第3話
深い碧の樹海の切れ間の上で、ミュリエラは≪飛翔≫の魔法を解いた。
宙に放り出されるように自由落下したのち、ゆるやかに減速し、着地する。
髪にも着衣にも乱れ一つない。
そこは低い丘のふもと。
枯れた小川の河床だったのか、大小の石が転がって草むしている。倒木はあるが、木は生えていない。
樹海の中にぽっかりと開いた空き地であった。
丘のふもとには、小さなほら穴が見える。
木漏れ日に照らされて、【海嘯の魔女】ミュリエラはひとり森の中に
『ミュリエラ様……いったい何をなさるのですか?』
「ここがどこだか判るか、ビブよ」
『はい。ここは緑の森、グリューデン。ミュリエラ様の領地でございます』
「このほら穴を覚えておるか?」
『私がミュリエラ様と共に見聞きしたものを忘れるはずがございません。ミュリエラ様が魔術研鑽のため、坐を組み十年に及ぶ無言不動の行を結んでおられた場所です』
「で、その最中にリアスタンがやってきたのじゃ。
『最初は魔法で消し飛ばそうとなさっていましたね?』
「あともう三年も行を結べば宇宙の真理に達せそうな気がしたからのう……じゃが、今は感謝しておるよ。あやつからは十年ではとうてい学びきれぬものを学ばせてもらった」
ミュリエラは身をかがめ、ほら穴に入った。
生活を臭わせるものは何一つない。ただ、古ぼけた
「ははっ、まだ残っておるとはな」
ミュリエラはビブリオティカを脱いで、その衣桁に掛けた。
「さて、ビブよ。わらわは、ふたたび無言不動の行に入る」
『まことでございますか』
「今度は、ただの無言不動にあらず。十年ではない。百年やる」
『百年……ですと?』
「然り。百年も経てば、人間族による旧魔王領の開拓も多少は進み、落ち着いておろう。何より、わらわがメーノン王家による他民族、他種族への侵掠の先兵を務めさせられることもない」
『ミュリエラ様が手を貸さずとも、人間族はエルフ族やドワーフ族との戦端を開くかもしれません』
「果たしてそうかや? 人間族はエルフ族より魔法の技で劣り、ドワーフ族より頑健さで劣る。ただ数で勝っておるだけじゃ。わらわが手を貸しさえせねば、いずれかの時点で均衡が保たれるであろうよ」
『グリューデン女伯爵としての義務はいかがなさいますか』
「王の召集に応えよ、と? 馬鹿を申すでない。恩貸の約定とは、王が臣下へ兵を養うに能う領地を授けることじゃ。見よ、この森を。何をどうやって得ると申すのじゃ。王宮の奴ばら、わらわが杖をひと振りすれば森が麦畑に変わると思うておる。それでいて恩着せがましくもわらわを臣下に収めようというのか。げに、
きっぱりとミュリエラは断言する。
「わらわが王と見込んだのはただひとり」
『ならば、伯爵位を返上なさっては』
「よっぽどそう思うたんじゃがなあ」
ミュリエラは頭をかき、指からグリューデンの
「……この伯爵位は、リアスタンとの思い出のよすがなのじゃ」
生前のリアスタンは、グリューデンの森を切り拓いて街を作ることを夢見ていた。
「それに、な。あやつは、わらわとの出会いの場所を領地にと望んでおったのじゃ。その意味を考えて……乙女らしい想いを馳せても罰はあたるまい。さて……」
ぱちん、とミュリエラが指を鳴らす。
ほら穴全体が淡い光に包まれ、ミュリエラを中心として地面に魔法陣が刻まれる。
『ミュリエラ様。それは無言不動の行ではないように見受けます』
「そうじゃ。厳密には、無言不動ではない」
『何をおなさりに……』
「幽界へ入る」
『幽界へ……でございますか』
「時の在って無きがごとし領域。魔力の根源、
『なぜ、わざわざ幽界へ入られます?』
「いつぞやのように、行を途中で乱されたくないのじゃ」
ミュリエラは
「預けておくぞ」
『ミュリエラ様、お待ちください。懸念がございます』
「申せ」
『第一に、ご友人とのお別れは済まされたのですか』
「必要にあらず。と、いうか、ボゴンもパルシスも百年程度では
『第二に、たしかに幽界へ身を移す術は古来、数多の魔法使いにより、緊急避難の術として用いられてきました……ですが、身を移す時間はせいぜい数刻のこと。百年もの長きにわたり用いることには、大きな危険が伴うでしょう』
「例えば、どのような?」
ミュリエラはこの問答を楽しんでいた。いや、むしろ、このためにビブリオティカを創ったと言ってもよい。対話によって新たな視点と、検討材料を提供してくれる。俸給のいらない諌言役であった。
『座標の問題があります。幽界から現世へ戻るには、“座標”が必要となります』
「その通りじゃな」
『周囲に置かれた器物や建築物、自然物を複数選んで基点とし、それらとの位置関係や距離を魔法的に記録して、現世へ戻る際にこの記録をもとに現在位置──すなわち“座標”を復元するのが、≪
「続けよ」
