第15話

 謁見の間から女王が退出する。

 緊張から解放された儀礼の場は、たちまちのうちに社交のサロンと化した。


 なんといっても今年の目玉は、驚嘆すべきドレスで話題をさらっていったアニエ嬢だ。その父親クロード・チャリンドがこの場にいると知れると、人々は彼の周りに集まった。


 娘の美しさに惹かれた者。持参金の額に期待する者。

 求婚者候補の若い貴族、息子の嫁を探す老貴族に至るまで、さまざまな者がクロードに話しかけている。

 中には、次代の当主と渡りをつけておくためか、まだ少年のコリノに自己紹介する者までいる。

 クロードは得意の絶頂にあった。

 だが、そんな賑やかな輪を苦々しく見つめる保守派の貴族グループもある。


「なぜ商人ふぜいが名誉ある場にいるのだ?」

「当人は地主を名乗っているようですがね」

「没落した家から二束三文で買い叩いたに決まっている。地代で暮らす身分だと偽るためにね。あのような輩がのさばっては、この国の伝統と格式はどうなる」

「宮廷の品位も落ちたものですな……」


 お披露目式を終えた令嬢たちが集う回廊では、別の輪もできていた。

 今年の「勝者」たるアニエに、令嬢たちがどっと押し寄せている。

 アニエの家には爵位がない。誇り高い貴族家の子女にしてみれば、称号も持たぬ娘に女王陛下のお言葉を賜る名誉を奪われ、多少なりとも腹立たしくないはずはない。


 だが、このドレスの輝きの前では、そんな感情はかすんでしまう。


 今年のファッションの流行を決定づけること間違いなしの、このドレスの秘密をいち早く解き明かした者が、社交界における結婚市場の「次のステージ」のリードに近づくことができる。彼女たちはほとんど必死だった。


「チャリンドさん……と言われました?」

「わたくし、テルフェリ男爵家のティネと申します。仲良くしましょうね」

「素敵なお召し物ですこと。どちらのドレスメーカーの作品でございますか?」

「この……袖ですけど、あの、触ってよろしい?」


 自らを中心に花畑が咲き乱れ、その中でも最も華やかな一輪こそが自分なのだと気づいたアニエの顔は、幸せそうにほころぶのだった。


 夢見心地のアニエとは反対に、その横でたたずむミュリエラの表情は厳しい。

 とんでもなく不可解な事態に陥っている。

 千年前、この手で確実に倒したはずの魔王。

 あの魔王をこの世に招いた元凶である女──【黒王妃】ギュネヴィアが、なぜかメーノンの玉座にある。

 他人の空似では済まされない。空似であるはずがない。

 ──石の玉座に絡みつくツタの紋章!

 偶然である可能性はゼロに等しかった。


 押し黙るミュリエラに、ビブリオティカがそっと囁きかけた。

『ミュリエラ様。いかがなさいますか……?』

「わからぬことは多い。じゃが、が何を考えておるのか、一つだけ確かな事がある」

『それは?』

に限って、人の世にあだなす考えを持たぬということは、ないのじゃ!」

『魔力の途絶と何か関係があるのでしょうか』

「わからぬ。わらわが幽界に千年、閉じ込められた件も、未だ原因はようとして知れぬ。ああ、謎は増えるばかりじゃ。なのに、頼れるのはわが智慮のみとは!」

 ふとミュリエラは独りごちた。「パルシスがいてくれれば」


 と、ほぞを噛むミュリエラの耳に、聞き知った声が届く。


「アニエ・チャリンドさん。陛下からのお言葉の拝受、お祝い申し上げますわ」


 ソヴリネ・ローム・ノールドルストムだった。

 ミュリエラがキャビネットの下からイヤリングを拾い上げて助けた娘である。

 が、雰囲気がおかしい。


「(これが、あの泣き出しそうだった娘なのかや?)」


 あの「控え室」でミュリエラが会ったソヴリネは、母親の形見をなくして取り乱し、床に這いつくばる小さな少女だった。だが、ここにいるのは、幼い顔立ちにも傲岸な色をたたえた、まぎれもない貴族の女だ。


