花火

on

前編

【1】冷たい心

「あ、そう……」


それ以上に言うことがなくて、口をつぐむ。ほとんど無反応とも言える私に面食らって、深刻そうな顔をしているのはお母さんの方だった。

今更何を悲しめばいいんだろう。だっていつもと同じことを繰り返してるだけじゃん。覚悟だってしてた。私はこういう巡り合わせの上にいるんだって。


「つむぎ、大丈夫?」

「うん。いつまで授業は出れるの。」

「夏休みの間に行くから、お盆前までの夏期講座までだと思う…けど、つむぎがもし、ここにいたいって言うなら、」

「ううん。一緒に行くよ。」


お母さんはいい人だ。私の気持ちとか、お父さんの考えとか、自分以外の人のことをよく気に掛けている。だけど私は知ってる。そういう人ほど利用されやすくて、大切な人、尽くしたい人から、いい人の扱いを受けてしまうこと。お母さんとお父さんの関係は、そのわかりやすい一例だった。


”一緒に行くよ”と言った瞬間、お母さんの顔は分かりやすくほころぶ。利用されるって分かっているのに、どうしてこういう人種の人間は、近くに人がいないといけない性分なんだろう。まぁ別にどうでもいいんだけど。


「もう行くね。」

「今日も部活?」

「うん。」

私はソファーから立ち上がった。お母さんはまだ何か言いたそうな顔をしていたけど、結局何も言わなかった。

きっと、また”大丈夫?”だとか、”本当に?”ということを言おうとしてたんだろう。それに対して私が”大丈夫だよ”って言うことで、自分が”嫌われてない”って再確認しようとしてる。


でもね、お母さん。

”嫌いじゃない”ことが”好き”ってことに繋がるわけじゃないよ。

”好き”でも”嫌い”でもないの。それを判断することすら億劫なの。

私は、お父さんもお母さんも”嫌いじゃない”。でも、”好きでもない”。


”無関心”なの。


二人がどういう決断をして、どういう関係で、どういう気持ちで夫婦という皮を被っているのか、そういうの、本当にどうでもいい。

小さい頃は二人のことで、色々心を悩ませた。必死に泣いたり、抵抗したり、縋り付いたりもした。

でもね、そういうこと、いちいちしてたら、自分が保たないことに気づいたの。所詮他人のことに、ここまで自分をすり減らして、何を望んでいるんだろう。仲良くしてほしい?笑ってほしい?正直、どうでもいいってことに、そのとき気づいた。

それからは、なるべく二人のことを考えるのをやめた。二人が私の生活、将来に関わってくるときだけ、慎重に考えて、それ以外は、所詮他人だって大前提を掲げた。


だから今回も、自分のことだけを考えた。

確かに、ここで作った人間関係をシュレッダーにかけるのは、少々辛い。だけど、ここで言うことを聞いておいて方が、後々これを出しに色々交渉が出来るかも知れない。


「じゃあ、いってきます。」


でもそんな考え、ばれちゃったら大変だから、今日も邪な自分にはぴったりと蓋をして、お母さんには無邪気な高校生の顔を見せる。ちょっと悲しみを表すために眉を下げて、小首を傾げながら口角を上げる。決して、笑ってるわけじゃない。


ドアを開ける。











ぺたりと湿った空気が、半袖の私の腕を撫でていく。蒸し暑いけど、海風が吹くおかげで、そこまで不快感はない。すがすがしいそれが、肩の下まで伸びた髪の毛をちらちらと揺らしてみせた。

今日は快晴で、青い空と海が繋がっているように見える。人が住んでいるところ以外、地球の全てが一つになってしまったみたい。抜けるような水色の向こうから、大きな鳥が飛んでくる。自転車に乗っていた私は、その鳥より先を走っていたのに、すぐに併走され、追い抜かされた。眼下の海より一つ向こうの岸にある崖まであっという間に消えていく。あんなにすがすがしく空を飛べたら、きっと一つの場所を飛び立つことなんて、全然苦じゃないんだろうな。




