【4】でこぼこ
「飲み物買うって言ったならちゃんと買ってきなよ…」
青を眺めていた。
上を向いているけど、それは空じゃない。私が見えないずっとむこう側で海と繋がって、その2つを分かつ区切りはないから。
タンクの影だとしても夏の日差しは容赦なくて、私はぐったりとそこで寝転んでいた。いきなり景色が遮られたかと思うと、頬に冷たいペットボトルが当てられる。誰だか分かっていたから、そっとそれに手を添えて、目を閉じて頬ずりした。冷たくて気持ちいい。
下から見ても綺麗な脚のオンナは、はぁとさっきぶりのため息をつくと、私の顔のそばに腰を下ろした。
「まだ10分たってないよね?」
「10分たっても帰ってこないでしょ」
「かもしれない」
ここ好きだよね、とシオンは言う。神様の気まぐれみたいに吹くそよ風に、短い髪の毛が揺れる。そのたびに、無駄のない顎のラインが、焦らすようにちらちら覗いている。
「私が歌うって言ったの、怒った?」
「ううん、全然」
こう見えて繊細なマドンナは、可愛い勘違いをしていたみたい。確かにぎくっとはしたけれど、怒ってるわけがない。むしろ、そういう選択肢もあるんだって安心した。私がいなくなっても、きっとこのバンドは大丈夫。元々私がいなかったみたいに、ちゃんと完成することができる。
案外、素直に笑うことができた。心配そうに眉を下げるシオンと目が合う。
「大丈夫だよ」
何も考えないまま、口先に昇ってきた言葉を呟いた。シオンが返事をしてくれないから、それはぽろんと屋上のアスファルトを転がって、行き場を失う。
どうしてこんなに不安そうな顔をするんだろう。しっかり者で通ってるくせに、シオンはたまに、迷子の子供のように頼りない表情を見せる。今回は特にそれが顕著で、まるで泣き出す2秒前みたいに唇を噛みしめていた。
「そんな顔しないの。可愛いお顔が台無しだよ。」
「ねぇ」
「なに隠してるの」
冷たく言われて、ようやく気が付く。シオンは不安に思ってるわけじゃない。怒ってるんだ。
頭の回りはいいし、長年の勘が働いているのかもしれない。このオンナは、私の核心を容赦なく突いてきた。全く、手加減なしだな。
寝転がったまま、首元でペットボトルの蓋を切る。飲もうとして傾けると、当たり前のようにオレンジジュースが降り注いできた。びちゃびちゃびちゃ、と気持ちがいいくらい、カッターシャツがジュースまみれになる。
「わ、」
慌てて立て直すけど、髪の毛はすっかりびしょ濡れになってしまった。
「あぁー、やっちゃった。ねぇ、ハンカチ貸してくれない?」
「誤魔化さないでよ」
顔面にしわ一つないハンカチが落とされる。その向こう、シオンの顔が見えなくなる。
「私には話してくれないの?」
もっと罵られる覚悟だったのに、言葉はそれでおしまいだった。さっきと同じように、それは放り出されたまま、誰のものでもなくなる。これが正しい向き合い方じゃないのは分かってる。だけど、ここで返事をしてしまったら、私の覚悟が消えてしまう。引き留めてほしくない、引き留められたくない。どうせここは、私がいなくなってもやっていけるんだから、余計に、無駄な心配をかけたくなかった。
「うわぁ、べちょべちょ」
しばらくハンカチでどうにかならないかと格闘していたけど、オレンジ色の染みを叩くほどそれは滲んで広がっていく。半身を起こすと、胸からお腹へ、気持ち悪い感触が広がっていった。
「あぁぁ、何してんの」
諦めたように口をきいたシオンには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ごめん。でも、不器用な私には、”さよなら”の模範解答が分からない。
「甘くなっちゃった」
カッターシャツの襟をつまんで、そっと唇で
「こら、汚いよ」
そう言ってシオンは立ち上がって、出口に足を向ける。そのまま本気で置いて行かれそうになったので、後ろを追いかけると、その足音で気付かれた。
「そこで待ってて。何か着替え探してくるから」
背中を向けたまま、シオンは私と目を合わせない。やっぱり、怒らせたかな。
「はぁい」
「色々すごいことになってるから、人前に出ないようにね」
淡白に言うと、シオンは屋上の重い扉を開けて、元の場所に戻っていった。
ギイィ、バッッタン。
シオンは、とても良い人だ。
綺麗だし、頭もいいし、どんな楽器も自分の一部のように扱う。そのうえこんな私とずっと一緒にいてくれて、軽口も、本気の議論も、何でも付き合ってくれる。きっとシオンがいなかったら、バンドはこんなに長続きしなかった。
でも、だからこそ今、扉が閉まったとき、私とシオンが繋がる道にも、同じように大きい壁が立ちふさがった気がした。この壁を置いたのは、シオンじゃない。他でもない私だ。私がシオンを拒絶した。シオンがあっためようとした私の心を、自分で凍らせた。
夏樹先輩には言えること、シオンには言えないこと。シオンは良い人だけど、私の目には、あまりさぼり方を知らないように見えている。きっと私がひとたび後ろ髪を引かれるようなことを言ったら、それが無意識であったとしても、それをひとりで抱えこんでしまうに違いない。だって、もうそこに私はいないから。同級生のいない部室で、シオンは大丈夫な顔をしながら、ずっと孤独でいないといけない。そんなこと、させたくないよ。せめて、私がどう思っていたのか、知らないでいてほしい。”つむぎも案外悲しくなかったのかもよ”と、笑い話にできる余地を残してあげたい。
だから、ごめんね。
