【6】消毒液

『願いは、思い出せた?』




真っ暗な世界で、私はその声を聞いた。また、同じ夢だ。

でも、前回より、。内側の奥、生暖かい、私でも気が付かない所に。



「ううん。思い出せない。」


『早くしないと、—と同じ―――、あなたの―――——————。』


「あなたは誰?私の願いを知ってどうするの?」


『私は―――。あなたの願いと―――――――――。』




あぁまた、この前と同じように、光が近づいてくる。もうすぐ夜が明ける。

…いや、違う。あれは…人だ。…私、あの人、知ってる。確信さえある。

…でも、思い出せない―――。





「はあっ」

身体の中を突き抜くような衝撃で、私は目を覚ました。まただ。この前も同じような夢を見ていた気がする。すごく印象的だったはずなのに、どうしてか、まったく内容が思い出せない。その記憶がある場所だけぽっかりと穴が開いているようで、強い違和感を感じていた。

夜中、ずっと開けっ放しにしていた窓から風が吹いてきて、肩の上の髪の毛を攫う。この長さになってから、多少なりとも時間は経ったのに、全然慣れない。私は首筋をなぞりながら、カーテンを引いて外を見た。

「わ、」

そこから見えた景色はちょっとした感動モノで、思わず息をのんだ。


朝日が昇ってきていた。水平線を突き上げるように太陽が顔を出すと、それを合図にしたかのように、あの崖の方から、鳥が群れになって一斉に飛び立つ。数匹だけが高く声を上げると、地面の下の方から巻き上げるように風が吹いて、鳥達の後を追った。街中が朝の光を浴びて、黄金色に輝いている。それを伝えているのは、鳥と風だろうか。

ノーズリーブのワンピース一枚で、光と風を受け止める。深く息を吸い込むと、ちょっと湿った夏の匂いがした。体中の眠っていた歯車が、がっちんがっちんと綺麗に嵌り、動き出す。自然の力を分けてもらったのかもしれない。

あの人も、これを見ていたらいいな。何も考えず、私は携帯を手に取って、気が付いたら電話をかけていた。




ーーー、ーーー、ー…、




「…はよ。…どした?」

掠れた低い声。この電話で起きたのかもしれない。布団を手繰り寄せたのか、しゅるしゅると軽い音が聞こえていた。


「…先輩。」

「ん?」

「外、見えますか?」

「そと…」

携帯の向こうで床を素足が踏みしめる音と、カーテンを開ける音がしたあと、ほんの少しだけ息を飲んだ気配がした。

「…見えるよ。」

「私…ここに来て、初めて知ったことが、沢山あります…。」

けだるいだけが朝ではないこと。結局は人間じゃなくて、自然が世界を動かしていること。それを感じ合える仲間がいるととても楽しいこと。そして、仲間とは別に大切な人ができること。

「私、夏樹先輩に伝えたいことがありました。

”ずっと言いたかった”ってことに、ついこの前、気が付きました。」

「…ん。」

「明日の、ステージの上から、届けていいですか?」

「…はは、」


向こうで衣擦れの音がする。携帯を持ち替えたのか、先輩の息遣いが、さっきより間近で聞こえた。次の言葉を待っていると、ふいにとんとん、とマイクを爪で叩く音が響く。


「ここ。

これくらい近くで聞かせて。」


「っ」

思わず携帯を耳から離す。鏡を見なくても分かる。私今、絶対に真っ赤だ。…何で一歳しか変わらないのに、この人は恥ずかしげもなくそんなことができるの…。また、息だけでふっと笑う声が聞こえて、余計に体が硬くなった。