ここに引っ越してきたのは、一年前の、高校入学のタイミングだった。お父さんが地方の工場長になったことが理由で、私は当時の中学にいた他の子達とは違う地方の入試対策をして、こっちの高校生活に向けて淡々と準備した。

例によって”転校する”という事実以外に全く興味を持っていなかった私だけど、引っ越してきてから、ここがこんなに海の近いところだって知って驚いた。確かに一年中湿気が酷いし、自転車は錆びるけど、いつも悶々と一人で考え込む性格の私にとって、どこまでも果てがないこの景色がそばにいてくれるのは、結構嬉しいことだった。

この大海原を見ていると、私の悩み事なんて広い広い世界の中でちっぽけとも認識されないくらい小さなものなんだって思える。人によっては『私を君の世界の中心にして』と言う人もいるかもしれない。でも、自分の力がとても弱くて、少なくとも今は誰かの助けを借りないと生きられない私にとって、そんな自己中心的な暴論は唱えられるはずもない。ただ他人には言えない複雑な気持ちを、波に流すことくらいしかできなかった。


ここから出て行くってことは、この海ともお別れか。


できるだけ感情を殺そうなんて、そんな子供みたいな方法で自分を守ろうとしてるくせに、こういう大事なときにだけ、上手くいかない。悲しくなんてないはずなのに。でも、なんとなく、今、部活の仲間と顔を合わせるわけにはいかない気がして。

このまま真っ直ぐ進めば学校で、右に逸れたら上り坂。ちょっときついけど、さっき鳥が飛んでいった崖の方へ進むことができる。

名目的には”サボる”ということになるけど、このとき私はあんまり悩まなかった。ぐいんっとハンドルを曲げて、後悔があとからついてこないように、思いっきり方向転換する。ばしゃん、どこかで堤防に波がぶつかる音が聞こえる。






崖の方には何もない。うっそうと茂る木々の向こうには、小さな城跡がぽつんとあるだけだ。実は私もあんまり来たことはない。ただ、一回だけ、去年の夏祭りの時は、部活の仲間と足を運んだ。

ここの花火大会には定評があるらしく、普段はあまり人が寄りつかないこの街だけど、ちょうど今頃、8月の頭には、沢山の人が押しかける。『出店が出る崖の下は、観光客の人混みで大変なことになるから、地元民はこっちで見るんだ』、部活の先輩が教えてくれた。


海街で育った人達は、どことなくしなやかで、芯がある。その先輩を初めとして、部活で触れあった人は、性格に違いがあるとは言え、何かを持っていた。

他の地方の人に比べて、幼い頃から自然と共生してきたからこその価値観。自然は癒やしや安心を与えるだけじゃなくて、時には狂ったように雨を降らせ、波を高ぶらせ、人の生活を攻撃する。その契機なんて全く分からなくて、人間の都合を完全に無視している。でも彼らはそれを『当たり前だ』と笑い、『自分にはどうしようもないことがある』ということを受け入れているんだ。私ならそこで、自分の無力を嘆いたり、劣等感を抱いたりするけど、彼らにはそういう粘着質な気持ちが全く無さそうに見える。ただそこで『完全敗北だ』と膝をつくわけじゃなくて、『翻弄されるところは翻弄されてやる。だから、自分達のしたいことは邪魔するな』という具合に、筋を通すところが格好いい。この街に住んでいる人全員がそういうことを思っているかどうかは不明だけど、少なくとも私の周りの人達はそういう傾向にあった。

それにとても憧れたし、同時に絶望もした。だって私は、どれだけ努力してもあの姿にはなれないから。自分でも疎ましく思うほどの消極的な考え方は、すっかり身に染みついていた。時々、自分の体から、マイナス思考が匂いか何かになって周りに嗅ぎ取られていないか、不安になる。これまでは、『どうせ転校するから』と友人関係はほどほどにしていたけど、ここの人達には嫌われたくなかった。それほどまでに、今の仲間は憧れだし、遠い存在だった。




