【3】回る世界
「ただいま…」
PM09:00、マンションのドアを開けても、そこには誰もいなかった。今日からお父さんは、転勤先に出張だと言っていた。多分、お母さんも一緒についていったんだと思う。もしかしたら、引っ越しの日まで帰ってこないつもりかもしれない。何を心配しているのか、考えたくもないけれど、子供がいるのにも関わらず、未だにほとんどの出張にお母さんは同行する。もし、お母さんがそんなことをしなければ、お金が浮いて、二拠点生活だってできるんじゃないかとか思うけど、口には出さない。それは共同生活の上で忘れてはいけない、”踏み込んではいけない領域”というやつだった。
結局、あれから先輩と別れて、嬉しい気持ちも、苦しい気持ちも、家の中なんかじゃ到底収まらないくらい大きくなって、ずっと街中を自転車で駆け回っていた。波でも、海風でも、トンビでもいい。誰か、私のこの気持ちを、私の目の見えないところに連れて行って。私を一人にして。でも、そんなことを思いながら街を巡って、思い出のライブハウスの前を通ったり、花火大会の幟を見たりするたびに、もっと心が揺さぶられた。楽しみ、来るな、待ち遠しい、嫌だ、逢いたい、逢いたくない、その日が来ないでほしい、でも…逢いたい。
嬉しい気持ちって、苦しい気持ちと一緒になってやってきたら、こんなに痛いものなんだ。この嬉しい気持ちがずっと続けばいいのに、終わりはもう二週間後には迫っているなんて。しかも、約束が果たされて終わりが来たって普段の生活が続いて、たまに学校で会えたら…、なんてことはありえない。私達の歩む道は、ばっさりとそこで裁ち切られる。きっと花火大会の日だって予定より遅いくらいだし、お父さんはアディショナルタイムなんてくれない。次の日には行かなくちゃいけないだろう。
その日がとても怖かった。先輩と会えなくなるくらいなら、花火大会なんてなくなればいいのに。
でも、こんな妄想、叶わないって分かってる。結局、こういう夢物語を抱いてる時点で、私、まだまだ子供なんだ。
私は汗だくになった身体を脱衣所まで運ぶ。身体に溜まった重だるさと生ぬるい期待みたいな何かを、早く拭い去ってしまいたかった。
親がいない夜は少し不安だけど、お風呂の順番だったり、冷蔵庫を開けるタイミングだったり、そういう些細なことを気にしないでいいのはありかたい。他の人にとっては“どうでもいいこと“かもしれないけど、私にとってそれは、神経を使う、非常に疲れの溜まる作業だった。
脱衣所の引き戸も閉めずに、カッターシャツを
そういえばこんなもの拾ったな。先輩の襲来のせいですっかり忘れていた。明るい電灯の下で見ると、その装飾は、教科書で見る美術品と同じくらい繊細で、とても凝っていた。真ん中の染みはそのままだけど、その奥にはしっかりと、不安そうな顔をした私が映っていた。自分でもびっくりするくらい、泣き出しそうな子供のように情けない顔をしていた。確かに夏樹先輩も心配になるわけだ。
とりあえず、このままでいてもどうしようもないので、鏡を持ってバスルームに入った。シャワーを浴びて体を覆う気持ち悪い汚れを落としつつ、水道のコックを回してバスタブにお湯を溜めた。どうせ後ろに待っている人なんていないんだから、今日は半身浴でもしよう。シャワーを浴びるのは苦手だけど、バスタブのお湯に浸かっているのは好き。だって到底邪魔されることがない、自分だけの世界に入れるから。ここは私だけの孤城。誰も立ち入ることが許されない、最後の砦。
