【完】エピローグ


 五月の頭に吹く風は、初夏らしく夏の入り口を思わせるようで。


 僕は一週間の我慢を経て買ったスマホをポケットに突っ込み、イヤホン越しに聞こえる音楽に耳を澄ましていた。


 以前、スマホを壊したと話した時、長田くんはまるで命綱が切れた時のように心配してくれたがとんでもない。無いなら無いでたしかに不便ではあったものの、僕はまるっきり依存している訳ではないのだ。


 ただそれでも――耳を紛らわせてくれるのは、やはりありがたい。


 アコースティックギターの旋律に映える優しげな歌声が、何かとせわしない朝にゆとりを与えてくれる。こんなにも綺麗な音楽を奏でられるのに、どうしてこのアーティストは廃業してしまったのだろう。


 ゴールデンウィークの連休に飛び石のように紛れ込んだ、たった一日だけの平日。


 誰もが憂鬱をまとう月曜日に、ささやかな疑問が溶けていった。


『発車します。ご注意ください』


 バスに乗り、後ろ側の二人席に鞄を置いて座り込む。車内はほぼ満席で、学生、スーツ姿のサラリーマン、それから老人までが、のんびりとバスに揺られている。


 停留所をひとつ過ぎ、ふたつ過ぎ――降りてゆく人たちと入れ替わりで乗車した女の子と視線が交わった。


 僕は隣の座席に置いていた鞄をどけ、それとなく隣へ座るよう目配せする。


「ありがとうございます」


 すっと寄せられた体に腕が触れ合い、


「そしてやられましたね、時生さん。最後部、五人席の真ん中は、今は名も素性も知れぬパリピ達に占拠されてしまいました。由々しき事態です。断固、立ち退きを求めます」

「あ……たぶん、うちの学校の先輩」僕は声をひそめながら相槌を打ち、「この時間帯混むから、まあ……許してあげて?」


 なだめるようにお願いすると、小春さんは最後部の座席を一瞥いちべつした。


「顔は覚えました。後でケジメをつけに伺いましょう」

「待った。……ましょうって、それ、僕も一緒?」

「語気の強さが強制同行並みなんだけど……」

「一人では分が悪いので」


 仮に僕が加勢したところで五対二の不利は変わらないわけだが、小春さんはそのあたりの事をどう考えているのだろう。


 先輩たちを足蹴にして、僕らが最後部座席でふんぞり返っている。そんな光景を僕の頭で思い描くのは、いささか難しそうだった。


『発車します。ご注意ください――』


 聞き映えのしない機械的な音声に割り込まれたところで、僕の片耳からイヤホンが拝借される。


 無言のまま肩には頭が乗せられ、淡い金髪から香る甘い匂いが目を冴えさせる。周囲から向けられる視線は、一瞬ではあったが奇異の色ににじんていたのが分かってしまった。


 違う制服の男女が席を同じくし、あまつさえ親しげな雰囲気を漂わせているとくれば、好奇の視線は避けられない。


 音楽に集中しながらとん、とんと指先でリズムを刻み、僕は周囲との境界線を引き直す。あんな視線、気にしたところで仕方ない。


 ほどなくして、別の曲が再生されたところで小春さんは唇を動かした。


「今日はいちコマ……頑張ればコマ、出るのが目標です。午前か午後かは決めていませんが」

「そっか」僕は励ますように笑みを作ってから、「今日も普通の時間に登校できたんだし、それだけでも一歩前進だよ。大丈夫」


 登校時間を元に戻すこと。

 出来ればその日、一コマだけでもいいから教室で授業を受けること。

 ゆくゆくはちゃんと教室に復帰して――


 それが学校を丸一日サボった日の別れ際、小春さんが告白した決意だった。


 普通に学校に通えている学生からすれば、小春さんの打ちたてた目標は出来てごく当たり前のものなのかもしれない。けれどおよそ一ヶ月にも及ぶブランクは、学校生活を送るうえで決して短い期間ではないと僕は思う。