お情け程度に整備されたぼろぼろのコンクリートを辿って急な坂をえいやっと駆け上ると、どこまでも続きそうな木々の中に頭を突っ込むことになる。海の近くにこんな森がある地域も珍しいんじゃないか。そう思うほどにここは本格的な自然で溢れている。どこか気味が悪いと言ってここらには近づかない人もいるけど、それは大抵ご老人で、若者はこの場所を隠れ家にして育ったらしい。『海で取った貝殻を隠して、一週間に一度の報告会で自慢するんだ』と先輩が教えてくれた。クールな印象の先輩がそんな可愛らしいことを言うから、ちょっと笑ってしまったことを覚えている。

今はネットの普及で、そんな遊びも少なくなってしまったのかもしれないけど、所々に現れる妙に大きなワカメや太い枝は、まだ新しいものもあって、ここの人達と自然の、生まれながらと言っても過言ではない絆みたいなものを感じる。どんなに否定したって、ここの人達は自然と二人三脚で生きている。私にはない、体の奥底にある繋がりでそっと結ばれている。




そうこうしているうちに私の愛車は茂みを突き抜けて、頂上の崖までやってきた。そこだけテレポートしてしまったように、崖には木々や草の類いが一切ない。部活の仲間は義務教育の間に郷土史を軽く勉強したようで、その理由が昔の火事だということを教えてくれた。


ここの城跡には天守閣がない。というか、城壁はおろか堀まで跡形もない。


その昔、武士がぶんぶん刀を振り回していた時代に、この城は敵国の襲撃を受けて焼き討ちにあったとか。ただ、その”焼き討ち”というのは、戦の最中に行われた、というわけではない。敵国である田舎の領国を併合しようとして、ここのお殿様が、領主の家族を捕虜としていきなり攫い、それに怒った、ほとんど農民である武士階級の使用人が、作法なんて気にせずに堂々と乗り込んで、全てを根絶やしにしたとか。

この話を初めに聞いたとき、私は正直、『どっちもどっちだなぁ』と思った。その時代のしたきりとして、偉い人の家族を捕虜にするというのが合法だったのかは知らないけど、今を生きる私の感覚としては、大して悪いこともしていないのに、いきなり攫うって…いくらなんでも力づくすぎる。敵国がどれだけ田舎だったかは知らないけど、きっとのどかな場所で、静かに、領国全体で一つの家庭を営むように過ごしてたんだろうなぁと思うと、その生活にいきなり水を差すのは…どう考えても駄目でしょ。それに対する仕返しとしてお城を丸ごと焼いちゃうのも、そりゃよくないけど。ただ、”当たり前”があんまりない私にとって、束の間でも”当たり前”を手に入れられたときの喜び、そしてそれを失ったときの複雑な気持ちはよく分かる。それが生まれてから大人になるまでずっと続いていて、何もちょっかいなんて出してないのに、突然奪われたら、きっと私が感じてる何倍も苦しいだろうな。




自転車を横に倒す。この愛車はスタンドが壊れていて、自立することができない。だから学校でもこんな感じに置いていたら、生活指導の先生に笑われた。叱られないのが、この街のいいところだ。

乾いた砂の上に横たわった自転車は、細身の美しい誰かが眠っているように見えた。


少し歩いただけで、コンバースのスニーカーのキャンバス地は、いとも簡単に砂を中に受け入れる。普段ならうざったいと思うところだけど、今日はしゃらしゃらとした感触がちょっとくすぐったくて気持ちよかった。

本当にお城があったのかと疑うほど、ここには何もない。無愛想な灰色の石碑だけが、その事実を淡々と伝えてくる。まるで墓標のように、しっかりと根元から直立してる。忘れないで、私はここにいるよと叫ぶみたいに。

断崖絶壁、崖の縁には、鉄の柵が掛けられている。そこからちょっと身を乗り出すだけで、富士山が見えるテーマパークもびっくりのスリルが味わえる。柵がなければ、直線距離約15m先の砂浜に真っ逆さまだ。何の気なしに来た私も、この景色を見ると、恐怖とぞくぞくするよくない好奇心に駆られてしまう。その不思議な作用のせいか、ここで自殺する人も少なくないらしい。




