神と魔と
第16話
お披露目式から一夜明けたアニエの状況は次のようなものであった。
チャリンド邸を訪れた者はまず、玄関の扉をノックし、顔を突き出したエルフの従僕に名刺を渡し、来訪の目的を告げなくてはならない。
訪問客はエントランスへ招き入れられるが、すでにそこは先客でいっぱいだ。
ごった返す中をかき分けてあくせく動く従僕を捕まえ、面会はいつになるかと聞いても「はっきりとは申し上げられません」としか答えは返ってこない。
二階の応接間に続く階段は行列で占められており、一階の台所と二階の応接間をひっきりなしに往復するメイドを避けて並ぶ必要がある。
そして、長い時間をかけてようやく自分の順番になると、応接間にて一家の主人チャリンド氏とその妻子に面と向かって自己紹介をする。
これが、チャリンド家の娘への求婚に興味ある人物が取らなければならない最初の手続きである。
一方、応接間の隣に位置するミュリエラの部屋では、【海嘯の魔女】がベッドに寝転び、名刺を並べて眺めて顔を綻ばせていた。
「ライエンテン子爵、グラフェアノル男爵、エスケンデレム男爵、グロールク侯爵の次男坊。それに……ほほう! 見よ! こりゃ公爵の親戚じゃぞ!」
『ミュリエラ様……浮かれていらっしゃいますね?』
「わらわに限ってそのようなことは決してない」
『本当ですか?』
「じゃが、わらわがこの時代において美女であると判明した今となっては、身の振り方として裕福な男性の正妻となり多数の召使いに
『それを浮かれていると申します』
「千年前は、同じ
『ああ……確かに、あの方の横では誰でも霞んでしまいますけども』
「ま、わらわにも考えがないわけではないのじゃ。“
『ミュリエラ様。それについて問題を提起させていただいて宜しいですか』
「申してみよ」
『ミュリエラ様は既婚者ということになっておりますので、未婚のアニエ嬢と比べますと行動の自由はだいぶ確保されます。ですが、それでも、貴婦人が単身で出歩くということには社会的な
「ふむ」
『要するに、名誉ある女性には、専属の侍女が必要です』
「ちょっとした外出くらいなら、チャリンド家のメイドを借りればよいが……」
『ドレスもお下がりのサイズ直しが一着のみですからね。そのほかにも何かと入用です。貴族の社交に顔を出すには元手が乏しすぎます』
「すべてをチャリンド家におねだりしていては、わらわの身元も怪しまれようの」
『そう言わざるを得ません』
「収入、か……」
日曜日の午前、チャリンド家は一家そろって礼拝に出かけた。
当然のようにミュリエラにも誘いがかかる。と、いうより、ほとんど断わられるのを想定していない問い方だった。この時代の信仰のあり方も観察が必要と考えたミュリエラは、一家に帯同することにした。
馬車の中では、ミュリエラの信仰が話題になった。
「もう少し早くお聞きしておけばよかったのですが」
チャリンド夫人は礼拝用のベールを被っている。
「ドワーフの正行派とか、観経派に属してはおられませんよね? 最近は人間族でも改宗する方が多いと聞きますので」
「いや、わらわは改宗してはござらん。仲間にずっと修道女がいたくらいじゃ」
ミュリエラも、チャリンド夫人から借りた薄いベールを着用していた。
さすがに教会へあのとんがり帽子を被っていったら、社会的にまずいことになるだろう。帽子から外されたビブリオティカは、おとなしめのアクセサリーの体を取ってミュリエラの首に掛けられている。
「それを聞いて安心しました」と、クロード。
メーノン王国の宗教は千年前から基本的に変わっていないようだった。
この「救世主」をその身に宿そうとして冒涜的な魔術を行い、魔王を招き寄せてしまったのが、かの【黒王妃】ギュメディアであったとされる。
人間の王国にはそれぞれ「聖都」と呼ばれる
ミュリエラの時代から変化している点と言えば、聖都周辺を領地化して半独立国の体をなしていた教会勢力は世俗的な力を大幅に失っており、教会の敷地内にしか独占的な権限が及んでいないことだった。
はっきり言って、ミュリエラには信心がない。
教会の教義にしても、あまた現れた神の言葉を預かったとされる者たち──預言者の言葉を経典としてまとめたものを、さらに再解釈しているにすぎない。
神の意志という「原典」があるにしても、そこまで人の手が介在したものにどれほどの神髄が残っているのか怪しいものだと、ミュリエラは考えていた。
この思想は千年前でもすこぶる先鋭的だったが、ミュリエラには教会勢力からの圧力をはねのけて平然としていられるだけの圧倒的な力──大魔法使いとしての技があった。
では、だからといって、ミュリエラが教会の「信徒」でないかというと、それはまた別の話であった。
