第8話

「なに、伯爵夫人グラフリンだって? わかった。うちでお世話しよう」

「ちょっと、あなた……少しは躊躇なさって」

「さすがお父様! 分かってくれるって思ってた!」

「アニエ、お食事中は大きな口を開けて叫ぶものじゃありません」

「私の娘と妻が、見つけて、見極めたんだろう? わが家の宝石たちがそろってお客を迎えたいと言うなら、反対する理由がない」

「母上はあの方をお迎えするのに反対なのですか?」

「とんでもない、むしろ賛成よ、コリノ。でもね……あなたのお父様の迷いのなさが危なっかしいだけ」

「ははは。でもねジゼ、これは混じりっけなしの慈善ってわけでもないよ」

「とおっしゃいますと」

「来週のアニエのお披露目のことだ。苦労して女王陛下の御前でのお披露目式にはねじ込めたが、このままでは埋もれてしまう」

「私、埋もれちゃう?」

「いや、いやいやいや、違うんだ、私のかわいい真珠よ。お前のような美しい娘は大泉洋キュルニミュアを巡っても見つからないだろう。だが、ああいう場所では、我が家のような爵位なしのヒラ地主が目立つには、何かもう一つ必要なんだよ」

「それをあの伯爵夫人グラフリンさまに担ってもらおうとおっしゃるんですの、あなた?」

「悪い話じゃないだろう? その方だってこっちの社交界に食い込めるんだし」

「そうですけど、夫人はお召し物も無くしてらっしゃるんです。どうやってドレスを用意しようかしら」

「さすがに一週間で仕立ては無理だが、うちにあるドレスの寸法を直すだけなら、特急料金でいけるんじゃないか」

「そうですね……あとは、お身体が心配だわ。お元気そうには見えましたけど」

「明日、医者を呼ぼう。それから滋養のあるものを差し上げて。この鴨は届けたんだろうね?」

「今日のところは客室で召し上がっていただくことにしています」

「私が撃った鴨だ。きっと精がつくに違いない」


 ミュリエラは自室として与えられた客室で夕食を取っていた。

 目の前に並んでいるのは、鴨料理。

 昼間に与えられた麦粥は貧相なものだったが、これはとびきりのご馳走だ。


 まず、食器が素晴らしい。陶器のようだが、はじくと金属のような音がする。乳を凍らせたように白く、これがじつに料理を際立たせ、食欲をそそらせる。いったいどんな材質なのだろうか。

 カトラリーも見たことのないものだったが、銀製である。ミュリエラが驚いたのは、こんなに惜しげもなく貴金属を使える家柄なのに、チャリンド家は王家でも公爵家でもなく、それどころか爵位のない、ただの商人の家らしいということだ。

 この食卓を照らす照明からして、ミュリエラにとっては驚異でしかない。一介の客人に与えられた部屋に、よくもまあここまで高価なはずの蝋燭を何本も立てるものだ。しかもその蝋燭からは、獣脂特有のいやな臭いがちっともしない。魔法が途絶えたせいで、人々の創意工夫が加速したのだろうか。


 この家の主人は夕方に帰ってきたようで、窓の外では──そう、この窓に使われているガラスもちょっと訳のわからない高度な技術の産物だ──馬車が到着して使用人たちが出迎えていた。数匹の鴨が運ばれていたので、狩りにでも出ていたのだろう。それが今、ミュリエラの前に並んでいるというわけだ。


 そして、この鴨料理である。

 これが料理だとしたら、ミュリエラがいままでの人生で食べてきたのは馬の飼い葉か、靴底を刻んで鍋に放り込んだものであろう。

 焼き方ひとつ取っても丹念で、鴨の肉汁を絶妙に閉じ込めて焼き上げている。

 なにより鴨にかかっているソースがとびきりうまい。塩や香草のほかにも、初めて味わう香辛料が入っており、鴨の脂と溶け合って口の中で円舞を踊っていた。

 添えられた野菜にいたるまで、いちいちうまい。

 握ったら砕けるのではと心配になるほど繊細な器に入った葡萄酒は、芳醇でいて、透き通るような味。

 パンなどは天界の糧といったところで、白さといい、かぐわしさといい、ほぐれるような口当たりといい、人類がこんなパンを毎日食っていると神が知ったら、その飽食に怒って地上を滅ぼしてしまうだろう。


