【10.5】タクミ

小さい頃から、出たくもないのに、毎年幾つもの発表会に出ていた。億劫で億劫で仕方がなかったのを、今でもよく覚えている。




だってあの場所で、大した音楽は生まれないから。

俺と同じように、やる気のない子供達が、お仕着せの衣装で適当にステージに登り、適当に触れる鍵盤には、惰性以外のなにものも込められていない。芯のない、面白みもへったくれもない不格好な音が、無駄に豪奢なホールに響くだけ。そんな場所で本気を出そうにも、できなかった。


俺も例に漏れず、その一人だった。もし、音楽の才能があったとしても、きっとこんな場所じゃあ、一流のミュージシャンは最大限力を出すことなんてしないだろうなと、生意気に思っていた。あの頃、俺をぎゅうぎゅうに縛り付けていた色んなものに対して反旗を翻す気持ちで、ミスタッチを何度も繰り返したこともあった。わざと、標準を合わせて、ここだ、ここだ、とどきどきしながら、楽譜と一つずれた音を叩く。あれは、妙に気持ちが昂る、不思議な体験だった。何をしているの、あんなにレッスンに行ったのに、何度も繰り返し練習したのに、母親がきんきんした声で俺を怒鳴ること、お前はやっぱり出来損ないだ、それくらいならやめてしまえ、父親が軽蔑の目で俺を見ること、全部分かっていたのに、俺の指は止まらなかった。

ピアノから逃げたかったのか、怒られることで存在を認識してもらえるのがうれしかったのか、ただひとりあの場で意思を持った立派な人間になったつもりだったのか、もう今は思い出せない。






どうしてなのか、今、俺は十数年ぶりに、その気持ちを味わっていた。


この場で声に出したら、絶対に何か、もしくは誰かが壊れると分かっていたのに、どうしても戸が建てられなかった。とても、自分の中で抑え込めるものじゃなかった。だけど。

絶対に話すべきじゃなかった。もう既に、この場所は混乱に陥っている。

つむぎちゃんはさっきから、自分じゃ気づいていないけれど震えているし、シオンにいたってはすぐにでも泣きそうな顔をしている。ミユキさんという人も、自分で話していながら、それを信じていいのか、自問自答している最中のようだったけれど、酷く疲れている印象だった。ようやく今日、デビューを果たしたばかりの一年生だっていたのに。

この場で、一番状況を読むべきである俺が、我を失ってどうする。

罪の自覚と共に、後悔が上って来る。それだけが、ピアノのミスタッチと違うところだった。




でも、言ってしまったものはもう、しまうことなんてできない。まさに今、俺の目の前では、俺の手によって落とされた爆弾が爆ぜていた。






ばちりと音がしそうなくらい、しっかりと目が合ったのはつむぎちゃんだった。ステージにいたときは、見たことがないくらい鮮やかな感情を映していた瞳は今、瞳孔が見開かれ血走り、虚ろだった。「わたしのせいだ」口の中で息を吐くように囁いて、そのまま力が抜けたようにくずおれた。ひざの骨が床とぶつかり、ごちんと鈍い音を立てる。どこか虚空を見つめるその表情から、大事なものはすべて、抜き取られたようだった。

対照的に「いや…っ」と声を上げたのはシオンだった。いつもより腫れぼったい瞼をまたしばたたかせると、ぽろぽろ涙が溢れだす。制服の青いカッターシャツに落ちたしずくはシミを作り、まるで雨が降っているかのように、何度も上塗りを繰り返して水玉模様を刻んだ。「どうして、なんで、先輩が」きっとその言葉には意味がない。ただ投げられる声はきっと、今、この場所で意識を保とうとするシオンの正当な自己防衛だった。

錯乱状態のつむぎちゃんとシオンを見て、一年生の二人も不安になって、涙目になっている。ミユキさんも絶句した様子で、何も言わない。


俺が言葉を選んでいれば。空気を読んでいたら。でももう遅い。

こういうとき、『しゃんとしろ』といつも背中を叩いてくれる相棒は今、生死を彷徨っている。

いつもそうだ。大した苦労もしていない俺には、こんなとき、どうすればいいのかも分からない。守られてきた環境に殺されていると人のせいにして、結局、自ら飛び込んでいこうとしなかった自分が悪いのに。

