【前日譚】『ただ、××××××だけ。』
「姫がいないぞ‼」
たんたんたんたん、檜の廊下床を、小さな足が打つ。その細い足首には、麻縄で縛られた痕がくっきりと刻まれていた。
漆黒の紬を身に纏った少女は、何度も裾を踏んづけそうになりながらも、一心不乱に走り続けた。
彼女はもともと病弱で、普段からあまり部屋を出ない。それにも関わらず、ここ一ヶ月は、色々な場所に連れ回されて、体力と共に気力も限界を迎えていた。
それでも少女には、行かなければならないところがある。その命にも代えられない、かけがえのないあの人がいる場所へ。
「いたぞ‼」
「!」
少女がつい先ほど曲がった角から現れたのは、紋付羽織袴の武士達だった。きっとこんなことが起きるとは予想していなかったのだろう、刀は身につけておらず、体一つで少女を追いかけてきたようだ。
いや、刀はあったのかもしれないが、あえて持ってこなかったのかもしれない。男達の視線はどこか生暖かく、いたずらをした幼い子供を見るような目つきだった。同情心があるのかもしれない。そう思わせるほどに、少女は小さく、儚く、そして可憐な容姿をしていた。
「悪いことは言わねぇです、姫、お戻り下せぇ。」
数十人の先頭に立った、細面の若い男が話しかける。
「あと3日、ここにいなすったら、母君や姉君と一緒にお帰りになれます。
だから、どうか…」
そう丁寧に言いつつ、彼らは徐々に少女との距離を詰めてきた。背中は壁に押しつけられ、その周りを屈強な男達が囲む。完全に脅しの図だった。
それに、少女は気づいている。男は『母君や姉君と』一緒に帰れると言った。しかし、少女には他に、兄君や弟がいる。ここには皆で来たと言うのに。
この人は、家族全員を解放するとは言っていないのだ。
平穏な暮らしを送っていた、田舎の領主に何の価値があるのだろう。戦に慣れていないのは、少女も男兄弟も変わらないと言うのに。
「さぁ、」
いよいよ視界が大きな影で遮られ、周りが見えなくなった。恐怖で自然と身が竦まって、体を丸める。
少女に数多もの手が伸びる。
しかし、油断しているその動きは酷く緩慢で、それは、少女にでも避けられるほどのスピードだった。
「はあっ」
勢いよく前転をして、隙の多い端から逃げ出す。
「あっ」
細面の間抜けな声がしたと同時に、男達は少女が走って行く階段の方へ踏み出した。驚きで動きが遅れたとはいえ、常日頃から稽古をしている武士と、部屋に籠もりっぱなしの少女では、勝敗はわかりきっている。
少女が階段の三段目に足を掛けたと同時に、一人の男がその長い髪を掴んだ。
「い"っ」
必死に振りほどこうと足掻くも、そうすればするほど引っ張る力は強くなる。援軍も攻めてくるようで、先ほどまでいた廊下から、ばたばたと騒がしい音がした。
「姫、これ以上は
父上や母上がどうなってもよろしいのですか。」
細面とは違い、その男は芯の通った
ついに追っ手が角を曲がり、その姿を見せたとき、
少女は無表情で袖に隠し持っていた懐刀を抜き、
男がむんずと掴んでいた髪をばっさりと切り落とした。
瞬間、開放感に体がよろめく。しかし、立ち止まっている暇はない。援軍は階段の前で何やら情報伝達をしているようで、すぐには迫ってこなかった。
その隙をついて、少女は半ば転げ落ちるような形で階段を下り続けた。
途中の階で、「おい、こっちだ‼」「縄を持ってこい‼」と罵声が飛ぶ。すぐに殺されないところを見ると、どうやら少女は知らない間に丁重な扱いを受けていたようだ。逃げ出した今、そんなこともう全く関係ないのだけれども。
どこまでも続くような長い階段を下るたびに、喧噪は激しくなっていった。少女は目隠しをされてここへ来たから、一階までどれだけ距離があるのか、ここが今何階なのか、それさえも分からない。
それでも走り続けた。柔らかい少女の足裏は擦り切れ、真っ赤な血が滲んでいる。
体が痛い、息が苦しい。何も悲しいことなんて考えていないのに、少女の目には自然と涙が浮かんでくる。
――――お父さん、お母さん、兄弟の皆、
ごめん、ごめんなさい。――――
あの部屋を飛び出したときから、身の安全が保証されなくなることは覚悟していた。それは家族に対してももちろん。自分のせいで、罪に問われてしまう。きっと殺されてしまうだろう。それが分かっていて、逃げたはずなのに。