五階の部屋だから、窓をほんのちょっとだけ開けて、氷が入った炭酸水のグラスなんか持ってきちゃって、あったかいお湯の中でのびのびと足を自由にした。こんなに暑い夏だって、やっぱりお風呂は気持ちいい。同じ暑さでも、高い気温とお風呂の湯気じゃ全然違うのはどうしてなんだろう。気温は私の体力を容赦なく奪うけど、お風呂はくしゃくしゃに縮んで凝り固まった身体をゆっくりとほぐしてくれる。だから、ここに来て、暑い季節の海が綺麗なことを知るまで、夏は嫌いだった。
しばらくお風呂を楽しんだ後、
既に、かつ、まだ、転校までは二週間。私にとってその期間は酷く短いけれど、皆に伝えるには早すぎる。お別れ会なんて催された暁には、二度とここを出る気になんてなれないだろうから、先輩はともかく、ほかの人には直前にしか伝えない。だから悟られないように、いつも通りでいないといけないのに…。こんな不安そうな表情、見せられないよ。ちょっとでも元に戻らないかな、なんて思って、鏡をお湯につけて、表面をごしごし擦る。
自分が変にから回っていることを、私は知っている。それに、いつもの転校と気持ちが違うことも。ここで大切な人を作りすぎた。それは、少し前から自分でも気づいていた。できるだけ交友関係を築かないようにして過ごしてきた、この17年間。そのときが楽しければ楽しいほど、終わりが苦しくて、でも、私はもともとそこにいなかった存在。新参者のカードが一枚、そっと抜き取られるだけ。その土地の人は、元通りの生活に戻る。苦しむのは私だけ。この気持ちは、誰もわかってはくれない。
そんなの分かってる。
でも、忘れられたくない。過去の人になりたくない。ここの人と、同じ時間を歩みたい。
こんなに簡単なこと、周りのほとんどの人ができるのに、どうして私にはできないんだろう。不幸だって言いたいわけじゃない。世の中には、私の状況よりもっと悲惨な人なんて沢山いるから。でも、私はただ、一緒にいたかった。それだけ、多くの人がかなえられるそれ、だけでよかった。
やけになって強く擦った鏡を取り出す。真ん中の黒い染みが取れて、中の錆のような赤黒い何かが露出してきた。私も鏡も何も、綺麗になんてならないじゃんか。
もやもやした気持ちのまま、バスタブから出た。栓を抜き、お湯を流す。ごぼぼぼぼ、こんな風に、なんでも簡単に流せたらな。
真っ暗な世界。上も下も右も左もない。
制服を着た私は、足元に地面の感触があるにも関わらず、それを目視することができない。不思議と、怖くはなかった。
私はすぐに、ここが夢の中だと気が付いた。こんな先の見えない暗闇を”怖くない”と思うことが、れっきとした証拠だった。
私をここに閉じ込めた”私”は、どうする気なんだろう。もしかしたら、このまま醒めないつもりかな。…それはそれで、悪くないか。
とりあえず、突っ立っていても仕方がないので、せっかく拘束されていない足を使って歩くことにした。
「わぁぁぁぁーーーーーーーーー」
歩きながらロングトーンの発声をしてみる。…音が反響しない。これは、本格的に出口とかいう概念がない場所に来てしまったのかもしれない。
閉じ込められたと言うより、閉じこもってしまった、と言うほうが正しい気がする。私自身が、内側に私を閉じ込めた。
じゃあ、ここにいて、今そう考えている私は、どんな私?閉じ込めようとした”私”が、閉じ込めたかった”わたし”。それは、どんな”わたし”?
考え込みそうになった、そのとき。
どこかからともなく、声が聞こえた。
『…ったの?』
「…え?」
『願ったの?』
よくよく注意して聞いてみると、それは、鼓膜が音をキャッチしているのではなく、頭の中で直接鳴っているような声だった。でも、私の声じゃない。細く、小さく、でも心地いい、不思議な少女の声。
ダメもとで目を凝らすけど、それらしき姿は見つけられない。ただ、何となく、近くにいると思った。触れるくらいの場所に。多分、私の一部と錯覚してしまうくらいに。
「ここはどこ?あなたは誰?」
『願いが聞こえたの。
