【5】「君自身、どうしたい?」

「すいません、今日、予約してないんですけど…」

「はぁ、それはちょっと…って、つむぎちゃんか。

こんな暑いのに、フードなんて被って………」

「…あは、」

「なっ、え…これ、誰が?」

「自分で切ったんです。

気分でやっちゃったんですけど、毛先、揃えてもらえないかなって…

いや、無理なら全然、」

「…いいよ。何か、あったんだろ?」

「…ごめんなさい。」




見慣れた四角い鏡の中に映る、見慣れない私。ざんばらになって、無作法な印象を与える汚い毛先が、肩につかないところで揺れている。ぶっつりと切り落としたところで、それより上にも固まったジュースはこびりついていた。学校からここまで、フードを被ってきたから、粘着質な部分に細かい毛がくっついて、使い古された毛布みたいになっている。そしてその下には、疲れてるのか、悲しいのか、それとも他に思っていることがあるのか、わからない私の顔があった。鏡の中の私は、本物の私であるはずなのに、どうしてそんなにうつろな目をしているのか、全然わからなかった。

ここは、ミユキさんという(たぶん)30代の男性が一人で経営している、小さな美容室。ミユキさんは大人になってからここへ越してきた、私と同じ”よそ者”だった(と言っても、ここへ引っ越してきてから、10年以上経っているそうだけど)。そのせいか、お客さんはあまりとらないし、『予約がないと切れないからね』ということも初めから言われていた。その条件を飲んだ人だけが、ここに通い続けている。だから、本当なら今日、ここに来てはいけなかった。でも、初対面の人と話すのはただでさえ緊張するのに、こんな罰ゲーム後のような頭を見せるなんて、とてもできないと思っていたら、勝手に足がペダルを漕いで、ここに来ていた。拒否されても仕方ない、と覚悟を決めていたのに、ミユキさんは椅子を勧めてくれた。


たった二つしか椅子がない店内には、髪が一本も落ちていなくて、綺麗に掃除をしたあとだったのが伺えた。ごめんなさい、と薄っぺらい気持ちを免罪符のように積み重ねながら椅子に座る。普段なら、すぐにクロスがかけられるのに、今日は後ろで人が動く気配さえなかった。

「ミユキさん…?」

不安になって後ろを振り向く。ちょうどそのタイミングで、奥のプライベートルームから出てきたミユキさんが、おぼんの上に細長いグラスを置いて、こちらへやってきた。

「まぁ、時間はたっぷりあるんだし」

そう言って鏡台の上にそれを置き、「ほら、外暑かっただろ」と飲み物を勧めてくる。生絞りオレンジジュース。わざわざ取り寄せたのを絞ったから、絶対美味いよ。遠くで聞こえる声に促されるように、氷で汗をかいたグラスを手に取り、ストローでこくりと飲み込んだ。少し残った果肉と共に、みずみずしい甘さが広がる。

そういえばシオンが買ってきてくれたのもオレンジジュースだった。どんな味なのかもわからないままだったな。後悔に似た後味の悪さが舌に残る。私、間違ってたのかな…。

思わずグラスを両手で握りしめる。そんな私を見て、ようやくミユキさんは、後ろの椅子に座った。そして慎重に私の髪を手に取り、優しく撫でる。私の髪の毛は、どうやら私以外のたくさんの人に愛されているらしい。


「で、どうしたの、これ」

固まったジュースを指で摘みながら、ミユキさんはため息をつくように言う。そういえばここに来て、ミユキさんが面倒を見てくれるようになってから、髪を伸ばし始めたんだっけ。

「…寝転がってオレンジジュースを開けたら、こぼしちゃって。

外で、周りに水もなかったし、まぁいっかと思って、自分で切っちゃいました。」

はは、と軽い感じでミユキさんは笑う。

「こぼれちゃったんじゃなくて、こぼしたんだろ?

つむぎちゃん、天然だけど不用意なことはしないタイプだし。」

天然かどうかは知らないけど、それ以外に関してはノーコメント。口をつぐんだ私を鏡越しに見て、ミユキさんはごく自然に言った。


「何があったんだ?」


「…」

何から話せばいいのか、全然わからない。ふたつも、みっつも混ざり合った気持ちは、簡単には言い表せない。黙ってしまった私にミユキさんは、手、通すよと言ってクロスを着け始める。しばらく、ナイロンの擦れるかしゅかしゅという音だけが響いていた。

