【7】届けたい音
息苦しくて、私は制服の紐リボンを緩めると、第二ボタンまではずした。
やけに蒸し暑い場所に立っている。体中から汗が吹き出しそうなほどなのに、喉には全く水分が供給されなくて、その痛みに、思わず首元に手を当てた。
『だから言ったのに…っ』
どこからともなく聞こえる少女の声に、私は振り返った。どこ?あたりは誰かがぐりぐりと塗りつぶしたような、暴力的なまでの黒で覆いつくされていた。遠くから響いてくる声の主を探すには、手がかりが少なすぎる。
「あなたは誰?ここはどこ?」
『そんなことより、早く―を――て‼
もう始まってしまう。そうしたらあなたは私と同じ――を―――しまう‼』
少女は焦っているのか、こちらの話は全く聞き入れてくれない。何について話しているのかさえ教えてくれなかったら、こっちとしてもどうしようもないのに。
でも、不思議なことに、そんな態度をとられても、煽りを受けることはなかった。全てを受け入れたように、私の中身は、むしろ凪いでいた。
「ねぇ、どうして私にそんなこと言うの?」
『…同じ願いを感じたから。』
「願い?」
『そう。私はきっと、あなたの―――。
だからこそ、あなたを―――――くない…っ。
早く―を――て‼』
きっと肝心なところが聞こえていない。ときどきノイズが混じったように声が掠れて、耳に届かなくなるんだ。誰かに邪魔されてるの?
「ごめん、聞き取れない‼」
『だから―を…』
少女が同じことを繰り返したとたん、黒一色だった空間の奥から、真っ赤な何かが迫ってきた。
「いやっ」
今度こそ喉が焼け付くようにひりつく。私を取り囲んでいたのは、めらめらと燃え上がる炎だった。それはどんどん迫ってきて、止まることなく、私に向かってくる。
「助けてっ」
叫んだと同時に、炎の勢いが加速して、一気に私を飲み込んでしまう。文字通り身体を燃やされながら、私は、視界の端に、何か黒いものが落ちていくのを見た。無意識に手を伸ばしたところで、ふっと意識がなくなった。
「はあっ」
知らない間に、胸元を握りしめていた。全身がぐっしょりと湿っていて、酷い量の汗をかいていたことが分かる。ベッドの上で起き上がった私は、無意識に全身をぺたぺたと触っていた。
また、同じ夢だ。ここ最近、目を覚ますと忘れる、でも強烈な夢を何度も見ていた。いつもは”同じ夢だ”としか思い出せないそれ、だけど今日は、たった一つだけ、覚えていることがあった。
「早く…」
誰かが言っていた。何なら今も頭の中で響いてる。『早く―を――て』って…。
何だろう、いつもと違う。何か嫌な予感がする…。
「…いたっ」
両手で身体を抱きしめながらベッドを降りようとすると、右足を踏み出したと同時に、ずきっと痛みが走る。見ると、右足の膝小僧に貼っていた絆創膏が剥がれて、中の傷が露出していた。寝ている間に引っ掛けたのか、まだ血が滲んでいるところがあった。おまけに、ちょっと化膿しているかもしれない。膝を曲げるのも少しけだるいまであった。
…でも、こんなことに負けちゃいられない。私は、ベッドの横のスタンドに立てかけてある、丁寧に手入れをした愛機を見た。
ついにやってきた、ひとつの区切りをつける日。恐らく、この街で演奏できる最後の日。
正直、不安はこれ以上ないってほどに溢れている。合わせて練習できた時間も少ないし、一年生にとっては最初のステージだし、喉の調子も、昨日の大泣きのせいで万端とは言い難いし。でも、そんなことを恐れている場合じゃない。この街で、私の音を届けられるのも、一緒に奏でられるのも、今日が最後なんだから。完璧ではないかもしれないけど、全部全部悔いのないように、出し切って、楽しみたい。それが、本当に私自身がやりたいこと。もう、迷う必要なんてないよ。
かろうじて貼りついていた絆創膏の残りを剥ぐ。ふと後ろを振り向くと、カーテンの向こうから、細い糸のような朝日が差し込んでいた。
「つむぎ…」
「シオンっ、おはよう」
ギターケースを背負ってマンションのエントランスに降りると、そこには、ちょっと恥ずかしそうに身をすくめて微笑むシオンがいた。”ライブはきちんと成功させないといけない”という責任感の裏に見え隠れする寂しさが抑え込めないというように、どことなく元気がない様子だった。そんなシオンを見ていると、私も胸が苦しくなって、その背中に腕を回す。シオンは少し震える指先で、私の腰をそっと掴んだ。