今更、泣くなんて許されない。家族の命を差し出して、さらに少女まで死んでしまうなど、そんなに意味のない話はない。
だから少女は、どんなに苦しくても、進まなくてはならない。
子供のように袖で乱暴に顔を擦った少女は、もう一度正面を見て、一気に階段を駆け下りた。
「あっ」
夢中になって下った階段に、ついに終わりが訪れた。居住区域ではないらしく、明かりはほとんどない。少女を追って城中が警戒態勢であるはずなのに、なぜかそこはしんと静まり返っていた。
わずかに光が漏れる格子窓を見つけ、そこから外を眺める。
そのとき、少女の瞳に映ったのは、その目を疑う、衝撃的な光景だった。
城の周りが真っ赤に染まっている。
比喩でも例えでもなく、本当に真っ赤なのだ。そこからは焦げ臭い匂いが立ち上り、ただでさえ弱っている少女の喉を刺激する。
「ごほっごほっ、」
焼けるような痛みが、その炎が幻ではないことの証明だった。
少女が捕らわれていた城は、どこかの敵の攻撃を受けて、今、落城しようとしている。見る限りここの堀は浅く、この様子じゃ炎を抑えることはできまい。海の傍、断崖絶壁に建っているが故の構造だろうが、燃やされてしまえば全てお終いだ。
あの部屋から抜け出せたとしても、今度はこの炎の中を掻い潜らなければならない。しかし、非力な少女には、もう力なんて欠片も残っていなかった。着物の裾が床にべったりと付くことも気にせず、ぺたんとくずおれる。
もうお終いだ。全て諦めるしかない。
目の前が暗くなって、意識が遠のきはじめた、そのとき。
「姫様⁈」
誰かが少女を呼んだ。
「え?」
本来ここでは使われない呼称。しかもその声はどこか懐かしい、故郷の人のものだった。ほんの1ヶ月離れていただけなのに、今生の別れのように、もう二度と会えないと思っていた少女にとって、その声は、感動という言葉では言い表せないくらい心が晴れ渡るものだった。
似合わない鎧を身につけた中年の男と、まだ若くておどおどした男は、こちらへ駆けてくる。少女だってすぐに起き上がって身を寄せたかったが、疲労のせいで、体が重く、全く動けなかった。何か衝撃がなければ、意識を保っていられない。
少女はためらいもなく、先ほど髪を切った刀を取り出して、腿にぐさりと突き刺した。
「う"っ…」
気分が悪くなるほどにどくどくと体が波打つ。痛い。呻くたびに意識が冴えていく。
刀を抜き去ると、黒い紬に、更にどす黒い染みがじんわりと広がった。
「姫様‼何てことを‼
…
「だいじょうぶよ、」
少女は微笑んだ。戦なんて経験したことはない少女だったが、こういうとき、大将が動揺すると、部下のものはその何倍も慌てるということを知っていた。
中年の男は自らの鎧を持ち上げ、その下に挟み込んでいた手ぬぐいを手渡した。少女は半襦袢の上から腿を圧迫する。こめかみに脂汗が滲んだ。
「来てくれたの」
「えぇ、ようやく昨夜、準備が整いまして。
遅くなりました。申し訳ございません。」
「いいの。
他の人達は…?」
「…それが、」
傍らに膝をついて、少女の背中を支えていた若い男がびくりと体を震わせた。中年の男も頭を下げ、目を逸らす。
「何があったの、皆、敗れてしまったの…?」
少女の脳裏に嫌な場面が浮かぶ。
小さくとも過ごしやすい、綺麗な空気が一年中流れる、自然豊かな故郷。そこが全て焼け野原になり、敵の幟が揺らめく。その下に積み重なっているのは、知った顔の領民達の動かない骸…。
「どうなの、ねぇ。
答えて。」
中年の男は何度も首を横に振る。まるで子供のような仕草は、辛い現実に対する反動のようで、ますます少女の不安を煽った。
「ねぇ。何か言って。」
今度は逆側にいた、若い男に縋る。手ぬぐいを押さえていた手が外れて、汗と共に血が足を伝う。
若い男は少女の幼なじみだった。この他にあと一人、幼い頃はずっと一緒に遊んだ仲の男がいた。
この二人と出会ってから、ずっと気がかりだった。もう一人の彼はどこへ行ったのだろう。違うところで戦っているのかもしれない。そうであってもおかしくない。彼は農家の息子であるのにも関わらず、体を動かすのが得意だった。
なのに、少女の頭は嫌な予感で苛まれていた。
どうして、どうして私の前に姿を現さないの?
