第9話 上から目線は赤の他人
一瞬、耳を揺さぶる音楽が意識の外に消えていた。
桜のような色合いをしたブラウスはフリルのついた五分袖で、
靴は焦げ茶色のショートブーツ。頭にかぶった黒のキャスケットがさりげなく淡い金髪を引き立たせ、全体の印象を甘くなり過ぎないよう、まとめ上げている。
イヤホンを拝借できるほどの距離は当然、近く。
間近で見る肌の白さに視線が吸い込まれそうになる。
普段からユニークかつ、エキセントリックな言動に振り回されているおかげで忘れていた。小春さんは容姿が整っているのだ。この距離でなくては分からない薄づきのメイクが、童顔な顔立ちに花を添えている。
一週間ぶりの再会は、僕に改めてとなる気付きをもたらした。
「む、ヴァイオリン」細い眉がぴくりと動き、「ロックバンドの音楽ですよね。なかなか“レアい”気がします」
レアい――耳慣れない単語だったが、おそらく“レア“という単語を小春さんなりに言い換えたのだろう。
「そうだね。――去年、東京の大きいフェスで一番盛り上がったバンドらしいよ。メジャーデビューの話蹴って、今もインディーズで、関東で活動してるんだって」
音楽にさほどこだわりがない僕は、小春さんに言われて初めてそのバンドの事を調べた。
男性三人、女性二人からなる五人グループで、全員が横浜出身。渇望や反抗を感じさせる歌詞と、ヴァイオリンを含んだ新感覚の旋律が多くのファンを魅了し――ネットの記事を丸読みしただけだから、書かれている以上の事は伝わらない。
アウトロまで聞き終わると、借りられていたイヤホンが返される。
適当に結んでボディバッグにしまい、とりあえず歩こうかと切り出してから僕たちはステンドグラス前から離れていく。はぐれないようにする為か、小春さんはすぐ隣をぴったりとついてきた。
足の向くまま最寄りのアーケード街へ向かうと、やはりここも人が多く、屋根があるせいか少し蒸し暑い。
「朝ご飯、食べた?」
「食べました。トーストにあんバター、飲むタイプのヨーグルトを添えて」
「メニューの言い方が高級フレンチ……」
「ごくありふれた庶民のメシです。時生さんは?」
「僕ももう食べてきたよ。軽くだけど」
「えっ……朝から牛丼を?」
「重い、重いよ小春さん。朝からはさすがに」
いくら朝が和食派の僕と言えど、どんぶりに並々と盛られた牛肉と玉ねぎ、そして白米の合わせ技を早朝から受け入れられる胃袋は持っていない。白米とみそ汁、それからおかずを一品程度がせいぜいだ。
例によって今日は、具体的な予定を決めていない。
思うまま気の向くままにと小春さんは言っていたけれど、このままあてどなく街を散策しているだけというのも味気ない。
加えて向こうから誘ってくれたのだから、僕が率先してリードしなくてはという気持ちもある。徹頭徹尾、終始ノープランで過ごしていいのは一人でいる時だけだろう。
歩きながらの会話の隙間に、それとなく視線をさまよわせる。すると、じき横断歩道に差し掛かろうかというタイミングで小春さんが足を止めた。
視線の先にあったのは、カラオケ店の料金看板。ちょうどさっき開いたばかりだ。
「
「みます」
判断が即決なら、案内までの時間も早かった。
飲み物はお互いジンジャーエール。部屋へ入るなり手荷物を置き、僕はマイクの音量確認。小春さんは検索用端末を膝に乗せて、曲のザッピングを始めていた。
「おやや? これは、さっき時生さんが聞いてた曲では?」
「ん……そうだね。歌う?」表示された曲名を
「要努力ですね。では無理せず、いつものからでよさそうです――」
立ち上がり、小春さんが歌いだしたのは重低音が暴れ回るデスメタル――ではなく、バラード調のしっとりしたメロディラインの曲だった。
生演奏の音源らしく、アコースティックギターの奏でる情緒的なイントロから始まり、儚くも優しさが込められた歌詞に歌声が乗り始める。
出だしの第一声で、僕は鳥肌が立った。
透明感のある歌声が歌詞の持つイメージを
優しく降り注ぐ雨のように、折り重なった音色が肌を撫でる。歌の上手い下手が分かるほど僕の耳は肥えていない。
けれど小春さんの歌は、素直に聞き心地がいいと思った。
