第7話 僕らに隔たる


 週明けの月曜日から、僕がスマホを眺める頻度は明らかに増えていた。原因は言わずもがな、小春さんだった。


「あ……授業始まる」


 おはようございます時生さん。

 お昼ですか時生さん。いま何食ってるんですか。

 私にかかれば、トランプタワーもちょちょいのちょいです――


 机の上で、てんでんばらばらになったトランプのカードを最後に、僕は筆記用具を抱えて立ち上がる。次の授業は移動教室だ。理科室の空いていた席に着くと、少し遅れてきた生物の先生が号令を促した。


 四限目ともなると、教室内には浮ついた空気が漂いだす。


 黒板の上をチョークが小刻みに走り、つられるようにノートへ字を書きつづる。周囲から立つ線の細い音は不規則で、しかし耳を澄ませていると睡魔に襲われそうになってしまう。


 飲まれるわけにはいかない。湧きかけた眠気を噛み殺しながら、僕はなんとか授業を乗り切った。


「久世橋」


 教室から次々に人がけていく中、背後から声を掛けられる。


 なんだろうと思い振り返ると、そこにいたのは申し訳なさそうに笑みを浮かべた、男子のクラスメイトだった。


「悪い! ちょい時間いい? さっきの授業眠気エグくて……その、ノート写さして欲しいんだけど。あ、誰かとメシ行ったりする?」

「ううん、一人」とってつけたような気遣いに微笑み返し、僕はノートを差し出す。「はい。適当にスマホいじってるから、終わったら言って」

「あざまぁーっす! マジで助かる!」


 やたら威勢のいい返事だなと思えば、ところどころにテーピングの施された指がノートに伸びる。突き指でもしたのだろうか。

 そのまま椅子に腰かけて彼がノートを広げる間際、表紙の片隅に書かれている名前が目に入った。


 長田――長田、克敏。


 名字は“おさだ”で、下の名前がたぶん、“かつとし“。クラスメイトの事は基本、名字で呼ぶから、下の名前まで意識が回らない事が多い。


 代わりにというのも変だが、長田くんがバレー部に所属している事を思い出した。


 いつぞやの体育の授業ではコート内を俊敏に動き回り、彼のもつ溌溂はつらつさの成せる業なのか、ムードメーカーとしての振る舞いが板についていたのを覚えている。指の怪我も部活動でしたものだと考えれば納得だ。


 けれど僕は、長田くんと会話をした事がほとんどない。


 体育のバレーでチームを組んだ時、あいさつ程度に二、三の会話を交わしたぐらいで、あとは一方的に掛けられる「ナイス」や「どんまい」といった言葉を聞き流していただけだった。


 チャットアプリは今日も未読にまみれている。クラスのグループチャットはゆるやかに回り続けているが、僕の目当てはその一段下にあった。


『午前の授業終わったよ』

『今、お昼休み?』


 メッセージに既読が付く。するとレタスやハムなど、オーソドックスな具材が挟まれたサンドイッチに、パックの野菜ジュースを添えた画像が送られてきた。下には丁寧にハンカチが敷かれている。


