第7話
チャリンド夫人は、ミュリエラのベッドの脇のスツールに腰を下ろした。
ミュリエラの傍らに座ったその女性は、齢三十を越えていても四十には届いていない、といったところ。
ダークブラウンに近い、深い色のブルネットの髪。
よく整った顔立ちに、グリーンの瞳。
すらりとした背の高さと顔の造作で、すぐにあのアニエという娘の母親だと分かったし、涼やかな目元はコリノにそっくりだ。
富裕な「家」において、その細君が持つ力は……絶大。これはどんな時代でも変わらぬ法則に思えた。ミュリエラはいま、自分が寝ている部屋のベッドと屋根をつかさどる絶対的な司令官にして裁判官たる人物と向かい合っているのだ。
ミュリエラが身を起こす。あるじの命令を待たずにリリが毛織物のショールを差し出し、チャリンド夫人がそれをミュリエラの肩にかける。
「かたじけない」
「大変な目にお遭いになったとか。お見舞い申し上げます」
「こちらこそ、お礼を申し上げまする。ご令嬢とご令息に助けていただかねば、あのまま飢え死にしておりましたですじゃ」
「ゆっくりお休みくださいな。それで、付き添いの方はどちらに?」
「(付き添い……従者のことか)」
ミュリエラは、チャリンド夫人が注意深くこちらの反応を伺っていることに気がついた。
「(ああ。これは見舞いなのではない。尋問なのじゃな)」
思えば、自分は「
千年前でも、従者もなしに出歩く貴族は珍しかった。女性ともなれば尚更だ。
ということは、チャリンド夫人はこちらの身元を疑っている。
ひとたび怪しいと感じたら、さっさと屋敷から放り出してしまうだろう。ひとまず今晩だけでも夜露をしのぐ屋根が必要なミュリエラにとって、チャリンド夫人の信用は絶対に必要だった。
それらしく嘘をついてみせるにしても、自分はこの時代のことを何も知らない。
さて、どうするか……。
「従者など、おりませぬ」ミュリエラはざっくばらんに打ち明けることにした。
「まあ」と、チャリンド夫人。
「
「今やわらわに残ったのはこの
嘘は言っていない。
「お国はどちらでございますか」
「ユールシャで産湯をつかい申した」
「失礼、聞いたことのない土地ですわ」
「でしょうのう。焼き尽くされて、滅びましたゆえ」
これも本当だった。
人類と魔王軍との戦いのさなか、焼かれて消えうせた町や村など、珍しくもない。ミュリエラの故郷もそんな中の一つだ。
ところがチャリンド夫人は、目に見えて狼狽えた。「まあ、なんてこと」
ここでミュリエラは気づいた。今は魔王が滅びて千年後の未来なのだ。人類ではない獣以上のなにかが、確固たる殺戮の意思をもって迫りくる悪夢など、とうに忘れられているはずである。
もちろん、今でも戦争や殺し合いは起きているだろう。
起きていないはずがない。ビブリオティカを博物館へ寄贈したラコール男爵なる人物は、戦傷がもとで死んだ、というのだから。
ならば、魔王軍が人類の町や村を毎日のように焼いていた規模とは比べ物にならないかもしれないが、今も世界のどこかで、必ず悲劇は起きている。チャリンド夫人はそのことを思い起こしたに違いない。
ミュリエラの答えは、平和な時代に生きるチャリンド夫人から流血を忌み嫌う本能的な反応を引き出した。すなわち、「この話題を避ける」である。
礼儀正しく、気まずい質問を打ち切ったチャリンド夫人は、次の問いを発する。
「ご自宅に連絡差し上げますわ。ご夫君も、心配なさってるはずよ。グリューデン家……でございますか? どのように手はずを整えればよろしいかしら?」
ミュリエラは一貫して
「(さて、どう答えたものかの……)」
ミュリエラは【大賢者】と呼ばれていたが、それは何も、ありとあらゆる魔法の呪文を修得していたからそう呼ばれていたわけではない。観察力、洞察力、機転の速さ、知識、それらに加えて、いかなる時でも平静を保ち思考をたぐる姿を人々は賢者と称したのだった。
そして、その頭脳から生み出される策を、胆力をもって実行する者──すなわち、勇気ある者──【勇者】と呼ばれた男が、かつていた。
「(そうじゃ……わらわが平静を保てなかったのは、あやつを失ったときのみ)」
ミュリエラはチャリンド夫人を見た。
彼女は、愚か者ではない。言いくるめられる人物とは思えない。
だが、夫人との短い問答で、ミュリエラはこの世界のルールをひとつ学び取った。
それは──礼儀正しさである。
もちろん、千年前の時代にも、礼儀作法がなかったわけではない。
