血染めの遺言状

雨宮 徹

遺言

 呼吸さえも憚られるほどの静寂。重々しい空気の中、海野うみのさんが封筒を開けるハサミの音だけが響き渡る。



「えー、おほん。故人である如月きさらぎ氏の遺言状に従い、封筒を開けさせていただきました。さて、今から読み上げますので、お静かに願います」海野さんが読み上げる声が静寂を破った。



「『私、如月きさらぎ久嗣ひさつぐは、遺産である十億を次のように分け与える。ここにお集まりのみなさん、三日間この館にてお過ごしください。そして、ことをお約束しよう。なお、。すなわち、である。どのように使うかは、この場にいるもので相談したまえ』。以上になります」



 読み上げた海野さんさえ、その内容に驚いたのか、額に汗がびっしょりと流れている。海野さんはハンカチで汗を拭いつつ、深呼吸をする。



「これが、故人である如月氏の意思であります。これは……非常に不可解なものではありますが、法律的に有効なものであります。しかし……みなさんが変な気を起こさないことをお願いいたします」



「それは、おかしい話だわ! 娘である私、如月きさらぎさちが相続するべきものよ! それを赤の他人に相続権を与えるなんて、お父様はどうにかしてるわ。海野さん、これが法律的に有効、とはどうしてかしら?」幸さんはドスの聞いた声で海野さんに尋ねる。



「つまり、こういうことです。如月氏の遺言状にはこうありました。『家族である如月家および私が考案した暗号を解いた者を、館に集めよ。なお、暗号を解いた者が複数いた場合は、先着三名までとする』。そして、こう続いていました。『別で保管している封筒については、館において、弁護士の海野氏が開封すること』と」海野さんは幸さんから距離をとるように後ずさる。



「なるほどな。確かに、親父さんの遺言状に従えば、ここにいる全員に相続の権利があるわけだ。しかし、親父さんはこうも書いている。と。これは、幸、君の親父さんがこう言っているんだよ。『殺しあって、自分の取り分を多くしろ』って。なんとクレイジーな一家に婿入りしちまったんだ! オレは資産がたくさんあるというから、結婚したというのに。なんて、ザマだ」



「レオン、まさか、あなたは遺産目当てで私と結婚したとでも?」と幸。



「まあまあ、お二人とも、そうヒートアップすることはないでしょう。幸さん、そう睨まないでください。娘さんたちが困っていますよ」結城ゆうきさんが会話に割って入る。



「こうすればいいのです。つまり、如月氏の遺言状通りにするのです。私たちはここで三日間を過ごす。そして、無事東京に帰ったら赤の他人である私たちは相続権を放棄する。そうすれば、あとは如月家の方たちで配分を決めればいい。違いますか?」結城さんが冷静に言うが、僕の意見は違った。



 いや、意見が違うのではない。結城さんの言い分は正しい。しかし、それは理想論だ。莫大な財産を前に、理性を保てる人間がどれほど少ないか。すでに、隣に座っているミステリアスな女性、加賀美かがみさんの表情が変わっている。



 如月家の血を引くれいを見ると、彼女の顔は青ざめている。そして、不安のあまりに爪を噛んでいる。当たり前だ。今、ここにいる全員から命を狙われているのだから。まさか、あの時は思いもしなかった。僕も如月家の相続争いに巻き込まれるとは。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ある日の夕方だった。夕日が部室を赤く染める中、ガラッと音を立てて扉が開く。僕が読書を中断して目をやると、そこには瞳を輝かせた玲の姿があった。ショートカットの金髪が夕日に照らされ、きれいに光っている。



まこと! 面白い話を持ってきたわよ」



「玲、どんな話だい?」僕は思った。「どうせ、部室のポストに事件解決の依頼が入っていたのだろう」と。それも、悪質なイタズラに違いない。ここはミステリー研究会だが、まともな謎解きの依頼が来た試しはない。



「あ、その顔は『またか……』という感じね! でも、今回は今までとは全然違うわ。ほら、この前お爺様が亡くなったって話したわね?」



 確かに、この間は玲が「葬式がある」と言って珍しく部室に来なかった。ミステリー研究会に入り浸っているというのに。いや、正確には違う。彼女はミステリーが好きなわけではない。この人の少ない部室で静かに読書したい、ただそれだけなのだから。



「それでね、この前、お爺様の遺言状を開けたの。そうしたらね、うちが所有するある島で、別の封筒を開封することになったの!」



「それで? 面白い話ってどこが……?」僕は玲の話のどこにも面白さを感じなかった。遺言状で指定された別の封筒を開けるのなら、僕には関係ない話だ。



「なによ、冷たいじゃない。誠、あなたは横溝正史が好きだったはずよ。遺言状の開封なんて、ミステリー小説みたいでワクワクするじゃない!」



 一向に話の着地点が見えない。



「誠、その遺言状を開けるのは、うちが所有する孤島よ。私の一言で、誠が遺言状の続きを聞けるかが決まるわ。もし、誠がミステリー小説好きなら、これは千載一遇のチャンスよ! 如月家の財産分けについては、遺言状には書いてなかったわ! つまり、今度開ける封筒に遺産の話があるわけ。莫大な財産を巡って、一家で殺し合いが起きるかもしれないわ!」