「ごめんね、自分がこんなに弱いなんて、私、知らなかった…。
ステージが終わったら、もう、”さよなら”になっちゃう…」
シオンが弱音を吐く姿なんて初めて見た。やっぱり、早く転校のことを言っておけばよかったと、改めて反省する。まさか、シオンの中で、私の存在がこんなに大きかったなんて。
「ごめんね、本当に…」
私は体を離して、その手をぎゅっと握った。気温は暑苦しいくらいなのに、その温度はとても低くなっている。暗闇を怖がって、その前で立ちつくす子供みたいだ。でも、その姿は、昔の、一人じゃ音楽も他人としゃべることもできなかった私によく似てる。だから、その気持ちはよく分かる。
でもそんな自分を変えてくれたのは…
「私の音、一番近くで聞いてくれる?」
シオンと、先輩方。それに、皆の音。
今度は私が、それを届けたい。
「…うん。」
ほんの少しだけ顔を上げたシオンは、小首をかしげて笑ってみせる。まだまだ引きつっていはいるけど、さっきよりはマシになった。これまでの感謝を込めて、最後だけど、今日くらいは、シオンを支えたい。
それに、届けたい人は、まだ他にもいるから…。
「行こっ、自転車の後ろ、乗っけてあげる‼」
「…ダメでしょーーー。」
そう言ってはにかむ。ようやく普段の調子を取り戻しつつあるシオンの手を、私は思いっきり引っ張った。
「「おはようございます‼」」
「おはよー。」
「おはよう。」
急な階段を上って客席側から会場に入ると、入り口のすぐそばにメンバーの一年生が固まっていて、私達の顔を見つけた途端、ほっとしたようにこちらに駆け寄ってきた。
会場は、街に一つだけある老舗のライブハウス。キャパは350人で、ここ以外でライブをしたことがないから他に比較のしようがないけど、ステージ上から見ると、結構な人数に見つめられているなぁと思う。音楽好きの愉快なおじさんと高校生くらいしか使わないので、学校からも容認されている合法的な場所だった。
私達が会場に着いたのはAM09:00。開演はPM1:00だから、リハの時間を差し引いてもかなり早く来たつもりだったのに、うちの一年生をはじめとして、多くの高校生バンドマン達が既に会場入りしていた。私達は先輩方が引退した6月から約二か月間、ずっとライブに参加していなかったので、かなり見慣れない顔が増えている。どこのバンドも代替わりがあって、メンバーの顔ぶれが変わっているせいだった。皆、気合の入ったステージ衣装やメイクで、こなれた様子で楽器を操っている。一年生と思わしき新顔も委縮することなく、他校生や上級生に交渉して、備え付けの楽器や器具を交代で使いに行っている。
正直、周りの全てに圧倒されて、”怖い”と思っている自分がいた。いつもならそこで、小さくなってしまった私に気づいた夏樹先輩が「一緒に行こうぜ」と声をかけてくれていたけど、もう今はいない。シオンも本調子じゃない。だけど、私の傍には助けるべき後輩がいて、だから今度はこっちがリードする番だった。
「みんな、」
最初の声は、ちょっと震えてしまった。格好悪いなぁ。でも、初めてなんだから仕方ない。私は拳を握って、さらにその上から掌で覆って力を込めた。
「まだリハまで時間があるから、休んでても大丈夫だよ。練習がしたいときは、ちゃんと周りに声をかけて迷惑にならないようにね。もしかしたら、私が話せる人かもしれないから、怖かったら遠慮なく言って。あと、楽屋は…」
流暢とは言い難いけど、いつもより随分言葉数が多い私に、一年生から不思議そうな顔が向けられる。真面目に言うと、私に話せる人なんかいない。でも、ハッタリでも安心させないと、そう思っていたら、自然に声が出ていた。この状況で、一度でも立ち止まってしまったらもう二度と口を開けない自信があったから、一息で言った。この一年で覚えたおぼろげなライブの注意点を、頭のいろんな場所から必死にかき集めて口を動かす。次第に一年生の表情が明るいものになっていくのを見て、ようやく全身から力を抜くことができた。
「よかったです…私達、楽器は扱えるんですけど、ライブは初めてだから、どうすればいいか分からなくて…。うちの高校の他のバンドの人達も来てないし、誰にも聞けなくて、怖かったんです…。」
