城が建っていた時代、人質として、隣国の領主の家族が連れてこられたらしい。その中にいたひとりの姫様は、可憐で可愛らしく、見る者全てを魅了する綺麗な娘だったけれど、生まれつき病弱で、人質として連れてきたとしても、命が永く
時の領主の求める解放条件は、隣国の領土を明け渡すことで、そこは豊かな土壌と水運を持つ、とてもいい土地だった。戦を経験したことがない領主は、田舎の隣国を甘く見て、たとえ姫様の命が永くなかったとしても、きっとすぐに降伏するだろうと思っていた。
しかし、隣国は総出で勢力を上げ、抵抗し続けた。城の治めていた土地にいるよりよっぽど少ない領民の数であったことは確実なのに、いつか
姫様が軟禁されていた部屋を脱走したのだ。
どうしてそんなことをしたのかは伝わっていない。
だが、それは結果として城内の混乱を招き、軍勢は隣国の武士からの攻めに屈し、ついには落城に追い詰められた。
城は焼き討ちに遭い、跡形もなく消失。それと共に、脱走したはずの姫様も、姿を消した。その場を目撃した武士によると、城を焼く炎の中に自ら飛び込んだとか。彼女の亡骸は見つかることがなく、結果としてこの戦いは、敵味方ともに、大きな損害を生む戦となった。
その後、城の焼け跡やその真下の海では、ごくたまにだが、鏡が発見されるようになったらしい。その鏡には不思議な魅力があって、なぜか欲望を剥きだしにさせられるのだとか。そうして出てきた願いを、鏡は一つだけ叶えてくれるが、なぜかそのあと、願った人達は皆、不幸な目に遭うらしい。子供がその被害に遭うことや、鏡を見つけることはないけれど、その理由は知られていない。周りの人達が同じように不幸な目に遭うこともあるらしく、それはいつしか”人質として無理矢理連れてこられ、無残にも死んでしまった姫様の、この土地に対する呪い”と言われるようになり、あの場所—――城跡から人を遠ざけた。今ではもう、鏡を見つける人は滅多にいない―――。
何だか、”空洞”という言葉がふさわしい話だったように思える。大事なところがくりぬかれているような、何とも言えない違和感。
だけど今は、そんなことを気にしている場合ではなかった。長らくその呪いにかかった人はいなかったというのに、また、その扉を開けてしまったのが私、だったんだ。
何が契機で不幸が訪れるのか、それさえも分からない以上、私にはもう、どうしようもない。ただ理解できたことは、どうやらこの話の通りにことが進むなら、私は不幸を被る運命にあるらしいということ。
「つむぎ…どうすればいいの、」
見ると、シオンが涙目になってこちらを見ていた。「大丈夫だよ」と私は言った。
何が根拠でそんなことを言っているのか、自分でもよくわからないけれど、なぜか、今の私には、”大丈夫”だという確信があった。もうライブは終わったし、花火大会も明日だし。その2つさえ全て順調に終わらせることができたら、正直もう、後悔はなかった。それに、怖がっているシオンの前で私まで怯えてしまったら、恐怖は鎮まるどころか増大してしまう。どれもこれも自分で蒔いた種だけど、もうこれ以上、シオンに悲しい顔をさせたくなかった。
「お寺で供養か何かをすればいいのかな…」
タクミ先輩が言う。確かに、この鏡を供養してもらえば、何か怨恨のようなものは鎮まってくれるのかもしれない。
「でも、どこに行けば…」
…わからない。先輩もシオンも、下を向くだけだ。こういうとき、自分がただの子供であることを痛感する。もう少し人脈のある大人であれば。そもそも、ちゃんと危機感のある大人であれば、こんなものを拾ってこなかったのに。これを拾ったときは気が動転していて、何か縋るものがほしかったから。
「というか、もうそんな目にあってるってことはない?これまでは大丈夫だった?」
ミユキさんはそう私に聞いた。これを拾ってから、色んな事があった。転校が決まったのとほぼ同時だったから、何がどういう因果で繋がっているか、全く見当がつかない。
「…髪…」
ぼそりとシオンが呟く。
「…え…髪?」
「そう。特別不幸というわけではないかもしれないけど、不思議…というか、不可解なことではある…と、私は思った…」
全然思いつきもしなかった。でも確かに、髪をあんな風に切ることが私の意思であったということはありえない。必要に迫られてやったことだと思っているけれど、言われてみれば、私、あの時、どんなこと考えて、あんなことしたんだっけ。
全然、…思い、出せない…。
「…。」
さっきまで、熱気で暑いまであったのに、肌が硬直して、ぞくっとした寒気が走る。私が体を震わせたと同時に、ぶつっと切れた新しい毛先が不気味に揺れる。私、あの時、何かに憑かれてたの、かな……。
黙り込んでしまった私の後ろで、タクミ先輩が呟く。
「もしかしたら、その足の傷も…?」
「いや、まさか…」
違う、と言い切れない自分がいて、口をつぐむ。これはシオンと仲直りしたあの日、学校に行くときにやったものだけど…。考えてみれば、一年半、ほぼ毎日通った道で、今更、どうして転んだんだろう…。
「わかんない、全部、わかんないよ」
今は、何を言われたって、正しい判断ができない。私はしゃがみ込んで顔を両手で覆った。
あぁ駄目だ、ついてないって思ったあれも、これも、どれも全部呪いが魅せた虚像なら、
あぁ楽しい、ここにいれて良かったって思ったさっきまでの時間も、シオンとの絆も、あの音楽でさえ全部幻なの?