 千年前の王侯たちでも味わえぬ無上の食卓をたいらげて、ミュリエラは一息ついた。

「ボゴンも、オルソンドも、わらわがこんな待遇を受けていると知ったら、あの食いしん坊ども、憤慨するであろうのう……」

 と、思わずつぶやいてから気がつく。

「(あやつら、もう居ないのであったな)」


 寂しさを振り切り、ミュリエラはテーブルから立ち上がると、ベッドの上で坐を組んだ。

 意識を集中し、「気」を練る。

 これはかつて東方より来た「仙人」なる魔法使いより習った秘術である。

 心身が満ちた状態で宇宙との一体化を観想し、体内に魔力を生成するのだ。

 かつてならば小一時間ほどの坐行でミュリエラの体内に魔力をみなぎらせることができたのだが……。

 どうも、うまくいかない。

「(一晩やって十分の一にも満たぬぞ、これは)」

 魔力の枯渇と関係があるのだろうか。とにかく、世界そのものが魔力や魔法といったものとの「縁」がなくなっているとしか考えられない。

 結局ミュリエラは≪火炎波ドゥラ・エリディ・ヴーヴァ≫一発ぶんにも満たぬ量の魔力を生成して、諦めた。

「なんとも、先が思いやられるのう」

 ミュリエラは呼び鈴でメイドを部屋に招き、食卓を片付けさせると、ベッドに入ることにした。


「魔力がだめなら、体力をつけるしかない。とっとと寝るに限るわ」

『ミュリエラ様。お休みのところ申し訳ございません』

「なんじゃ」

『先ほどの食卓でございますが……』


 翌朝になって、メイドが起こしに来た。

 平たいトレーにあの美味いパンと、経験したことのない香ばしさと苦みと甘みをたたえた未知の飲み物を入れたカップを載せて運んでくる。

 どうやらこれが朝食らしい。この飲み物は何かと尋ねようとしたが、どうせ答えを聞いてもよくわからないのだろうから止めた。

 昨夜、ビブリオティカから進言されたことに気をつけながら食を進める。

 食事がすむと、部屋の隅で待機していたメイドに手伝われて、チャリンド夫人が用意してくれたドレスに着替える。

 あちこち寸法が合っていないようだが、贅沢は言っていられない。それより、この「おさがり」の服ですら目を見張るような優美の結晶で、こんな素敵な服を身にまとえて、さすがのミュリエラも童女のように嬉しくなってしまった。


 メイドに手伝われて、身支度を済ませ、階下の一室へと案内される。そこには朝食を済ませたチャリンド家の面々が揃っており、一家の主人クロードを紹介された。

 クロード・チャリンドは背が低く恰幅のよい男で、茶色の髪とヘーゼルの瞳を持ち、よくしゃべる人物だった。歳は四十を越えているだろう。

 現代に来て初めて出会う、口ひげを生やした男だとミュリエラは気づいた。

 アニエの豊かな胸はクロードの恰幅の良さに似たらしい。何より、底抜けの明るさと賑やかな振る舞いは、この親にしてこの子ありといったところだ。


 そしてミュリエラは、クロードから「お披露目式」とやらの出席を頼まれていた。


「アニエ嬢のお披露目式……と申されますかや」

「ええ、ええ、もちろん母親としてジゼが付き添いますけども、しかるべき家柄ではもう一人、縁者や友人の貴婦人が付くというものございまして。そこで伯爵夫人グラフリン様がうちの可愛いアニエの介添えをやっていただければ、当家としても鼻が高い。どうか頼まれちゃくれませんか」


 断るすべはない。

 というより、屋敷に居候する対価をさっそく求められている。

 どうやら主人は、家格を上げて爵位を持つことを目標としているらしかった。だが、叙爵には多大な名声が必要となる。そのための格好の機会が、アニエの参加する「お披露目式」という式典のようなのだ。

 ここでミュリエラが断ればどうなるだろう?

 貴族ならば知って当然、参加して当たり前の儀式を、恩人の頼みを断ってまで遠ざけるミュリエラの身元は、すぐに疑われてしまう。

 選択の余地はなかった。


「わらわで宜しければ、お引き受けいたしまする」

「おお、おお、ありがとうございます。これで当家の格も上がろうというもの……」


 商人の出らしく如才なく感謝の念を述べながら、同時に器用にも今後の予定をまくしたてるクロードの言葉を微笑んで受け止めながら、ミュリエラは内心、焦っていた。


「(……まず、お披露目式とは何であろうの?)」

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