普段は口数が少ない一年ちゃんがか細い声で言う隣で、一年くんはもはや首振り人形みたいになっている。一年くんの方が緊張してるのかな…二人とも、初々しくてなんだか可愛い。でも、一年前までは私も似たような感じだったんだろうなぁ。
先輩方が引退してから約二か月、そういえば私は、この二人をあんまり受け入れていなかった気がする。先輩方と一緒の方がうまくいくし、経験者に指導なんかできる立場じゃないし。でも、高校生としては一年先輩だから、私の方が知ってることもあるのかもしれない、なんて当たり前のことに今気づいた。そうしたら、なんだか他人っぽく見えていた二人が、途端に年下の従兄弟みたいに思えてくる。私、全部が遅すぎたな。こんなに近くにいたのに。
この二人には今のところ、私が転校することは言っていない。でも、残せるだけのものは残してあげたい。最初で最後の一回だけど、そこに全力をかけるしかない。
最後に、私の影に隠れるようにして立っているシオンに声をかける。
「シオン…リーダーとして、一言お願い。」
「…ふぅ…」
暗がりでも分かるくらい、その綺麗な顔は真っ白になっている。唇もこんなに湿度が高いのに切れていて、震えていた。さっきまでも様子がおかしかったけど、もしかしたら、本格的に体調が悪いのかもしれない。
私はその声を遮ろうとしたけど、深呼吸をしたシオンは、まるでいつも通りのようにマドンナの微笑みを浮かべて、二人の手を取った。
「初めてで大トリなんて緊張するよね。
でも、私も一緒。
…これまで経験したどのライブより…緊張してる。」
その声は震えていた。だけど、それも押し殺すように、二人の手をさらにぎゅっと握りしめる。
「いける。いけるよ。
大丈夫、私達は、一番上手だよ。私達四人はっ、…一番いい”音”を持ってるから…。
ね、つむぎ、そうでしょ。」
そう言われて顔を上げる。シオンは二人の手を合わせて、その上に自分の手をのせて、こちらを見ていた。そのとき、一瞬だけ唇を噛んで、何かを耐えるようなしぐさを見せる。
『辛いし苦しいし、それをどう表していいかも分からない…でも、前を向かなくちゃ。』
それは私の気持ちか、シオンの気持ちか。分からないなら、混ざり合って、一緒になってしまえばいい。
私は三人の手の上に、自分の手を思いっきり叩きつけた。
「頑張ろっ」「「「えいっ」」」
下に押し込んで、小さく気合を入れる。皆それぞれ、恐れと興奮を併せ持って、それでも何とか笑いあう。
これが”仲間”か、…そうか、そっか。
「開場五分前です。
出演者の皆様は、舞台袖にご移動お願いします。」
これまではステージで聞いていたそのアナウンスを、今日は楽屋で聞いた。私はイヤホンを外して、ぐっと伸びをする。太ももに何かが当たると思ってポケットを探ると、いつもの鏡が入っていた。なんとなく愛着が湧いてしまって、ずっとポケットに入れている。取り出して縁をなぞると安心出来るような気がして、頻繁にしていたら、丸い形が、だんだんさらに丸くなっているような感じがしてる。
これまでのどのライブよりも練習していないのは明らか。だけど、失敗の心配よりも、体の奥底から吹きあがってくる期待のほうがよっぽど強かった。
楽屋は各学校につき一部屋、という感じであてがわれている。だけど、大抵の場合、練習やリハを通して他校の人と仲良くなったり、他のバンドを見学していたりするし、第一狭くてすし詰めになるから、あんまり楽屋を使う人はいなかった。ここまで人がいないと、四畳くらいしかない部屋だけど、逆に広く思える。シオン達も外に出たまま、帰ってきていなかった。
さっきまで聞いていたのは、今年の文化祭で、最後に先輩方と演奏したときの音源。そのときの私の声は確かに透き通っていて、自分で聞いても綺麗に聞こえる気がしたけど、どこか透き通りすぎているかもしれない。まっすぐに声を出すのは歌手の方々の仕事で、私は、一応バンドマン。同じ歌なのかもしれないけれど、そこには明確な違いがある。
バンドにおける音楽は、異種混合戦だ。音の高低、質、音階の有無…色んなものが違う楽器が集まって、ひとつの音楽を作り上げている。じゃあ本来交わるはずのないものが、どうして一緒に演奏をするのか?
