【2】甘い切り傷

威勢よく駆け出したものの、正直どこにも行く場所なんてない。でも、何となく部活に行く気にはなれなくて、結局、街で唯一の駅に向かった。

そこは、元々住んでいた場所の友達が見たら『これ、本当に駅?』と言いそうなくらい小さい駅で、ここから車で45分くらい走らせた所に住む人も『ここが最寄り駅だ』と言い張るくらい広域をカバーしているのに、通っている路線はたった二つ、上下合わせて線路が四本しかないという極めっぷりだった。駅舎も小さくて、錆が多い。でも、それを指でなぞって落とす感触が、嫌いじゃなかった。

都会の駅は、どれも同じに見える。ここ最近は、有名な建物を除いて、どの駅も全部灰色に塗り固められていく。それに比べたら、この駅は、人と共に歳をとってきたということが分かって、無機質なそれよりよっぽど好きだ。成長して、大きくなり、やがて年老いていく、人としてのことわりが、正しく誰の身にも訪れることが安心する、なんて言ったら気味悪がられるだろうか。




新作が出ると初売りくらい人が集まる、これまた街にたった一つだけの有名なカフェチェーンに入った。その瞬間に、ガンガンに効いたエアコンの風が顔に直射。涼しくて気持ちいいはずなのに、なぜか顔を顰めてしまう。今はちょうどPM2:00で、昼食終わりの閑散とした時間帯だから、人影はあまりなかった。よかった、あまり人が多いのは得意ではない。

「いらっしゃいませ!」と言うお姉さんのゼロ円笑顔を会釈でやり過ごして、メニューを見る。今の新作は、夏らしくマンゴー。美味しそう、あぁでも、暑いところから来たから、甘ったるいのはお呼びじゃないかも。ならカフェラテとか?でも、あんまり飲んだことない。どんな味なんだろう…。

悶々と考えているうちに、頭が痛くなってくる。お姉さんの『はい?』といった調子の満面の笑みが、能面に見えてきた。こめかみにじわっと嫌な汗が噴き出してくる。あ、やばい、唇から湿り気がなくなって、何も言葉が出てこない。

「え…と…」

何か言わなきゃ。何か、何でもいいから…


焦って声にならずに震える喉が痛い。思わず下を向いたとき、ふいに後ろから手が伸びてきて、私の肩をむんずと掴んだ。だれ、と振り向くより先に、色っぽい低音が耳元で響いた。

「ダークモカチップフラペチーノ、氷少なめの、エスプレッソショット追加で。」

頬を紅潮させたお姉さんが、「…はい。」と小さな声で言う。ゼロ円笑顔がすっかり崩れている。低音は、直接私の鼓膜を震えさせるように、耳のすぐ傍で鳴り続けた。

「あと、マンゴーフラペチーノ。お願いします。」

呆気にとられている間に、その人は「タッチ決済で」と会計を済ませてしまった。「邪魔だから、こっち。」とそのまま肩を押され、窓辺の二人席に連れて行かれる。

どうしてこんな時間にいるの。頭の中は『?』だらけだったのに、当たり前のように私の前に座って「今日も暑いな。」と微笑む、端正な顔を見ていたら、なんだかこっちのほうが間違っている気がしてくるのだった。


「夏樹先輩、どうしてこんなとこにいるんですか。」

「予備校。ちょうど授業終わって、自習の時間になって出てきたらお前がテンパってるから。」

軽く握った拳を唇に当て、いたずらっぽく笑う。そうすると、綺麗という印象だった容貌が、一気に、面倒見のいい近所のお兄ちゃんのようになる。

「注文苦手なのに、よく一人で来るよな。」

それにはぐうの音も出ない。そう、私はこの手の注文がとても苦手だった。言いたいことは沢山あるのに、あぁでもないこうでもないと考えているうちに、後ろから人が来たり、店員さんに急かされたりしてパニックになる。それで、いつもと同じものを頼んでしまうか、誰かにお願いするのが常になっていた。今日は特にそれが酷くて、いつもと同じのでさえも口に出来なかったから、助かった。

