後編

【9】帰る場所

「…ありがとうございました!」


大トリの私達が舞台を去ると、緞帳が降りて、ライブの全プログラムが終了した。舞台袖に戻る、その最後の瞬間まで、私はできるだけ瞬きをしないようにして、その光景を目に焼き付けた。


『いい歌だった』と頷く人、『寂しくなるね』と眉を下げる人、『こんな音楽に出会えて幸せだったよ』と泣きながら笑ってくれる人。眩しいステージ照明、その中でもひと際明るいスポットライトと、その下で凛と佇む一本のスタンドマイク。その全てが当たり前だった。でもたった今、この上なく特別で、もう二度と手に入らないものになった。


隣のシオンも、一年生達も、何も口にしないまま泣いていた。皆目を合わせることはなく、緊張から解放されて力が抜けたのか、はたまた全てが終わったことに対して一種の諦めを感じているのか、下を向いて、肩を落としてるようにも見えた。だけど、私の目から流れる涙はなかった。シオンの手を握ったまま、むしろすがすがしい気持ちでいた。

多分、やりたいことは全部できたから。自分に嘘を吐いていないと、胸を張って言えるから。

こんなに後腐れのない”最後”は初めてだ。だからこそ、私の一番大切なところに、ずっと閉まっておこう。忘れないよ、この経験…嬉しかったことだけじゃない、ぶつかったことも、自分の弱さに気づいたことも、それを曝け出したことも全部、私の一部だ。

本当に、ありがとう。

上を向いた。舞台袖はもう、眩しくなんかない。だけど、何度も何度も、瞬きを繰り返した。




「…いーくーよっ」

もう帰っちゃったかな、忙しいし、と思いつつも、一縷の望みをかけて楽屋が並ぶ廊下を走り抜ける。「シオン、早く!!」「…もうっ」何故か尻込みする彼女の手を引いて、やって来たのは客席だった。ライブが終わったあとはいつも、裏でも挨拶があったり、打ち上げがあったりするんだけど、私達は一年生達を置いて、とりあえずこっちに来ていた。『もうこれでさよならなんですか』とまた目を潤ませる一年生ちゃんには、明日の花火大会の前に、部室に置いているものを引き払いに行くからもう一回は会えるよと言ってどうにか納得してもらった。そこまで無理を言ったのは、どうしても会いたい人がいたから。

そこへと繋がる重いドアを開くと、急いで来たとはいえ、もう既に退場は進んでいて、あとはまばらに人が残っているくらいだった。やっぱり無理か…と下を向きかけたとき、「…あそこにいるよ」と囁く静かなシオンの声と、「二人とも‼」と言う明るいタクミ先輩の声が同時に聞こえた。


「…タクミ先輩‼」

「本当にお疲れ様。」

先輩はくしゃっとした笑顔を浮かべて、こちらへやって来る。その表情が本当に嬉しそうで、私もほっと息を吐いた。開演前も一応顔を見ることはできたけど、ちゃんと話をしたかった。現役時代と変わらず”薄い”という印象の体躯を持つタクミ先輩は、引退してからのたった数か月でまた痩せた気がする。幼い頃から音楽教師とバイオリン奏者の両親にピアノを習っていたらしく、バンドのメンバーだった当時は、とても繊細で美しい音色を響かせるキーボード担当だった。ちなみに、幼少期からの音楽経験とか、几帳面な性格とか、共通点は多いのに、何故かシオンはタクミ先輩のことが苦手らしい。それについて特別話を聞いたことはないけれど、こういうときも絶対に私の二歩後ろに立っているところなんかで、何となく察することはできる。確かに気にならないと言えば嘘になるけれど、決して”苦手”なだけで”嫌い”なわけじゃないみたいで、喧嘩が起きて揉める訳じゃないから、2人の距離感があるんだろうなぁということにしている。

「…何から言えばいいんだろう…。わかんないや、それくらい感動する場面しかないライブだったよ。」

そう言ってタクミ先輩は私に向き合って姿勢を正した。子供っぽいと思えるほど実直なところが、実に先輩らしかった。

「でもまずはこれかな。」


卒業、おめでとう。


それは、先輩方の卒業式で、先に私が贈るべき言葉だった。思わず息が詰まる私を見て、先輩はさっきまでの客席の皆と同じように眉間に皺を寄せつつも、優しく微笑む。

「昨日の朝にいきなり聞いてびっくりしたし、正直今でも全然受け入れられてないけど…。

でも、今日の様子を見て安心したよ。つむぎちゃんは、どこに行ってももう大丈夫だね。音楽を始めた時と比べて、今はすごく、自由に見えるよ。」

じゆう。その言葉がちゃんと”自由”という形を持つまで、少し時間がかかった。だけど、その意味が分かった瞬間、何とも言えないきりりとした痛みが胸に走って、そっと空を仰いだ。

私を、こんな風に自由にしてくれたのは、この切ないさよならという経験だったから。さよならがなければ、ずっとここにいることができたのに。でも、さよならがなければ、私が変わるきっかけもまた、なかった。

これは決して、寂しいことじゃないと、また零れそうになるものを抑え込む。先輩を見つめ直すと、「頑張ったね」と笑ってくれて、その薄い掌がこちらへ差し出された。


「つむぎちゃんがここを離れても、俺達の頭の中に記憶として生きてる限り、つむぎちゃんはここからいなくなったりしないよ。いつでも帰ってくればいい。ここはもう、一つの故郷なんだから。


俺達のバンドに入ってくれてありがとう。それを盛り上げてくれてありがとう。俺達がいなくなっても、引き継いでくれてありがとう。自分達のものにしたっていいのに、曲もコンセプトも継承してくれてありがとう。