 まだ夢見心地から醒めぬアニエが軽く礼をして答える。


「あっ、はい、ありがとうございます、あの──」

「ソヴリネ・ローム・ノールドルストムですわ。ノールドルストム子爵家の娘です。わたくしも陛下からはお言葉を賜りましたの」

「そうなんですね! じゃあ、私たち──」

「あなたとわたくしでは、意味が違いましてよ」


 場の空気が凍りつく。

 突然、突き付けられた挑戦状に、誰もが戦慄する。


「お仕えする立場の者は、ひとこと授かれば用は足りますの。あれこれと持ちかけられるのは、出入りのくらいでございますわねぇ」


 アニエの商家出身という身分を当てこすり、女王から「二言」も授かった事実を逆に侮辱へ転化している。


「わ、わたくしの父は地主です」


 生まれて初めて受ける抜身の刃にアニエは動揺し、そう返すのが精いっぱいだ。


「あら、まあ、そうでしたの?」

「そうです」

「素敵なお召し物でございますわね」

「……ありがとうございます」

「本当に見事な刺繍ですこと。花の柄に見せかけて、ダイヤモンドのカットを描いているのね。ご家業をよくお表しになっているわ。売り物が宝石じゃなくて娘に変わったりしないことを願うばかりでございます」


 畳みかけるような侮辱。

 領地からの不労所得で暮らす貴族は、それ以外の労働を不名誉と見なし、嫌うものである。

 ミュリエラの生きた千年前の時代ですら、そうだった。

 どうやら、チャリンド家は宝石商を生業としていたのだろう。質のよいアクセサリーを多数取り揃えていたのも合点が行く。

 ソヴリネは、アニエの出自を徹底的に当てこすり、礼儀正しく侮辱しているのだった。

 アニエは何も言い返せない。

 ただ小さく肩をふるわせ、涙をこらえるのみだ。


 この侮辱劇を目にして、周囲は特にソヴリネを咎める様子もない。

 むしろ面白がっている様子だ。

 女王陛下より賜った「お言葉」の数で一歩出遅れたノールドルストム子爵家が、新参者に釘を刺して得点を取り返す。その程度のことに思っているのだろう。

 悪意のない小さな世界で育てられた陽だまりのような少女には、宮廷は準備も無しに出かけるには残酷すぎる場所なのだった。


「ノールドルストム子爵のお嬢様、過分にお褒め下さり恐縮でございます」


 ここで新たに声を発する者がいる。

 アニエの母、ジゼ・チャリンドだった。


「あら?」ソヴリネはあくまで傲岸に、首をかしげて応じる。

「チャリンドの内儀ないぎでございます。娘の付き添いで参内いたしました」

「ご母堂様なのね。は家族総出ということかしら」

「さようでございますね。当家は多方面にわたってお取引をさせていただいておりましたから。ノールドルストム様のは、それはそれは住み心地がよろしゅうございます」


 ソヴリネの顔から血の気が引く。

 ミュリエラには、チャリンド夫人がソヴリネを逆に商人の娘扱いして侮辱し返したように見えた。しかも、とびきり痛いところを突いたらしい。

 なぜそうなるのかは、全く分からないが。


「……どんな質草しちぐさも、いずれは持ち主の手に戻るものですわ」


 ソヴリネは顔を背けて会話を打ち切り、踵を返した。

 と、立ち止まって、ミュリエラに声をかける。

「ミュリエラ様」

 声からとげとげしさが抜けている。あの控え室の少女が戻ってきていた。


「ソヴリネ嬢。お披露目の儀、お慶び申し上げまする」

「あなたのようなお方が、なぜチャリンド家にはべっておりますの?」


 ただそれだけ言うと、ソヴリネはさっさと回廊を歩いていってしまった。


「お見苦しいところを」

 チャリンド夫人が言う。

「見苦しいものかや。母熊が見事に子熊を守った場面を見せていただきましたぞ。じゃが、あのソヴリネ嬢の態度。お披露目式の首座を奪われた意趣返しにしては、少々きつすぎはしませぬか」と、ミュリエラ。