私と同じことを願っていた。』
「え?」
願い。
…思い出せない。些細な事を含めたら、きっと相当数あるだろう。その中の何を、この声は求めているんだろう。
「ごめんなさい。それが分からないの。」
『そんなことないわ。』
「何でそれが分かるの?あなたは私の願いを知ってるの?」
『全てが終わってしまったあとでは遅い。
だから早く―――て。』
何となく、この時間はもうすぐ終わると感じていた。
視界の端に光が見える。ものすごい光量でこちらに迫ってきて、思わず目を瞑る。
その間に声は薄れていった。掠れた音が、私の頭に散っていく。
『…、………、…………。
…から、……前に、……………。』
「っ…」
疲れた。
それが、目を覚まして最初に思ったことだった。タオルケットを頭からつま先まで被っているのに、背中が汗だくになっている。髪の毛までびっしょりになっていてうんざりした。
何か大変不可解な夢を見ていた気がする。だけど、中身が思い出せない。不可解な夢がまた不可解な謎そのものになり果てていて、大変不可解だ。
ただ、これだけは言える。
”近くにいる”。手に触れるくらい、近くに。多分、私の一部と錯覚してしまうくらいに。
もっと考えたいことは沢山あったけれど、私には早急に解決しないといけない問題があった。それは、揺れるカーテンの隙間から見えた日の光が案外眩しくて、ふと目線を動かした先にあった時計が指す時刻が、部活が始まる15分前だったこと。そして、さすがに二日連続、部活をエスケープするわけにはいけないこと。
うーーーん、まずいな。
私はタオルケットを放り投げ、一思いにTシャツを脱ぎ捨てた。
「つむぎ、30分遅刻ーーー。」
ナチュラルメイクはおろか髪さえ手櫛で三十秒、ギターケースだけ引っ提げてきて、携帯を忘れたことに今気が付いたくらい、全速力で自転車を走らせてきた、とは思うんだけど。
時間の流れはまぁ残酷。特に惨めなお寝坊さんには冷酷な目を向けていらっしゃる。これに関しては、弁明の余地はないので、私は素直に頭を下げた。
「ごめん…昨日も。」
目の前のバンドメンバー、シオンは腕組みをほどくと、短い髪の中に手を突っ込んで、そっとため息をついた。
「ほんとだよ…遅刻だけならまだしも、昨日はメッセージの返信もしなかったじゃん。こんな大変な時期に…心配したんだから。」
軽音部では彼女が部長であることも手伝って(ちなみに二年の部員は私とシオンの二人だけ。私には到底任せきれないということで、珍しく、上級生からじきじきに彼女の部長就任が命じられた。…それもそっか。)、こういうときに言葉がきつくなるけれど、本心ではとてもこちらを案じているのが常だ。いつもふらふらしている私を、正常な位置に戻してくれるシオンがいたからこそ、今もなんとか音楽を続けられている。
「ごめん…ありがと。」
反省してもう一度謝ると、眉根を顰めていた彼女は、ようやく笑ってくれた。すらりとしたプロポーションのシオンが笑うと、周囲が華やぐ。さすが、ライブには他校の親衛隊が駆けつけるマドンナだ。この超インターネット時代に、ブロマイドが出回っているとか。
「早くやるよ‼今年はサポートじゃなくて対バンなんだから…、
しかも新体制初の。気合いれないとね。」
そう言って振り返ったシオンの視線の先には、暑さにやられてぐてっとしている一年生が、部室の角っこの日陰で座り込んでいた。…わかる。一年目の洗礼、重い楽器を持って灼熱の中で演奏することの辛さを知る。私も去年はそうだったなぁ。
対してシオンは汗一つかいていなくて、ドラムの上に置いたスティックを持ち直すと、片方を指だけでぐるんぐるんと回して、先生みたいに言った。
「ようやくのんびり屋のボーカルさんも来てくれたんだからね!!
