第17話

 ノールドルストム子爵家は、王都カールッドの中では西寄りの地区、法律家や軍人や学者といった職業の人々が多く住む住宅街の一角に居を構えている。


 そこはありていに言って中流階級の市民の居住区であり、環境は劣悪ではないが「子爵」のような爵位を持つ一家の住まいとしては、いくぶんか見劣りする住居であった。


 そろそろ午前が終わり、時計は正昼の時刻を示そうとしている。

 ノールドルストム家の居間では、ソヴリネ・ローム・ノールドルストムが長椅子に座り、いらだちを隠そうともしない。


「なぜ」と、ソヴリネ。「なぜ、お客が来ないんですの?」


 特段の約束がない限り、貴族家への来客は、午前中に訪問するのが習わしだ。なのに、その時が過ぎても、彼女を訪れる客の姿はない。

 むろんソヴリネの待つ「お客」とは、夫の候補となる、求婚者たちのことだ。

 彼女はお披露目式で女王から「お言葉」を拝領した身である。

 社交界でも充分、名が知れているはず。

 子爵家の娘というステータスも申し分ないものであった。


 だが、いっこうに求婚者が現れない。


「ソヴリネ、落ち着きなさい。お披露目式から何日も経ってないのだし」

 イゼシュラ・ローム・ノールドルストム、先代子爵の未亡人である老婦人が孫娘に語り掛ける。

「それでもおかしいわ!」

「こういうお話は思ったように進むものではないのですよ。それに、我が家には持参金の問題もあります」

「お金……」

「うちが思うように持参金を捻出できないのは、社交界でも薄々、勘づかれてます」


 持参金とは、貴族の女性が嫁入りする際、女性の生活の格式を保つ名目で夫の家に持ち込まれる嫁資かしのことである。通常、婿の家の格式が高ければ高いほど、それに合わせた生活を行うため、持参金は高額なものとなる。これは、貴賤結婚を防ぐ一種の障壁にもなっていた。


 ノールドルストム家の家産は少ない。それも、先代ノールドルストム子爵の息子──つまりはソヴリネの父親が、投機に失敗して先祖伝来の土地と屋敷を失った挙句、一攫千金を狙って南方の蛮国へ渡航したところ、風土病にかかって当地で客死してしまったためだ。

 跡継ぎを失ったノールドルストム子爵は、心労のあまり倒れ、ほどなくして妻と孫ふたりを残して亡くなった。


 家勢の衰えているノールドルストム家は、せめて経済的に余裕のある家に娘が嫁ぐことができれば、その支援で盛り返すこともできるだろう。だが、そのためのなけなしの持参金ですら用意できるか怪しいのが実情だった。

 とはいえ、そのような経済的苦境にあっても、ソヴリネが社交界で高い名声を得てしまえば、婚約者の家から先立って有形無形の援助を受け、それで持参金の格好をつけることも可能かもしれないのである。


「私は陛下からお言葉をいただいたはずなのに」

「その点に関しては、一枚上手の娘がいましたからね」

 チャリンド家のアニエのことだ。

「ですから、今ごろはチャリンド家に求婚者が殺到していることでしょう。でも、夫になれるのはひとり。その次には、あなたのところに押し寄せますよ」

「では、お祖母ばあ様、私にはチャリンド家のが回ってくるというわけですね」


 ソヴリネは唇を噛んだ。美しい顔が屈辱にゆがむ。

 と、玄関からノックの音が響いた。


 娘の顔がぱっと明るくなる。


 居間に現れたのは、求婚者ではなかった。

 ではなかったが、ソヴリネが待ちわびた人物ではあった。

 青の軍服に身を包んだ海軍士官が居間の戸口に立っている。

 デミアル・ローム・ノールドルストム、当代のノールドルストム子爵である。


「お兄様!」兄の懐にソヴリネが飛び込む。

「ソヴリネ、元気だったかい」

「デミアル。どうしてこんなに遅くなったの」

「仕方ないですよ、お祖母ばあ様。乗り組んでたリアスタン号で疫病が発生してね。検疫のため、上陸を待たされたんです」


 デミアルは士官の基本となる階級である海尉シュザーディリンの階級章を身に着けた、妹とは反対に背の高い青年であった。黒曜石のような髪と目の色は妹と同じだが、肌は海の陽に晒されて焼けている。