「…多かれ少なかれ、俺にもそんな時代があったなぁ。」

「え?」

ちょっと顔を上げたら、鏡越しにミユキさんと目が合った。ほんのり微笑した表情に、私はいつも違和感を覚える。この街に住む人は、大抵裏表がない。くだらないことで気持ちをオブラートに包んだり、隠したりすることがない。でも、ミユキさんは違う。日に焼けて褐色になった肌から感じる元気なイメージとは離れた、繊細で絡み合った何かをちらつかせることがある。多分、その理由は、ミユキさんがここで育った人ではないからだと思う。そして、同じような境遇の私にも、似たようなところがあるのを、この人はきっと感じ取っている。だから、私の前ではそんな顔をするんだろう。いや、してしまうんだろう。


「他人にとってはくだらないこと。

でも、俺達にとっては、酷く劇的で心をゆすって、ときには壊してしまうもの。」


顎髭を撫でながら、ミユキさんは窓を見る。その視線を追った。漆黒の瞳が、向こうにある海の光と触れて、少年のように揺れ動く、その様を。




「嘘を、ついたんです。」

口から出たのは、そんな言葉だった。他にもたくさん要素があったはずなのに、一言で説明しようとすると、こんな形にしかならなかった。

「『大丈夫?』って、聞いてくれたんです。

でも『助けて』言えなかった。その人を、巻き込みたくなかったから。

でも、今思えば、それは自分のためだったのかもしれません。自分の弱味を見せること、自分の弱さを自覚することを、したくなかったから。」

言ってしまえば、それが全てに思えた。私は、向き合いたくないだけ。“寂しい“という自分の思いにも、新たな土地でここを恋しく思う未来にも、“行きたくない“という自分のエゴにも。

でも、そんなことより、私に刺さっているのは。

「もうひとりの、大事な人には言えたんです。

同じくらい、大切に思ってるふたりなのに、そこで私は区別をつけてしまったんです。自分がどうしてそうしたのか分かりません。何が基準なのかも。

最近、自分のことが分からないんです。何か行動を起こした後に、『まずかったな』って気づくんです。まるで心と体がばらばらになったみたい。

嘘をついた理由は?区別をつけた理由は?ジュースを被ったのは、注意を逸らすためですけど…。ただ、何をしても、最後には後味の悪さだけが残ってます。」

そう、後味が悪くて、後ろめたくて仕方がないんだ。傍から見れば、最近の私は、極めて非合理的な印象だろうし、右往左往してて、全体的に何がしたいのかわからない風に見えているだろう。でも、私自身が何を思っているのか、全然わからないから、どうしようもないんだ。どうしてシオンには言えなかったの?夏樹先輩には言えたの?昔の私なら、”やってしまったことは仕方がない”って、さっさと水に流せてたのに…。


「大人になったらさ、自由になれると思ってる?」

「え?」


ミユキさんが呟いたのは、ちょっとトゲが見え隠れする、そんな言葉だった。

私は、自由になるために大人になろうとしている。それを疑ったことなんて、一度たりともなかった。自由な時間、自由に使えるお金、自由に選択できる環境。そんなものを求めて、やりたくない勉強をして、聞きたくない大人の言うことを飲み込んでいるのが今だ。

下を向いていた顔を上げると、にっこり笑ったミユキさんと目が合った。それはまるで、駄々っ子をあやすような雰囲気で、思わず眉を顰める。


「どうして、ですか。」

「大人になったら、

確かに、自由に使えるお金が手に入るかもしれない。

でも、それは、自分の時間を仕事に充てて、対価を差し出して得たものだ。

確かに、自由に選択して得た仕事をしているのかもしれない。それなら、仕事をしている時間でさえ、自分の自由な時間として楽しめるかもしれない。

でも、それは、誰かから課せられた枠を奪い合ったあとに決まること。実際、自分が望んだ職業に就けること、その憧れが未来永劫変わらないことなんてあり得ると思う?」

「…。」

「結局、自由になったところで、生きてくためには稼がないといけないし、稼ぐためには時間を使わないといけない。”自由”という環境が、いつかは自分を縛り付けるようになるんだ。」


「…ミユキさんは、自由じゃないんですか。」

それまでの話に、私は妙な納得を覚えていた。小学生のときは『中学生になったらね。』、中学生のときは『高校生になったらね。』、高校生のときは『大学生になったらね。』。私の親は、適齢になって、その約束を破ることはあんまりなかった(転校だらけの生活を後ろめたく思っていたのかもしれない)。だけど、できなかったことができるようになるたびに、それを続けるための努力を強いられている気がする。歌も、音楽もそう。最初は、ただ声をがむしゃらに張り上げるだけであんなに楽しかったのに、今は、その声を当然のように求められる環境にいるせいで、少しの不調も大罪に思えてくる。誘われたとはいえ、結局は自分で選んだのに。