合わせるよーーー」
じとっとした視線がこちらに向けられる。私、なんの反論もなく、足を揃えて敬礼。ハードケースを開き、相棒を日の元に連れ出した。
カン、カン、カンカンカンカン。
スティックが打ち鳴らされて、合図が終わった瞬間に、シオンのドラム、1年ちゃんのキーボード、1年くんのベース、そして私のギターが響き始める。去年結成した、私達のバンドのオリジナル曲だった。高校から始めた音楽だけど、先輩方の教え方がよかったせいか、演奏に不便はない。他校の同期の中では上手い方だと言ってくれる人もいる。
だけど、最近の私は、まるで調子が出ない。それは、転校が決まるずっと前からのことだった。もちろん、新しいメンバーを2人、1年生から引き抜いてきたわけだから、1年間ずっと一緒にやってきた先輩方との音楽と訳が違うのは分かっている。だけど、それ以上に、自分の中での不調が大きいように感じていた。
率直に言うと、“浮いている“んだ。3人の音、1年くんのサブボーカル、それはきちんと調和しているのに、どうしてか私の音と歌声だけがふわふわと所在なく浮き彫りになっている。一応、私はメインボーカルで、1年くんがハモリに入ってくれることもあるけど、大抵は下ハモ。主旋律は私の喉にかかっている。
1年の2人は楽器経験者だし、シオンとはずっとやってきた仲だから、3人ともきっと私の不調に気づいている。そして、花火大会の前日にある対バンが近づいた今、だんだん見て見ぬふりが出来なくなっているということも。だけど、ギリギリまで粘ろうとしてくれているのも分かる。だから私はそれに応えなければならない。分かってる、分かってるんだけど…。
《大きく咲いた花火が
君の瞳の中で輝いた》
だんだんとピッチがズレていく。それを耳で認識する度に、額に脂汗が滲む。ピックを握る手に力が籠って、音がぎとついてくる。
《火花と一緒に散って
いっそ消えてしまえばよかったのに》
身体は熱いのに口の中は乾いて、
こんなこと思っちゃいけないのに、
あぁ早く終わんないかな、なんて…
《舌の上に残ったままの
苦い気持ちと…》
「ごほっごほっ…」
閉塞感に耐えられなくなって、ついにつっかえてしまった。それと同時に演奏も止まって、何とも言えないぐったりとした空気が流れる。
「つむぎ…大丈夫?」
スティックを置いたシオンの言葉は優しくて、逆に胸が痛い。上手くいかない。最悪、声の伸びが悪くてもいいんだ。最悪、音程さえ合っていれば。音楽に合わせて声が出ればそれでいいのに。なんでそんな簡単なことも出来ないんだろう。
「今回は私が歌おうか?」
シオンの言葉に何も言えず、私はギターを提げたまま、床に座り込んだ。
今回、か。そうだね、今回はそれでいいかもしれない。きっとそっちのほうが、お客さんにいい音楽を届けることができる。『でもね、私には次回がないんだよ。』でも、でも、それは言えない。
ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ、頭が回らない。秘密は女のアクセサリーよ、なんて言葉を聞いたことがあるけれど、多すぎると自分の首を締めているようにしか思えません。
私は手の中のピックを見つめた。べっ甲に似たプラスチックの、よくある形のそれ。私はこれで、どんな音楽を奏でたいんだろう。
夏樹先輩がいた頃は、先輩の理想に着いていくだけでよかった。私の立ち位置も今のようにメインボーカルではなく、先輩とのツインボーカルで、頼れる部分も多かった。あの頃はのびのびと歌うことが出来たし、思いっきり弦を弾くことができた。
見ないふりをしてきたけど、何となく分かってる。どうして昔は、ありのままで演奏できたか。それは、責任がないからだ。セトリも、曲も、演出も、私のボーカル&ギターのポジションも、全部他人が考えたから。だから、万が一ミスがあっても、それはその人の采配ミスだって言えたから。
今思えば、なんて最悪な態度だったんだろう。だけど、その状況が私の荷を最大限降ろしてくれていたのも事実。今はたった2人の上級生で、自分のバンドから他の部内のバンドまで気を配って、曲や演奏が上手くいかなかったらできるだけアドバイスしてあげて、その上で最高のパフォーマンスをしなくちゃいけない。これが上級生がすること、十分分かってはいる。だけど、どうしてシオンには出来て、私には出来ないんだろう。
だんだん気持ちが落ち着かなくなって、部屋の壁でさえ、こちらを圧迫してくるように感じる。耐えきれなくなって、私はいきなり立ち上がると、掴みかかるように、閉まっていた窓枠を引いた。立て付けの悪いサッシがギギギと歪む嫌な音がする。驚いて、下を向いていた1年生が顔を上げた。
「つむぎ…」
心配そうなシオンの言葉が後ろから聞こえる。それを遮るつもりで、私は少し大きな声を出した。
「ごめん、調子悪いみたい…、
10分休憩で!!」
そう言っても誰もその場から動かない。私は「ちょっと飲み物買ってくるね」と足早に部室を出た。
北側に面した廊下は、部室より暗くて心なしか気温も低い。それが、妙な興奮で滾っていた心を冷ましていく。あーぁ、何やってるんだろう。あと二週間。たったそれだけしか、この人達とは会えないのに。
歌は好き。音楽も好き。シオンも、一年生も、バンドも好き。この”好き”だけで、綺麗な歌声が出たらいいのにな。
休憩は10分と言ってしまったことを多少後悔しながら、
私は無意識で一つ階段を上り、腰を入れて体重をかけながら、重い扉を開けた。
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