 玲はとんでもないことを言っている自覚がないらしい。もし、財産を巡って殺人事件が起きるのなら、玲もそれに巻き込まれるというのに。

 しかし、興味がないと言えば嘘になる。如月家は貿易で莫大な財産を築きあげた。その創業者である如月久嗣氏の遺言状だ。確かにミステリー小説のようで、不謹慎だが面白そうではある。



「さあ、誠。返事はイエス? それともノー?」



 答えは決まった。僕は返事をした。「イエスだよ」と。



「ところで、この話はなぎさみなとにはしたの? 二人を仲間はずれにはしないよね?」僕は不安になっていた。


 僕と同じくらいミステリー好きな二人のことだ、抜け駆けしては後からなんと言われるか、分かったもんじゃない。



「当たり前じゃない! すでに二人には話したわよ。誠と同じ返事だったわ!」



 なんだ、僕が一番最後だったのか。将来、作家を目指すくらいミステリーに心酔しているというのに、危うく仲間はずれにされるところだった。



「それで、いつ出発するんだい? 日程は決まってるんでしょ?」



 僕の言葉に「明日よ!」と玲が返事をする。明日って、いくらなんでも急じゃないか。



「お母様の話では三日間島に滞在するらしいわ。今は夏休みよ。せっかくだから、サマーバケーションも楽しみましょ。それじゃ、ここに集合よ、ミステリーオタクさん」



 そう言って玲が差し出されたのは、どこかの港の地図だった。赤い丸がある。ここに集合なのだろう。



「明日、八月七日に朝の八時に現地集合よ! 遠足前の子どもみたいに、ワクワクしすぎて寝不足なんて、やめてよ。それで、寝坊しても、待ってあげないから」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「誠も玲から誘われたわけだ。まあ、誠がどう答えるかは分かりきっていたけどな」電話越しに湊の快活な笑い声が聞こえる。



「それで、誠は荷造りに大忙しなわけか。玲が誠を誘い忘れていたのを思い出して、良かったな。しかし、前日とはねぇ。荷造りに集中したいなら、電話切ってもいいぞ。これ、スピーカーモードだろ? さっきから、ガサガサと音が聞こえるぜ」



「いや、これでいいんだ。荷造りを終える前に寝ちゃあ、困るからね。湊には話相手になってもらわないと」僕はボストンバッグに着替えをねじこみながら答える。



「なるほど、いいように使われているわけか

。それで、誠も当然海パンは持っていくよな? 夏休みにビーチを独り占めなんて、そうできないぜ!」と湊。



「それは思いつかなかった! プライベートビーチなんて、一生に一回くらいだし、持ってくよ!」着替えの隙間に海パンを入れる。あとは……。



「そうそう、あとは寝る前の読書用の本だな。今から入れるんだろう?」湊がニヤついているのが目に浮かぶようだ。



 図星だった。せっかくだから、持っていくのは『犬神家の一族』にしよう。まあ、こんな風になるわけないけど。



「二泊三日なんだ、三冊は持ってけよ! 誠のことだ、『読む本がなくて、退屈だ』なんてなっても、本屋なんてないからな。俺も荷物チェックするから、この辺で終わりだ。明日は絶対に遅刻するなよ! じゃあな」



 プープーと音がして、通話が切れる。今は二十一時。待ち合わせ場所の港まではそこそこ距離がある。とっとと仕上げて、早く寝ないと、玲の言った通りになってしまう。





 結局、僕が荷造りを終えたのは、二十四時を過ぎた時だった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 朝六時。一睡もできずに朝を迎えてしまった。これは行きの船の中で仮眠をとるしかなさそうだ。





 予定より早く待ち合わせ場所に着くと、クルーザーが止まっていた。玲から聞いた通り、全体的に白い。それだけだと見分けがつかないが、青い色で如月家の家紋が描かれている。間違いない、これだ。



 船の前では、小麦肌でサングラスをかけた女性が、船長と思われる人と喋っている。如月家にこんな人物はいなかったはずだ。首を捻っていると、こちらに気づいたらしい。船長との話を切り上げ、こちらに向かってくる。



「あら、あなたも暗号の解読に成功した一人ってことね」



「暗号? 何ですか、それ」



「あら。じゃあ、如月家の人かしら? でも、あの家族は日本人の母親に、フランス人の父親、それからハーフの双子しかいないはずよ。あなた、どうやってここに?」



「どうやってと言われても……。玲に誘われたんですが」



「あら、如月家の双子姉妹ね。確かお姉さんの方だったかしら。誘われるなんて、ラッキーね。あなたは知らないようだけど、このクルーザーに乗って島に行けるのは、如月久嗣さんの作った暗号を解いた人だけなの。それも、先着三名」



 どうやら、普通なら、暗号を解かねば駄目だったらしい。ありがたいことだが、どうせなら暗号を解いてみたかった。



「その顔は、暗号が解けなくて残念って感じね。安心しなさい。ここにあるわ」




 差し出されたのは、一枚の紙だった。



「ありがとうございます!」そう言うと、僕は暗号解きに取りかかる。しかし、それを制止するかのように、女性が紙を手で覆う。



「ちょっと、挨拶ぐらいしなさい。私は加賀美かがみあおいよ」



「すみません。僕は桐生きりゅうまことです。三日間、よろしくお願いします」



 その時だった。



「おーい、誠! 遅くなったー」遠くから湊がやって来るのが見える。



「あら、お友達ね。じゃあ、またあとで」そう言うと、加賀美さんはクルーザーに乗り込んだ。「まさか、ライバルが増えるなんてね」と呟いて。

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