『ですが、器物は一日経てば持ち去られるかもしれず、建築物は一週間もあれば焼け落ちるかもしれず、自然物も樹木であれば一年で切り倒されるかもしれず、山でさえ天変地異で崩れ去らないとはいえません。基点を失った場合、帰還の“座標”が狂って海中や土中に放り出されれば運が良い方。最悪、幽界から永遠に戻ってこれません』
「まったくその通りじゃ」
『以上がこれまでの長い魔法の歴史において、≪幽界遷移≫がほんの短い間の隠形の術としてしか用いられなかった理由です。ミュリエラ様、不確実性が高すぎます。ご再考を』
ビブリオティカの声は静かだが、きっぱりとしていた。
「では、わらわの考えを述べよう」
ミュリエラは話し始めた。
「おぬしの言う通りじゃ、ビブ。≪幽界遷移≫の欠点は、帰還のための“座標”の基点が、いつまでも其処にあるとは限らぬことじゃ。ならば……」
ミュリエラは手を振り仰ぐ。魔術によって、狭いほら穴は空間的な制約を解かれ、頭上には満天の星がきらめいた。
「百年経っても変わらぬものを基点としてはどうか」
『ミュリエラ様、まさか……』
「そうじゃ。わらわは、空の星々を基点とする。星は一年で巡り、様変わりして、元の位置に戻るもの。天蓋の巡りが百回繰り返されたのち、わらわはここへ戻る。星は持ち去ることも、切り倒すこともできぬであろうよ」
『百年後には、このほら穴が埋まっているかもしれませんよ』
「なるほど、懸念はあるな。ならばこうしてはどうか」
ミュリエラはビブリオティカに手をかざし、≪念動≫の魔法を発動し、【道具箱】よりひと巻きの呪文書を引き寄せて手に収めた。
「見覚えがあろう? この呪文書」
『≪移動術≫でございますね。あらかじめ移動先を設定して念を込めれば、巻物を消費して魔法の素養のない者でも即座に発動させることのできる、使い捨ての瞬間移動法です』
「さよう。我が魔術の技芸が生み出したるものよ」
『この巻物で金儲けを狙ったのでございましたね。商人や旅人相手に販売して』
「リアスタンの役に立つと思ったんじゃがな。路銀の足しに」
『致命的な欠点さえなければ』
「う、うむ……売り物にはならんかったのう……」
『にもかかわらず、その巻物、使うんですか?』
「……あくまで万が一じゃ……」
『どのように、お使いに?』
「ビブリオティカ、我がしもべよ、おぬしを移動先に設定しておく。この場所が土砂崩れで埋まっているとか、洪水で池の底に沈んでおるとか、穴居人がこの穴を見つけて住み着いて台所にしてまな板で石斧を振るっているとか、そのような状況であったならば、わらわは≪移動術≫を発動させる。わらわはおぬしの元へ移動し、再び相まみえるというわけじゃ」
『山火事であたり一面火の海になっていたら、いかがなさいます? 炭焼き職人がたまたまここに窯を作って炭を蒸していたら? ≪移動術≫を発動する間もなく焼け死んでしまいますよ』
「おぬしも追及がしつこいのう。そのように創ったとはいえ。だがしかし、一理ある。……そうじゃなあ……」
ミュリエラは口の中で軽く呪文を唱えると、片手を軽く振って構築中の魔法陣に手を加えた。呪紋様に追加の術式を重ねて、さらに複雑さを増した部分を指差す。
「とく、見やれ。もし百年後、水中や土中とは比べ物にならぬほど“座標”の地点が致命的な環境になっていた場合、“座標”の復元、すなわち現世への帰還を一年遅らせるものとする。山火事でも一年は続かぬし、炭焼き職人にも安息日はあろう。一年経ってまた山火事が起こっておれば、さらにもう一年。こうして繰り延べていけばどうじゃ?」
『……その点に関しては、論理に
「では決まりじゃ!」
『お待ちください! 最後にして最大の指摘をさせていただきます』
「ああ、もう。なんじゃ」
『私もここにいては一緒に埋まってしまって、≪移動術≫の意味がなくなるのでは?』
「ああ、それはこうするのじゃ」
かるく指を振って、ビブリオティカに煌めく魔法をかける。
「これは≪屋根失縁≫の呪い。おぬしは百年、太陽と月の光を浴びぬことがないであろう。そして……おっと」
ビブリオティカは≪屋根失縁≫の呪詛が発動し、ほら穴の外に弾き飛ばされていた。
「……埋まったり沈んだりすることもないと言いたかったのじゃが。まあ、ビブなら分かっておろうな」
ほら穴を満たす光がいよいよ明るくなった。ミュリエラが力ある言葉を唱える。
「天には星。地には土。我命ず、
即座にミュリエラは幽界──時があって無きがごとし場所へと遷移した。
ゆえに、ミュリエラの主観においては、時間は経たない。ただ単に、望むだけの時を越えて再び現れるだけだ。
そしてミュリエラが現れた場所は──無限の虚空だった!
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