「ありがとう、ございます。あの、お金、」

「何?」

微笑みながら聞こえないふりをする先輩を、私はじろりと睨み付けた。鮮やかな手つきで誤魔化されたけど、さっきはまとめて払ってくれていた。色々迷惑をかけて、これ以上お世話になるわけにはいかない。この人は現金を押しつけようとしても受け取ってくれないので、決済アプリで送金の手続きをする。

「いいって、俺が金ないみたいじゃん。」

気づかれる前に、と素早く手を動かしていたのに、最後の一歩手前で手首を捕まれた。夏なのに冷たい指先の感触が、どうしてか火に炙られたみたいに熱くなる。

「わ、」

思わず携帯を落としてしまった。やばい、と思ったけど、テーブルに打ち付けられる前に、先輩の手首を掴んだのとは逆の手が伸びて、ナイスキャッチ。それを私の手に押しつけながら、先輩はこっちを覗き込んだ。探られるように真剣な目つきで、思わず縮こまってしまう。

「なんか、調子悪い?」

「え…」

私、調子悪いのかな。自分でもよく分からなくて、困惑してしまう。ちょうど飲み物が運ばれてきて、先輩は両方の飲み物にストローを差してくれて、黒い方を差し出しつつ、口を開いた。

「俺にも言えなそう?」

すぐには言えなかった。転校します、なんて。

そうなって初めて気がついた。”無関心だ”なんて格好つけてるくせに、一番、転校を認めたくないのは、私なのかもしれない。

沈黙を埋めるように吸い込んだ飲み物は、エスプレッソを入れて濃くしているはずなのに、全然味を感じなかった。




でも、黙って出て行くなんて、感謝も義理もないことはしたくない。それに、先輩と会えたのは、先輩が引退した文化祭以来、実に一ヶ月ぶりのことだった。夏は受験の天王山と言うだけあって、とても忙しくしているみたいだし。直接言うなら今じゃないと、機会を逃してしまう。だから私は覚悟を決めて、口を開いた。

「私…転校、するんですよ。」

どうしても顔を見ることが出来なかった。悲しい顔をしてほしくない、でも、私がいなくなることに何も感じないでいないでほしい。私が先輩の何者でもないことを見せつけられたくなかった。言ってみれば案外簡単な言葉で、だけどその重さに私は辟易していた。私が誰かにこの事実を伝える度に、別れは近づいてくる。時は進み続けて、旅立ちの日を連れてくるし、言ってしまった以上、簡単には覆せなくなる。でも、でも、でも、でも…。考えがまとまらなくて、苦しくなる。どうして私だけ、こんなに悩まなくちゃいけないんだろう。

「…まじ?」

先輩はようやく口を開いた。その声は乾いていて、気持ちが読み取れない。俯いたまま、目線だけで先輩を見ると、その瞳は大きく見開かれていて、『い』の形で口が止まっていた。私の視線に気づいて、「がち?」ともう一度聞いてくる。


ここで『嘘です』って言ったら、全部なかったことにできるのかな。


「がち…で、す。」

あぁ、言ってしまった。これで、終わりが始まる。私自身が、終わりを認めたから。

いつも飄々としている先輩の、気の抜けた表情を見れる機会はなかなかない。先輩は、どういう言葉をかけたらいいのか分からないというように下を向いて指を組み合わせた。

「いつ、出るの?」

「前期の夏期講座は全部出るつもりです。だから、8月の頭までは、い…ます。多分。他の人には言わないでください、ね。何か、暗い雰囲気になるの、苦手、だから…。」

「そ。」

先輩は残念そうに下を向いて、精一杯悲しいムードを押し殺すように笑った。そんな顔しないでください、私なんかのために。

「寂しくなるな。」

今だけは、先輩の心を独占できてるのかな。”転校”なんて荒技を使ったからこその結果だけど、この大人気の先輩の気持ちをいっぱいに出来る人はそういないだろう。これでちょっと優越感に浸って、笑顔でさよなら。多分このやり方が、誰も傷つかないでいい。