「ねぇ。」
少女は下を向いたままの若い男の腕を引っ張り、揺さぶる。
そのとき、堅く握りしめられた拳が、諦めたようにぱっくりと開き、中から何かが飛び出した。
きんっ、きーーーん。
高い音を立てて、それは床を転がった。
見覚えのある小さな手鏡。
…いや、記憶の中のそれとは、姿が様変わりしている。
中心に大きなヒビが入っていた。
そして、鏡面の縁に模様が刻まれている珍しい作りなのに、その模様が見えない。
その理由は、この暗がりでも分かる。
赤黒い血が、中央に広がっており、模様はおろか、少女さえも見えなくなっていた。
「これ…もらってもいい?」
少女の心には、何も浮かんでいなかった。先ほどのように涙が溢れることもない。気持ちを作る場所に鍵をかけられたみたいに、どうしても心が動かなかった。ただ反射的に、そんな言葉が出てきた。
「姫…」
喉から絞り出すように、若い男は悲痛な声を漏らした。その苦しみで歪んだ瞳が、わなわなと震える指先が、言葉にならない気持ちが、全ての答えだった。
あぁ。
少女の中で、何かが壊れた。
いつものように、そのしなやかな指で頬をなぞり、腰に手を回し、耳元で名前を呼んでほしかった。身分差なんて関係ない。少女にとって彼は唯一無二の存在であった。たとえ、お互いに許嫁がいたとしても、少女がもうすぐ女にならなくてはいけなかったとしても、それは絶対に揺らがないはずだった。
なのに、死んでしまっては、何も残らないではないか。
少女が愛を叫んでも、それを伝えたい彼は、もういない。
それはつまり、少女の生きる意味が消えたことを表していた。
少女は下半身を引きずりながら、鏡が転がった場所まで動いた。
手に取ったそれは、息絶えた小鳥のように無機質な冷たい温度を伝えてくる。
いつしかの誕生日、少女が魔除けの品として贈った、西洋の骨董品だ。とても気に入った品だった。これだったら思いが一番こもるに違いないと、彼を守ってくれるように何度も祈って渡したのに。
「意味ないじゃない」
それでもこれは、きっと彼が死ぬ間際まで握っていたに違いない。その証拠に、表面を指でなぞったら、真紅に色づいたから。
でも、こんなものを手に、彼がいない世界を、これからずっと生きていけるのか?