でも、ミユキさんもおんなじ思いを抱いているのか、疑問に思った。ミユキさんは、子供の私からしても、好きな仕事でお客さんを少しだけとって、趣味に時間を沢山かけて、満たされているように見える。そんな人でも、”自由じゃない”って思うことがあるのかな。


「俺はね、自由だよ。

だけど、つむぎちゃん達の年頃にその価値を分かってなかったからね。

大人になってから、無理やりもぎ取ったんだ。」

「え?」

「それまで大事にしてきたものを、全部捨ててきたんだ。

学歴だって年収だってそこそこにあったさ。だけど、あるときそれが全部、自分をがんじがらめにしてる気がして、きつくて仕方がなくなって、自由の本当の意味も知らないくせに、自由になりたいってそれだけしか考えられなくなって、

すべてが関係なく過ごせるここへ逃げるように越してきたんだよ。

でもね、学歴は、自分が頑張ったことより親が環境を用意してくれた要素が大きいし、その延長線上にある年収だってそうだ。仕事だって途中で投げ捨てたも同然だし、その処理をしなくちゃいけなかった顔見知りだっていたはず。

だから、ここで自由を手に入れたとしても、いつまでも後悔は消えないんだよ。もう戻れない過去で、『もう少しやりようがあったんじゃないか』っていう、

”後味の悪さ”がさ。」


ミユキさんは偶然か故意か、私と同じ言葉を使った。でも、そういう風にしてみせたおかげで、その話は、まるで私のものだったかのように、ひっかかりなく染みていった。

『もう少しやりようがあったんじゃないか』。

シオンに対する態度で、私は自分に、ずっとそう言いたかったのかもしれない。私もシオンも、お互い、もう少し傷つかないでいられる方法があったんじゃないのかな。そして、多分私は、その中身に気づいてるんじゃないのかな。


「俺はね、つむぎちゃんにおんなじ思いを抱いてほしくない。

だから、昔の俺に足りなかったものを教えてあげるよ。」

ミユキさんはずっとせわしなく動いていた手を止めて、口の中で転がすように、その言葉を呟いた。その声は本当に小さくて、よく耳を澄まさないと聞こえなかったと思う。もしかしたら、自分に向けて言っていたのかもしれない。


「結局は自分自身がどうしたいかなんだ。

そして、それをどれだけ正確に、自分自身が見抜けるかなんだ。」


「制限付きの、それでいてこの上ない自由が与えられた時代に、

どれだけ自分が正直に向き合えるか、

そんなくだらないことが、将来を決めているような、そんな気がするんだ。」


そして最後は鏡越しに私の視線を射止めて言った。子供の、純粋が故の弱さを消した、大人の、何かを常に噛みしめながら生き抜く強さを纏った瞳が、存分に私に問いかける。




「で、結局つむぎちゃん自身は、どうしたい?」





シオンには、転校することを伝えない。

その決断は、誰を守るためのもの?


夏樹先輩には、その事実を伝える。

それは、本当に先輩のことを考えて言ったの?

本当は、自分の苦しさに気づいてほしかったんじゃないの?


お世話になった人、タクミ先輩は?伝えないことが、本当に正しいの?


それって、自分のため、じゃないの?


でも、それで本当に、

私自身、後悔がないと言い切れるの?


「多少矛盾があったって、こんなときくらい、正直な気持ちなら、自分勝手でもいいと思うんだ。手遅れになる前であれば、何度だってやり直せばいい。」


それ戻せる?と言われて、あわててずっと握りしめたままのグラスを置く。前を向くと、鏡に映った自分と目が合った。

眉が下がって、唇を噛みしめた、すごく情けない顔をしている。でも、さっきと違って、自分が何を思っているかは分かる。私は―――


「つむぎちゃんは、どうしたい?」


鏡の中のミユキさんが、ハサミを持ってシャキンと鳴らす。髪の毛についた固形のジュースは、いつの間にか綺麗に取れていた。






「うん、似合ってるよ。」

「ありがとうございます。お会計、お願いします。」

「…いいよ、餞別ってことで。」

「いや、それはさすがに…あっ」

「何か落としたよ。…なにこれ?」

「昨日、崖のところで拾ったんです。」

「崖って、あの城があったところ?」

「はい。綺麗なので、持って帰ってきちゃいました。」

「…へぇー。って、本当にお代は大丈夫だから。

これくらいで食いっぱぐれたりしないから。」

「えぇ…じゃあ、これだけでも。」

「…チケット?」

「来週の土曜日です。ラストライブなので、ぜひ。」

「おぉー。ありがたく頂戴します。」

「ふふ。はい。」

「じゃあ、また。」

「ありがとうございました。」









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