「ま、でも、どれだけ遠くても、俺には聞こえるから。」


携帯を離してしまったせいで、小さな音でしか聞こえなかった。でもしっかり理解できた。私はゆっくり携帯を耳元に戻して、しっかりと噛みしめて言った。

「はい。」


「じゃあ俺が言いたいことは、その次の日に。」


…つくづく上手うわてな先輩だ。でも、私はその気持ちに気づいたから、戸惑うことはあっても、分からなくて悩むことは、もうない。


「はい。約束、です。」

「約束。」


先輩の目にも、空が同じ色に見えていたらいい。いや、きっと見ている。だからこの気持ちは、鳥が運んで、ちゃんと先輩の元に届いてるはず。

通話が終わった携帯を持ち直して、数個、メッセージを送る。あと二人、大事な人へ宛てたものだった。明日、明後日に自分を進めるために、今日を後悔のない日にして、後腐れない気持ちでいよう。私は大きく息を吸い込むと、立ち上がり、洗面所へ向かった。











いつもと同じように、海沿いの道を自転車で駆け抜けていく。今日もすがすがしいまでに晴天で、とても暑かった。制服の紐リボンを緩め、第二ボタンまで外してしまう。そうでもしないと、息が続かない気がした。あっという間に時は過ぎて、お盆前の夏期講座は終わってしまったから、今、私の背中にあるのはギターケースだけだ。つまるところ、私に許された時間は、明日のライブ、明後日の花火大会、ということだ。明々後日には、この街を出ていかなくてはならない。


私が髪の毛を切り落としたあの日から、シオンは一度も部活に顔を出さなかった。夏期講座も休み続けて、完全に雲隠れしている。シオンは他のバンドも含めた軽音部の部長だから、沢山の人が困惑していた。きっと私が休んでも、ここまで大事おおごとにはならないと思う。それくらい、シオンにはしっかり者の雰囲気があったから、皆にはかなりの衝撃だったみたい。何も知らないうちのバンドの一年生は、ただならぬ気配を肌で感じたらしく、何も聞いてこないまま、ドラムがいない練習を二週間近く続けていた。私も何を説明するべきか分からなくて、とりあえず楽器を弾いている、という状態だった。その間に、私は何回も連絡をした。どうしても、顔を見て話したかった。あのとき、シオンのペースを乱してしまったのは分かっていたから、できるだけ、無理矢理部屋から引きずり出すようなことはしたくなくて、ずっと待っていた。正直、ドラムがない練習はきつかった。私の声も、何とかリズムを捕まえて音に乗せる段階まではできるようになったけど、きっと、完全に復活するためには、あのドラムがないと無理だと思う。

先輩方が引退してから、ずっと続いていた不調の理由も、シオンに言えなかった理由も、傷つけてしまった理由も、私の中で、全て答えは出た。あとはもう、それを伝えるだけだった。でも、それはひとりじゃできない。シオンがいて、初めてできることだから、ハードルは高かった。それに、前日くらい音合わせをしておかないと、本番でミスをする可能性が出てくる。学生バンドだからそれも一興なのかもしれないけど、私達は大トリを任されていた。前年までの先輩方と作り上げたキャリアが試されていると言っても過言ではない。私は明日限りでお終いだけど、これは皆がこれからバンドを続けていくにあたって、とても重要なステージになることに違いはなかった。


また、あの日と同じ分かれ道に差し掛かる。まっすぐ進めば学校で、右に逸れたら上り坂。あのときに拾った鏡は、いつの間にか愛着がわいていて、今日もスカートのポケットに入れてきていた。もう、あの日みたいに悩んだりしない。私は迷いなく体重をかけて、まっすぐ進もうとした。


ヴー、ヴー。


ちょうどそのタイミングで、鏡が入った方とは逆のポケットが波打つ。携帯がバイブレーションを起動させていた。画面の方を見ると、そこにはメッセージアプリのアイコンと、そっけないひとこと。




”今日行くから”




シオンからだった。

ずっと待っていたのに、なぜだかちょっと恐れている自分がいた。シオンが私を受け入れてくれるのか、すごく怖い。会えない間に、何度も私がシオンにしたことを自分に置き換えて、余計に絶望していた。それほどに傷つくことをしてしまった、その事実に震えることしかできなかった。

