第15話 見え始めた輪郭


 客観的に、そして自分から見ても、僕の体は丈夫な方なのだと思う。


 遊んでいる時に小さな怪我こそすれ、物心がついた時から現在の高校二年生に至るまで、熱や風邪にかかった経験は数える程度にしかない。


 だからこそ、体調を崩した時は少し驚いた。


 不調に気付いたのは小春さんと遊んだ日の翌日、日曜日。


 咳が止まらず、体がだるい。関節が痛む。症状的には風邪だろうという事で週明けの月曜日、病院で診察を受けるとやはりその通りの診断が下された。


 十中八九、小春さんを雨からかばって走り回っていたせいだろう。冷たい空気にさらされて、思った以上に疲れが溜まっていたようだった。


 小春さんも体調を崩して、寝込んでいやしないだろうか。


 気落ちした頭によぎるのはそればかりで、喉から出るがらついた咳が暗に休めとさとしてくる。


 気が重い週の始まりを迎えたが、ほぼ丸一日の安静と薬が効いてくれたのか、火曜日からは普段通り登校できるまで回復した。


 クラスの中心人物が欠ければそれなりに心配の声も上がるのだろうが、あいにくと僕にそこまでの存在感はない。


 久世橋が休むなんて珍しいな。風邪、大丈夫だった――? ぽつぽつとおもんぱかってくれる声にありがとうと平気だからを返していると、見覚えのある男子と女子が近付いてきた。


「うぃっす、久世橋!」

「……おっ、おはよう久世橋、くん」


 元気よく片手を上げながら挨拶してくれたのはこの間、僕が生物のノートを写させてあげたバレー部の長田おさだくん。彼の指にはまだテーピングがされているが、その数は先週から減っていたように思う。


 一方、長田くんの隣でなぜか挙動不審気味に目を泳がせているのは吹奏楽部の――


「っへへ、どした四ノ宮しのみやぁ? 目ん中の魚キョドりまくってんぞ」

「ししし静かにしてくれないかな長田くん……いまあたし、すごい臨戦態勢だから。もしかしたら手が出るかもしれないよ」

「え、こわ……プロレスでもすんの?」


 四ノ宮さん。

 今しがた思い出した下の名前は、かえで


 先週はたしか、吹奏楽部に入部した子達を引き連れて教室にやってきていた。


 あの時は穏やかな雰囲気を漂わせていた筈だが、どうしてか今は目が合わない。


「おはよう……えっと、ごめん」


 僕は小さく手を上げてから言葉を置き、


「何か用事? 二人に声掛けられるの、ちょっと珍しいから」

「ああ、そうそう! ほら、このあいだ俺、久世橋にノート見してもらったじゃん? だからそのお返しに……ほら、昨日休んでた分の」


 そう言って長田くんは机の上に、小脇に抱えていたノートを置いた。


 古文、日本史――生物のノートまで。昨日休んでいた授業の埋め合わせをどうしようかとひそかに悩んでいたところなので、予想外の助け舟に僕は驚いた。


「いいの? これ……」

「いい、いい! あ、パッと思い付きでやっただけだから、お返しどうすっかなぁ~とか、考えなくていいからな?」


 ともすると「本当はお返しが欲しいです」という下品なフリに聞こえてしまいそうな台詞だったが、茶目っ気のある笑顔を見てそれはないだろうなと思い至る。


 長田くんの振る舞いや言葉には、嘘の色がにじんでいない。裏表がないと形容した方がより正確だろう。まともに話したのは先週きりだが、彼の人柄はこの上なく分かりやすかった。


 さすがに朝のホームルームまでにすべてを書き写すのは難しいので、少しの間借りてもいいかとお願いする。長田くんの義理堅さに感謝の言葉を返すと、四ノ宮さんがおずおずと割り込んできた。


「……ちょっといいかな久世橋くん。出来ればチャットで話したいんだけど」

「あっ……ごめん。実はこのあいだ壊しちゃって、今は持ってないんだ」

「マジか久世橋!? オイ、生活どうすんだよ!」

「そんな命綱が切れましたみたいな言い方……でもまあ、今度、親に買ってもらえることになったから」


 買ってもらえるとは言っても、僕もその内の何割かは稼いだバイト代から出すことになっている――いや、出したいと自分から申し出た。


 半分事故だったとはいえ、費用を全て負担してもらうのは申し訳ないと感じたからだ。


 その事を二人に伝えても仕方ないので黙っていると、会話の主導権が再び四ノ宮さんに移る。じゃあ長田くんは席、いったん外してもらってもいかな。優しく問いかけるような口調ではあったが、語気には反論を許さない、静かな圧が込められていた。


「ちょっと待っててね――」


 すぐ前の席にある椅子を拝借して、四ノ宮さんが目の前に座る。ポケットから取り出したのはメモ帳とシャーペン。


 破り取ったメモの一枚にさらさらとペンを走らせ、やがて書きつづった一文を僕に見せつけた。唇を固く、結びながら。


『先週土曜日のこと、黙っていてください』

『お願いします』


「……は?」

「ッ――!」


 緊張感のない声を聞くや否や、四ノ宮さんは手にしたシャーペンで紙の上を鬼の速度で連打した。


 言いたいことがあるならここに書け、という事なのだろう。

 先ほど長田くんに向けられていた圧が、今度は僕に矛先を変えてきた。


 ――面と向かい合っての筆談なんて、昨今のドラマや漫画でも見ないだろうに。


 疑念と懇願を混ぜ合わせた瞳に、僕は疑問符を浮かべながら筆を進める。スマホの無い僕に配慮してわざわざ筆談を選んでくれたのだろうが、そこまでして秘密にしておきたいことでもあるのだろうか。


 結論から切り出されたおかげで話の全容が見えてこない。困惑する僕の心境に沿うようにして、返事の大枠はまとまっていった。


『ごめん。何のことだか分からない』

『僕はその日出かけてたけど、四ノ宮さんとは会ってないよね』

『どこかですれ違った?』


 黙読し終えた瞬間、困惑が僕から四ノ宮さんの表情へとを変える。


『本当に何も見てない? 嘘ついてない?』

『“ソワレ”って店に聞き覚えは?』

と一緒じゃなかった?』


「えっ、なんで……!」

「ッア――!」


 机に穴がくかと思った。


 超高速で打ち付けられるペンの先端はキツツキの如く、さらにはあまりの筆圧の強さに芯が飛び散っている。粉々になった真っ黒な芯は、黒ゴマもかくやと言わんばかりにきめ細かい。


 言いたい、ことは、ここに、書け。


 四度叩きつけられたシャーペンに命令されたところで僕は――いや僕たちは、冷静さを取り戻した。


 勝手ながら四ノ宮さんにはおとなしそうな印象を抱いていたが、すっとんきょうな奇声を聞いた今ではそれも過去のものとなりつつある。


 けれど正面にある血走った眼も、クラスメイトから注がれる奇異と笑いに満ちた視線も――


 あの日つらなっていた無関心に比べれば、はるかに軽く、微笑ましく感じた。

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