メーノンに生まれた者がメーノンへの反逆心を抱いたからといってメーノン人であることを辞められないように、記憶にもない幼少の頃に親の手によって入信儀礼を施されてしまえば、だれでも社会的には「救世教」の信徒なのである。
「(やあ、こうして表玄関から聖堂に入るのも、何年ぶりかの)」
チャリンド家が到着したのは、屋敷から最も近い、カールッドに何か所かある教会所のひとつだった。
教会建築は壮麗だったが、さすがにミュリエラもこの時代の建築技術には目が慣れてきて、そこまで心を動かされなくなっている。
聖堂は二階構造になっていて、二階部分のテラスには貴族の紋章付きの家族席が備えられていた。そこにはひとつ、空きのスペースがある。おそらくあそこがノールドルストム子爵家の席だったのだろう。
一階には平民の身分の市民たちが列席している。
公的には爵位を得ていないチャリンド家も、ここに加わる。
ただし最前列の、最も良いとされる席だが。
やがて典礼が始まるが、その内容は千年前とさほど変わっていないことにミュリエラは驚いた。用いられる聖句まで一緒である。
「(典礼が文言まで変わらず保存されたことは、千年経っても思いのほかメーノン語が変化しておらぬことと関係がありそうじゃな……)」
と、頭上から、じつに妙なる楽の調べが鳴り響く。
ミュリエラの知るオルガンよりも音色は深く、折り重なっている。
続いて、透き通るような少年たちの歌声による聖句の引用。
感嘆するひまもなく、男性たちの歌唱。
これがじつにすさまじかった。
ミュリエラの知る聖歌とはまるで違う。低音と高音、あるいは別々の旋律、独立した歌唱が絡み合い、聖堂の高い天井のドームで反響して、多重的な音楽を形成している。
それはまさしく魂を振るわせる音楽であった。
魔法が途絶し、神の力を明示する手段が途絶えた今、人々の信仰の結束を保っているのがこの音楽だとでも言うのだろうか? いや、それでも──
「ミュリエラ様……大丈夫ですか?」
隣席のアニエがそっと、心配げにミュリエラへ語りかける。
ミュリエラは自分が滂沱の涙を流していることに、初めて気づいた。
一刻あまりに及ぶ典礼が終わり、会衆が続々と退出していく。
日頃からまめに寄進を行ってくれるチャリンド家には、司祭みずからが挨拶に近寄っていった。
「チャリンド家の皆さま。本日はお日柄もよく」
「司祭様、これはどうも」とクロード。
「アニエ嬢のお披露目を滞りなく済まされたそうで。お祝い申し上げます」
「いやいや、次はよい縁談を寄越してくれるよう、神様にお祈りするばかりです」
「ところで、そちらの方は……?」と、司祭がミュリエラに目を向ける。
クロードがミュリエラを紹介する。
「わが家に客としてお泊りいただいている、グリューデン伯爵夫人様です。アニエの介添え役もお願いさせていただいたのですよ。夫人、こちらは日ごろお世話になっているラント司祭様です」
「なんと! 伯爵夫人様でしたか。それでしたら別席へご案内するべきでした」
「お気遣いなく、司祭殿。わらわはチャリンド家の客として同じ席に座ることを誉れと考えておりまするゆえ」
「実は、伯爵夫人様のことは、教区の噂になっておりましてな」
「ほう?」
「その……いささか風変わりなお召し物で王宮へお越しになった方がおられると」
その言葉でチャリンド家の面々が戦慄したのをミュリエラは感じ取った。
「ああ、ああ。いやいや。ご心配なさらないでください。今どき魔女裁判の世ではございませんからね。ましてやカールッドのど真ん中ですよ。余興の装いにまで口を出すほど教会も愚かじゃありません」
「……脅かさないでくださいまし」と、チャリンド夫人。
どうやら、「魔女」という存在は宗教的にかなり差し支えのあるものらしい。
「それに、
ラント司祭は微笑みを浮かべながらミュリエラに向かって頷いた。
「これは、お恥ずかしい。魂の高ぶりに我を抑えることができませなんだ」
「魂と向き合って正直であることに何の罪がありましょう……ところで、伯爵夫人様。よろしければ会席者の名簿に記載させていただきたいと存じますので、差し支えなければご名前をお聞かせいただけますか」
「わらわは、ミュリエラ。ミュリエラ・ウル・グリューデンと申す」
ラント司祭が顔色を変えた。
「ミュリエラ……様と申されますか」
「さよう」
「あ、ああ。なるほど。では、名簿にはそのように。ところで、少々用事を思い出しましたので、これにて」
司祭は挨拶もそこそこにその場を立ち去った。
典礼服を雑に脱ぎ棄て、少年の侍者が慌てて拾い集めるのも気にせず、ラント司祭は険しさと焦りとに彩られた表情で教会堂に併設された司祭館へ向かっていく。
そしてその間ずっと、うわごとのようにつぶやくのだった。
「聖エレフィエよ、護り給え。聖エレフィエよ、護り給え。魔女に鉄槌を与え給え」
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