 食べている場所はやはり、保健室なのだろうか。


『作りました』

『今朝、私が、ちょっと、早起きして、食べたかったので』

『倒置法流行はやってる?』

『僕はこれから、普通のお弁当だけど』

『???』

『普通のお弁当とは?』


 気軽に返していい質問なのか、それとも概念的な問いかけに対する僕なりの見解を求められているのか――いや、小春さんならどちらでも通るだろう。


『白米は絶対あると思う』

『たこさんウインナー』

『あ、それもありそう』

『玉子焼き』

『美味しいよね』

『魚へんに青』

さばだね。厳密には青じゃないし、なんでそれだけ原材料名――?』


「……久世橋?」


 画面に吸い込まれていた意識が引き戻される。

 長田くんはふっ、と笑みを堪え切れずに、


「写し終わったけど……なんか、楽しそうだな?」

「えっ?」

「何、なんかいい事でもあった? え、てかヤバいな。久世橋がそんな風に笑ったトコ、初めて見たかも。あーいや、今のは普段が笑ってないとかそういうのじゃなくて――」


 慌てふためく彼をよそに、僕は自分の頬に手を添える。


 表情が緩んでいたのは――どうやら長田くんだけではないようだった。


「まあ……そうだね。うん。そんな感じ」

「うぇ~い、やったじゃん」肘で僕の膝を小突きながら、「友達? それともソシャゲのガチャでいいやつ当たったとか?」

「いや、普通にともだ――長田くんは、友達だと思う?」

「いやなんだその話の振り方!? え、俺と久世橋が? それとも画面の中の人?」


 急に変化球を投げてしまった事を謝り、後者であると伝える。すると呆れたように笑ってから、長田くんは鼻の下をこすってこう答えた。


「友達だろ。ノートありがとな、久世橋」


 どうしてそう思うのか、根拠が何なのかも語らずに長田くんは理科室を後にする。ともすれば煙に巻かれたような、ぶっきらぼうな返事に聞こえるかもしれない言葉ではあったが、彼の口調には優しい確信が宿っていた。


 もしかしたら僕も、長田くんの中では友達としてカウントされているのかもしれない。


 それが感情の揺らぎが見せる錯覚なのだとしても、はたして否定する事はできなかった。


『小春さんって授業は普段、どうしてるの?』


 教室へ戻り、お弁当を食べる合間に会話を再開する。長田くんの話を咀嚼そしゃくしていて思ったが、自分は深く考えすぎていたのかもしれない。


 何をやったから友達だとか、何をしてないから他人だとか、そういった明確な線引きは人と人の間には存在しないのかもしれない。大事なのは、主観なのだ。


 「僕たちは友達です」なんて行儀のいい文句は、友達の間には必要ない。


『プリントです』

『科目ごとの先生が様子を見に来てくれるので、渡された物をやっています』

『それから』

『今みたいな時間はいろいろなクラスの人が遊びに来ますが』

『居心地が悪いです』


 ご飯を食べる手が止まる。


 居心地が悪い。その言葉に含まれている悪感情はどれほどのものなのだろう。


 日をまたげば忘れる一過性の苛立ちなのか。あるいはもっと揺るがしがたい、山のように堆積した恨みなのか。


 いつ、どんな時でもやり取りができるのは便利ではあるが、文章から感情を読み取らなければいけないラグが生じてしまうのは明確な欠点だ。これが対面のやり取りであれば、もう少し、感情の機微きびが読み取りやすいはずなのに。


『時生さんの学校に私みたいな人はいますか』


 悩んでいるうちに話題が変わる。僕は考えかけの文章を頭の外に捨て、


『どうだろう。僕のクラスにはいないけど』

『でもどうして?』

『時生さんの』

『途切れました。時生さんの、私に対する扱いが慣れていたので気になって』


 慣れているというのは、さすがに買いかぶり過ぎではないだろうか。むしろ僕としてはいつも振り回されてばかりというか、小春さんの感性についていくので精一杯だ。


 ありのまま伝えようかと迷った挙句、書き出せたのはなんとも締まりがない文章だった。


『初めて会った日に言った気がするけど』

『僕は人とか物事にあんまり興味がもてない。ただ』

『だから分け隔てがないっていうか……小春さんとも、ちゃんと話せるのかもしれない。ごめん。うまくまとまんないや』


 分け隔てがないなんて言葉、誰かが口にする事はあっても、自分から口にするような言葉では決してない。


 僕が持っているのはそんな前向きさとは真逆の、無関心がゆえの冷たい優しさ――そう思っていた筈なのに、今は心のどこかで、否定したいと思っている自分がいる。


 その後返信を待っていたが、僕のメッセージに既読の表示がつくことはなかった。


 お弁当を食べ終える頃にはもう昼休みが終わる頃で、おそらく小春さんの方では授業が始まったのだろう。午後の授業は英語と日本史。特に指名されることも無く、つつがなく午後が過ぎていく。


 あっという間に放課後を迎えると、スマホの画面がメッセージを受信して明転した。


『今週末、遊びに行きませんか』


 一枚隔てた窓の向こう。

 部活動に励む活発な声が、教室まで響いていた。

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