ひとしきり眺めて満足した私は、その柵から離れて、去年、部活の仲間と花火を見た位置まで行き、地面に座った。太ももの下のスカートがぺたりと落ちる。


私と、シオン、タクミ先輩と、夏樹なつき先輩。去年の花火大会、その日はちょうど隣町の学校のサポートに入っていて、浴衣なんて情緒的なものを着ることすら叶わず、ライブが終わってから速攻汗臭い体でギターケースを背負い、視界を遮っちゃうからという理由で、人並みの後ろから花火を見た。他の三人に言わせれば、後方過ぎてよく見えなかったということだけど、それまで灰色の建物の隙間に潰されるように生きてきた私にとって、広大な藍色の海原に開いた火の花弁は、これまで眺めた景色のどれよりも、記憶に色濃く刻まれた。本当に本当に綺麗だった。打ち上げ花火はこれまでも見たことがあったけど、どれも背景がビルばっかりで、それはそれで美しいんだろうけど、どこか本来の魅力を切り取った姿に見えていた。

迷惑になるといけないからと言って、コンクリートの手前で自転車を降りて、格好つけてハードタイプにした、重いギターケースを抱えて坂を上った。目の前を走る夏樹先輩の、身軽そうなソフトケースをずっと目で追っていた。きつくて諦めそうになったけど、何とか登り切って、前を見る。『こっち見えるかも!』というタクミ先輩の声に応えながら、膝に手をついて息を整えていた私の肩をそっと引き寄せたのは、夏樹先輩の大きな手のひらだった。丁寧に几帳面にベースの弦をはじく指が、そのときだけは私のものだった。そうしてたどり着いた、花火が上がる海岸と向かい合う崖。

引っ越してきて五ヶ月、ただ味気ないと思っていた水の上、衝撃が走る。据えた火薬の匂い、どんっ、大きな音、そして中心からゆっくりと咲く、黄金色の夜の花。花火がこんなに近いなんて。こんなに大きいなんて。咲くときは長い時間をかけたくせに、満開だったのはほんの一瞬で、あっという間にすすきになって、幾筋もの余韻を空に刻みつけながら、あぁそれも、一度瞬きしただけで、すぐに薄れていく。どうしてこんなに綺麗なんだろう。どんっ、ぱんっ、だだんっ。最初の一発を契機に、いくつもの火薬が爆ぜる。

それに見入っていたら、ふいに、隣からの視線を感じた。誰だろうとそちらを見る。そうすると、身をかがめて私と身長を合わせ、こちらの顔を凝視する夏樹先輩と目が合った。漆黒の瞳は面白そうに私を覗き込んでいる。ゼロ距離から眺める夏樹先輩の肌はきめ細やかで、透き通っている。そこを伝う一筋の汗が妙に色っぽくて、私は思わず目を逸らした。

『ずいぶん楽しそうに見るな?』

寡黙な先輩は珍しく笑っていた。いつもは見上げている先輩の顔が、私のすぐ横にある。喉仏が上下するのが見えただけで、なぜか私の心臓は壊れたようにどくどくと波打って、苦しくなった。先輩は何も言わない私の頭にぽんと手を乗せた。

『えっ…』

『お前、ここ、好き?』

顔が離れていく。距離が離れて、ようやく先輩の顔を見ることが出来た。

綺麗なフェイスラインに、長い前髪がさらりとかかる。首を振ってそれを払ったら見えた漆黒の瞳は、金や赤や白の色彩を、映画のスクリーンみたいに映していた。先輩の中にも花火が上がっている。私が見ている景色と同じなのかな。

そして気がついた。私、ここの、海と空を背景に上がっている花火が好き。だけど、先輩の瞳の中の花火が、もっと好き。先輩から世界はどう見えているの?この花火を見て、何を感じているの?