彼が遺したものを命綱に、その遺志を継いで、なんて。
「無理よ。」
言葉に出してしまえば、思っていたよりそれが本音だったことに気がつく。そうだ、彼のいない世界なんて意味がない。『女の幸せ』なんて写本を受け入れるつもりなんぞ、少女には全くなかった。
ならば。
「姫様⁈」
少女は近くの回転窓まで這いつくばって進み、戸を回した。中年の男は外の光景を見て、驚きの表情を浮かべる。
つい先ほどまで塀を蝕んでいた炎は、あっという間にそれを食い尽くし、もう堀の中を焦がしはじめていたのだった。むせ返るような熱気と痛みを感じるほどの熱波に、自然と体が
「ここまで火の手が回りやすいとは…。
姫様、早く行きましょう、そして…」
そして。
それに続く言葉を、少女は持ち合わせていない。全てはここでお終いだから。
このまま抜け殻のように生きることの、何が楽しいのだろう。中年の男は、少女に生きることを望んでいるが、少女自身は、そんなこと全く考えにもなかった。
一緒にいたい、ただそれだけなのだ。それが叶わない世界など、少女には必要なかった。
少女の体は
鏡をぎゅっと胸に抱く。そのとき、少女の目に映っていたのは、男達でも、深い堀でも、灼熱の炎でもなかった。
確かにそこにいる。
燃えさかる堀の中で、確かに彼が、両手を広げて少女を待っている。
今すぐ行きます。
最期の瞬間、少女は微笑んだ。
「あっ」
「姫様‼‼‼」
炎に驚いた男達の視線の、ほんの一瞬の隙を、少女は見逃さなかった。傷を負ったせいで力の入らない右足ではなく、左足で床を蹴る。
二本並んだ跳ね橋は上げてあった。その間にある隙間目がけて、少女は自らの身を放った。
細く小さな身体は、いとも簡単に落ちていく。抵抗しないので、それはあっという間のことだった。
「姫ええええええええ‼‼‼」
若い男は絶叫する。その声は、摩擦で燃えるように擦り切れ、腹の中から吐き出すような絶望の結晶だった。
男は窓に向かって駆け、
「おい‼」
そのまま落ちていきそうな勢いに、中年の男は声を上げる。しかし、次の瞬間、海岸線から起きた大きな爆発音と激しい光に、二人は身を竦めた。
……どんっ。
「「‼」」
黄金色の花火が打ち上げられたのだ。
目が眩むほどの光量が、たった一瞬だけ、暗闇の世界を明るく切り取る。
堀の中、炎に抱かれるようにして、微笑んだ少女が横たわっていた。
それはまるで、たった今消えていった儚い命と、
その真っ直ぐな思いを夜空に焼き付けるように、
この世のものとは思えないほど綺麗で、一瞬だった。
わずかな残光も、すぐに消えゆく。
花火も、命も、愛も、簡単に燃え尽きる。
しかし、だからこそ美しい。
一瞬しか愛せない。
だから人は、その一瞬に心を、思いを、命を込めるのだ。
「姫、姫、ひめええええええええ‼‼‼」
中年の男に腰を押さえつけられ、身動きがとれなくなってもなお、若い男は暴れ続けた。先ほど、彼の死を悟られたときよりも何倍も錯乱している。それはまるで、人間として生きるために必要な感情が切り取られたようだった。喜怒哀楽、そのうちのどれでもなく、『絶望』の感情しか、男には残らなかった。
「早くしないと、俺達も死んじまうぞ‼」
中年の男は諦めたように若い男の鎧を無理矢理剥がし、肩に担ぎ上げた。
「姫が、姫が…」
男はもがく。しかし、中年の男の手刀で気を失った。
中年の男は息をつき、窓から堀の中を覗き込んだ。
もうすでに堀の内側の壁にまで炎が迫ってきていた。その真っ赤な地面の中に、一つだけ、光っている場所がある。
鏡。投げ出され、黒い布の燃えくずの上で光っているのだった。
中年の男は、もう一度息をつく。
生きながら死ぬ思いをするか、死んで心を生かすか。
少女が選んだのは後者だった。
その選択が正しかったのか、一使用人である男には判断できない。ただ、君主が望むことを叶える。それが男の勤めだった。
男は事前に盗んでいた見取り図を思い出し、隠し通路がある場所へと急いだ。走りながら、年甲斐もなく顔を大きく歪めて奥歯を噛みしめる。ここで泣いてしまったら、君主の決断に異を唱えることになるから。
そのしずくは、この城とともに燃やしてしまおう。我が主はここに残ることを望んだ。それでいいじゃないか。
夏らしい湿った熱気が立ちこめる。もうそこは生きた人が立ち入れるような場所ではなくなっていた。
やがて城は跡形もなく崩壊する。
がらがらと瓦が落ち、その上から格子が、陶器が、漆喰が、次々に蓋をしていく。
その中で、鏡だけが、何かに守られているように、壊れることなく瓦礫に覆われていった。
ある夏の日の出来事――――――――――。
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