全身に広がったオレンジジュースが気持ち悪い。ほてった身体の奥を、間違った方法で冷たくしてくる。太陽にさらされているせいで、髪の毛についたジュースは、ちょっとべたべたしてきていた。あーぁ、上手く、いかないな。
もう一度アスファルトに寝転ぶ。そこにもジュースが広がっていたけど、お構いなしに腕を広げた。
青を見る。際限のない、どこまでも続く青。どこかで繋がっている空と海。でも、それはここからどれくらい遠いんだろう。本当に繋がっているのか、分からないくらい遠いところで繋がっているのは、”繋がっていない”ことと何が違うのか。
分かんないよ、ねぇ。
「ちょっとぉ、これだいぶやばいよー」
シオンは私の髪の毛に櫛を入れようとして、突き刺さったまま動かなくなったのを持ち上げて、こちらに見せてきた。肩から下の毛先15㎝くらいにはべっとりと砂糖と分離し始めたジューズがこびりついている。
さすがの私もちょっと反省してる。別に髪に大したこだわりはない。それより、また部活の練習を止めてしまったことに罪悪感を感じていた。
あのあと、シオンがシャツを持って屋上に上がってきたときに起き上がろうとすると、髪の毛がアスファルトに貼りついていることに気が付いた。何となくやばい、と思って手櫛を通そうとしたけど、少しも動かない。
「ね、シオン…」
「なに、」
私が着替えていると思って、シオンは後ろを向いたまま返事をした。案の定、ぎくしゃくした空気が流れる。こんなときに言うことじゃないのは重々承知だけど…
「ごめん、」
「なにが、」
「髪の毛、やばいかも」
「はぁ?」
拍子抜けした声が響く。あっという間にシオンの方に身体を向けさせられ、髪を手に取られる。毛先を何本かつまむように動かした指は、右側に流していた束を全て持ち上げてしまった。
「えぇ…」
困惑した様子で、ウエットティッシュやら櫛やらをバッグから取り出し、色々手を焼いてくれた。幼稚園児みたいにされるがままになっていたら、「お金取るよ」と脅されたので、私も左側の束を手に取る。
服は着替えてしまえばよかったけど、髪の毛はどうしようもなかった。水にさらしてみたけど、ちょっと柔らかくなったくらいで、大した効果はない。
そのまま10分も経ってしまった。時間がない、でも綺麗になる兆しもない。むしろ責任が多いシオンの方が落ち着いているくらいあって、だんだん投げやりな気持ちになってるこっちが変に思えてくる。さっきまでまかせっきりにしていたくせに、なぜか今、”早く部活に戻らなきゃ”と思っている自分がいる。そんな私の隣で、シオンはぶちぶち言いながらも、一本一本塊から毛先を剝がしてくれていた。私、何でこの人にこんなことやらせてるんだろ。こんな時間、シオンには必要ないのに。
どうせこのままやり続けても綺麗にはならなくて、家に帰るまでこのままだろう。ならもう、いいかな。
「シオンーーー」
「なに?」
「筆箱貸してくれない?」
筆箱…?と怪訝な顔をしたけれど、シオンはカバンの中から筆箱を取り出し、こちらに渡してくれた。
「何するの?」
「いんやぁ…」
適当に返しつつ、筆箱のジッパーを引いて、中を探る。カバンの中にウエットティッシュや櫛が入ってるくらいだから、きっとあれもあるはず。見やすいノートなんだろうなと分かるたくさんのステーショナリーをかき分けると、それは底に静かに横たわってこちらを見ていた。咎められると面倒なので、私はそれを手に取ると、さっとケースから引き抜き、髪の毛に当てた。
「ちょちょちょちょちょっ‼‼‼」
案の定、シオンが声を上げる。私は伸ばされた手を避けるように体重を後ろにかけて、指に力をこめた。
じゃきん。
べたべたした気持ち悪い感触が切り離され、少しだけ重心が傾く。軽いはずなのに、当たり前にあったものがなくなっただけで、違和感を覚える。唖然としたシオンが目を見開いて動けなくなってる間に、さくっと逆側にも同じことをした。平等に軽くなったおかげで、その軽さは案外簡単に体に馴染んだ。役目を終えた細いハサミを置いて、不器用にがたついた切れ目を撫でる。
「よし」
「え、ちょ」
シオンはびっくりして見開いた目のまま、私のものではなくなった、べたべたの髪を手に取る。
「なにしてんの、」
「いやぁ、埒が明かないから…」
「ねぇ待ってよ、つむぎ、」
どこにも逃げようなんてしていないのに、ふいにシオンは私の右手を掴むと、自分の方に引き寄せた。その力がとても強くて、思わず抵抗して腕を動かす。それでも離さず、むしろもっとそちらに引き寄せられた。動揺してしまった私に、シオンは声を上げる。縋るような、か細い声だった。
「ねぇ、やっぱりおかしいよ。
つむぎ、いつもと違う。」
「そんなことない…」
「そんなことなくないでしょっ」
どうして、そんなに泣きそうな顔をするんだろ。私、別に切ったこと、ショックに思ってないのに。どうしてシオンの方が衝撃を受けてるの。
言いたい言葉は沢山あるのに、変なしこりが喉に詰まって、声が出ない。
「ねぇ、私には話せないの?」
切実な、優しい言葉。
それに返す、優しい言葉が、私の中から出てこない。
しばらく、私達はそこを動けなかった。
ふいに風が吹いて、色んなものをさらっていく。
切り落とした髪、蓋が開いたままのペットボトル、シオンのスカート、肩に触れる新しい毛先。
色んなものが、私達を置いてけぼりにしていく。
それでも、私達はそこを動けなかった。
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