でも、もうどうしようもない。私に残された時間は少ないし、その間にできることも限られている。それなら、私自身がどうしたいか、それだけを頼りに進むしかない。

携帯を丁寧にしまうと、気合を入れるために、大きく足を踏み入れた。その瞬間、力の入れすぎで上半身がバランスを崩し、自転車ごと横に倒れる。

がっしゃーーーん。…小学生ぶりの、大落馬だった。

「いっ……っったっ……」

全体重がのしかかって、正直めちゃくちゃ痛い。見ると、右の膝小僧が大胆に擦り剝けていた。…嫌な感じ。でも、こんなんで下向いてるわけにはいかないから…。

ハンカチで血をぬぐって、なけなしの女子力で持ち合わせていた絆創膏を貼る(そういえば、シオンからもらったものかもしれない)。そして今度こそ、ちゃんとバランスをとって、ペダルを踏み込んだ。






何となく、部室にはいない気がしていた。シオンもシオンなりに身構えて来ているだろうから、他の人がいない場所にいるだろうと思って。ここでシオンを見つけ出せるか、その時点で試されている気分だ。でも、どこにいるか、何となくわかる気がした。順序よく進まないと上手くいかない彼女のことだから、きっと、壊れてしまったあの場所から始めようとするに違いない。私はギターケースを背負ったまま、迷いなく教室を横切って、屋上に続く重い扉を引いた。

ギイィ。


日差しが強くて、瞼を開けられないほどの光が刺していた。もしかしたら、あの日以上に暑いのかもしれない。

目を凝らして探さなくたって、何となく、そこにいるだろうなと思っていた。タンクの影、屋上唯一の避暑地。

案の定、そこにマドンナは寝転んでいた。スカートから大胆にはみ出た、もともと細かった足は、二週間前と比べて、さらに一層肉がそぎ落とされて、枯れ枝のようになっている。遠目からでもはっきり分かるくらい、お腹の上で、握りしめた拳が震えていた。私も同じように、爪が食い込むくらいに掌に突き立て、その足元に歩みを進める。顎の下でぷっつりと切りそろえられた漆黒の髪の毛に包まれた顔の中で、二重瞼が、今しがた気が付いたかのように軽く痙攣して、ゆっくりと開いた。


「…ここ、こんなに暑かったんだ。」

「…うん。そうだよ、シオン。」




「髪、そんなんになったんだね。また変なけがもしてる。」

「うん。」

シオンはゆっくりと立ち上がると、二つ並んだタンクの、奥の方の梯子に寄り掛かった。それははっきりとした拒絶で、思わず追いかけようとしたけど、すんでのところで踏みとどまった。そのあとに、おまけのように髪の毛についての話をしてきた。いつもなら絶対『似合ってるね』って言ってくれるのに、今は興味がなさそうに、真下のグラウンドを眺めていた。

「シオン、」

「待って、」

無言の空間が耐えられなくて声を上げた私に対して、シオンの声は酷く冷たく、はっきりとした意思があった。逸らした視線は一瞬だけ上目遣いで私を見たけど、すぐにアスファルトへと落ちていく。腕を組んで身体をさらに固くして、まるで全身で私を受け入れないように境界線を引いているみたいだった。




「あのね、私今日は、謝りに来たわけでも、謝られに来たわけでもないの。

ただ、もうお互い、相手から自立しましょうって言いに来たの。」


じりつ。それが漢字に変換されないくらい、私は面食らっていた。まさか、絶交とか、断絶とか、そういうことをしようと言っているの?こちらが何も言えないまま、シオンは下を向いて話し続ける。


「これまで、私はずっと、友達だと思ってた。

だけど、考えてみれば、音楽を始めた時期の違いとか、経験値の差とか、色んな事が関係して、私、ずっと命令みたいなことをしていたのかもしれない、主従関係を強いていたかもしれないって気が付いたの。それは、初心者なのに、私がほとんど無理矢理誘って軽音に入れたのもあって、その責任も感じてたからなんだけど、今更何を言っても無駄だから。ボーカルの件も、役割を奪うようなことを言っちゃってごめんなさい。