あぁ、最悪だ。








「…だめ、だめだよ」

声がした。下を向いて目を背けた俺の代わりに、顔を上げたのはシオンだった。

ぼろぼろと涙をこぼしながら、まっすぐ、つむぎちゃんを見つめている。誰もが考えることを放棄していたこの場所で、ただ一人、シオンだけが立ち向かおうとしていた。

「つむぎ。行かなきゃ。」

ほとんどうわ言のような、小さな声だった。だけど、それが一番、大切な言葉だった。


「先輩っ」

一年生の男の子が我に返り、放心しているつむぎちゃんの手に何かを押し付ける。

「先輩、俺の自転車使ってください。今、鍵持ってないですよね。」

荷台もついてます、とシオンを見て言う。俺達は走って追いかけます、だから早く、先輩方、と、俺にも促した。その瞳は恐怖に震えながらも、正気を取り戻しつつある。

彼が一年生の女の子の手を引くのと、シオンがつむぎちゃんの肩を揺さぶるのは、ほとんど同時だった。女の子は全身で息をしながら、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と苦しそうに言う。今日一日で色んな事があって、キャパオーバーはとっくに超えている様子だ。今にも座り込みそうだけど、男の子に背中を擦られて、「私も行く、ぜったい」と睨むように視線を尖らせて、外へと続くドアを見据えた。

その手前で、つむぎちゃんはじっと、手に押し付けられた鍵を虚ろな目で見つめていた。完全に停止してしまった脳機能を揺さぶったのはきっと、シオンの芯のある湿った声だった。


「逃げちゃだめ、つむぎ。ねぇ、立って、行かなくちゃ。

誰のせいだったとしても、もう関係ない。


つむぎは、夏樹先輩を見捨てるの。」


その言葉は、俺にもぐさりと刺さった。確かに、はっきりとした痛みを感じる。心臓のあたり、血が噴き出て、脈打っている。

「…ううん」

俺が言葉を失っている間に、ついにつむぎちゃんも顔を上げた。シオンは震える手をつむぎちゃんに差し出す。それを取って、立ち上がったつむぎちゃんは奥歯を噛みしめて何かを耐えたまま、「ごめん」と言って、シオンの手を引いて走り出した。そのあとを一年生達が追う。病院の名前なんて聞かないまま、彼らはドアをぶち抜く勢いで走り抜けていった。どうせ言わなくたって分かっている。この街に大病人が罹るような病院はたったひとつしかない。




俺は動けなかった。足が震えて、とても歩けるような状態じゃなかった。だけど、あの場にいた人は皆、同じ状況だったはずなのに。


怖かったんだ。相棒の危機を目の当たりにするのが?いや違う。

皆が固まったあの場を作り出したくせに、何もできなかった俺が、今から夏樹のところに走ったところで、一体何になる?

”役立たず””引き留めていれば””お前が何もしなかったから”

詰られたくない。悪者になりたくない。

自分が攻撃されたくない。

本当はただ、そんな気持ちが俺の、足を地面に縫い付けているんだ。






「…君は、行かないの」

下を向くしかなかった俺に声をかけたのは、ミユキさんという人だった。

彼がどんな人なのか、出会ってたった十数分で判断することなんかできない。ただ、人見知りのつむぎちゃんが親しげに話していたくらいだし、きっと悪い人ではないんだろう。だけど、異常にむしゃくしゃしていた俺は、考えるよりも先に口を動かしていた。

「あなたなんかに、わかるわけないです。」

言って、何を見当違いなことを、と鼻で笑った。どうしてか、この人の前だと、普段のペースを保てないような気がする。まともな大人と話すことがないからか、いざ目の前にすると、酷く子供っぽくなっている自分を肌で感じた。


「俺はもう、ここで手を引くよ」

「え?」

何を言っているのか、本当に理解できなくて顔を上げる。するとミユキさんは「やっと目が合った」といたずらっぽく微笑んだ。大人なのか子供なのかよくわからない、掴みどころのない人だ。

「手を引きたくて、引けるもんじゃないでしょう」

「いや、そういう意味じゃない。

”呪い”のことなら、しかるべき順番がもし、回って来るなら、それに抗うつもりはないよ」

それに抗えるものでもないだろうしね、と口元に拳を当てて笑いを耐えるしぐさが癇に障って、俺は言葉で噛みついた。

「今、俺の友達が大変なことになっているんです。そんな話、聞いてる暇なんてありません」

「で?なら今すぐ、そのお友達のところに行ったら?」

君がここに残っているから言っているんだろうと、俺が反論する前に、その人は言った。

「今くらいしか、他のことなんて気にしないでがむしゃらに走ることなんてできないんじゃないか?」

「俺は、皆とは違う。

もうそんな時間ときは終わったんですよ。」


あと少ししたら俺は、高校を出て、大学生になる。その頃にはもう、立派な大人だろう。そのための準備期間である今はもう、俺にとって、自分を子供から大人に作り変えるための時間だった。