それは、”違うことこそが本質”だから。音だって人だって全部、同じなわけがない。むしろ、狙って”違う”風に作られている。だからこそ、皆が全力でぶつかり合って、ものすごい確率でひとつに重なったとき、それはとても貴重で素晴らしいものになる。だから私達は、加減や遠慮をしている場合じゃない。どこにいても音が届くように、それぞれのパートに誇りを持って、常に全力でいないといけない。
…それに気づいたのも、ついこの前だったな。それまではずっと、あの文化祭での演奏が自分のベストで、これからそれを更新することは絶対にないって本気で思ってた。先輩方が完璧に整えてくれた環境の上で、初めて私の声は成立するとまで思ってた。だけど、それじゃだめだったんだ。ぶつかり合うくらいの本気で向き合うことが、その時の私には足りなかった。
すごく後悔してる。だけど、伸びしろが残ってたことに感謝もしてる。だってその方が、成長した姿を見せられるから。きっとあの先輩方は、自分達がベストでい続けるより、私達がそれを越してみせたほうが、きっと喜ぶはず。
…あぁ、近づいてくる。自然と固まってきた身体をほぐすために、私は楽屋を出た。
舞台袖には、所狭しと人が
私は人並をかき分けて、舞台袖の近くまでやってきた。緞帳の影からほんの少しだけ顔を出して、客席の様子を見てみる。
「おぉ…」
かなりいい客入りだと思う。最前にはシオンの親衛隊らしき人達がお行儀よく静かに立っていて、その後ろには各校の顔が広い有名人が談笑している。それからあとは、あまりお客さんが入らないこともあるけど、今回はなぜか沢山の人が集まっていた。私達より少しだけ大人っぽいOBOGと思わしき大学生に、蛍光ブレスを珍しそうに扱う高校一年生っぽい可愛い集団、…普段この時間はお酒を飲んでいるから入場できないはずの音楽好きおじさんまで…。いつもよりはるかにお客さんの層が厚い。どうしてだろう…と頭の片隅で考えながら、目は注意深く舐めるように客席を見ていた。まだ来てないのかな…
「あっ」
思わず声が出てしまった。慌てて口を押えたけど、幸い、喧騒に紛れて聞こえてなかったみたい。よかった。
もっと前に来てもいいのに、なぜか後ろの機材置き場とほぼ同化したところに、痩せた身体をそつないTシャツに包んで、落ち着かない様子で立っている。…もう、デビュー戦の一年生よりそわそわしてどうするんですか、と軽口を叩きたくなる。もちろんそんなことはできないから、私は根気強く片目と指先だけを出して懸命に振り続けた。30秒くらいやっていると、ようやく気付いてくれて、遠慮がちに手を上げてくれた。
夏樹先輩と違って真面目なタクミ先輩は、律儀に毎日予備校に通っていたから、しばらく会えていなかった。嬉しくなってもう少しだけ顔を出すと、タクミ先輩は一瞬大きく目を見開いて、自分の髪の毛を持ち上げて、掌を下に向けて横に振った。そういえはま髪の毛、切ったんだっけ。すっかり昔のことだなぁ。もっと体を乗り出してにこにこすると、慌てたように首をぶんぶん振りながら、大きく口を動かした。
『が・ん・ば・れ』
先輩には、昨日の朝のメッセージで転校を伝えた。普段かなり引っ込み思案な先輩にしては大胆な行動だった。きっと、私が最後の演奏だって知ってるから。恥ずかしくてちょっと赤くなってるの、可愛いなぁ。拳を握ってゆっくり瞬きしてみせると、『早くはけて‼』というように掌を横に何回も振られた。大人しく引っ込む。
忙しいから、来てもらえるか不安だった。だって私達の曲は…。ともかく、絶対に新体制を見せたい人のひとりだったから、本当に良かった。
でも、その隣にいるはずのもう一人が見えなくて、ちょっと不安になる。遅れてるのかな、来てくれる…よね。
舞台袖の掛け時計に目を向ける。PM0:47。もうすぐ開演の時間だ。