「はい。ここでは楽しい思いをさせてもらったので、残念ですけど。次の場所でも、頑張り、ます。」

「あー、…うん。」

とりあえず沈黙が怖くて、いつも言う定型句が口をついて出てくる。もういいや、これでいいやと思って顔を上げると、首を傾げてこちらを見る先輩と目が合った。先輩は、一度何かを言おうとして口を閉じ、そのあともう一度開いた。


「お前、悲しくないの。」

今度はこっちがどういう言葉を伝えればいいのか分からなくなった。悲しくないの、と聞かれて、『悲しいです。』と本心を言ったところで、誰にとってプラスなんだろう。言葉って偉大で、一度口にしてしまったら、それに支配されるところがある。悲しいと思わないように、できるだけ目を逸らしているのに。

「…。」

「何か、淡々としてんな。俺は、正直悲しいけど。」

嬉しい気持ちと、暗い気持ちがない交ぜになる。先輩に悲しんでもらえることは、正直嬉しい。だけど、そんな先輩にも分かってもらえない気持ちがある。私は決して悲しくない訳じゃないの。ただ、傷つきたくないの。

下を向いて何も言わない私に、先輩はぼそぼそと言った。正直、納得しきれていない感じが丸出しだった。

「…ごめん。言い過ぎた。」

「いえ、全然。」


「でも、その日程だったら、花火大会、行けるな…二人で。」

「…へ?」

”花火大会”、私にとって特別な意味を持ったその言葉が先輩から出たことに驚く。…覚えてくれてたんだ…。

でもよくよく考えてみて。先輩、受験生だよね…。本当に大丈夫なのかな…。

「去年、約束したじゃん。」

「え、でも先輩、受験勉強が…てか、二人って」

「はぁ?」

先輩はどこか怒っているような素振りだった。顎をしゃくって私の方を示しつつ、矢継ぎ早に言う。

「去年からそんなことは分かってるんだよ。それに、お前はもう行くんだろ。勉強はあとで寝る時間でも削ってやればいいんだよ。後回しにできることとできないことの区別くらいつけといてもよくね?

で、あと、お前は俺と二人で行くのは嫌なわけ?」

先輩がこんなに口数が多いことなんて少ないから、私は呆気にとられた。早口で喋ると、子供っぽくて可愛い印象になる。思わず唇が上がってしまった。

「…ふふ。」

「なに、俺見て笑ってんの。」

「…ごめんなさい。」

「まぁいいけど。行くんだろ、花火。」

「はい。」

まぁちょっと予定が早まったとしても、これくらいは何とか融通を利かせていいだろう。先輩はまた、いつもの余裕そうな顔に戻って、笑って見せた。

「去年はあれだったから、今年は浴衣でも着ようぜ。…あ、でも、引っ越しか、」

「いや、何とかなると思います。…先輩が着てくるなら、私も着てきます。」

「そ。」

満足そうに先輩はうんうんと頷いた。


「最後だな。」

「…はい。」

「俺にとっても、お前にとっても。」

「そう、ですね。」

それ以上何も言えなかった。もう一言でも話したら、言ってはいけない、ワガママな言葉が出てくるから。急に先輩が『最後』だなんて言うから、また、終わりが始まっちゃうじゃん。

でも、『最後』を、先輩と過ごせるなら…せめて楽しもう。先輩の一番にはなれないけど、記憶の片隅にでも置いてくれたら、それで十分満足だから。

「楽しみに、してます。だから、先輩、勉強、頑張ってくださいね。」

「んは、頑張るわ。」

耳にはピアスが光っているくせに、テストじゃ学年トップクラスの成績をたたき出す、そんな先輩の言葉は、案外謙虚なものだった。そのいたずらっぽい笑顔を見て、私はまた、嬉しく、そして悲しくなるのだった。

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