「おかげでお披露目式に間に合わなかった」

「お兄様、私、女王陛下からお言葉を貰ったのよ!」

「本当か!? それじゃ、求婚者をふるいにかけなくっちゃな」


 妹と祖母が押し黙る。


「……どうやら、何か事情があるみたいだな」


 長椅子に身を沈め、お披露目式のあらましを聞いたデミアルは、そっと両手を顔の前で組むと、ささやくように言った。

「つまり、だ。わが家はまたしても、名誉を奪われたわけか。同じ相手に」

「名誉ならあなたが回復してくれるわ」と、イゼシュラが言う。

「まだ海尉シュザーディリンですよ、お祖母ばあ様。艦長になって手柄を立てるにはあと三つも階級を上がらなきゃいけない。ふねでは平民上がりの艦長から指図されて、おかでは商人に妹の縁談を邪魔されて。くそっ!」

「いい人もいたんだけど」と、ソヴリネが言う。

「お母様のイヤリングをキャビネットの下から拾ってくれたの。でも、その伯爵夫人様も、チャリンド家の介添え人だった」

「上等な品は全部かっさらわれていくな……いや、商人の家に与するような伯爵夫人グラフリンだろう? おおかた金に困った食い詰め貴族にちがいない」

 自嘲気味に付け加える。「うちみたいに」

「ミュリエラ様はそんな方じゃない」

 ソヴリネには、見ず知らずの自分のために床に這いつくばってくれた貴婦人が悪い人間とは思えなかった。

「お前はまだ人間ってものを知らないんだ。人間は食い物がなくなれば、どんなに高い階級だって──待て、今なんて言った?」

「そんな方じゃない」

「いや、その前だ。誰って言ったんだ?」

「ミュリエラ様」

「もしかして……その……お披露目式で、変わった服装で人目を引いた伯爵夫人グラフリンというのが……“ミュリエラ”なのか?」

「ええ。グリューデン伯爵夫人様よ」


 デミアルは、ゆっくりと長椅子から立ち上がり、居間をうろつき始めた。


「……ここに帰る前に、ラント司祭に挨拶しに行ったんだ。あそこの教会所は、ちょうど港と海軍司令部から向かう途中にあるから」

「あら、司祭様に?」と、イゼシュラ。

「聖堂にあるノールドルストム子爵家の席を空けておいてもらうためですよ。機会さえあれば、ちょくちょく話をして、少ないけど寄進もしてね」

「あの席まで失いたくないわ。お父様やお母様と一緒に座った席よ」

「そうだ。わが家門の誇りにかけて、あの席は取り戻す」

「それとミュリエラ様に何の関係が?」

「聞いたんだよ……百年ぶりに、正式な魔女判定が出るかもしれないって。ずっと昔から、ある条件に合致する女性がいたらすぐに司教へ連絡するよう、各教会所に命令が下されていたらしい。一種の予言みたいなものかな。で、司祭たちは長い間、半信半疑で、その言い伝えを守ってきた」

「初めて知ったわ」

「極秘だったそうだ。けど、ラント司祭はその条件に当てはまる女性を見つけてしまい、興奮していた。まさか、と思うよな。そんな伝説の存在がひょっこり自分の前に現れたんだ。誰かにしゃべってしまいたくて、たまらなかったんだろう」

「まさか、それが──」

「青い服を好んで着て、魔女を名乗る、伯爵夫人グラフリン。名前は──ミュリエラ」

 ソヴリネは言葉を失う。


 デミアルは、海戦を前にして謀をめぐらす海軍将校のように、窓の前に立つ。

「仇敵にひと太刀、与えられるかもしれん」

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