そうこうしている間に幕が上がり、ついに対バンライブが始まった。
主催の学校の看板バンドが場をあっため、その後もたくさんのバンドが楽器をかき鳴らし、打ち鳴らし、弾きあかして、音を響かせる。生音はさすがの迫力で、ステージから少し離れた楽屋にいるはずなのに、その波に肌を震わされた。何度やっても、この感覚は慣れない。自分の体がその制御を外れたように勝手に動くくせに、それをちょっと喜んでいる私がいる。ライブハウスにいる全員が、おんなじ音楽に翻弄されている。普段苦手な派手めの女の子達も、シャイなクラスの男の子も、皆この波に飲まれて一緒になっているのが、それぞれの身を知らされるみたいだから、好きなのかもしれない。
ふと、青白い綺麗な顔を思い出す。シオン…大丈夫かな。さっきからそれとなく探しているけど、ちらりとも姿を見せない。メッセージにも既読は付かなかった。主催校に申し出たほうがいい事態なのかもれないけど、何となく、それはできなかった。見つけてほしくない。さっきまでの振る舞いがそう言っている気がした。本当なら、あの細い体を抱きしめて、一息に泣いてしまいたい。だけど、私がこの街に残していく人は、シオンだけじゃない。届けたい音が、それに乗せて送りたい思いがある。その数はとても少ないけれど、それが叶わなかったらすごく後悔するって気づいたから。正直に言うと、シオンがあんなに傷つくなんて思いもしなかった。そこまで大切に思われていただなんて。でも、私だって今回の転校にはかなり堪えたし、さぼったり逃げたりして、遠回りしないと受け入れられなかった。それとおんなじダメージを、こんなに大事なライブの前に与えてしまった原因であるのが私だってこと、分かってるけど、どうしようもなかった。シオンに対する甘え方は知ってるけど、甘えさせ方は分からない。それが、頼り続けた過失だった。
でも、きっとシオンは来てくれる。そう確信している自分もいた。もしかしたら、それでさえ甘えなのかもしれないけど、きっとシオンは、私の門出を、泣きながらでも笑顔で祝ってくれる。自分が育てたとも言えるバンドマンの集大成を、きっと一番近くで見てくれる。だから…。
ソファーに沈み込んだ身体を引き上げて、ポケットから取り出した鏡で自分を見る。短い髪の毛はまだまだ慣れたとは言い難く、不器用にアイロンで伸ばしただけで、化粧っけのない顔にはあとから付け加えたように馴染まないクマが浮かんでる。正円の中で、私はすごく不安そうな顔をしていた。ここまで馬力で押し進めてきたけど、本当に大丈夫なのかな…。
そう思って下を向いたそのとき、相変わらず人のいない楽屋のドアが、ばたんっと大きな音を立てて開いた。
「つむぎ‼」
「うお、わっ」
飛び込んできたのはシオンだった。目にも止まらぬ速さで私の近くに来て、腕を取られる。割れたら嫌なので、とっさに鏡をポケットにしまった。
「二個前が始まったよ。もうすぐ呼ばれるから、準備して‼」
「シオン…あの、」
陽気なふるまいが空元気な気がして、素直に喜べない自分がいた。傷つけてしまった手前、それを指摘することはできないけど…。何となく目を逸らしてしまって、上手く言葉が繋がらない。そんな私を前に、シオンは顔を覗き込んできた。
「わ、」
「つむぎ、私、泣いてきた。」
「え、」
衝撃ワードを告げられて、シオンがここに来て初めて、正面から顔を見据えた。「えへ」と恥ずかしそうに微笑むアーモンド型の瞳は、確かに少し充血して、長いまつげもほんのり湿っている。
「ごめん、うまく整理つけられなくて…。でも、私、今日は
”つむぎの音、一番近くで聞く”から。
つむぎの作る音楽、後ろで支えながら、特等席で耳を澄ませてるから。
この席は誰にも譲っちゃ駄目だって、思い出したよ。」
「…うん、あり、がと。」