でも、一年以上楽器を触ってみて、お互いの音楽性が分かった。その違いも…。

だから、これからは、私の考えを強いちゃいけないって思い直した。もう、何も知らなくて、頼らなくちゃいけない時間は、終わったよね。だから、私の勘違いも、お終い。


…これからは、バンドメンバーとしての関係だけでいよう。この前は、私に…言えない秘密があることに、ちょっと、嫉妬しちゃったの。だけど、そういうのももう、…なくすから。ただの、メンバーなら、胸の内を、全部明かす必要も…ないし。これまでより、個性をっ、大事にできるだろうから、自分の色をっ、バンドの音楽に…反映させられるとも思う。それが、最適解なんだと、思ってる。というか、それが最適解、じゃないと…困るかなっ…。」




シオンの言葉に、立ち姿に、その全てに、私は傷ついていた。自然と喉がひりついて、声が小さくなる。


「何でそんなこと、言うの…」

「別に、これが、本心っ、だからっ」

「思ってもないくせにっ‼」

「そんなこと、言われる筋合いは、ないからっ。

友達…でもないのに、」


何でそんなこと言うの、何でそんな、




「泣きながら言わないでよ、嘘だってばればれじゃん、シオンのバカ‼」




見えない境界線なんてないものと同じだ。本心で言っていない言葉なんて、言ってないものと同じだ。私はなりふり構わず、シオンの元へ駆け出した。ぎいいいいんと嫌な音がして、背中から落ちたギターケースの中で弦が震えたけど、無視した。私が一歩目を踏み出した瞬間からくずおれた身体を、めいっぱいの力で抱きしめる。こんなにだらしない私の腕の中で、しっかり者のシオンは、子供のようにめちゃくちゃに泣いていた。その体躯は、想像していたよりもずっと細くなっていた。相当気に病んでいたんだ。その事実が私の瞼まで熱っぽくさせるけど、まだ、まだ駄目だ。私には、やらなきゃいけないことが残ってる。謝らないといけないことを、言わないといけないことを、ぐちゃぐちゃになった頭から力づくで引っ張り出す。


「ごめんっ、私、どうしてもシオンに言えなかった。

私なんかのことで、シオンが傷つくのが怖かった。でもそれ以上に、言ってしまって、自分がその事実を直視するのが怖かった。

でも結果として、それがシオンを疎外して、苦しめちゃった…。友達なのに、いつもあんなに気にかけてもらってるのに、本当にごめん、ごめんっ。」


しゃくりあげて声にならないシオンの背中を何度もさする。そうしながら、あぁついに、喉元にこみ上げてきたその言葉の輪郭を確かめる。言わないといけない。そうしたらまた、終わりが近づく。…だけど、もう私は、シオンにこんな思いをさせたくない。隠すんじゃなくて、これが、本当に私がしたかったこと。やっと見つけたんだから。


「ごめんね、私…明々後日、引っ越しなんだっ…」


覚悟を決めて言ったのに、何をしたってもう覆せない決定なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。


「ごめんね、もっと早く言えばよかった…、

でも、言うたびに”さよなら”が近づくのが怖くて、

私、この街も、バンドもギターも歌も、メンバーも先輩方もシオンも、みんなみんな大好きだって気づいちゃって、

そんなのと別れるなんて、寂しくて、向き合いたくなくて、

言えなかった…ごめ、ごめんっ、自分ばっかりで、ほんとに、」




「つ、むぎっっっ」




ふいにシオンが顔を上げる。涙でぐしょぐしょになっていて、それでも様になっている彼女は、何かを言おうとして、嗚咽交じりの声を出す。そのとき、シオンの口から聞き取れたのは、私の名前だけだった。でも、その代わり、背中に手が回されて、私の身体をぎゅっと引き寄せてくれた。それだけで、十分だった。シオンは”そんなことないよ”というように、私の胸に頭を擦りつけて、何度も首を横に振る。だから私も、もっと隙間がないように、もうたったひとつの誤解も生じないように、シオンの体を抱きしめた。