「――ご静聴ありがとうございました」
あれだけの歌いぶりの後、まるで街頭演説の締めくくりのような挨拶が飛び出したので思わず吹き出してしまった。僕は自然と拍手を贈りながら、
「感想とか元からうまく言える自信ないんだけど……いやなんだか、本当にすごかった。胸に
「あっ……すみません、採点機能はオフでお願いします。AIのアドバイスがいつも上から目線で腹が立つので」
「僕、人間だよ。今までAIだと思われてたの?」
小春さんは淡く微笑んでから、
「いいえ。嬉しいので、これからもたくさん褒めてください」
忘れかけていたが、次に歌うのは僕だった。とはいえあれだけ聞きごたえのある歌を披露された後では、相応のプレッシャーを感じてしまうのも無理からぬ話だった。
大丈夫、歌の上手さを競っているわけではないんだから。内心そう言い聞かせても、マイクを持つ手は震えてしまう。
曲が始まった。
僕が選曲したのは世間での知名度が高く、なおかつ歌いやすい部類であろうメジャーな曲調の楽曲。たしか人気のスポーツ漫画がアニメ化された際、主題歌にも抜擢されていた曲だが、それがいけなかった。
「おお……動きが滑らかでリアリティがありますね。クオリティが映画並みです」
――なんなんだ、この映像。
でかでかと表示された歌詞の奥ではバレーボールのコート上、見知らぬキャラクター達の攻防がダイナミックな作画で映し出されていた。
まかり間違っても好き
緊張と必死で戦う僕をよそに、曲と映像は勝手に盛り上がりのスパートをかけてゆく。
誰かのミスを誰かが取り返し、相手方であろうチームの誰かがそれを見て、勝手に闘志を燃え上がらせている。僕とは真逆だ。一番盛り上がるはずのサビのパートは、一番来てほしくない地獄の三十秒と化していた。
それでもどうにか一曲歌い終えると、今度はどっとした疲労感がやってくる。
名前も何も知らない、どこの馬の骨かもわからないキャラクター達は達成感に包まれていたようだが、彼らとは終始、感情を共有することができなかった。
もし声が届くなら、「勝手に盛り上がるな」と水を差してやりたいくらいだ。
「お疲れさまでした」
「あ……ありがとう」
燃え尽きるようにして座り込むと、小春さんは僕の手前にあるジンジャーエールをそっと押してくれる。
変じゃなかった、僕の歌。
擦り切れた内心を飲み干したくて、飲み干せない。
音程はずれていないだろうか。テンポは駆け足になっていないだろうか。あらゆる意味で気に掛ける事が多すぎて、正直、楽しめるほどの余裕はなかった。しかし、
「通してください通してください――あっ、どうも。週刊
記者に
「さっきの人達とはどういう関係なんですか」
「記者会見? いや、全然知らないし……むしろこっちが聞きたいくらいなんだけど」
「なんだ。じゃあ全員赤の他人だったんですね」
「小春さん、言い方」
湧き起こったのは小さな笑いだったが、過ぎたことを忘れるには十分だった。
小春さんが歌い、僕が歌う。
交互に繰り返すうち緊張のピークは過ぎ、やっと肩の力を抜いて歌えるようになる。
小春さんの歌う曲はバラード調のものが多く、いくつかメジャーな曲も知っていた。けれど曲名やアーティストの大半は、世間的にあまり見かけないものばかりだった。
気になって曲選びの合間に問いかけてみると、
「マイナーとかインディーズとか……アーティストを廃業した人の曲も多いですから」
廃業。つまり音楽活動をやめた人の楽曲であれば、なるほど耳目に触れる機会が少ないのも頷ける。マイナーやインディーズのジャンルであればなおさらだ。
退室時間が迫っていたので、最後に僕たち二人が知っている曲をデュエットで歌うことにした。歌唱するのは本来一人の楽曲だが、小春さんと声を重ねているだけで、僕は味わった事のない充足感に満たされた。
小春さんも同じ気持ちを味わっているのだろうか――店先の往来が増えていたのは、お昼時だからだろう。
人混みを器用にすり抜けながら、僕たちはまた街を歩きだす。
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