しかし「現代」においてそれは、きわめて高度に発達した対人行動となっていた。
自己抑制と節度を重んじて、表立って対立をあらわにせず、自らの面子を保ちつつも相手の面子も尊重したり、あるいは軽んじたりすることで、社会的優位性を確保する……。
そんな「戦闘技術」なのだ。
夫人の発言をひとつひとつ思い返せばすべて合点がゆく。
たとえば、チャリンド夫人は、ミュリエラを一度も「
ただ「ミュリエラ・ウル・グリューデン様」と呼ぶだけである。あの太陽のような少女、アニエは正直に「
夫人はミュリエラを貴族称号で呼ぶことを保留しているのだ、しかも礼儀正しく。
たとえば、チャリンド夫人は、付き添いの者の居場所を問うたり、「夫」への連絡を促している。それらは「
ミュリエラの【大賢者】たる頭脳は、この時代における僅かな経験から、ここまでの知見を得た。
「(とは言うものの、果たしてなんと答えたものかや?)」
それでもミュリエラは、チャリンド夫人の弱点を見つけた。
これもやはり「礼儀正しさ」だ。
現代的マナーの世界では、死や暴力など、直接的な負の側面への直視や言及を避ける。
それは先ほど、ミュリエラの故郷の話で確認済みだ。
ならば──ミュリエラにとって嘘偽りのない「真実」を、負の側面を婉曲に示しながら話せば……?
チャリンド夫人は、自らを縛る礼儀正しさゆえに、ミュリエラに対して理解を示さざるを得なくなるのではないか。
ミュリエラは賭けに出ることにした。
「虚空から戻ってきたばかりですのじゃ」と、話し始める。
「
ここまで話してミュリエラは、嘘は言っていないが空虚きわまりない内容に、我ながら内心、落ち込んでいた。これで夫人が「あまり触れてはいけない事情」を勝手に察してくれれば、一晩くらいはベッドと食事にありつけそうだが……。
ところがチャリンド夫人は、みるみるうちに顔に同情の念をみなぎらせ、身を乗り出してミュリエラの手を握った。想定以上の反応に、ミュリエラは驚いて話を途切れさせる。
「なんという。なんということでしょう。ご安心ください。わたくしがお力になります。ええ、そうしますとも。クロードには……失礼、当家の主人です……私から言っておきます。ですから気を落とさずに」
ミュリエラはあっけにとられたが、この機を逃すまいと、すぐさま手を握り返した。
「ご厚情、忘れませぬ。貴家に拾われたるは天の恵み」
「私からも娘を褒めてあげなくちゃいけませんわね。それにしても、そんな……生まれた家を失った上に、愛する人まで亡くして。裏切りに遭って。あまつさえ、酷い仕打ちを……」
チャリンド夫人は言葉を詰まらせた。
あとになってミュリエラは知ったのだが、「
ミュリエラは、上流階級の言葉で事情を説明できる出自の持ち主でありながら、戦災で故郷を失い、グリューデン伯爵なる人物と障壁を乗り越えて結ばれ一度は幸せを掴んだものの未亡人となり、隠棲しようとして相続問題に巻き込まれ、「水も空気もない」、つまり命すら危うい状況になって逃げだしたところ、持ち出した現金や宝石類なども奪われた上に凄惨な仕打ちを受けた人物……ということになってしまったのだった。
「(何やら騙しているようじゃが……背に腹は代えられぬ。すまぬが夫人よ、今しばらくは許してたも)」
「他に何か、ご必要なものはございませんか、
「恥を忍んでお頼み申すが、服を恵んではくださらんか」
「ええ、ええ。もちろんですとも。当面は私やアニエの服をお使いください。他には?」
「ならば、そうですじゃな……そこに畳んであるマントの……」
ここまで話して、ミュリエラは体を凍り付かせ、「あ」とだけ声を漏らした。
「どうなさいました?」
「まずい。まずいですのじゃ。忘れていたのですじゃ」
ミュリエラは、強力な魔法使いである。
術の研鑽に没頭するため、人としての宿命を都合よく取捨選択することもしてきた。
要は、魔法によって体内の代謝の一部を止め、煩わしい現象から逃れていたのである。
魔力の途絶とともにその効力が切れて、長らく遠ざけていた宿命が蘇ってきた。
うろたえて言葉を失うミュリエラに、チャリンド夫人はすばやく事態を察する。
「リリ。綿布を持ってきて頂戴」
夫人の指示を聞き終わる前に、リリは扉の外へ素早く駆け出していた。
ミュリエラは、自身が女であることを思い出した。
月経が始まったのだ。
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