素敵な音楽と、最高の出会いを、本当にありがとう。」


私の手が引かれて、そっと、先輩の手と握りあう。

ありがとう。先輩の簡潔な言葉に全てがこもっていて、言おうと思っていたこちらの感謝や別れの挨拶が吹っ飛んでいく。

先輩の使う言葉はいつだって綺麗だと思っていた。多分それは、現代を生きる私達にとってあまりにも単純で、忘れていた何かを思い出させてくれるものだったから。飾り立てたり相手を気にしすぎたりして重くなった美辞麗句なんかじゃなくて、本当に心に響くのは、思ったままの気持ちがそのまま滲み出た身近にある言葉なんだ。先輩はいつもそれを上手に使う。いつも私に、原点を思い出させてくれる。

いつでも帰ってくればいいと、隠しているはずの新たな場所への恐怖心でさえ、優しく包もうとしてくれる、その気持ちが何よりも嬉しかった。

「こちらこそ、ありがとうございますっ。」

ありがとうだけじゃない、さよならとか卒業までいられなくてごめんなさいとか、色んな事を言いたかったけれど、結局、口から出たのはそれだけだった。でもきっと、これが一番言いたかったことなんだ。伝えたかったことなんだ。それならもう、他の何かはいらないかな。

確信を持って先輩の手をもう一度強く握りしめる。先輩は小首を傾げて微笑み、優しく握り返してくれた。




「ね、シオンもこっち来なよ」

「…大丈夫」

さっきよりさらに二歩下がったところにいるシオンを見るために、タクミ先輩の手を握ったまま振り返った。別に不機嫌そうな素振りを見せることはないけれど、頑なにこちらへ来ようとはしない。

「これからのボーカルはシオンって紹介したいから」

「そのことについてな・ん・で・す・け・ど‼」

瞬間、シオンの声が大きくなって、綺麗な二重瞼がつり上がる。つかつかと速足で近づいてくる美人の怒った顔はド迫力で、反射的に身を縮こまらせると、なぜか「あははっ」とタクミ先輩が快活に笑った。


「ちょっ、先輩たすけっ」

「ダメ‼話聞いて‼

少しくらい相談してくれたっていいでしょ?もうっ、ステージ上で素にもほどがあるってくらいの反応しちゃったし…。第一、本当に私でよかったわけ?その場のノリじゃあ治められないよ、あんなに期待させちゃって…」

「いいに決まってる。むしろ、絶対にシオンじゃなきゃダメだよ。」

そう言って肩を掴むと、シオンはふいをつかれたように黙り込んだ。

「このバンドのことも、旧ボーカルの私のことも、音楽の楽しさも、今、あのバンドの中で一番分かってるのはシオンだから、これまでが好きな人も、これからを期待してる人も、どっちも楽しませることができると思ったんだ。

それに第一、私がシオンの声、大好きだから、歌ってほしいの。シオンの声質は私のとはちょっと違うけど、胸の中にすうっと入って来るような、聞き心地のいい声でしょ?それでもっと、バンドを遠くへ連れて行ってほしい。できれば、私の耳にも届くくらいのところに。」

「…そういうこと言っとけば納得すると思って…っ」

「でもその通りでしょ?」

そう言って笑いかけると、シオンは顔を赤くして目を逸らした。耳たぶまで火照ってるのが可愛くて正面に回り込もうとすると、シオンはくるくる回転してまで私から顔を背け続けた。

「…もう、ほんとに…言葉も出ない…」

はぁと溜め息をつくシオンに、タクミ先輩は笑いながら言った。

「あはは、珍しい構図で俺も楽しいよ。シオンがつむぎちゃんに負かされる日が来るなんて、ねぇ…」

「負けてなんてないですからっ…というか、夏樹先輩は?」


シオンがそう言うと、なぜかタクミ先輩は表情を凍り付かせてそっと下を向いた。

実はライブが終わってタクミ先輩と会ったときから一番言いたかったことをシオンが言ってくれた。でもタクミ先輩の表情は思わしくなくて、何があったのかと不安になってしまう。

「ライブが終わるまではいましたよね?」

「うん…そうなんだけど、幕引のすぐあとに連絡が入って、職場でお母さんが倒れたって聞いたらしくて…普段からそういうことがあるらしいんだけど、念のためだって。」

「あっ…そうなんです、ね…」

「うん…すごくよかった、これからも両方とも応援してるって、2人に伝えてほしいって。あと…」

「あと?」


「つむぎちゃんに、『明日、楽しみだな』って言っといてだって…何なのこれ?」


その言葉を聞いた瞬間、今度は私が赤くなってしまった。何爆弾落として颯爽と姿消しちゃったんですか…もう‼

「…誰かとお間違えになったんじゃないんですか…?」

「…その反応ってつむぎちゃんと関係があるってことのほぼほぼ証拠みたいなものじゃないの…?」

「まさか…あはは」

乾いた笑いで誤魔化すしかない。タクミ先輩が受験生で、花火大会のことが頭にないタイプの勤勉な人で本当によかった。同級生と教室で話したものなら、確実に質問攻めな話題だから…。

それ以上何も言うことができなくて、視線を彷徨わせる。

ほとんど人がいなくなった客席を見回したとき、ふいに重い防音扉が僅かに開いて、外の明かりに目を細めるとともに聞き覚えのある人の声が聞こえた。




「ミユキさん…?」


「困ります、関係者以外立ち入り禁止です‼‼」

「会わせてくれっ…‼命に関わることなんだ‼」


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