「柄にもないこと、しちゃった…」

すんと鼻を鳴らして、まだ瞼が腫れたままのシオンは、そっと私の胸から顔を上げた。そしてお互い顔を見合わせて、とんでもないことになってる、と思わず笑いあった。

「泣きすぎ。」

「…ごめん、もう今日で、本当に、友達として終わらせる気だったから。」

「そんなことさせないよ。シオンには、一生友達でいてもらわないと困る。」

「そっ、か…。」

シオンがまた下を向くから、私は頬を両手で挟んで、無理矢理顔を上げさせた。…まぁた泣いてる。

「そんなに寂しい?

…さみ、しい、か……」

「当たり前でしょ…。どうしてそんな大事なこと、隠してたの…って、言ってもどうしようもないのは、分かってるけど…、

そんなに思い詰めて、辛いって思ってたなら余計、話してほしかった…。

私は確かに、強いふりをした弱い人だけど、でも、寄り添うことくらいはできるよ…。」

認めたくなかった気持ちを思い切って受け止めて、自分にもシオンにも嘘をつくのをやめたら、その分身体は軽くなった。だけど、やっぱり辛い。ここでまだバンドして、シオンと遊んで、色んなことをしたかったと、叶わない願いが頭をよぎる。一緒にいたいだけなのに、な。

「でも、黙って消えられなくて、本当に良かった…。」

「…本当に?」

「当たり前でしょ、バカ‼」


シオンの腕が、遠慮がちに私のことを抱きしめた。泣いてると、怒られても全然怖くない。でも、その悲痛な声は、何よりもずっぷりと私の胸に沈んでいった。

「”さよなら”も言えないまま、大事な人が消えて、つむぎは悔しくないの?」

「…」

なんだか私、本当に空回ってたんだなぁ。やることなすこと、全部シオンを傷つけてた。目の前で泣きながら言われて、ようやく気付くとか。これまで一体シオンの何を見てきたんだろう。

また目頭が熱くなってきて、あ、これいけないやつだとぶんぶん頭を横に振る。そして目についた、投げ出されたままのギターケースの持ち手を引っ張った。

「シオン、歌、歌って。」


「…え?」

「歌って。私、弾くから。」

涙を拭い、え?私?つむぎじゃなくて?ドラムないの?ちょっと、メインボーカルの伴奏で歌うのとか恥ずかしいよ。え?とひとりごとをこねくり回すシオンを放って、私はギターを取り出し、ペグを回して、さっきの衝撃でずれたチューニングを直す。こういう時は音楽に頼るしかない。ちょうど青空に入道雲と海、目下にグラウンドが見える屋上なんて、青春にぴったりじゃないか。

「何歌う?」

「え、やだ、本当にやるの?」

「やるよ。決まらない?ならおまかせせチャンネルからおすすめの一曲流すねー。

アンプないから小さいけど、ご愛敬で。」

「ちょ、」


最後まで慌てていたシオンだけど、前奏を聞いた瞬間、諦めたように体の力を抜いて咳払いをした。そしていつものくせで、右足を踏み鳴らし始める。そう、これだ。これがシオンの音楽だ。やっと、やっと聞けた。

…こら、泣かないんでしょ。覚悟が崩れちゃうから。どれだけ苦しくても、私は泣いちゃいけないよ。強く強く唇を噛む。

…あぁ、今日のギター、ライブじゃ使わないけど、アコギにしておけばよかった、それならもっと大きな音が出たのに。喉の奥からこみ上げる何かが、シオンに届かないようにできるのに。


《あぁ、簡単に

大人になんかなれっこない

弱虫で臆病な僕は

今年も日差しに背を向けた》


シオンの声は、平均的な女声よりちょっと低くてかっこいい、ハスキーな声だ。きっと、私の声が高かったから、『女子から一人、ボーカルを』って言われたときに『行ってきなよ』と背中を押してくれたまでだと、今でも思ってる。本当は、シオンも十分、ボーカルができるまでの実力があった。