 チャリンド夫人はしばし黙ると、小さな声で切り出した。


「わたくしどもが住んでいる屋敷。あれは元々、ノールドルストム子爵家の邸宅だったのでございます」


 意外な事実にミュリエラは驚いた。

 だがそれ以上に、ジゼ・チャリンドという人物の、宮廷での立ち振る舞いの熟達ぶりにも内心、舌を巻く。彼女は商家──いや、地主か?──の内儀のはずなのだが。


「なんと……因縁じゃなあ」

「あの子はこういう世界で生きていくことになるのですが。クロードはわかっているのかしら」

「ご主人に限っては、アニエ嬢をドラゴンのあぎとに放り込む真似はせぬであろうよ。娘を可愛がりすぎるほど可愛がっておられるから──」


 と、ミュリエラの言葉は別の人物の言葉に遮られた。


「失礼、チャリンド家のご知人、グリューデン伯爵夫人グラフリンでございますか?」


 ミュリエラが振り返ると、立派な礼服に身を包んだ、歳のころ三十か四十の、精悍な顔つきの紳士がへりくだって腰をかがめていた。


「さよう、わらわがそうじゃが……」

「わたくし、グラフェアノル男爵、ジーロンと申します。お目にかかり光栄です」

 男爵は小さな紙片を優雅に差し出す。

 ミュリエラはあっけにとられた。

「お名刺でございますよ」と、チャリンド夫人が小声でささやく。

「え? あ、ああ」


 ミュリエラは戸惑いつつも紙片を受け取った。

 これが「名刺」という、千年前には存在しなかった自己紹介の風習であることをミュリエラは後で知った。


「本日はお目見えの儀、まことにお慶び申し上げます。こちらにはもうお慣れになりましたか?」と、グラフェアノル男爵。

 ミュリエラが「外国人」であるらしいと、なぜかもう知れ渡っているらしい。

「そうですのう、まだ当国の作法には不慣れで、不調法をさらしておりまするが……」

「なにをおっしゃられます。不調法で結構! 革新的なお召し物で話題をお作りになられるお方なら、そうでなくちゃいけません」

「おい! グラフェアノル! 抜け駆けとはずるいじゃないか」

 別の男から声がかかる。こちらも礼服に身を包んでいる。グラフェアノル男爵よりはいくぶんか若く、溌溂とした男性だ。

「ぼくはイズルード・ウル・ライエンテン。子爵です。失礼ですが伯爵夫人グラフリン、ご芳名を伺ってもよろしいかな?」

 ライエンテン子爵も「名刺」を差し出していた。

「あ、ああ、わらわはミュリエラ・ウル・グリューデンと申す」

「なんてこった、ウル称号をお持ちとは! ぼくと同じだ、親近感がわくなぁ!」

「ライエンテン、今どき称号の種類で自慢かい? はしたないぜ」

 この声はまた別の男。

 ミュリエラは瞬く間に、大勢の貴族の男たちに囲まれ、名刺をいくつも渡される羽目になっていた。


「それで、グリューデン伯爵夫人グラフリン、その型破りなお召し物は一体どんなテーマなんです? ぼくたち“新人類ルーナルダーケン”には目もあやで。頭の固い連中は眉をひそめてますがね」

「司教様とかかい? ずーっと彼女を見てたよ」

「あのー、これは、海を象徴した蒼なのじゃ」

 おお、と男たちが驚いてみせる。

「海か! このご婦人は宮廷を水浸しにされるおつもりだ」

「はっ! 新時代ルーナルドにはぴったりじゃないかね。旧弊はぜんぶ流してしまえ!」

「さよう、わらわは【海嘯の魔女】と呼ばれたる者なのじゃ」

 妙にかしこまったミュリエラの言葉に男たちがどっと沸く。

「我らが伯爵夫人グラフリンは、良いセンスをお持ちだ!」


 ミュリエラは、今まで味わったことのない奇妙な心地にあった。

 それはなんとも浮かれたような、地に足もつかず、考えをまとめようとしても頭がよく働かない、居心地が悪いようで離れがたい気分であった。


 帰りの馬車の中で、ミュリエラはチャリンド夫人から説明を聞いた。

「あの方たちは、さいきん新人類ルーナルダーケンと呼ばれる男性のグループでございます」

「徒党ですかのう?」

「なんといいますか。そういう“風潮”といったほうがよろしいかと。新しいこと、型破りなことを好んで、同好の士と連れ立とうとするのですわ」

「わらわも目を付けられましたかの」

「まあ、有り体に言えば、そうなりますけど……」

「にしても今日はアニエ嬢が主役じゃ。首尾よく終わり、お祝い申し上げまする」

「……私からもお祝い申し上げますね」と、アニエ。

「なにがじゃ?」

 ミュリエラには意味が分からない。

「殿方からたくさんお名刺をもらったじゃないですか。ミュリエラ様」

「ああ、これか。わらわもアニエ嬢のおこぼれで名を売れたのう」

「……あのー、ミュリエラ様。お気づきになってないんですか?」

「はっきり言うてたもれ」

「ミュリエラ様、とっても多くの男性のご興味を引いてるみたいですよ」

伯爵夫人グラフリン様。あなた様は、贔屓目に見ても、お美しい方でいらっしゃいますので」

 チャリンド夫人が言う。

 ミュリエラは絶句し、屋敷に着くまで動けなくなった。


 魔導を究めし【海嘯の魔女】、【中原最大の賢女】【大賢者】と呼ばれたる者。その技を孤高へと至らしめるべく、人生のほとんどを思索と修行とに費やした女には、たった一つの弱点があった。


 男性からちやほやされた経験というものを、持ち合わせていなかったのだ。

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