『な、好き?』

もう一度、乗ったままの手のひらで頭をわしわしとされる。何が好きかって聞かれてたんだっけ。分からないまま顔を上げると、花火の明かりに照らされて、優しく微笑む先輩がいた。それを見ただけで、私の口は勝手に言葉を紡いだ。

『すき、です。』

言ってしまってから、”好き”という言葉に自分でどきどきしてしまった。耳まで真っ赤になっている自信がある。どうか夜に紛れて見えていませんように。祈るように体を硬くする。

『そ、』

動揺している私とは正反対に、先輩は満足そうに頷くと、瞼を上げて、ちょっと幼い、いたずらっ子のような顔をした。一瞬だけ花火に照らされた、その表情は、とても格好よかった。

『じゃあ来年も来ないとな。』




あれからもう一年も経ったなんて。時の流れは残酷で、私が全然消化しきれないことも全部ないまぜにして、とっとと先に進めてしまう。まるで油を差していない自転車のチェーンのように、ぎしぎしと頭の中がひずんで、その事実を受け入れ拒否しようと頑張っているけど、どうしようもないんだ。きっと人生の中でしっかり納得して受け止められることなんてごく僅かで、その他多くは強制執行されて、”諦め”に還元されていく。それが溜まる度に、私は大人になっていく。


先輩との約束は、きっと果たすことができない。お母さんに言えば、花火大会の日までここにいることはできるだろうけど、お別れが長引けば長引くほど、辛くなってしまうから。それに、あの約束を先輩が覚えている確証もない。先輩にこの話題を持ち出さなければ、お互い”忘れたまま”で、なかったことにできる。一番優しい方法で、先輩との仲を終わらせることができる。

……だけど。




本当は、行きたかった。

今年は予定が空いているから、浴衣だって着ていけただろうし、花火が上がる前に出店を楽しむこともできた。

この気持ちが、伝わらなくてもいい。ただ、ひとつだけ…ひとつだけ、願いが叶うなら…


一緒にいたかった。


ただそれだけでよかった。隣にいて、あの横顔を下から眺めることだけで、先輩の瞳越しに花火を見ることだけで幸せになれた。どうしてこんなに簡単なことでさえ、叶えられないんだろう。




あんなに綺麗な景色が瞼の裏に浮かんでいたのに、いつの間にか気分は灰色になってしまった。今、目の前に広がる水色の景色だって十分素敵なのに、こんなどんよりした気持ちで向き合っていたら、なんだかとても失礼だ。

引っ越し、転校、別れ、さよなら、そんなものには気持ちを動かさないように、なんて格好つけてるくせに、いざそれと向き合うと、どうしてこんなに弱くなっちゃうんだろう。

私はのっそりとその場を立ち上がった。部活に行く気はないけど、家には帰れない。ここを離れて、私は次にどこへ行くつもりなんだろう。

引きずるように足を踏み出し、一歩進んだその時。


「え?」

右足に何かが引っかかった。見ると、乾いた砂からほんの少しだけ、硬いものが顔を覗かせている。何だろう。

指先でちょちょっと砂を払うだけで、案外それはさっさと姿を現した。

「何これ…」

土砂か何かに揉まれたのか、それは硬い泥の塊で覆われていた。だけど、丁寧にそれを落としていくと、中からきらりと輝く身を現した。

「かが、み…?」

正円の、私の手に収まるくらいの大きさだった。額がない代わりに、鏡自体の縁に直接、柄が掘ってある。近いところで言うと唐草模様に似ていた。真ん中には、色素沈着したのか、黒い染みが大きく入っている。だけど、それさえ除けばかなり品がよくて、私の好みのドストライクだった。

「きれい…」

太陽に透かそうとして、いけない、鏡は反射しちゃうと思い直した。家に持って帰って明るい場所でもう一度見てみよう。私はそれを、スカートのポケットに入れる。


自転車に向かって走ると、私に寄り添うように、鏡が足を撫でてきた。ちょっとだけ気分がよくなった私は、次の目的地も決めないまま、自転車を起こし、またがって、ペダルをぐいっと踏み込んだ。木々が生い茂る急な坂に向かって一直線。肩で切る風が心地よくて、私は、あの鳥のように、どこまでも飛んでいけそうな気がしていた。











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