 幸いにもと言うべきか、先週の金曜日。一コマだけ教室に顔を出した小春さんを気に掛けて、話しかけてくれたクラスメイトが何人かいたらしい。


 そのクラスメイト達は、以前から欠席が続いていた小春さんを心配して保健室を訪れていたそうで、だいぶ気を遣わせてしまいましたと小春さんは語ってくれた。


 はたして彼らの行動が、義務感や上辺うわべだけの気遣いだけなのかはわからない。しかし、


「また会おうねと、言ってくれました。本当にそれだけを伝えて、じゃあ、また来週って」


 “みんなが待ってるよ”でもなく。

 “元気になって、早く教室に戻ってきてね”でもない。


 メッキのように薄っぺらい言葉ではなく、ただ個人的な感情を伝えられる顔も知らないその人を、僕は信じてみたくなっていた。


「あ……小春さん、降りなきゃ」


 不思議だった。


 他人に無関心だった僕が今では誰かを信頼して、小春さんと一緒にいると関心を向けられるかもしれない立場にいる。たった二、三週間、一人の女の子と出会っただけなのに、僕も随分と変わってしまった。もちろん、それを悪いだなんてふうには思っていない。


 ぞろぞろと改札機に向かう人波にまぎれて、僕らもパスケースをかざして降車する。


「ほっ」


 ぼんっ、と軽快な音を立てて、小春さんが手にしていた傘が開く。表面は白で、裏地は黒。骨沿いに入れられた赤のラインは独特の曲線を描き、真上から見ると、それはまるで開いた花びらのような模様を映し出す。


「下からだと真っ黒なのが残念です」

「日傘だからね。裏地が白いと熱とか、地面に当たった日光を反射して良くないらしいし」

「あっちを立てればこっちが立たず、ですね。世の中のままならなさが、この傘一本に集約されています」

「……そういうメッセージを込めてプレゼントした訳じゃないんだけど」


 僕は差し出してくれた持ち手を掴み、燦々さんさんと輝く太陽の目を盗んだ小春さんが淡く微笑む。


「いいえ、とても気に入っていますよ。ありがとうございます。時生さん」


 ――先週、小春さんと学校をサボった木曜日。ネットカフェを出た僕たちはあの後、駅近くにある雑貨屋へと向かっていた。


 日傘というのはとかく、機能性重視のものが多いと感じる。


 無論、これは僕の偏見なのだが、完全遮光や耐久性、UVカット率が何パーセント以上であるとか、店舗の一角に設けられたコーナーに足を踏み入れて、まず目に入ってきたのはそのようなうたい文句だった。


 春ですら暑い日があったのだから、本格的に夏が始まればどうなるかは言うに及ばない。寒暖差に対してアレルギーをもっている小春さんからすれば、厳しい季節になるのは明白だ。


 発想の根源にあったのは、小春さんを抱えて走っている時に見た、雨に濡れるあの無関心な傘たち――皮肉ではあったが、こうして思い出せるという事はかてになってくれたということだろう。


「これとか似合うと思うんだけど……どうかな」


 完全遮光、UVカット率百パーセント。軽くて丈夫で、おまけに傘の面積も大きい。


 デザインもフリルがあしらわれているような華やかさこそないが、こういったさりげない可愛らしさを重視したものの方が、小春さんにはより似合うと感じた。


 大切な人にプレゼントをするのも初めてだったし、どんなものを贈ろうかと考えるのも初めてだった。


 だけれども、小春さんの事を思うと悩む時間も苦ではない。


「――嬉しいです。今日だけで大事にしなくてはいけないものが、ふたつも増えてしまいましたね」


 高架橋から駅構内を抜けて、横断歩道を渡り切る。あとは通学路が違うため、傘を差してあげられるのはここまでになる。


「いってらっしゃい、小春さん」


 僕は日傘を返してから、


「今日バイトないけど、どうする?」

「なんと。では共に、お茶をしばきたく」

「言い方……いやまあ、じゃあ、一緒にしばきに行こうか」


 では、今日も低空飛行で頑張りましょう――淡く、鮮やかな金髪が風を含んでなびき、ひらひらと振られる手に笑みが添えられる。


 空に舞う桜のような、小さな、春を思わせる笑顔だった。

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