《頬を膨らませた君の

不満そうだけど微笑んだ》


止めるつもりが、どんどん涙が止まらなくなって、ついにシオンに気づかれた。私の顔を見て、泣きながら笑って、とんとんと肩を叩く。頬を寄せたシオンの短い髪の毛が、肩を撫で続ける。あったかい。こみ上げた思いをどうすることもできなくて、大きく息を吸ったはずの最初の一音は、とんでもなく音が外れていた。


《《大きく咲いた花火が

君の瞳の中で輝いた

これまでに見た何よりも綺麗で

僕は口をつぐむしかなかった》》


シオンは自然と、男声のハモリに音を下げてくれた。これじゃ、いつも通りじゃん。でも、この”いつも通り”も、たった三日後には過去になって、私は、なかったことのようになっちゃうのかな。そんなの、嫌だよ。まだ歌っていたいよ。

ピックを握る指に力がこもるけど、音は変わらず小さなまま。相変わらずへったくそなメインに、震える下ハモが重なる。


《《本当は言いたかったことを

八重歯でぐっとすり潰した

火花と一緒に散って

いっそ消えてしまえばよかったのに》》


考えることは一緒だった。

お互いに横並びになって体重をかけあっていた私達は、そのタイミングではじかれたように向き合って、目を合わせた。

シオン。強くて弱い人。私に音楽を教えてくれた人。めんどくさがり屋の私を見捨てないでくれた人。”友達”がいる幸せをくれた人。かけがえのない親友。

寂しくて仕方ないよ。”さよなら”なんて、言いたくないよ。

だから、


《《舌の上に残ったままの

苦い気持ちと精一杯の言葉》》









嗚咽を堪えて細く絞った喉の奥から、

ずっと感じていた引っ掛かりが、すうっと溶けるように消えていく。

コンディションは絶望的だけど、確かに、全身が筒になったみたいに繋がって、心地いい解放感と共に声が出た。口元からまっすぐ空気砲を打ったみたいに、それは向こうの崖や海、空にまで反響しているような気がする。まさしく、だった。


…そっか。これが、不調の正体か。

…そっか。そっか。


「つむぎ…」

シオンは顔を上げて、こちらを見ていた。目を見開いて、何かを言おうとして言葉にならず、ただ微笑んだ。

「うん。

戻ってきた、ね。」

ずっとそうなって欲しいと思っていた。だけど、いざそれが叶うと、寂しい思いもあった。私達はきっと、絶交しなくても、“自立“しないといけないときに差し掛かってた。

私の不調は、“甘え“から来たものだから。

何かあれば先輩方が、シオンが助けてくれる。そんな思いが、私の全力を押しとどめていた。ある程度まで高めてもらった音は、今度は自分で育てていかないといけなかったんだ。シオンのいない、2週間の練習で、何となく気づいていた。今、もう一度繋がった音楽が、それを完全に示していた。


「遅くなって、ごめん」

「ふふ、色々遅いよ。遅いけど、”さよなら”の前で良かった。」


もう一度、シオンをぎゅっと抱きしめる。


これまでありがとう。

これからは自分の足で歩けるように。

でもその傍には、ずっとシオンの音があることを、忘れないように。私の“始まりの音“があることを、忘れないように。




もう泣かない、と決めたように、顔を上げた。シオンは笑っていた。眉に変な力が入って、鼻も鳴らしてるそれはほとんど泣き笑いで、完璧に前を向けたわけじゃなさそうだったけど、それでも、1つの区切りをちゃんと付けたように見えた。




まだまだ寂しい、でも、恐れて固まってるだけじゃ時間の無駄だって気づけたから。太陽を見上げて、私は腕で、1度だけ涙を拭った。




「行こ、皆が待ってる!!」




シオンの手を引く。一瞬驚いた表情をしたけど、強く握り返してくれた。




























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