シオンの瞳は濡れていたけど、それは照明の明かりを反射して、綺麗に輝いていた。ごめん、こんな私のわがままを聞いてくれて。ごめん、最後まで頼ってばっかりで。そんな言葉ばっかり頭に浮かんだけれど、全部、この笑顔には似合わなくて。だから、大きな声で言った。
「よろしく、相棒。」
「背中は任せて、でも正面はお願いよ。」
自然とお互い差し出した手を握って、そのまま抱きしめ合う。二人とも、心臓の鼓動が聞こえるくらい速くて、でも、その分ぬくもりが伝わって、すごく安心できた。
身体を離して、私達は準備に入る。私はハードケースの留め具を外して、エレキギターを取り出した。軽音に入ってから急場で用意した、その当時特にこだわりなんてなかった一本だけど、この一年と少し、一番触れていたものだった。えんじ色の装飾は擦れて、地の白が見えるところもある。でも、これが私の音楽の歴史だから、隠す気はなかった。チューナーで音を整えて、一応、ストラップも長さを確かめて。最後かもしれないけど、今日もよろしくね。
ちょうどその時、運営係が楽屋のドアを叩き、声が聞こえた。
「本番10分前です。スタンバイお願いします。」
…ついに来た。私とシオンは顔を見合わせた。その手には、しっかりとスティックが握られている。向かい合って見つめあっても、もう悲しい気持ちにはならない。
シオンは上目遣いで、私の目を覗き込んでみせた。挑戦的にも見えるその視線。でもそれが、しっかり者で、練習に真面目に取り組んで、その分誰よりも本番を楽しむ、本当のシオンだった。私までどこかうきうきしちゃって、目に力が入るのが分かる。そう、これが欲しかった。最後だとしてもそうじゃなくても、バンドってこんな風に、全力でぶつかり合って楽しむものだから。
ドアを開ける。漏れてくる照明に目を細めながら、かすかに聞こえていた爆音に揉まれながら、求めてた私達のステージへ。
ぎいぃ、ばたん。
「本番3分前です。」
告げられた数字に、私達四人は目を合わせる。今、会場は休憩時間だ。でも、それは15分も与えられていたものだから、大抵の人は休み終わって、ステージが再開するのを今か今かと待ちわびて、沈黙している。もともとバンドの登場順は告知してあったから、私達が出てくるのは分かっているはず。大トリなだけあって、期待されている。
「準備はいい?」
シオンが口を開いた。一年生達は緊張した面持ちでこくりと頷く。私は大きく深呼吸をしてから、シオンに笑いかけた。
「いけるよ。」
自然と右手で一年ちゃんの、左手でシオンの手を握る。二人はこちらを見た後、一年君の手を取った。輪になって距離が縮まった輪の中で、シオンはどこか不敵にも見える笑みを浮かべた。
「一年生諸君。
まず、本当に、このバンドに入ってくれてありがとう。他の子達は同学年で沢山バンドを組んでる中、上級生のレベルに合わせようとして、他では必要のない努力、いっぱいしてくれたよね。本当に、ありがとう。ここはもう、れっきとした二人のバンドだよ。二人の音、どちらかが欠けても、絶対に成り立たない。最高の後輩を持ったと思います。
緊張するかもしれないけど、君達の練習の成果は、ずっと隣で見ていた私が保証するよ。だから思いっきりやっておいで。
もし途中で何かあったとしても、ステージ上で、私達はパフォーマーだから、決して不安そうな顔をしないこと。結局、楽しんだもん勝ちなんだから。
自分の好きなように、”音楽”をしておいで。」
芯の通った少し低い声。それはゆっくりと胸に浸透して、ぼんやりとぬくもりを放つ言葉だった。シオンはいつもそう。色んな技術を教えてくれたあとには、こうやって”好きなようにやっておいで”と背中を押してくれる。一年生達は顔を見合わせると、大きく頷いてみせた。
「楽しんできます。」
「頑張ります。」
二人の、期待と不安が入り混じった瞳から、不安が蒸発するように消えていって、期待だけで輝く光が生まれていく様を見た。…やっぱり、シオンはすごい。