俺が行ったって、きっと何も変わらない。ここにいた人の中で、夏樹が求めるとしたらあの子しかいない。それがわかるとまた、心臓が痛むけれど、どうしようもないことだった。それが定められたハッピーエンドで、俺は脇役だったにすぎない。それでいいと、どこかで諦めているところもあった。

「でもあの子は、あぁすればあぁするほど傷つくだろ。」

「…俺に何をしろと?」




「好きなんだろ?」




「…誰のことを言って」

「あの子も、その子も、君も。」

「なら分かってるだろ」


何もかも成就することなんてない。それが人の気持ちを絡めたものならなおさらだ。こんな初対面の人に自分の中身を暴かれたことは非常に屈辱だったけれど、これまで交わした言葉の中で、それは一番純度の高い気持ちだった。

「傷ついたあの子を放っておくつもりなのか?」

「それはっ」

「でも今してることはそういうことだろ?」

「っ…」

ついにもう、何も言い返すことができなくなった。正論だったから。

俺は自分の弱い所から逃げようとして、自分の体面を保とうとして、きっと他の人なんてなにも考えていなかった。

俺が勝手に振りかざした気持ちは確かに、今は目の前のこの人以外には知られていないけれど、もう、あの日のミスタッチみたいに、自分だけが被害を被ればいいというものではなくなっていた。

今、あの子に寄り添ってあげられるのは誰だ。たとえ俺が、求められていなかったとしても、やることが…いや、やれることがあるんじゃないのか?自分の怖さとか、そんなものより大事な何かが、あるんじゃないのか?


「…おれ、」

「急げば間に合うんじゃないのか?」

もうほとんど人のいないライブハウスで、子供から成長した大人がひとり、大人になろうとしている子供を促した。


結局何なんだこの人、そんなことを考えている間にも、俺の腕は重い防音扉をこじ開け、足は階段を蹴っている。それが存外、軽い歩調なことに、驚いている。

本当はこうしたかったんだと、今更気づいて、アスファルトに足裏を打ち付けながら鼻を擦った。


まだ、許されるだろうか。今日はわざわざ、制服を着てこなかった。もう大人だと、そう言いたくて。だけどまだ、忘れていたものがあった。今更、思い出してしまった。あの時間ときに、置いてきたつもりだったのに。それと離れたら、きっと一人前の大人になれると、信じてここまでやってきたのに。

でもそれなしじゃ、ずっと、水底を搔いているような気持ちだった。俺が、俺じゃなくなったようで。大事なものから、目を背けているようで。

だから今は、格好悪くて、意地汚くて、自分勝手で、最悪な姿だけど、

久しぶりに息を吸って、思いっきり太陽の光を浴びたときのように、体が前へ前へ、あの子のいるところへ、急いで仕方がないんだ。

こんなこときっと、いや絶対、制服を着ている今だから許されてる。だからこそ、この特権を、めいっぱい使ってしまおう。俺がしたいこと、それだけを考えて。

ずっと一本道を走っていた。そこから抜けると、目の前には海が広がっている。見慣れた風景なのに、それはどこか、いつもより青く見えた。こめかみに汗が滲む。それでも止まらない、止まれない。


あの子のところに、たどり着くまで。

どんな結果になろうとも、走り抜こう。

きっと届かない、でもせめて、君が辛い時は、隣で支えさせてくれ。





















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


〈姫様には申し訳ないけど、


 俺は、青春時代のやり直しをするつもりはないよ〉




〈その役は、彼のものだ〉




〈貴女が何をどうしたいのか、俺には知る由もないけど、


 殺されるつもりも、あの子達を殺させるつもりもないんでね〉




〈当時の”彼”のように、完全服従なんてまっぴらごめんだ


 こっちだって、それなりに抵抗させてもらう〉




〈第一、こんなおじさんにはもう、これ以上の体力はないんだよ


あとはもう、若い世代が作っていく話だ〉




















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


〈…負けるな


 姫、君が本当にしたかったのは、こんなことじゃないだろ?


 自分を取り戻せ、じゃないと、あの子達もきっと、無事では―――〉

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花火 on @non-my-yell0914

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