第4話
まずは激痛。
目の前には、闇。
無限の闇。
いや、目を開けてもいられない。
足元には何もない。自分は落ちているのか飛んでいるのか、逆立ちしているのか、していないのか、それすらわからない。
全身を焦がすような感覚。
否、凍てつきすぎて、肌が焼き尽くされるように感じるのだ。
ひどく耳鳴りがする。頭の中も、腹の底も、すべてがかき乱される。
叫び声をあげようとして、肺からすべての空気を吸い出され、舌が腫れ上がるのがわかった。
──ここには、空気すらない!
何を手違ったのか。
何が間違っていたのか。
手足をばたつかせ、足掻く。
どこにも届かない。水中でも、土中でもない。
まさか、百年のうちに世界が滅びしてしまったとでも言うのか?
「(死ぬ……)」
ミュリエラは久しく忘れていた死の恐怖に慄き、混乱した。
だが、たった一つ確かな感覚に思い当った。
手に握った、≪移動術≫の巻物の感触。
「(躊躇する暇は、ない)」
ミュリエラは巻物に念を込める。
羊皮紙に刻まれた呪紋様の回路へ、体内に蓄えられた魔力が流れ込む。
移動する距離に応じて、術者の魔力を消費する魔法が≪移動術≫だが、そのあまりの量にミュリエラは驚いた。いったいどれだけの距離を飛ばされるのか。
巻物が燃焼し、魔法が発動する。
ミュリエラは≪移動術≫で跳躍した。
──暗い。
全身が、痛む。
乾ききった目に潤いが戻り、どっと涙があふれ出す。
さきほどの空間にいたのは数瞬であろうが、それでも相当な痛手を負ったようだ。
それに加えて魔力の消費。ミュリエラは体に力が入らないほど消耗していた。
「(あの空間には、魔力がなかった……)」
大魔法使いたるミュリエラは、自身の体に蓄えた魔力だけでなく、世界に満ちるほぼ無尽蔵の魔力を自在に取り込んで費やす、神話級の奥義を体得している。ゆえに、魔王軍との戦いでも、「魔力切れ」を起こすことは一度も無かった。
そのミュリエラが、魔力切れにあえいでいる。
あの魔力の存在しない「虚空」において、≪移動術≫の魔法は遠慮なくミュリエラの魔力を消費し、それでもまだ足りぬとばかりにミュリエラの体から生命力を奪い取っていったらしい。
どれほどの距離を移動したのか、想像もつかない。
魔力が足りずに飛べなかったら、どうなっていたのか、想像もしたくない。
冷や汗が流れる。
実際には汗を流す気力すら無くしていたのだが。
ゆっくりと呼吸を整える。ありがたい。少なくとも、空気のある場所だ。
状況を理解しようと努める。
冷たい石の床に横たわっているようだった。
石の冷たさが全身に伝わる……。
ミュリエラは、一糸まとわぬ姿で倒れていた。
これが≪転移術≫の大きな欠点。衣服や持ち物までは運んでくれないのだ。
『ああ……ようやくお会いできました、ミュリエラ様』
馴染みの声が囁き渡る。
荒い息を抑えて、ミュリエラが声を絞り出す。
「ビブか……?」
『はい。お懐かしゅうございます』
「ここはどこじゃ」
『
涙で濡れた目をこすり、あたりを見回す。
暗さに目が慣れてきた。
そこは見たこともない、壮麗な装飾の施された広間だった。
窓に鎧戸らしきものがはめてあるせいで暗いだけで、どうやら外は真昼のようだ。
顔を上げる。
奇妙な形の衣桁に、うやうやしく飾られたビブリオティカがあった。
だが、朽ちている。
毛織物で作ったはずのマントの布地は擦り切れ、ぼろぼろ。
ただし、幸いなことに、装飾付きの留め具は輝いている。この部分がビブリオティカの本体なので、布地はいくら擦り切れようと構わないのだった。
「いったいなんじゃ、これは……」
札がある。書体も文体も見慣れぬもので読みづらいことこの上なかったが、幸いにしてメーノン語らしく、読むことができた。
中世前期 細工付外套
出土状況:不明
第四代ラコール男爵閣下 寄贈
呼吸を整えたおかげか、どうにか立ち上がることができた。
見れば、右にも左にも、見たことのない奇妙な品物が並んでいる。
金銀の細工に彩られたおかしな形をした管、戦うために作られたとは思えない剣……。
誰かに見られているような感覚に襲われて目を向けると、そこには身震いするほど精巧に描かれた人物の絵画があった。
ミュリエラはビブリオティカをつまみ上げると、裸の身にまとう。
石の冷たさもさることながら、とにかく寒いのだ。
「説明してくりゃれ、ビブよ」
『どのように申せばよいものか……私もミュリエラ様からご説明を伺いたいのです』
「ま、よい。とりあえず、服を出せ。下着もな。それと靴も欲しい。【道具箱】へ適当に突っ込んでおったはずじゃ」
『できません』
「なんじゃと?」
『あらかた、費やしてしまいました」
「費やしたとはどういうことじゃ」
『わたし自身を維持するためです。魔力が尽きて以降、わたし自身の存在と記憶を守るため、ミュリエラ様からお預かりして【道具箱】にしまい込んでいた物品を、優先度の低いものから順に、少しずつ消費して魔力に転換したのです』
「な、何を言っておる……?」
『お気づきになりませんか、ミュリエラ様。世界から魔力が消え失せていることに』
ミュリエラの顔から血の気が引いた。
あの無の空間──虚空──で味わった感覚が今も続いていることに、ようやく気づいたのだ。ここには、空気のようにありふれて、世界に満ちているはずの魔法の源となる不思議のエッセンス──魔力──が存在しない。
『ですが、これだけは最後までお守り申し上げました』
ぼろぼろになったビブリオティカから、小さな品物が実体化してミュリエラの手に落ちる。
グリューデンの
「これだけか? これだけしか残っておらんのか?」
『はい』
「わらわがあまたの冒険で手に入れた数々の秘宝じゃぞ? 【不滅の燈明裘】は? 【竜頭雷鳴珠】は? 【哲人の石杯】まで失ったのか? 【東方玉宝樹】はどうなったのじゃ? いや、そんなものはどうでもよい。【鳥燕の貝書】だけは、無くしてはならんのじゃぞ!?」
『すべて、なくなりました』
ミュリエラは冷たい石の床にへたりこんだ。
『まことに申し訳ございません、ミュリエラ様。ですが、あなたと共に学んだ知識と記憶、これに勝る貴重品はないと考え、その保全を最優先にいたしました』
「それは、そうなのじゃが……」
そこでミュリエラは、はっと気がついた。
「わらわは、【道具箱】の中の品物を魔力に変換する技など、おぬしに与えておらんぞ!?」
『はい、与えられておりません。差し迫った事態ゆえ、自ら学び、編み出しました』
「おぬしが?」
『時間はいくらでもありました』
「馬鹿を申すな。おぬしは人ではなく、ゆえに魔法使いではない。わらわが意志のような何かを形作り、与えただけじゃ。そのような存在が魔術を研鑽するなど、百年かかっても時間が足りぬ。その二倍や三倍でも同じじゃ。この百年で何が起こったのじゃ?」
『百年ではございません』
「なに?」
『千年でございます、ミュリエラ様。あなた様が幽界へ入られて、ただ今この時まで、千年の時が経過しております』
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