「つむぎ。」
「うん。」
シオンの瞳は、ついに私の方を向いた。綺麗なアーモンド型の瞳が、まばたきを繰り返す。言葉を探しているようで、何と言えばいいのか分からず焦っているみたいだった。私は左手に力を込める。大丈夫、ちゃんと知ってるよ。
「…つむぎの音、一番近くで聞くから。
最高の”音楽”、ちょうだいね。」
「うん。
…ありがとう。」
微笑みあう。その姿は、親衛隊を虜にするマドンナではないかもしれないけど、余計なものを捨てた、ありのままの姿のように思えた。ようやく、それを見ることができた。
眉間には力が入っているように見えるけど、シオンはもう、泣かなかった。その代わり、さらに手を強く握りしめた。さっき胸に沁みたぬくもりが、もっと近くで感じられる。それだけで十分だった。
正直緊張でちょっと指は震えてるし、最後だと思うと、お客さんを見たら泣いてしまうかもしれない。でも、他人から与えられた苦しみに、抗わずに自分を差し出すことは、もうやめた。失敗してもいい、泣いてもいいから、ちゃんと、自分がやりたいことをして、届けたい音を奏でるんだ。それが届いてほしい人に、ちゃんと届くように、全身全霊でやるしかない。
「本番1分前です。」
あぁ、ついに、始まる。
「よし。」
シオンも大きく息を吸う。そのタイミングで、私達は、繋いだ両手をそっと上げた。
「行こう、皆が待ってる‼」
「「「えいっ‼」」」
そして離れた手は、心の中では繋がってる。ね、そうでしょ。
さぁ、届けに行こう。
最後のステージ、その場所で、私の思いを乗せた音を。
お客さん全員に、シオンに、タクミ先輩に、夏樹先輩に。
「本番10秒前…3,2,1、どうぞ。」
運営係の声がして、私達はステージへと踏み出した。
「「「「「きゃーーー‼」」」」」
「「「「シオンーーー‼」」」」
「「つむぎちゃーーーん‼」」
沢山の歓声、満面の笑顔、目を細めても眩しい照明、正面に立つスタンドマイク、どれも心を掻き立ててたまらない。
皆が私達の音楽を待ってる。こんなに盛り上がってくれる。それだけでほら、こんなに楽しい。泣いちゃう心配なんて、絶対に必要なかった。やっぱり私、ここが大好きだ。
隣の一年君と目くばせをする。彼もまた、片方だけ唇を吊り上げて、いい顔をしていた。
そして顔を正面に向けたとき、私はふと気が付く。
客席後方、ほぼ機材に埋まるような形で、誰かが高く腕を挙げている。骨ばった大きな手には、見慣れたピック。
息を飲んだ。それを追って、下を見る。
『が・ん・ば・れ』
ゆっくりと、形のいい口がそう刻む。
私達は、一瞬だけ、お互いしっかりと見つめあった。
夏樹先輩だった。
遅いよ。そう言いたくなるのに反して、私の身体はかっと熱くなっていく。
もうどうしようもない。抑えられない。身体から音が出たがってしょうがない。
私はピックを持った右手でマイクを鷲掴みすると、思いっきり叫んだ。
「いくぞーーーっっっ‼‼‼」
それに合わせて、シオンがドラムを叩いてくれる。突き抜けるような明快な音。あぁ、なんて楽しいんだろう。
「「「「「わぁーーーーっっ‼‼」」」」」
お客さんの盛り上がりも最高だ。
私達がスタンバイに入ると、歓声は一気にやむ。静けさの中で、無意識に舌なめずりをしていた。
カン、カン、カンカンカンカン。
シオンのスティックの合図が響いて、私達の音が、一斉に響いた。
ギター、ベース、ドラム、キーボード。
全部が全力でぶつかって、その暴力的なまでの音が、私の何かをもっと燃やす。
他人が苦手だったなんて、この前まで歌えなかったなんて嘘みたい。
私は大きく息を吸って、初めの一音を、思いっきりマイクにぶつけた。
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