お散歩日和あるいはうわさ話 1
おはぎちゃんは団地内を歩いていた。
既に通勤・通学の時間は過ぎているので穏やかな空気に混ざって時折、家々の庭先に干された洗濯物から柔軟剤の香りが漂う。
「すべて世に事もなし」
新入りの犬もいないようで、縄張りのしるしもいつも通りだ。
数十年前に山を切り開いて造成された住宅団地は時折老人が立ち去り、若い夫婦が入居することで緩やかに世代交代を行う。とはいえ、いまだに多くは新規売り出しの頃からの住人であり、年老いている。新しく犬を迎え入れる家族は多くない。
短い遊歩道を進んでバス通りに出る。少し先にあるバス停に淡い色合いの路線バスが止まっている。
おはぎちゃんの鼻が異臭をとらえた。なんだろう、と考えてこの前家族で遊びに行った海辺の香に似ている、と思う。
バスの乗降客だろうか、バスのタイヤだろうか、と近寄ろうとして横断歩道の手前で胴体につながれた引綱がひかれた。
引綱を握ったご主人の理子ちゃんが立ち止まっている。赤信号のようだ。
おはぎちゃんは異臭が強くなったのを感じた。タイヤではない。バスから降りた客の一人から異臭がする。人間には感じ取れない微かな、しかしなんとなく不快な感じのする海の臭いだ。
右側前方に位置するバス停には初老の女性が数人と大学生くらいの女性が数人、それにスーツ姿の男性が一人いた。
知り合いなのか、初老の女性がスーツの男性ににこやかに声を掛けている。
「あら今日は午後はお休みですか」
「ちょっと妻が体調が悪いと連絡があって、戻って来たところです」
「あら奥さま、赤ちゃんがいるんでしょう? お大事にね」
バスが終点へ向かって去っていく。
あの男性だ。おはぎちゃんは異臭を放つその人物を観察した。
挨拶が終わり、横断歩道へ顔を向けている男性は背は他の人間より少し高い。
髪の毛はすっかり後退して丸い頭蓋骨の形がわかるような額をしている。
目は丸く、顔の輪郭の外側へ向かってお互いに離れている。鼻は低く鼻孔は前を向き厚い唇のついた口は大きめで不機嫌そうに口角が下がっている。
不思議なことにバスから降りた大学生くらいの女性たちが男性を気にして見ている。
囁きあう声が風に乗っておはぎちゃんの耳には届いた。
「ねえ、あの人もしかして……俳優のHじゃない?」
「うんうん、似てるよね。でもちょっと背が高くない?」
どうやら人気俳優のHに似ているように見えるらしい。おはぎちゃんもテレビで見たことくらいはあった。全く似ていないのにどうなっているのだろうか。
信号が変わる前に男性は横断歩道の向こう側を大股で5丁目の方向へ歩き去っていった。どこへ向かうのか興味はあったけれど、残念ながらおはぎちゃんのお散歩コースはこれから反対方向の7丁目方向へ向かい、6丁目の公園でボール遊びをしてから5丁目に向かうのだ。
歩き出した理子ちゃんの前を歩きながら、横断歩道前を通り過ぎた男性が理子ちゃんに興味を示さないことを目の端で確認した。おはぎちゃんは「臭い男」のことは後で5丁目に住んでいる猫の
「それってどうなのよ?」
6丁目の公園で偶然会ったピットブルの諭吉くんに「海辺のニオイの男」の話をしたら言われた。諭吉君のご主人とおはぎちゃんのご主人は「今年の注射」について情報交換している。
「なにが?」
「だってあからさまに怪しいヤツじゃん。ソイツ。黙って行かせていいのかな」
「何にもしてないのに吠えたら怒られちゃうよ」
「それもそっか。ま、俺も気を付けておくわ」
「よろしくね。お互い大変だよね」
ホントだね、と諭吉くんと笑ってから5丁目へ向かう。
5丁目の庭は広い。
それぞれの家の建物も他地区と比べて大きいが、それを取り巻く庭も広い。きちんと手入れをされた芝生の上で引綱をつけた灰色の猫が優雅に日向ぼっこをしている。
「おはよう、ぎんちゃん、おはよう」
「おはよう、おはぎちゃん」
おはぎちゃんが「臭い男」について報告すると、ぎんちゃんは頷いた。
「報告しておくよ、ありがとう、おはぎちゃん」
「どういたしまして、ぎんちゃん。それじゃあまたね、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
黒色とベージュのくるん、と巻いた尻尾をフリフリおはぎちゃんは5丁目の坂道を下り、公園を通って自宅へ向かっていく。ぎんちゃんはゆったりと見送った。
周囲に人はいない。
ぎんちゃんは引綱を抜け出すと芝生の上を通りすぎ、生垣をくぐり抜け、お向かいの斎藤さん宅を斜めに突っ切り、2軒隣のまだ新しい家の屋根に上った。
真新しい表札には茂木と出ている。
嗅覚は犬の方が優れているが、聴覚と合わせてぎんちゃんにはこの家に住む海辺の臭いのする住人がいつもより早く戻っていることはわかっていた。
2階の窓から室内が見える。
ベッドの上にいるのはこの家の住人の女性とスーツ姿の男性である。
大きなお腹をした女性は恍惚とした表情をして天井を見上げている。男性の詠唱を聞いているのかいないのかわからない。
ベッドの上を含め、周囲に魔法陣が描かれている。両端には祭壇のように蠟燭が立てられていた。
違う。
禍々しい色の光で天井に描かれた魔法陣が床に向かって放つ光がなぜか黒々とした線となって反射している。
ぎんちゃんが魔法陣の一角に目をやると一文字分が書き変わる。
念のため、儀式を終わるまで見ていたが魔法陣が
男性が玄関を出た頃には、ぎんちゃんは自宅の芝生へ戻ってきた。
「ぎんちゃん、ドコにいっていたんでしゅか」
いつの間に外に出てきたのか、ぎんちゃんの飼い主;康平が涙目になってぎんちゃんを抱き上げた。
「悪いコでしゅね、悪いコでしゅね。心配したんでしゅよ」
頬擦りしてくる康平の髭面を両手で押さえる。
犬が鳴いた。
「こらっおはぎ、ダメでしょ」
康平の注意が逸れたのでぎんちゃんは腕の中からするりと抜けると、おはぎちゃんに駆け寄り、鼻チュー(注;鼻先と鼻先を付ける軽い挨拶)をした。
「こんばんは、ぎんちゃん、こんばんは」
「こんばんは、おはぎちゃん」
「何も怪しい動きはなかったよ」
「了解」
「それじゃあ、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
理子ちゃんと康平も軽く言葉を交わしたようだ。再び康平に抱き上げられてぎんちゃんは玄関をくぐった。
「康平、初対面の女の子には俺の名前はフルネームで伝えないほうがいいぞ」
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