いやだ、いやだ。
こんな絶望、他にある?
そこまで考えて、ふと、気がついた。
この呪いは、確か…。
「周りの人にも、伝染する…?」
もう嫌だって目を逸らした先は、果てのない絶望。これ以上ない、わけがない。私が犯したことは、そういうことなんだ。
「…ごめんなさい…」
色々考えて、ショート気味の頭は動かなくなっていた。そうしたら、ぽろっと零れた言葉はそんな、何の足しにもならないもので、私はもう、どうすればいいのか分からなくなっていた。顔を上げた先には、不安そうにこちらを見つめる、シオン、タクミ先輩、ミユキさん。その後ろからは一年生達がやってきたのが見える。
「え、どうしたんですか…?」
誰も、答えない。
皆、みんな、大切な人で、もうすぐ別れてしまうのに。これまで、何度もお世話になった分、何か恩返しができたと、ついさっき思ったばっかりなのに。
どうして、どうして。
怖くはない。だけど、悔しい。
私は結局、迷惑をかけて、場を引っ掻き回すことしかできないのかな。
「その話が本当なら、周りの人にも、何かが起きるってこと…ですよね。
どうしよう、皆になにかあったら、私…」
「そんなこ」
シオンのたしなめようとする声が聞こえた、その瞬間、
ブーブーブー、と、誰かの携帯のバイブが鳴り響いた。
はっとしたタクミ先輩がポケットを押さえ、自分のだと気づいて、取り出す。
何か嫌な予感が、したんだ。
だって今考えてみれば、最近、よくないことが起こったときって大抵、こんな風に私の気が動転していて、何も考えられないとき、だったから…。
そう思ってから、私の視界に映るものは全て、スローモーションになった。
タクミ先輩の白い指が携帯を掴んでいる。
その画面を見て、少し首を捻り、タッチパネルに触れて通話ボタンを横にスライドさせる。
受話器部分が薄い耳たぶに触れる。初めの言葉はもう聞こえなくて、唇の動きだけで読んだ。
(どちら様ですか?)
そして返ってきた返答に、目を見開く。
それを見た瞬間、私は、恐れていた何かが起こったことと、予想があたったこと、両方を確信した。
下を向いて耳を塞いだ。もう何も見えない、聞こえない。
自分を守るために、弱い私はそうやって、逃げたんだ。
なのに、呪いは語りかける。
おまえが起こしたんだ。
おまえには見届ける責任がある。
遠くの床に置いたはずの鏡が足元にあって、割れた表面に映った、絶望で歪んだ自分の顔を見て、思わず上を向いた私の目は、ばっちりとタクミ先輩の口元を捉えていた。普段、どんな不測の事態に遭っても全く慌てることのない先輩の唇は、真っ青になり乾いていて、きっとその声も掠れていたんだろうけど、私の耳には聞こえてこなかった。ただ唇の動きだけが、皮肉のように鮮明に、網膜に焼き付いていく。
―――夏樹が交通事故に遭った―――
―――車に正面からぶつかって―――
―――――今は意識がない―――――
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